マニラのeそよ風

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第334号 2006/02/28

トマス・アクイナス

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 こんにちは!お元気ですか。明日はいよいよ灰の水曜日ですね。大斎小斎の日です。がんばって下さい!

 さて、新しい15名の新しい枢機卿様たちのうち、アジアからはソウル大司教区のニコラオ鄭(チョン)ジンソク大司教様と、香港司教区のヨゼフ陳日君司教様との他にもフィリピンのマニラ大司教区のガウデンシオ・ロサレス大司教様の枢機卿に選ばれました。付け加えます。日本語でのリストは次をご覧下さい。
日本語サイト リンク カトリック中央協議会「教皇、15名の新枢機卿任命を発表」

 (また、日本語サイト リンク 「教皇ベネディクト十六世の新枢機卿任命発表のことば」 も2月23日付で日本語訳が掲載されています。)


 四旬節がますます近づいていますので、今回も聖トマス・アクィナスの言葉の続きを紹介したいと思います。『神学大全』第三部 第46問 第3項 「キリストの受難による以外に、人類解放のより相応しい方法があったか」の日本語訳をお送りします。原文となったラテン語は次をご覧下さい。

外国語サイト リンク CORPUS THOMISTICUM / Sancti Thomae de Aquino / Summa Theologiae / tertia pars a quaestione XLVI ad quaestionem LII / Quaestio 46

 良き四旬節となることをお祈りしつつ。

 天主様の祝福が豊かにありますように!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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神学大全 第三部より

第46問 キリストの受難について

第3項 キリストの受難による以外に、
        人類解放のより相応しい方法があったか。

【問題提起】

 第3について次のように進められる。キリストの受難による以外に、人類解放のより相応しい方法があったように思われる。

【異論】

異論1  自然は、そのはたらきにおいて、天主の御業をまねる。天主により動かされ規制されているからである。しかし自然は、1つのことを通してすることが出来ることを2つのことを通してはしない。従って、天主はご自分の意志だけによって人間を解放することができたのだから、人類解放のためにキリストの受難が加えられるには相応しくなかったと思われる。

異論2 更に、自然になされることは、暴力的になされることよりも、より相応しい。何故なら暴力とは、アリストテレスの『天体論』の書にあるように、暴力とは「自然に従うことからの断絶」或いは逸脱だからである。ところでキリストの受難は暴力的な死をもたらした。従って、キリストが自然死を遂げて人間を解放するほうが苦しみを受けるよりも相応しかった。

異論3 更に、暴力的にかつ不正義に所持するものは、より上級の権力によってそれが奪われるのが極めて相応しいと思われる。従って、イザヤにもこう言われている。「あなたたちは無償で得られた、そしてあなたたちは銀貨なく贖われるべきである」(52:3)。ところで、悪魔は、詐欺によって人間を騙し何らかの暴力によって奴隷状態に繋いでいるのであり、人間に対して如何なる権利もない。従って、キリストは受難無しに、ご自分の権力だけで悪魔から人間を奪い去るのが極めて相応しかったと思われる。


【しかし反対に】

 しかし反対に、アウグスティヌスは『三位一体論』第13巻にこう言っている。「キリストの受難によるより私たちの惨めな状態を癒すに相応しいその他のやり方はなかった。」


【回答】

 答えて言わなければならない。何らかの方法は、より多くのものが目的に相応しいことに一致していればいるほど、或る目的を達成するためにより相応しい。ところでキリストの受難によって人間が解放されたことを通して、罪からの解放以外にも、人間の救いに関わる多くのことが生じた。

 第1に、このことを通して、人間は天主が人間をどれほど愛しておられるかを知るからである。そしてこれを通して天主を愛するようにと動機付けられる。そして天主を愛することに人間の救いの完成が存するのである。従って、使徒聖パウロはこう言っている。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのためにご死去になったことによって、天主は私たちへの愛を示された」(ローマ5:8-9)。

 第2に、このことを通して、主は私たちに、従順、謙遜、堅忍、正義、そしてその他のキリストの受難において見られる諸徳の模範を与えたからである。これらの徳は、人間の救いのために必要である。従って、聖ペトロはこう言う。「キリストはあなたたちのために苦しみ、あなたたちにその足跡をふませるために、模範をのこされたのである」(1ペトロ2:21)。

 第3に、キリストはその受難を通して、人間を罪から解放するのみならず、義化の聖寵と至福の栄光とを人間に約束したからである。このことは後(第48問 第1項、第49問 第1項および第5項)に述べられる。

 第4に、このことを通して、主は、罪から身を守る大きな必要があることを人間に示したからである。これは、「まことに、あなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(1コリント6:20)という言葉による。

 第5に、これは人間のより大いなる尊厳を高めたからである。人間は悪魔によって負かされ騙された如く、悪魔に勝ったのはその人間であるがために、また、人間が死を受けるに相応しくなったが如く、人間が死ぬことによって死に打ち勝つためにであった。これは、「主イエズス・キリストによって、私たちに勝利を与えられる天主に感謝しよう」(1コリント15:57)と言われているとおりである。

従って、キリストの受難を通して私たちが解放されたのは、天主の意志のみによるよりもより相応しいことであった。


【異論に対する回答】

 異論1については、それゆえ言わなければならない。しぜんであっても、何かをより相応しくなすために、複数を1つのことのために受ける。例えば見るために両目を持つ。その他のことにおいても同じ事が明らかである。

 異論2については言わなければならない。クリソストモが言うように、「キリストは自分の死ではなく(キリストは命であるので死を持っていなかったから)人々の死を終わらせるために来た。従って、ご自分の死によって肉体を死ぬに任せたのではなく、人々によって死がもたらされ、それを堪え忍んだのである。しかしもしもキリストの御体が全ての人々の眼前で病になり分解したとしても、病に苦しむ他者を癒したキリストが病に冒された体を持つことは相応しくなかった。キリストがもしも如何なる病もなく体を死に任せ、その後に姿を現した(se offerret)としても、人々はキリストが復活したこと主張しても、キリストを信じなかっただろう。キリストが全ての人々の前で死を苦しみ、肉体が腐敗しなかったことを通して死の消滅を証明しない限り、死におけるキリストの勝利がどのように現れることができただろうか?」

 異論3については言わなければならない。悪魔は不正義に人間を侵略したが、しかしながら人間は罪のために正義に適って天主により悪魔の隷属状態に陥った。従って、キリストがご自分の受難をとおして人間のために天主の正義を満足させることにより、正義を通して人間が悪魔の隷属状態から解放されるのが相応しかった。

 これは悪魔の傲慢に打ち勝つためにも相応しかった。アウグスティヌスが『三位一体論』第13巻に言うように、悪魔は「正義を捨てた者であり権力を望む者であり」キリストは「天主の権能だけによるのみならず、受難の正義と謙遜とを通して悪魔に打ち勝ち、人間を解放するべきであった。」



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【聖ピオ十世会について】


イエズスの聖心神学校での聖香油のミサ(聖木曜日)、ツァイツコーフェン(ドイツ)
【写真】 聖木曜日・聖香油のミサ
イエズスの聖心神学校、ツァイツコーフェン(ドイツ)

◎ カストゥリヨン・オヨス枢機卿

(聖ピオ十世会は)本当の離教ではなかった。
it was not a formal schism -- non si tratta di uno scisma formale

聖ピオ5世のミサは、廃止されたことはありません。
La messa di san Pio V non e mai stata abolita.

[トレンタ・ジョルノ誌2005年9月号]

外国語サイト リンク Castrillón Hoyos: "La messa di san Pio V non è mai stata abolita"
外国語サイト リンク Rapprochement by unhasty stages, but not too slow either


◎ カストゥリヨン・オヨス枢機卿

(聖ピオ十世会は)離教であるとは言えない。
non si puo dire che ci sia uno scisma

(11月13日に放送された、イタリアのチャンネル5(Canale 5)のインタビューで):

私たちは異端を前にしているのではありません。正しい、正確な、厳密な意味で離教があるとは言うことは出来ません。教皇の許し無く司教聖別をすることの中には、離教的な態度があります。しかし彼らは教会の内部にいます。・・・
Non siamo di fronte ad una eresia. Non si puo dire in termini corretti, esatti, precisi che ci sia uno scisma. C'e una attitudine scismatica nel consacrare vescovi senza il mandato pontificio. Loro sono dentro la Chiesa, ...

外国語サイト リンク Castrillón Hoyos: Fraternità San Pio X, "non si può dire che ci sia uno scisma"

(!POINT!)聖ピオ十世会はカトリック教会の中にいる一修道会。


◎ 国際ウナ・ヴォーチェの会長であるラルフ・ジーベンビュルガー博士の証言

(カストゥリヨン・オヨス)枢機卿は、ルフェーブル大司教は、具体的に離教行為と考えられ得るような聖ピオ十世会の固有の組織を決して創立しなかった、ということを強調しました。
The Cardinal underlined that Archbishop Lefebvre had never founded a proper structure of his fraternity that could be considered as a concrete act of schism.


◎ フェレー司教

私たちは、ローマとは別の位階制度を構成するのではない、私たちは補いの司教に過ぎない。
Nous ne constituons pas une hierarchie parallele, nous ne sommes que des eveques suppletifs.

日本語サイト リンク マニラの eそよ風 第230号


◎ モンシニョール・ペルル(エクレジア・デイ委員会の事務局長)

厳密な意味において、聖ピオ10世会の司祭によって捧げられたミサに与って主日の義務を果たしたことができます。
In the strict sense you may fulfill your Sunday obligation by attending a Mass celebrated by a priest of the Society of St. Pius X.

もしそのような(=聖ピオ十世会の司祭の捧げる)ミサに与るというあなたの第1の意向が、教皇様と教皇と交わりを共にするものたちとの交わりから離れたいという望みを表明するためであるのなら、これは罪になるかも知れません。もしもあなたの意向がただ単純に信心のために1962年版のミサ典書に則ったミサに与ることでしたら、これは罪にならないでしょう。
If your primary reason for attending were to manifest your desire to separate yourself from communion with the Roman Pontiff and those in communion with him, it would be a sin. If your intention is simply to participate in a Mass according to the 1962 Missal for the sake of devotion, this would not be a sin.

このミサでの慎ましい献金は正しいこととされると思われます。
It would seem that a modest contribution to the collection at Mass could be justified.

2002年4月15日の回答

日本語サイト リンク マニラの eそよ風 第87号

(!POINT!)聖ピオ十世会は離教ではない、従って、聖ピオ十世会の聖伝のミサで主日の義務を果たすことが出来る。


◎ 「教会法の正当解釈のための教皇庁立委員会」の委員長カスチーヨ・ララ枢機卿(Castillo Cardinal Lara, J.C.D.)

教皇の許可無く司教を聖別する行為はそれ自体では離教行為ではない。
(La Repubblica, Oct 7, 1988)

(!POINT!)離教はなかった、従って破門もあり得ない。


◎ ミュンヘン大学神学部教会法学者のゲリンガー(Geringer)教授

ルフェーブル大司教はこの司教聖別によって、いかにしても離教をするものではない。(1988年6月30日のラジオでのインタビュー)

(!POINT!)司教聖別だけでは、離教行為ではない。従って破門もあり得ない。


◎ パリのカトリック学院教会法学部長パトリック・ヴァルドリニ(Patrick Valdrini)

ルフェーブル大司教は自分が新しく聖別した司教達にいかなる裁治権も領地も与えていないので、その聖別は離教行為を構成しなかった。

司教を聖別するから離教が生じるのではないのです。離教が起きるのはその司教に使徒的使命(mission apostolique)を与えるときです。

(Interview in Valeurs Actuelles, Paris le 4 juillet 1988, et in L'Homme Nouveau, Paris le 17 Juillet 1988.)

(!POINT!)司教聖別だけでは、離教行為ではない。従って破門もあり得ない。


◎ 1991年5月1日、ハワイのフェラリオ司教(Bishop Ferrario)

フェラリオ司教は聖ピオ十世会を支持しそのミサに与っている六人の信者を破門しようとした。しかし、ローマはその決定は「根拠のないものであり従って無効」であると宣言した。

フェラリオ司教がしようとした聖ピオ十世会の信者の破門の試みは、「教義と信仰に関する聖省」の長官ヨゼフ・ラッチンガー枢機卿(現教皇ベネディクト16世)によって1993年6月28日覆された。

教会法を基礎にすると、この場合の破門からは上記の勅令によって言及されている事実は離教の罪をなしていないのであり、厳密な意味における離教行為ではないと結論付けられる。従って、聖省は1991年5月1日の勅令が根拠がないものであり従って無効であると宣言する。(Apostolic Nunciature, Washington D.C.)

外国語サイト リンク SSPX USA: Does Cardinal Ratzinger’s decree overturning the "excommunication" of the Hawaii 6 apply equally to other Catholics who attend the Society’s Masses?
外国語サイト リンク SSPX USA: Honolulu Diocese & "The Hawaii Six"

(!POINT!)ラッツィンガー枢機卿(現教皇様)の判断。聖ピオ十世会のミサに与ることは、離教行為ではない。従って破門もあり得ない。


◎ 「キリスト者の一致のための教皇庁立委員会」委員長エドワード・カッシディー枢機卿

某様、・・・1994年3月25日のあなたのご質問に関し、聖ピオ十世会は宗教統一運動(エキュメニズム)のリストの中には入っていません。この会の会員の状況はカトリック教会内の内部問題に過ぎないのです。聖ピオ十世会は、このリストの中でつかれて言う意味においての別の教会や別の教会的団体ではないのです。もちろん、この会の司祭によって執行されているミサは秘蹟は有効です。司教達は非合法ですが有効に聖別されています。(1994年5月3日の手紙)

(!POINT!)聖ピオ十世会のミサや秘蹟は有効。


◎ フロレンス大学の元教会法教授、ネリ・カッポーニ伯爵

 「彼は(=ルフェーブル大司教が離教になるためには)もっと何かしなければならなかった。例えば自分の教会位階組織を作るとか、そうしたらそれは離教行為になる。しかし、事実はルフェーブル大司教は単にこう言っただけだった。
 『私は自分の司祭の品級が続くことが出来るように司教を作る。彼らはその他の司教らの席を取らない。私は別の教会を造っているのではない。』
 従ってこの行為はそれ自体で(per se)離教的ではない。

(Latin Mass Magazine, May-June 1993)

(!POINT!)司教聖別だけでは、離教行為ではない。従って破門もあり得ない。


◎ ニューヨーク大司教区のジェラルド・マーレイ神父(Fr. Gerald E. Murray, J.C.D.)

ジェラルド・マーレイ神父は、おそらく教会の中で最も権威のあるローマのグレゴリオ大学で1995年6月教会法の博士号を獲得した。その博士号獲得のテーマは「故マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会との平信者の教会法上の地位:彼らは破門されているか、或いは離教状態なのか」であった。

私は教会法の博士号を獲得しました。私の博士号論文のテーマとしてルフェーブル大司教の破門を取りました。・・・彼らは離教者として破門されていません。なぜならばバチカンは彼らが教会を離れたとは一度も言わなかったのですから。・・・ルフェーブル大司教彼自身破門されていなかったと証明することが出来ます。ですからその他の人も誰も破門されていません。・・・私の結論は、教会法上、彼は教会法によって罰せられるべき離教行為を罪を犯していません。彼は教皇に対する不従順の罪を犯したかも知れません。しかし彼は教会法がその行為に対して自動破門の制裁をすることがないように行為したのでした。

聖ピオ十世会の内部について、バチカンは一度もいかなる司祭も、平信徒も離教的である[教会を離れている]と宣言したことがありません。

聖座は、誰かが聖ピオ十世会の司祭が捧げるミサに与っただけで教会を離れたことになるなどとは一度も言ったことがありません。良い[カトリックの]教えを得るために聖ピオ十世会の教会や聖堂に行くことが出来るでしょうか?私にとってそうする方が、本当に異端的な説教、例えば地獄がないだとか、離婚し再婚した夫婦が聖体拝領できるだとかといった説教を聴くよりもよっぽどましだと思います。

(Latin Mass Magazine, Fall, 1995)

(!POINT!)バチカンは聖ピオ十世会が教会を離れたとは一度も言わなかった。ルフェーブル大司教彼自身破門されていなかったと証明することが出来る。


◎ その他 聖ピオ十世会について
日本語サイト リンク マニラの eそよ風 第16号
日本語サイト リンク マニラの eそよ風 第90号

などをご覧下さい。

◎ 「司教聖省」長官であるガンタン枢機卿は、ルフェーブル大司教は教皇の許可無く四人の司教を聖別したので、「離教的行為」をなしたと誤って言ってしまった。そしてこう宣言した。「司祭信徒は・・・ルフェーブル大司教の離教を支持しないように、さもなければ破門という厳しい制裁が降るだろう」と脅した。

 ガンタン枢機卿は誤って教会法(1364条1項)を引用した。「離教的行為は自動破門となる」と。

 しかし1988年6月30日には如何なる離教行為もなかった。従って破門もあり得ない。

 翌日ヨハネ・パウロ二世教皇も、同じようなしかし何ら裁治権を行使しない声明を出した。

 「離教を支持することは天主にたいする犯罪であり教会法によって定められた破門の刑があることを誰も知るように」と。

 しかし、まず離教はなかった、従って破門もあり得ない。



【ミサ聖祭に与るときの心構え】
日本語サイト リンク マニラのeそよ風 第168号