■ 質問です ◎ Is the SSPX, Society of Saint Pius X, in good standing with the Vatican and the Church?
http://www.cpats.org/CPATSAnswerDirectory/ unless they are physically or morally impeded from participating in a Mass celebrated by a Catholic priest in good standing (cf. Code of Canon Law, canon 844.2 ). …ではまるで、「昨日の日付のこのコンビニ弁当は、一時間前に賞味期限が切れたけれど、まだ腐ってはおらず、食事としての価値には問題がない。食べるのは違法だが、食事としての価値は損なわれていないのだから、他に食べものがなければ食べてもよい。」と言われているような感じです。 Tridentine Mass が illicit なのではなくて、SSPX のミサが illicit だと言っているわけですよね。それならばたとえばの話、誰かが、「聖ピオ十世会を良いと思っているのではないけれど、聖伝ミサに与りたくても、よそでは与れない。だから聖ピオ十世会のミサに与っているだけだ、」と返事をしたとしたら、その場合、これは unless 以下の解釈として認められるわけでしょうか? 有名な書簡なのかどうか知りませんが、PONTIFICIA COMMISSIO ECCLESIA DEI というところからのこの返答に関して、あるいは類似する発言に対して、SSPX は何か公表していないでしょうか? よろしくお願いします。 ■ お答えします。 アヴェ・マリア! ご質問をありがとうございました。 この書簡は1995年9月29日付けのものですが、同じエクレジア・デイ委員会の事務局長であるモンシニョール・ペルルは、2002年4月15日付けで、5つの質問に答える形で「聖ピオ10世会の」聖伝のミサに与ることについて答えを出していました。 ところで数ヶ月後同じモンシニョール・ペルルは、以前書いていたことと全く反対の内容の書簡回答を2002年9月27日付けで送っています。この内容はエクレジア・デイ委員会によって2003年1月18日に公表されました。数ヶ月の後に態度が全く変わっているのです。 モンシニョール・ペルルは、はっきりと、制限を付けずに、こう言います。 「厳密な意味において、聖ピオ10世会の司祭によって捧げられたミサに与って主日の義務を果たしたことができます。」 これは、聖ピオ10世会が離教してはいないということを宣言することです。何故なら、例えば離教したギリシア正教の司祭によって捧げられた典礼にいくら与っても、カトリック者は主日の義務を果たしたことにはならないはずだからです。ですから、私たちはモンシニョール・ペルルに聖ピオ10世会が離教してはいないと言うことを言って下さって感謝します。(私たちはcpats.orgに、この手紙をウェッブサイトに掲載することを提案したいですね。) 「聖ピオ10世会のミサに与ることは、私にとって罪ですか?」という質問には、モンシニョール・ペルルは、次のように答えています。 「もしそのようなミサに与るというあなたの第1の意向が、教皇様と教皇と交わりを共にするものたちとの交わりから離れたいという望みを表明するためであるのなら、これは罪になるかも知れません。もしもあなたの意向がただ単純に信心のために1962年版のミサ典書に則ったミサに与ることでしたら、これは罪にならないでしょう。」 私たちは、カトリック者として自分の救霊を考え、カトリック信仰を守りたい、そのことだけを考えています。まじめな話を致しましょう。私たちの中に、一体どのような信者さんが、まず第1の目的として教皇様の権威を認めることを拒否することを明らかにするために聖伝のミサに与りに来るでしょうか? そもそもそのような質問をすること自体が、答えを与えていることになります。聖ピオ10世会の司祭が捧げる聖伝のミサに与りに来ることは罪ではない、と明らかに言明して下さっているモンシニョール・ペルルには、またもや感謝をしなければなりません。 ローマは、教皇庁立委員会エクレジア・デイを通して、聖ピオ10世会の教会や聖堂に通う人々は罪を犯していないと宣言しているのです。勿論私たちはそのことを既によく知っていました。しかしローマ当局によってこうやって宣言されるというのを知るのは嬉しいことです。 しかも、ローマは、カトリック者が聖ピオ10世会に献金をしてもよろしいと宣言しているのです! たとえそれがつつましいものであったとしても、聖ピオ10世会に金銭的に援助をして下さるカトリック者には、心からの感謝を捧げます。金額の大小はともあれ、聖ピオ10世会を財政的に援助することは良いことである、正当化されることであるとローマは見なしているのです。 ところで、エクレジア・デイ委員会が自分のなすべきことを良く果たしていない、という告発については、ウナ・ヴォチェ国際連盟の長であるマイケル・デイヴィスが1999年11月14日にした答えを思い起こすだけで充分だと思います。「マイヤー枢機卿が(1991年に)引退して以来、私(マイケル・デイヴィス)は、教皇庁立委員会エクレジア・デイが一人の司教のもとに干渉した唯一の件以外、その働きを知らない。」この日以降、エクレジア・デイ委員会は、何か聖伝のミサのためにしたのでしょうか? しかし、もっと本質的なことは別のところにあります。エクレジア・デイ委員会とは、何かの役に立つのでしょうか? エクレジア・デイ委員会の発表することを見て、ローマらしい、本当の永遠のカトリックのローマらしい、ということが出来るでしょうか? エクレジア・デイ委員会が態度をコロコロ変えるのを見て、キリストの花嫁、私たちの母、真理の教師をその中に見いだすことが出来るでしょうか? 聖ピオ10世会は、この委員会エクレジア・デイと関係を持つことを常に拒んできました。何故なら、エクレジア・デイ委員会の介入がなくとも、聖ピオ10世会はカトリック教会に属しているからであり、この委員会エクレジア・デイが今までになしてきたことを見ると、その信憑性を失ってしまったからです。正義と真面目さの点でエクレジア・デイ委員会は欠けているところがあるという、大きな疑問があるからです。 このモンシニョール・ペルルが書いた手紙の数行は、私たちが今その中にいる教会の危機というものが、どれほど深いものであるかということを垣間見せてくれているようです。 以下に引用したモンシニョール・ペルルの手紙の日本語訳(トマス小野田訳)を掲載します。 ■ 聖ピオ十世司祭兄弟会のミサに関するモンシニョール・カミーユ・ペルルの手紙 Una Voce Americaは、the Remnant紙に掲載され、いろいろなインターネットサイトによって再掲された記事に関してエクレジア・デイ委員会から連絡を受けた。この委員会の求めにより、私たちは以下の通りそれを掲載する。 ■ 教皇庁立委員会エクレジア・デイ2003年1月18日付けの手紙 イエズスとマリアとの聖心において挨拶を送ります! 2002年9月27日付の私たちの手紙に関していろいろな手紙を受け取りました。物事を明確にするためにモンシニョール・ペルルは次の通りの返事をしました。 互いに祈りましょう(Oremus pro invicem.)。 モンシニョール・アーサー・コールキンズ(Mgr Arthur B. Calkins) ■ モンシニョール・カミーユ・ペルルの回答 不幸なことに、あなたも良くおわかりのように、私たちと手紙のやり取りをする人々が私たちの手紙を何に使うかコントロールする方法が全くありません。「レムナント」紙やその他多くのウェブサイトに掲載された2002年9月27日付の私の手紙は、私に手紙を書いてきた人の特別な状況に適応した個人的な連絡としてみなされるべきものです。公の討論の場に載せられたものは、この手紙の短縮版で、私の司牧的忠告が大部分省略されています。この手紙の一部だけが公表されたので、私はこの回答の文脈を提示するのが適当だと判断します。 同じ前回の手紙の中で、私たちは聖ピオ10世会の教会法上の身分を示しましたが、ここで短くまとめてみます。
(1) 聖ピオ10世会の司祭たちは、有効に叙階されていますが、司祭の聖職は停止されています。彼らが、故ルフェーブル大司教の離教を支持する限り、彼らは破門されています。 私の2002年9月27日付の手紙の1から3の点は、正しく伝えられていました。
その第1の質問はこうでした。 私の答えは次の通りでした。 (1)厳密な意味において、聖ピオ10世会の司祭によって捧げられたミサに与って主日の義務を果たしたことができます。
彼の第2の質問は次の通りでした。 私は、次のように答えました。 (2)私たちは既にそのようなミサに与ることを勧めることが出来ないと言いましたし、その理由も説明しました。もしそのようなミサに与るというあなたの第1の意向が、教皇様と教皇と交わりを共にするものたちとの交わりから離れたいという望みを表明するためであるのなら、これは罪になるかも知れません。もしもあなたの意向がただ単純に信心のために1962年版のミサ典書に則ったミサに与ることでしたら、これは罪にならないでしょう。
第3の質問はこうでした。 これについては、私はこう答えました。 (3)このミサでの慎ましい献金は正しいこととされると思われます。 更に、手紙の相手はエクレジア・デイ委員会がその任務を正しく果たしていないと非難していましたが、私は彼にこう答えました。 「この教皇庁立委員会は、1962年版のローマ・ミサ典書に従ってミサを捧げるようにと司教たちに強制する権威を持っていません。しかしながら、私たちは司教たちと頻繁な連携があり、この許可が与えられるように、私たちの出来ることは全てしています。しかしながら、この許可は「聖伝の」ミサを求める人数や、その動機、捧げる司祭がいるかいないか、にもよっています。 あなたはお手紙の中で教皇様があなたに1962年版のローマ・ミサ典書に従ってミサを捧げる「権利」を与えたと書いていますが、それは正しくありません。教皇様は確かに兄弟である司教たちにこのミサが捧げられるように寛大であれ、とは要求しましたが教皇様はそれが「権利」であるとは言いませんでした。現在のところ聖伝のミサは、地方の司教が本当の司牧上の奉仕であり、それをする司祭がいると判断したときに与えられる教会法の例外です。カトリック者はそれぞれ秘跡に対する権利があります(カトリック教会法典843条参照)。しかし、自分の好みの典礼様式に従ってそれが与えられる権利ではありません。 以上の説明がこの手紙に関して私たちにご質問した方々を照らすことを期待します。
私たちの主の新しい2003年のために私の祈りをお約束しつつ、
モンシニョール・カミーユ・ペルル
英語でこの手紙をお読みになりたい方は次のサイトをご参照下さい。 |