第283号 2005/06/30 使徒聖パウロの記念
アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
6月の日本での聖伝のミサにおいて、私たちは大変幸福でした。何故なら、多くの方が聖伝のミサに関心を持って下さりこれに与ることができたからです。東京では8名の新しい方々が初めて聖伝のミサに与るお恵みを戴いたからです。しかも、午後には大阪と東京で第2バチカン公会議の『司祭の役務と生活に関する教令』の勉強会をしました。難しい内容だったにもかかわらず(私の準備した資料は、22ページもありました!)多くの方が勉強会に参加して下さり(特に大阪では聖伝のミサに参加した方がほとんど残ってくれました)、東京では小さなお友達も最後まで残って勉強していってくれ、とても嬉しく思いました(しかも勉強会が終わっても、お友達はいろいろな名称をラテン語で何というのかと多くの質問してくれ、その知的な質問内容と記憶力に脱帽)。お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんを含めると7名のカトリック教会の将来を担う子供達が聖伝のミサに与り、本当に天主に感謝します!
それと同時に、フランス人の家族がこれでイタリアのミラノに引っ越してしまうので、もう二人のフランス人のお友達がいなくなって寂しくなりそうです。でもブラジルで国際結婚をされた新婚さんがそのバトンタッチをしてくれそうなのでそれも嬉しく思います。天主に感謝!
「マニラの eそよ風」 281号では、第2バチカン公会議では、司祭は何よりもまず人間のため、天主の民の「奉仕」のために存在する、と革命的な変化があったこと、第2バチカン公会議の新しい司祭像によれば、司祭は、キリストの神秘体という共同体の善のためにまず存在し、司祭は御聖体のためと言うよりも、むしろ民のための存在になったことを考察しました。
第2バチカン公会議で司祭のことを特別に取り上げた『司祭の役務と生活に関する教令』は、1965年12月7日、第2バチカン公会議閉会の前日、2390票の賛成と4票の反対をもって可決されたのだから、むしろ聖伝に従ったものなのではないか? とも思われます。
しかし第2バチカン公会議の専門家たちは、第2バチカン公会議後こう言い出しました。
レキュイェ神父(Pere Lecuyer)「この出発点そのものからして、聖トマス・アクィナスが叙階の秘蹟の神学を取り扱ったやり方との根本的な相違を、私たちは強調するのが重要であると思われる。第2バチカン公会議は、新約聖書の与件に忠実に従いながら、使徒的役務を、教え・秘蹟と礼拝を司り、民を指導する三重の役割を含めた一つの全体として考察する。他方で聖トマス・アクィナスは、出発点として、秘蹟の執行者、特に御聖体の執行者としての権能からのみ考察している。・・・それがトリエント公会議の立場でもある」(Fascicule "L'order"in la Revue des jeunes aux editions du Cerf, p 202)と。
ドゥニ神父(Pere H. Denis)は、こうも言っています。「トリエント公会議では・・・問題は天主の民から問われていない。司祭職の正当化は純粋に御聖体あるいはいけにえによる(ミサと罪の赦し)。そのようにして権能の線に従って、つまり御聖体に対するあるいはキリストの現実の体に対する権能の線に従って、トリエント公会議が司祭職について語る---そしてそれは数世紀にわたってそうであった。・・・第2バチカン公会議では、観点はもっと広く、そして訂正された(原文ノママ!)。つまり司祭職制定の存在理由は、信徒と共通司祭職の内部、言い換えると神秘体の肢体において多様性を持つ一つの体の内部に求められねばならない。」(quoted in "Vatican II - Les Pretres - Formation, Ministere et Vie", Collection Unam Sanctam aux editions du Cerf, pp 208-209)
コンガール神父はこう言います。「司祭職の神学は、キリストが人々のためにそうあることを望むことに参照して司祭を見る。そして礼拝と宣教において完全に身を委ねる信徒らの民の関係において司祭を関係づける。」(同書 p 241)
第2バチカン公会議で『司祭の役務と生活に関する教令』の執筆に直接関わった人々がそのような分析をしていることは、極めて重要です。何故彼らはそのようなことを主張できたのでしょうか? 私たちは、『司祭の役務と生活に関する教令』のありのままの姿を詳しく見てみることにしましょう。6月の日本での勉強会に参加できなかった方も、ぜひお読み下さい。
なお、以下に引用する第2バチカン公会議の公文書は、すべて南山大学監修の「第2バチカン公会議公文書全集」(中央出版社1986年)に掲載されている公式日本語訳を参照してあります。
ここでは次のような順序で話を進めたいと思います。長いので6回に分けて「マニラの eそよ風」でお送り致します。では、聖伝によるカトリック司祭と第2バチカン公会議の司祭とはどのように違うか、第2バチカン公会議の『司祭の役務と生活に関する教令』を見てみましょう。
第1部 原理
[1] 『司祭の役務と生活に関する教令』の序文(「マニラの eそよ風」 283号)
[2] 『司祭の役務と生活に関する教令』の2番(「マニラの eそよ風」 284号)
[3] 『司祭の役務と生活に関する教令』の論理構造(「マニラの eそよ風」 285号)
第2部 論理的結論
[4] 第2バチカン公会議の新しい司祭が捧げる「いけにえ」とは何か?
(「マニラの eそよ風」 286号)
[5] 典礼上の論理的結論(「マニラの eそよ風」 287号)
[6] 結論(「マニラの eそよ風」 288号)
第2バチカン公会議以後の司祭職
『司祭の役務と生活に関する教令』を読む
第1部 原理
[1] 『司祭の役務と生活に関する教令』の序文
『司祭の役務と生活に関する教令』には序文がついており、そこではこの文書の位置づけがなされています。序文はこういう言葉で始まります。以下に序文をすべて掲載します。
====引用開始====
1 この聖なる教会会議は、司祭が教会の中で持つ重要性について、すでに何回もすべての人に思い起こさせた(注1 第2バチカン公会議、『典礼憲章』;『教会憲章』;『教会における司教の司牧任務に関する教令』;『司祭の養成に関する教令』)。しかし、キリストの教会の刷新に際して、最も重大でしかも日増しに困難な役割が司祭団に課せられるので、司祭についてより詳しく、より深く論じることはきわめて有益である。ここで述べることは、すべての司祭、特に司牧の任にある司祭に該当するものであり、必要な調整を加えたうえで修道司祭にも適応される。司祭は叙階式と司教から受ける辞令とによって、師・司祭・王であるキリストに仕えるために任命され、キリストの役務に参与する。この役務によって教会は神の民、キリストの体、聖霊の神殿として、この地上に休みなく建設されている。したがって、司牧の事情と人間の条件がしばしば根底から変化した状況に際して、司祭の役務をより効果的に援助し、その生活をよりよく支持するために、この聖なる教会会議は以下のことを発表し決定する。
====引用終了====
[1-A] 有機体的な全部の一部
これを読んで気がつくことは、この教令はその最初から第2バチカン公会議のその他の文書の一環としてその中の有機体的な全部の一部として位置づけられている、ということです。
つまり第2バチカン公会議のその他の関連文書との一つの流れの中で、連続性をもって読まれ、解釈されるべきであるということです。従って、もしもこの文書中に不明瞭な表現があれば、その正しい理解のためにはそれに対応する別の第2バチカン公会議文書を参照せねばならない、ということです。『司祭の役務と生活に関する教令』は従って、『教会憲章』の司祭職に関して言及された箇所を参照しつつ、それの光の下に読まれなければなりません。
では『教会憲章』は、すでに司祭職についてどんなことを発表していたのでしょうか? 『教会憲章』の10番にはこうあります。
====引用開始====
職位的司祭は、自分が受けた聖なる権能をもって司祭的な民を育成し、治め、キリストの代理者として聖体の犠牲を執り行ない、それを民全体の名において神にささげる。信者は、自分が持つ王的司祭職の力によって、聖体の奉献に参加し、また諸秘跡を受けること、祈り、感謝、聖なる生活による証明、自己放棄、行動的な愛をもって、この王的司祭職を行使する。
====引用終了====
『教会憲章』10番によれば、「職位的」司祭は「聖なる権能」を受けていると言われています。この「聖なる権能」は、普通に読めば、叙階の秘蹟によって与えられたものだと考えられます。そしてこの「聖なる権能」は「民を養成」するために、まず存在する、と読めます。つまりこの文書の順位からすると「職位的司祭」は、何よりもまず民(司祭的な民)のために秩序付けられ、副次的なものとして御聖体(聖体の犠牲)に秩序付けられています。しかも、司祭の存在理由に関して言及があるときには、必ず、民が第1に言及され、そしてその次に御聖体が述べられます。例えば、『教会憲章』28番を見てみましょう。
====引用開始====
司祭は・・・、叙階の秘跡の力によって、最高永遠の司祭であるキリスト(ヘブレオ 5・1~10、7・24、9・11~28)にかたどられて、新約の真の司祭として、福音を宣教し、信者を司牧し、神の祭礼を挙行するために聖別される。司祭は唯一の仲介者キリスト(1ティモテオ 2・5)の任務に、自分の役職の段階において参与する者となり、神のことばをすべての人に告げる。司祭は特に聖体の祭礼または集会の儀においてその職務を執行し、そこではキリストの代理者として行動し、キリストの秘義を宣布し、信者の祈りをそのかしらの供え物に結び合わせ、新約の唯一の犠牲、すなわち自分を汚れない供え物として父に一度ささげたキリスト(ヘブレオ 9・11~28参照)の犠牲を、主の到来まで(1コリント11・26参照)ミサの犠牲において現存するものとし、それを適用させる。
====引用終了====
ここでは「叙階の秘蹟の力」による司祭の役務について語っているのですが、ここでも何よりもまず、「福音を宣教し、信者を司牧し」ということが最初に言及されます。そして「祭礼挙行」は最後に置かれています。
『教会憲章』28番については、フリスク神父(Pere Frisque)がこう言っています。
「司祭職(le presbyterat)の本性については、『教会憲章』が一つの段落全体をそのために費やした。このテキストは、委員会によって意図的に規範的土台として選ばれた。教令では単にこれをもう一度提示しただけである。」(quoted in "Vatican II - Les Pretres - Formation, Ministere et Vie", Collection Unam Sanctam aux editions du Cerf, p 138)
その他にも、例えば『教会憲章』11番を見て下さい。ここでは「共通司祭職」について語られます。
====引用開始====
信者の中から選ばれて聖なる叙階を受ける者は、神のことばと恩恵をもって教会を牧するために、キリストの名において立てられるのである。
====引用終了====
『教会憲章』で何度も強調されたこの順序は、『司祭の役務と生活に関する教令』でも同じように繰り返されます。私たちは、このことをテキストに沿ってみてみたいと思います。特にこのことは『司祭の役務と生活に関する教令』の最初の聖書の引用から始まる文句からして明らかです。ところで、その前に『司祭の役務と生活に関する教令』の序文について、もう一つこのことを指摘しておきたいと思います。
[1-B] 司牧する司祭ら(presbyteri)がその主題
序文により、『司祭の役務と生活に関する教令』が第2バチカン公会議のその他の文書の一環としてその中の有機体的な全部の一部として位置づけられているのみならず、この教令が取り上げる正確な主題が確認されています。すなわち、それは「司祭についてより詳しく、より深く論じること」であり、「ここで述べることは、すべての司祭、特に司牧の任にある司祭に該当するもの」ということです。ここで使われているラテン語は、presbyteros です。これは『司祭の役務と生活に関する教令』の中では特定の意味を示す用語で、この教令の中で sacerdos は、司教と司祭とを同時に意味する言葉ですが、presbyter は、司教の司祭職とも、信徒の司祭職とも区別された、いわゆる司祭の司祭職における司祭を意味しています。つまり、この教令では、他でもなく「すべての司祭、特に司牧の任にある司祭」について語られるのです。しかも「司牧の事情と人間の条件が」「司祭の役務をより効果的に援助」することを要請している状況にいる「司牧の任にある司祭」のためのものです。
この教令は、「叙階式と司教から受ける辞令とによって」本質的に、司祭の位階にあるものが教会を神の民として建設し、司牧をするものとなることを宣言しつつ、キリストの神秘体である教会に関する行為が司祭職の出発点であると観点を定めています。言い換えると、『司祭の役務と生活に関する教令』の出発点は教会論です。第2バチカン公会議の一文書たる『司祭の役務と生活に関する教令』にとって、司祭職は、教会との関係において規定されるのです。
反論があるかもしれません。教会は司祭が司祭職を執行する環境、状況、場として、つまり本質ではなく属性、あるいは条件として、あるいは司祭職の副次的な目的として挙げられているに過ぎないのではないか?
確かに、第2バチカン公会議の文書がすべてそうであるように、『司祭の役務と生活に関する教令』には、どの様にでも取れる意味の曖昧さがあります。しかし、司祭職の第一の目的は何かと言うことに関する疑いを許さないような明確ではっきりとした言及がひとつもないこと、すでに述べたように「叙階式・・・によって」のように、秘蹟としての司祭職について言及していること、トリエント公会議との対照的な違いがあること、そしてこれ以降の教令のテキストそれ自体が、司祭職の本性について語っていることを示しています。実際、ドゥニ神父(Pere Denis)はこう言います。「第2バチカン公会議は、司祭職(le presbyterat)を叙階の秘蹟性の全体のうちに提示している」(前掲書 p 214)と。
[1-3] 「師・司祭・王であるキリストに仕えるために」
序文に現れる「師・司祭・王であるキリストに仕えるために」という表現は、『司祭の役務と生活に関する教令』と第2バチカン公会議の至る所に見いだされます。それは時と場所によって形を変えながら、しかし常に「師・司祭・王」=「教え、聖化、統治」という三重の役職として登場します。
すこし例を挙げてみると、例えば『教会憲章』にはこんな形で見えます。
====引用開始====
20 司教は、・・・教理の師、聖なる祭儀の司祭、統治の役務者として、群の牧者である。
21 司教聖別は、聖化の任務とともに、教える任務と治める任務をも授ける。
26 司教は・・・ことばの役務を通して、救いのための神の力を信者に伝え(ローマ:1・16参照)、諸秘跡を通して信者を聖化する。司教は、諸秘跡の正規有効な授与を自分の権能によって定める。
31 信徒・・・は、自分たちの様式においてキリストの司祭職、預言職、王職に参与する者となり・・・
====引用終了====
あるいは『教会における司教の司牧任務に関する教令』2番には、「キリストは使徒とその後継者にすべての民を教え、真理において人々を聖化し、司牧する命令と権能を授けた。」とあります。
そのように『司祭の役務と生活に関する教令』も序文の直後、2番で「司祭の務めは、キリスト自身がその『からだ』を建設し、聖化し、統治する権威に参与するものである。」とありますし、この教令の第2章の 1 司祭の任務の論理構造それ自体が、「神のことばの役務者」、「諸秘跡と聖体祭儀の役務者」、「神の民の指導者」となっています。
任務(munus)と権能(potestas)
ここで「任務」(ラテン語では単数形でmunus、複数形でmuneraという)と、「権能」(ラテン語でpotestasという)の違いを少し説明します。
トリエント公会議の第23総会(1563年)で司祭職について、こう規定されました。
( http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini23.html を参照のこと)
「1条。新約においては、可見的、外的司祭職はないとか;主の真の御体と御血とを聖別し奉献する権能、罪を解きまたはつなぐ権能はなく;福音を説く職務と奉仕だけがあるとか、説教をしない者は司祭ではないとか言う者は排斥される(DzS1764、1767参照)。」
ここで出てくる「権能」という言葉は、potestasの訳語で、これは「職務」(munus)「奉仕」(ministerium)と対立して、叙階の秘蹟においては、「職務」や「奉仕」以上の「権能」が与えられる、と規定されています。つまり私たちの主イエズス・キリストの真の御体と御血を聖変化させ捧げる権能、罪をゆるす権能です。
福音を告げ知らせるということは、その後に来ることであり、カトリック司祭職の定義には入らないことです。カトリック司祭職は私たちの主イエズス・キリストの御聖体との直接の関係によって定義されています。
ところで、普通この三重の任務(munera)は、社会として考えられた教会について語るとき、教会という共通善に関して語るとき、キリストの神秘体ということに直接関係することを語るとき使われる表現です。また、司教の任務(munus)について語るときもこの三重の権能(munera)を語ります。司教は、キリストの神秘体において特別な地位を占め、教会というキリストの神秘体に対して上位のそしてほとんど王位のような任務を受けるからです。しかし司教といえども、キリストの本当の体である御聖体に対しては、単なる司祭と同じ権能(potestas)しかありません。何故なら、司教職とは、キリストの神秘体である教会の共通善のために秩序付けられているからです。このことから、こういうことが言えるのではないでしょうか。
司教特有の職務は、教会の共通善のために秩序付けられている。
ところで、三重の権能を持つということは、司教特有の職務である。
従って、三重の権能を持つことは、教会の共通善に秩序付けられている。
さて、司祭を主題にして三重の権能(munera)について語るとき、しかもこの三重の権能に関わって司祭の本性を語るとき、司祭とは何よりもまず共通善のためという政治的な役割を担うために秩序付けられ叙階される、問うことを意味します。つまり叙階の秘蹟が、第一にキリストの神秘体に秩序付けられ、それへと叙階されているのです。これが序文を読んで、そのテキストから私たちが理解する論理的な結論です。そして、それ以後のテキストは、私たちの理解が正しいことを証明してくれます。
そして、『教会憲章』はその最初の段落(序文)で、キリストの神秘体、すなわち教会をこう定義づけています。
====引用開始====
教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である。
Cum autem Ecclesia sit in Christo veluti saramentum se signum et instrumentum intimae cum Deo unionis totiusque generis humani unitatis.
====引用終了====
『教会憲章』は更にこう言い続けています。
====引用開始====
9 神は、救いの作者であり、一致と平和の源であるイエズスを信じ仰ぐ人々を一つの集団に招き集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人と個々の人にとって、救いをもたらす一致の見える秘跡となるためである。
48 キリストは死者の中から復活して(ローマ:6・9参照)、生命を与える自分の霊を弟子たちにそそぎこみ、その霊によって自分のからだ、すなわち教会を救いの普遍的秘跡として建てた。
====引用終了====
従って、私たちは次のように言うことが出来るのではないでしょうか。
司祭は、教会という神秘体のために叙階され秩序付けられる。
教会は「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具・秘蹟」である。
従って、司祭は、全人類一致の秘蹟のために叙階され秩序付けられる。
(続く)
至聖なるイエズスの聖心は、賛美せられさせ給え!
イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!
使徒聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
アルスの聖司祭、我らのために祈り給え!
日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
天のすべての天使、聖人達よ、我らのために祈り給え!
天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!
文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)