マニラのeそよ風

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第285号 2005/06/30 使徒聖パウロの記念

聖パウロの回心、カラヴァッジョ (1600年)
聖パウロの回心、カラヴァッジョ (1600年)


アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 6月は、エコン(スイス)では5名、ウイノナ(米国)では1名、ツァイツコーフェン(ドイツ)では4名の司祭叙階式が行われました。聖伝を守る新司祭たちのためにお祈りしましょう。

 聖伝によるカトリック司祭と第2バチカン公会議の司祭とはどのように違うか、続きを見てみましょう。


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第2バチカン公会議以後の司祭職
『司祭の役務と生活に関する教令』を読む

第1部 原理

[3] 『司祭の役務と生活に関する教令』の論理構造を見る

 私たちは、『司祭の役務と生活に関する教令』の構造を見てみましょう。教令は三つの部分に分かれています。

第1章 「教会の使命における司祭職」 ここで、司祭職の「本性」を考察しています。

第2章 「司祭の役務」 ここでは司祭の「行動」が主題になっています。

第3章 「司祭の生活」 司祭職の「本性」と司祭の「行動」とに対応する「生活」がここでは語られます。


 第1章「教会の使命における司祭職」では、司祭職の本性として「使命(mission)」が主題になっていることに注目して下さい。第1章は、教会共同体の共通善のための奉仕に関係づけられて構成されています。

1 「共通司祭職」(役務的・職位的司祭職の根元かつ目的)
2 「司祭の司祭職」(共通司祭職において位階秩序を持つことの必要性から司祭の司祭職)
3 この世における司祭(司祭の権威の枠組み)


 第2章「司祭の役務」も、共通善を土台にして構成されています。つまり、共通の行為をするとき、位階秩序において中間的な権威にあるものがいるとすると、この中間的権威に固有な行為とは何か、その権威の段階の上位と下位とにたいしてどのような関係を持つのか、この権威を持つ人々はその職務をどのように分配するのか、について考察します。すなわち、

 「1 司祭の任務」では、神秘体への奉仕という共通点に基づいて三重の役割を語り、
 「2 他人との関係」で、上位に立つ司教と、下位にいる信徒との関係を述べ、
 「3 司祭の配置」で、司祭の司祭職を共有する人々の間での職務の分配を考察します。

 この構造を見ただけで、司祭の役割とは何よりもまず、神秘体に対する政治的な役割であると結論付けられます。


 第3章「司祭の生活」では、「聖性」の観点から司祭の生活が語られています。ところで司祭たちが獲得しなければならない「聖性」とは、「神の民のための奉仕」に相応しくあるための「聖性」です。ここでも「聖性」は、三重の権能との関わりにおいて考察されています。司祭は何故聖でなければならないか? 何故なら、何よりもまずキリスト信者の民にとって良き奉仕者たるためです。


 これに引き替え、トリエント公会議の第23総会では、司祭職についてこのような順序で宣言しています。
日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini23.html を参照のこと)

第1章 新約の司祭職の制定
第2章 七つの聖職階級
第3章 叙階は真の秘跡である
第4章 教会の位階制度と叙階について

 トリエント公会議では、何よりもまず第1章の冒頭でこう宣言します。「いけにえと司祭職とは天主の計画によって結ばれており、旧約と新約の両時代に常に存在した。」そして全体にわたって叙階の秘蹟がいけにえと緊密に結びついています。位階制度について出てくるのは最終章に過ぎません。公会議は、明らかにそして明確に、司祭職といけにえとを結びつけているのです。七つの聖職階級についても、御聖体に対する近さと権能に応じて区別されていました。それは決して神の民のための奉仕のための段階ではありませんでした。

 以上のことを考察して後、『司祭の役務と生活に関する教令』の構造は、司祭を、人類のための人類による人類の司祭としている、といったら言い過ぎになるでしょうか? 何故なら、第2バチカン公会議は司祭職に関する新しい教義を教えている、それは第一に神の民を枢軸とするものである、とはっきりと言えるからです。そして神の民ということは、とどのつまり人間・人類ということに置き換えられるからです。


 『司祭の役務と生活に関する教令』を第2バチカン公会議の文脈の中で上のように読んだ司祭像は、トリエント公会議の司祭像と180度観点を転換させたものだ、と言うことは誰の目にも明らかでした。そこでアルバロ・デル・ポルティーリョ師(Mgr del Portillo, 1914年マドリード生 ― 1994年ローマ没、聖職者の規律に関する委員会の事務局長として『司祭の役務と生活に関する教令』の作成に関わり、1975年までオプス・デイ創立者の片腕として働き、その後はその後継者としてオプス・デイを指導した)は、『司祭の召命と使命(Vocation et mission du Prestre)』 Editions Le Laurier, Paris, 1991で、その問題を指摘し、それは解決できたと言います。

 デル・ポルティーリョ師は、まず次のように、第2バチカン公会議の『司祭の役務と生活に関する教令』を忠実に要約します。

====引用開始====
「手短ではあるが、教会の使命についてのいくつかの考察を提示する必要があると思われる。これは司祭らの役務と生活に関する『司祭の役務と生活に関する教令』が提示したことをその正しい視野において据え直すことを助けてくれるだろう。

1. イエズス・キリストから受けた教会の使命は、唯一である。この使命の達成は神の民の全ての構成員に委ねられた。神の民は、入門の秘蹟によって、天主に霊的ないけにえ(霊的供え物)を捧げ全ての人々の前でイエズス・キリストをあかしするために、キリストの祭司職に参与する。各人はこの全地球的な使命のうち、自分に帰することを、共同体への奉仕と建設のために実現させなければならない。

2. 教会のこの使命は、信徒らの奉仕という司牧的責務に限定されない。これは全ての人々と全ての時代に広がる。このことについて、第2バチカン公会議の「教会の宣教活動に関する教令 DE ACTIVITATE MISSIONALI ECCLESIAE」となる前は、元来その草案の題は「De missionibus 宣教使命について」と呼ばれていたことは意味深長である。この教令は Ad gentes(諸国民のもとへ)という言葉をもって始まり、その最初から、教会の伸展 --- 教会が全ての人々に天主の使信を告げること --- は、時の終わりまでこの世において教会が達成しなければならない使命の本質的な要請として考えられなければならない、ということを意味するためであるかのようである。

3. 普遍的な射程を持つ唯一の使命、そしてこれを達成するための唯一の司祭職、つまり神の民の全ての構成員が、いろいろな仕方であるとはいえ、参与するキリストの司祭職。教会は秘跡的な構造を持ち、キリストが聖父から受けた使命に参与し、その使命の委託を受けたものである。教会は天主の御国を告げながら、そしてそれを全ての人々の中に確立させながら、天主に栄光を帰するために聖霊によって聖化された。

4. 全ての信徒の共通祭司職と別個に、天主の御旨により、役務的祭司職も存在する。役務的祭司職は共通祭司職を前提とするが、それとは本質的に異なり、それはキリストの唯一の祭司職への参与の程度による違いだけではない。役務的祭司職は「聖なる権能」を与え、それを受ける者たちをキリスト自身がその「からだ」を建設し、聖化し、統治する権威に参与させる。従って、共通祭司職と役務的祭司職との間には関係があるが、キリストのいけにえをささげ、罪をゆるし、また人々のためにキリストの名において公に司祭としての務めを行うのは、役務的祭司職に属する。この祭司職のためにこそ、特別な秘蹟が必要であり、その秘蹟の力によって司祭は、聖霊の塗油によって、特別な霊印を司祭にしるされ、こうして、司祭は神秘体の「かしら」であるキリストの名において行動できるように、司祭キリストの姿に似たものとなる。この計画を実現させるために、父が聖化して世に派遣したキリストは、使徒達を、そして使徒達を通して彼らの後継者たちである司教らを、この聖化とこの使命(派遣)に参与させるのです。この聖化とこの使命(派遣)は、程度は低いが、司祭らにも伝えられている。それは、彼らが司教団の協力者としてイエズス・キリストによって委ねられた使命を果たすことが出来るためである。
====引用終了====

 私たちは特に次の点で第2バチカン公会議の教えが強調されているのを理解します。

 「この(=教会の)使命の達成は、神の民の全ての構成員に委ねられた」、

 「唯一の司祭職、つまり神の民の全ての構成員が、いろいろな仕方であるとはいえ、参与するキリストの司祭職」、

 「共通祭司職と別個に役務的祭司職も存在し、役務的祭司職は共通祭司職を前提とする」、

 「この聖化とこの使命(派遣)は、程度は低いが、司祭らにも伝えられている。それは、彼らが司教団の協力者としてイエズス・キリストによって委ねられた使命を果たすことが出来るため」

 アルバロ・デル・ポルティーリョ師は、以上のようにまとめた後でこの矛盾・対立は見かけ上のものであって、じつは統合されていた、と言います。

====引用開始====
「これらの考察は、教会の使命の懐において、司祭職とその機能を位置づけることをゆるしてくれるだろう。司祭に関する教令を取り巻く公会議の議論を通して、2つの立場が明らかになった。この両者は切り離されていると考えられ、対立関係にあるしかも矛盾しているとも思われ得た。この両者のうち一方では、福音化とキリストの使信を全ての人々に告げることの観点が強調されていた。他方では司祭の役務と生活が目ざすべき目的としての天主の礼拝に強調がおかれていた。統合と和解の努力が必要とされていた。委員会はこれら2つの観念の調和を取らせるように努力したが、この2つの観念は対立するものではなかった、従って、互いに他者を排除するものではなかった。」
====引用終了====

 では、どのような解決をローマは提示したのでしょうか? どう考えたら、この対立は乗り越えられるのでしょうか? 私たちは、国際神学委員会が提示した『司祭的役務』(Commission internationale de theologie, Le ministere sacerdotale, Cerf, Paris, 1971)から引用します。 何故なら、1964年にローマに還俗願いを申請した司祭の数は640名だったのに、第2バチカン公会議直後数は急増し、1968年には2263名に達し司祭の危機が顕在化し始めたので、ローマが公式に解決策を出したその一つが1971年のこれだったからです。(1970年から1997年にかけて、還俗した司祭の数は54631名に登り続けます。ただしこれにはローマに申請することなく無法に事実上「還俗」した司祭の数は入っていません。1973年には司祭職を辞める者の数が4222名にも登りました。)

 では、ローマの答えを聞きましょう。

====引用開始====
 『司祭の役務と生活に関する教令』は、聖なる役割のなかで宣教に最初の地位を与えている。他方で、トリエント公会議はミサのいけにえを捧げることが司祭の最初で最重要の役割であるとしている。ここから何を結論付けるべきか?

 この一見した対立から極めてラディカルな結論を出す者たちもいる。司祭の役務は、その主要な役務が御言葉への奉仕であり、これは礼拝と秘跡的な観点に対立して考えられ、非神聖化され非聖職化されなければならない。

 その反対に、『典礼憲章』20番と『司祭の役務と生活に関する教令』5番によって、御聖体が全ての聖なる役務が向かうべき目的であり、その豊かな効果の根元であるとして提示されていると強調するものもいる。彼らは聖体祭儀が司祭の最も本質的で最も素晴らしい役割であると結論付ける。宣教は時代の優先性によってのみ主要な役割であるとする。[これはトリエント公会議で述べられた聖伝の教えである]

 司祭は御聖体を聖別するということがその主要な典礼的権能であるとする、典礼的権能によってのみ定義され得ないことは明らかである[ソノママ]。・・・司祭とは、司教と結びつきあるいは司教によって派遣され、地方共同体に一致の刻印を与えることの出来るもの、つまり「一つのパン、一つの杯、一つの主」を与えることの出来るもの、・・・赦し癒すキリストの奉仕者である。もし司祭が自分の司教の使徒的・司牧的責任に参加していなかったら、ユダヤ教化した祭司職の概念に後戻りしてしまう危険がある。・・・

 つまり、みことばか御聖体かというジレンマを乗り越えなければならない、と言いたい。私たちがしたように、役務的祭司職を次のように定義づけることによってそれを乗り越えることが出来る。つまり役務的祭司職とは、能動的な力の、終末論に固有な、天主のみことばである、死んで復活したイエズス・キリストの奉仕である。そのイエズス・キリストの目に見えるしるしは、様々な称号・立場のもとでの、福音的使信の告知と秘跡的身振りである。・・・

司祭とは、神の民の奉仕のために、叙階の秘蹟、特に御聖体において達する最も高い程度にまでの天主のみことばの伝令官(先触れ)である。しかし御聖体がキリストのいけにえの最も内的で最も客観的な現存であり、教会建築の最後の要素であると見えるようになる前に、教会は長い考察を必要をした。」(p 88 - 89)
====引用終了====

 「役務的祭司職とは、能動的な力の、終末論に固有な、天主のみことばである、死んで復活したイエズス・キリストの奉仕・・・。」「司祭とは、神の民の奉仕のために、叙階の秘蹟、特に御聖体において達する最も高い程度にまでの天主のみことばの伝令官(先触れ)・・・。」

 天主のみことば = キリスト = 秘蹟の言葉 = いけにえ ・・・と、多義語の言葉のもつ多様な意味の上で遊んでいるのではないでしょうか? この新しい司祭の定義で、司祭の危機が解決できるのでしょうか? 

 私たちは、ここでハイはハイ、イイエはイイエと言うべきではないでしょうか。ダニエル・オリヴィエ神父(Pere Daniel Olivier)が『司祭の二つの顔(Les deux visages du pretre, Fayard, Paris, 1971)』の中で言うように、問題は「相互に全く単純にはっきりと不可能であるほど違っている2つの公会議に同時に忠実であろうとする意志」から来ているのではないでしょうか。

 つまり、第2バチカン公会議ははっきりと言っているのです。

 神の民の全てが、キリストの唯一の司祭職に参与する。
 この共通祭司職を前提となければ、司祭の役務が存在しない。
 司祭は、教会という神秘体のために叙階される。
 教会とは「神との親密な交わりと全人類一致の秘蹟」である。
 従って、司祭は、全人類一致の秘蹟のために叙階される。

 私たちは以上で第2バチカン公会議の司祭職の原理を、そのテキストに沿って確認しました。後はその論理的結論を見てみるだけです。

(続く)


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 至聖なるイエズスの聖心は、賛美せられさせ給え!
 イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!

 使徒聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
 アルスの聖司祭、我らのために祈り給え!

 日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
 天のすべての天使、聖人達よ、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!


 文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)