マニラのeそよ風

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第281号 2005/06/04 聖フランシスコ・カラッチオロの祝日

聖フランシスコ・カラッチオロと天使
聖フランシスコ・カラッチオロと天使

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 6月5日にはスイスで「同性愛者の結婚」を合法化する投票があるそうです。それと同時に「同棲」の合法化の投票も行われ、結婚せずに同棲している人々は「同性愛」にも合法化に賛成票を投ずると思われます。そしてスイスでは、残念ながら、同棲は極めて多くの若者に広がってしまっているそうです。スイスの多くの人々が自然に反する結合の合法化に反対票を投じますように! イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え! 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え! 兄弟姉妹の皆様、スイスのためにお祈りをお願いいたします。

 DICI 116号によると、アメリカでは、同性愛支持者のカトリック信徒がそのことを表明するために虹色の帯(Rainbow Sash)を身につけますが、シカゴとセイントポール・ミネアポリスでは5月13日より虹色の帯をつけた人に御聖体拝領は禁止されたそうです。

 やはりDICI 116号によると、カトリック教会の召命の激減のために、スイスやフランスでは召命促進のためにDVDを制作したりして宣伝をしているそうです。スイスでは『みんなのための司祭たち 楽しみ方はあなた次第』(Pretres au service de tous: a vous de jouer!) という題のDVDで、「4名のスイス人司祭が極めて人間的な次元で人と出会ったり、話を聞いたり、祈ったり、そして・・・スポーツと音楽もする」そうです。今後召命が増えると思うか、とこれを見た感想を聞かれたある人は「このごろは、神父様たちは映画にも出演するんですねぇ」と答えたそうです。

 何故、カトリック教会では、第2バチカン公会議後、召命が激減してしまったのでしょうか? 「マニラの eそよ風」第279号では、カトリックの司祭職について考察しましたが、召命の激減は、第2バチカン公会議以後、カトリック司祭とは何かすら分からなくなってしまった、ということと関係があるのではないでしょうか? 第2バチカン公会議の前と後では司祭像がどのように変わってしまったのでしょうか?

 第2バチカン公会議以前には、聖ボナヴェントゥーラも大聖アルベルトも、聖トマス・アクィナスもトリエント公会議も、司祭職まず第1にそして主要にキリストの御聖体に、そして副次的にキリストの神秘体(=教会共同体)に結びつけ、それに秩序付けて考えてきました。司祭は何よりもまず天主の司祭であり、人となった天主イエズス・キリストの宗教、すなわち天主教の司祭です。司祭は天主の礼拝のために存在する特別な人間であり、罪の贖いと赦しのための十字架のいけにえを天主に捧げるためにこそ存在する人間です。司祭は御聖体を聖変化の言葉をもって全実体変化させるという、天使さえも権能を委ねられた特別な存在です。司祭は私たちにイエズス・キリストを与えるが故に、天主の御母聖マリアのような存在であり、聖母が1度だけしたことを、司祭は何度も繰り返すことのできる存在です。このように司祭は天主に聖別されたものであるが故に、聖なるものでなければなりません。平信徒よりも聖なるものでなければなりません。

 聖トマス・アクィナスは、信徒よりもより大きな内的成聖が要求される(requiritur major sanctitas interior)と言います。

 「天主の糧を捧げるものとして聖なるものでなければならぬ。・・・司祭は聖別されたものと考えねばならぬ。彼らは天主の糧を捧げる者だからである。司祭は聖なるものである。司祭を聖別するのは主なる私であって、私は聖なるものだからである。」(レビ21:6-8)

 第2バチカン公会議では、司祭は何よりもまず人間のため天主の民の「奉仕」のために存在する、と観点が180度革命的に転回しました。第2バチカン公会議の新しい司祭像によれば、キリストの神秘体という共同体の善のために存在し、それを得るための主要な手段として御聖体があることになっています。「叙階の秘蹟が第1にそして主要に、御聖体に秩序付けられており、その結果として天主の栄光とキリストの神秘体という共同体のための聖寵を得る」ということと、「叙階の秘蹟が、第1にそして主要にキリストの神秘体という共同体の善のために秩序付けられており、御聖体はそのための主要な手段だ」ということは全く別のことであることにご注目下さい。何故なら第1の主要な目的と副次的な結果や手段とがひっくり返っているからです。

 司祭はいけにえを捧げる者と言うよりもまず「天主の御言葉の役務者」であり、従って、司祭は天主の方にと言うよりも、むしろ信徒の方に向かっていなければなりません。天主との一致、敬虔、信心、離脱心、超自然の聖寵と徳、ということよりも「人間関係において当然にも高く評価されている諸徳」(『司祭の役務と生活に関する教令』3)をまず身につけなければならないのです。そして「絶えず研究を続けて、世とあらゆる意見の人との対話において自分の役割を正しく果たすことができるよう努力しなければならない」(『現代世界憲章』43)のです。

 従って、人間の奉仕のために社会活動をし、社会的に疎外されこの世で餓え渇く人々のために、人間の尊厳と人権のために立ち上がり戦うことが、すなわち「司祭」となるのではないでしょうか。そして、この世と共に、この世の中で、この世のために生きるのが「司祭」なら、司祭が独身でいる必要はどこにあるのでしょうか? 


 『教会憲章』と『現代世界憲章』との論理に従う『司祭の役務と生活に関する教令』によれば、司祭は天主の民のために秩序付けられて叙階される、とどのつまり(『教会憲章』によれば天主の民とはすなわち人類のことですから)人類のため、人間のペルソナのために秩序付けられて叙階されるのでしょう。従って、司祭は、人間による人間のための人間の司祭、つまり「民主教」の司祭となり果ててしまうのではないでしょうか。だからこそ日本にいるほとんどの司教様たち、世界中のほとんどの司教様たちは「現代の司祭は、司祭とは何か、司祭とはいかにあるべきか、司祭は何をなすべきかと問いかけ、自らのアイデンティティーに不安を感じ、新しい司祭像を求めてやまない」と分からなくなってしまっているのではないでしょうか。

 そして全世界で青年達は、そのような新しい司祭像に魅力を感じず、恐るべき召命の危機が現代の教会を襲っているように思われます。


 至聖なるイエズスの聖心は、賛美せられさせ給え!
 至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!
 イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!
 主よ、我らを憐れみ給え!

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母マリアよ、我らを憐れみ給え!

 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
 アルスの聖司祭、我らのために祈り給え!
 聖ヨハネ・ボスコ、我らのために祈り給え!

 日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
 聖なるコルベ神父よ、我らのために祈り給え!
 日本で働いておられた聖なる宣教司祭たちよ、我らのために祈り給え!
 天のすべての天使、聖人達よ、我らのために祈り給え!

 主よ、我らを憐れみ給え!!!
 主よ、我らを憐れみ給え!!!
 主よ、我らを憐れみ給え!!!

 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!


 文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)