第262号 2004/10/19 アルカンタラの聖ペトロの祝日
アヴェ・マリア! サンティ神父様の思い出 昨日10月17日聖ルカの祝日に、修道院長のソリマン神父様ともう1人の私たちと一緒におられるモンシニョールと私とで、ICUにいるサンティ神父様のもとに行くと、神父様は呼吸器を外しておられました。私たちに気づくと微笑まれ、いろいろとありがとう、と感謝されました。呼吸器が外されたので声を出せるようになっていました。 ソリマン神父様が、神父様に「白血病の完治」を願ってノベナの途中だという話しをすると、神父様は感謝され、頭のハゲも治るかと聞かれました。それは意向の中に入っていないと言うと、神父様は、自分はその意向を含めている、と言って微笑まれました。神父様によると、この5日間は大変苦しく、体全体が痛み、地獄だったが、少し楽になったと言われました。 神父様は、カトリック教会のため、罪人の回心のため、教皇様のため、聖母の汚れ無き御心に対して犯される罪を償うために、苦しみを捧げていること、苦しくて長いお祈りは出来ないけれども「イエズス、マリア、ヨゼフ、助けて下さい!」と射祷を繰り返していたこと、この地上で地獄を味わったけれども本物の地獄はこれと比べたら甘っちょろいだろうこと、地獄の永遠の苦しみを考えたら罪は犯すことが出来ないこと、などを話されました。私たちが早く退院して、また教会でミサ聖祭とお説教をして下さい、地獄の説教をして下さい、というと、天国の話しもしたい、と言われました。 サンティ神父様が、今日は何月何日か、自分はいつから入院しだしたのか、と尋ねたので、今日は10月17日で、8月22日の夜から入院している、と教えました。すると、そのことを思い出して、ああ、そうそう、8月22日には新しいアメリカ人司祭であるレスター神父様の初ミサがニュー・マニラであって、自分がお説教をしていたこと、司祭の義務、司祭の尊厳、司祭は苦しまなければならないこと、天主の御旨に従順であるべきこと、を説教していたこと、そうしたら自分が説教したとおりに自分がこうなってしまったこと、を話されました。そして最後に「願え、さらば与えられん」というのは本当だね、と言って微笑まれました。
振り返ってみると、1996年8月15日付で、フィリピンのニュー・マニラの修道院にクチュール神父様が任命され、インドとスリランカの2つの修道院と含めてアジア管区になりました。私たちは新しい長上のために霊的花束を準備してそれをもって歓迎しました。 クチュール神父様はこの贈り物に感激され、その年の10月の間、天主の御母聖マリア様に100万回の「めでたし」の祈りを捧げよう、と信徒らに呼びかけ、10月31日には天地の元后である童貞聖マリア様に200万を超える「めでたし」の祈りの霊的花束が捧げられました。その数日後、天主の御母からの御礼であるかのように、サンティ神父様が荷物を持って私たちの修道院に来られ、以来私たちと共に働くこととなったのです。 幸いに、サンティ神父様は私に大きな信頼を寄せて下さり、ご自分の話をよくして下さいましたので、幾つかサンティ神父様のお話をさせて下さい。 サンティ神父様は1940年3月、フィリピンのブラカン生まれで、まだ神父様が母親のお腹にいた時父親を亡くしておられます。子供の頃は腕白でケンカばかりしていたそうです。サンティ神父様がまだ青年だった頃、マニラのトンドと言う地区である司祭のお手伝いをして教会で寝起きをしていて働いていたそうです。そこにおられた主任司祭は生ける聖人のような立派な司祭で、教区民から深く愛され尊敬されていたそうです。その神父様の推薦を受けて、サンティアゴ・ヒューズ青年はマニラの聖カルロ神学校に入学しました。 その当時は第2バチカン公会議の最中であり、直後であり、カトリック教会はまずその神学校で大きな混乱を感じていました。サンティアゴ・ヒューズ神学生は、神学生の生徒会長でしたが、神学校のなかでも進歩的な教授の司祭らは、神学生らを巻き込んで神学校の内部での革命を進めていました。彼らは聖カルロ神学校から保守的な教授陣を追放し、それができなければ神学校を閉鎖しようと企んでいました。 その時に、教授や神学校を守るために1人で立ち上がったのがサンティアゴ・ヒューズ神学生だったのです。ある時に神学生らが進歩的司祭を含めて非合法の「神学生全体会議」を開いたことがありました。サンティアゴ・ヒューズ神学生はそれのことを偶然知り、会議に参列してその内容をノートに記録していたそうです。 会議は、保守的で有名なマニラのロス・サントス枢機卿を攻撃し、教授らを非難し、神学校の運営方針を攻撃し、最後に閉校すべきであると全会一致で決議され、それがローマに報告されるという内容でした。会議が閉会しようとする時、サンティアゴ神学生は手を挙げて発言の許可を求めてのち、こう発言したそうです。自分は、この聖カルロ神学校の生徒会会長であるが、自分は呼ばれなかった、従って、この会議は最初から最後まで無効で非合法である。自分はこの会議の議事の内容を記録してある。これに基づいて自分はローマに報告書を書くだろう、等々。 多くの神学生は神学校を退学し、教授らも辞めていったそうです。聖カルロ神学校にはサンティアゴ・ヒューズ神学生を含めて数名しか残らなかったそうです。聖カルロ神学校は人員の不足のために廃校の瀬戸際に追いやられました。 サンティアゴ神学生の報告書はローマに提出され、パウロ6世はたとえ一握りの神学生であっても神学校を廃校してはならない、と決定しました。そこで、神学校はかろうじて運営を続け、今に至っています。しかしロス・サントス枢機卿はこれを機に非常に苦しみ衰弱されていったそうです。 サンティアゴ神学生は1970年、新しいマニラのシン枢機卿によって司祭の叙階を受けましたが、同級生らはほとんど神学校を止めていってしまったために、その年の叙階はサンティ神父様を含めて2名しかいませんでした。 サンティ神父様は、自分の母親に対する特別な愛情を持っていました。司祭になっても母親にだけは孝行を尽くしたい、母親の死には立ち会って、全ての秘跡を授けてから逝くのを見届けたい、それを許して欲しい、とイエズスにお願いしていたそうです。ところが、司祭叙階6ヶ月後、アンティポロ司教区で働いているサンティ新司祭のところに母死亡の連絡が届きました。亡骸はケソン・シティーの聖ルカ病院に安置されているとのことです。突然の知らせに、直ぐに病院に駆けつけました。道すがらロザリオの祈りをひっきりなしに唱えていたそうです。 母親の遺体がおかれている部屋には、直ぐには行く勇気がありませんでした。そこで病院の小聖堂に行って跪いて長い間次のようなお祈りをしたそうです。 「イエズス様、御身はご自分のお母様に孝行を尽くしたではないですか、そして模範を示して下さいました。しかし、私は自分の母に秘跡を授けることさえも許されませんでした。私は御身にあれだけお願いしていたのに! イエズス様、私は今から母の告解を聞きに行きます。母に終油の秘跡を授けます。イエズス様、いいですね!」
長い祈りを終えると、静かに立ち上がってお母様の置かれている部屋まで行ってドアの前で立ち止まったそうです。もう一度、イエズス様に「イエズス様、今から、入りますからね!」と言って部屋に入って「お母さん」と呼ぶと、お母様が「サンティ!」とお答えになったそうです。 クチュール神父様のノベナの提案が出た後に、私もICUに横たわり苦しむサンティ神父様の耳元でこう言いました。 「サンティ神父様、神父様が昔お母様になさったように、私たちも神父様の奇跡的な回復を私たちの主イエズス・キリストにお祈りしますからね。」 サンティ神父様はアンティポロ司教区に属する司祭で、聖ヴィアンネー神父様とトンドの聖なる司祭をいつも模範にしていました。神父様はいつもスータンを着ていました。1975年のアンティポロ司教区の司祭たちのための黙想会の記念写真を見ると、司教様を含めて全ての司祭らが私服を着ているのに、サンティ神父様だけは白いスータンを着ているのが分かります。同僚からは「司教様」とからかわれていたそうです。 ある日は、アンティポロ市の副市長さんが危篤という連絡を受けたそうです。しかしサンティ神父様がロザリオの祈りのグループの婦人たちを引き連れて副市長さんの家に来た時にはもう手遅れで、医者から死を宣言されたばかりでした。涙を流す家族の中を、サンティ神父様はロザリオの祈りのグループの婦人たちにロザリオの祈りをするようにと命じました。自分もロザリオの祈りを皆と一緒に唱えました。副市長が息を吹き返して終油の秘跡を受けることが出来るように、と一生懸命お祈りしたそうです。数時間が経ちましたが、何の変化も起こらなかったそうです。 こんどはサンティ神父様は、数名の婦人に副市長の体をマッサージするように命じて、その他はロザリオの祈りを続けたそうです。とくにサンティ神父様は「聖母マリア様、ロザリオの名誉のために、是非、私たちの祈りを聞き入れて下さい!」と願ったそうです。しばらくすると額に赤らんだ点が現れ、それがじわじわと顔中に広がり、副市長は起きあがりだしました。サンティ神父様は彼に食べ物を与えて、その後に告解と終油の秘跡を授けたそうです。 各地から親戚が葬式のミサ聖祭に与るために副市長の家に来ていたところでした。翌日、副市長の家族は一同揃って神父様のミサ聖祭に与り、御聖体を拝領したそうです。その午後、副市長さんは、サンティ神父様に「じゃあ、もう行きます。」と言って目を閉じ、永遠の休息に入っていったそうです。 サンティ神父様は、カトリック教会の信仰の危機について、特に聖職者の信仰の危機についてよく知っていました。トンドの聖なる司祭を真似して、教会と司祭のあるべき姿を追求していましたが、そうする度に、熱くて誰にも触ることが出来ない「ホット・ポテト」とか、「ルフェーブル派」とかと呼ばれていました。「ルフェーブル」とは誰か知らなかったのですが、サンティ神父様はきっとすばらしい人に違いない、と思っていたそうです。 サンティ神父様の任命は、「助任司祭」あるいは「訪問司祭」でした。神父様のご年齢なら主任司祭を任されて当然でしたが、神父様が「頑固」だったのでほとんど脇役でした。司祭よりもずっと若手の司祭が主任で、サンティ神父様に「私はキリストではないから告解を聞かない」と言うのでサンティ神父様に告解はほとんど任され長い行列が出来ていました。神父様はヴィアンネー神父様の真似が出来て幸せだったと言っています。聖ピオ十世会を知らなかった時は、自分1人で闘っているのだと思っていたそうです。 神父様はサント・ドミンゴ教会のドミニコ会司祭であった故ピニョン神父様を自分の教会に招待して、聖伝のミサを捧げてもらったりしたそうです。聖ピオ十世会のことを聞き、ひそかにニュー・マニラにある聖ピオ十世会を偵察に来たこともあったそうです。1996年、アンティポロ司教区の司教様が、サンティ神父様にこう要求しました。 「うちの教区ではもう神父様を所属させているわけにはいきません。どこの教区でも修道会でも良いから、新しい所属先を探して下さい。」 サンティ神父様は、そこで聖ピオ十世会のドアを叩くようになったのです。それ以後、サバティカル(安息年)を受けて、私たちの修道院で働いておられます。アンティポロ司教区の司祭名簿には、サンティ神父様の名前は海外留学、研修中の司祭の1人として、正式に「聖ピオ十世会に出向」となってさえいます。 サンティ神父様は、私にとって、大変良い模範であり友です。私は多くのことを学びました。 神父様の貧しい人々に対するいたわりの気持ち、動物を含めて弱者に対する思いやり、神父様の司祭としての経験、本では学ぶことの出来ないものばかりでした。 自分のためにはもったいなくて何も買うことが出来ないのだけれども、他人のためには自分のものをどんどん与えてしまうサンティ神父様。真夜中であろうと、自分が病気であろうと、苦しむ人がいると直ぐ出かけていく神父様。数十名の孤児や貧しい家庭にせっせと仕送りしている神父様。 8月に入院した先の病室からでも、その時入院したばかりのある貧困な婦人のために献金を集めようと電話を掛けつづけていた神父様。・・・。 まだ書きたいことはたくさんありますけれども、それはまたの機会にします。サンティ神父様がまた笑顔で天主のため、救霊のために、活躍されるようになることを祈りつつ。
兄弟姉妹の皆様の寛大なお祈りに心から感謝します。 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) |