マニラのeそよ風

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第315号 2005/12/03 証聖者聖フランシスコ・ザベリオの祝日

ザビエル

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 こんにちは!お元気ですか。

 今日は聖フランシスコ・ザベリオの祝日、聖母の初土曜日ですね。

 「よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。また、人は、命の代りになにを与えることができよう」(マテオ16:25)と聖イグナチオに言われた若き聖フランシスコ・ザベリオは、キリストに従おうと決心しました。

 「まず神の国とその正義とを求めよ。そうすれば、それらのものも加えて、みな、お与えくださる。」(マテオ6章)

 聖イグナチオはその著『霊操』の最初「原理と基礎」の中でこう言います。

 「人間は、私たちの主なる天主を賛美し、敬い、仕えるために、そしてこの手段によって自分の霊魂を救うために創られた。この地上のその他のことどもは、人間のために、人間が創られたその究極の目的を達成するために人間を助けるために創られた。

 従って、人間これらの地上のものを、人間の目的に達成するために有益である限りにおいてそれを使用し、それらが人間にとってその障害となる限りにおいてそれを取り除かなければならない。・・・」

 私たちの周りにあるものすべては、野の花々、山に棲む動物たち、海に動き回る魚の群などは、その精巧な完成された動きと行動と生活様式を持って、私たちに知恵深い全能の天主がましますことを語っています。

 天主は、人間を創造されました。

 人間は、永遠の幸福を得るためにこの地上に創られました。

 私たちカトリックの教えの中には、この私たちを愛する創造主天主と、永遠の至福である天主を得るためにこの地上に生きる人間という現実が染み通っています。

 人間は、生まれてから死ぬまで、人間は真の福楽をえるために、自分のあるべき姿を実現させるために、それを追求して止まないものです。誰もが生まれた瞬間から、本性的に幸せであることを、真に幸せであることを望んでいます。

 そして人間の真の幸せは、人間の究極の幸せは、究極の原因である天主に到達して初めて得られるのであり、それ以外のものごとでは、本当の意味において人間を満足し尽くすことは決してできないのです。何故なら、それらは時間においても物理的空間においても限りがあるからです。何故なら、それらは目的へと到達するための手段として創られたにすぎないからです。

 人間は、究極の幸せ(つまり天主)に到達するために、そのすべての人間的な行為において天主を目標とすべきです。これが、天主に光栄を帰すということです。人間は自由選択能力を持っています。従って、人間的な行為は、もっともささいのないことであろうとも、すべてに意味があります。何故なら、人間が自由に、天主のために、それをなすからです。すべての行為は、天主のためになされ、人間を天主に近づけるか、あるいはそうではなく天主から人間を遠ざけるか、です。

 すべての行為は、真の天主を目的としてなされるか、そうではないか、です。天主を愛するためになされたか、そうではないか、です。その時、もやはそのどちらでもないということはありえません。

 つまり、私たちには、天主以外には、究極の目的はないのです。すべてはこの究極目的のためになされるか、否か、です。従って、すべてはこの究極目的に秩序付けられるべきなのです。すると、この地上のことは、たとえどれほど高貴なことであっても、究極目的への手段にすぎなくなるのです。

 人間は、この地上から天国へと階段を上るかのようです。階段には秩序があり、窮極的に最終的にこの階段は永遠の至福にまで登り詰めています。もしこの階段を上らないのなら、天主以外の別の方向に進もうとするなら、人間はその究極目的に到達し得なくなってしまいます。

 従って、カトリックの世界観には、カトリックの人間的活動観には、ここからここまでという限度がありません。個人生活、家庭、政治、経済、商業領域は、純粋に宗教的といわれる領域と同じく、天主に向かっているのです。すべての人間的な行為・活動は、天主へと向かう倫理的な活動であって、言ってみれば「天主へと向かう宗教的な行為」となるべきなのです。

 祈るのも、労働するのも、勉強するのも、商業活動をするのも、食べるのも、楽しむのも、眠るのも、すべては人間をして永遠の至福直感へと導くべきものとしてあるのです。言い換えると、すべての人間的な行為は、「祈り」となるべきなのです。

 すると、この地上のすべてのものは、すべての人間的な手段は、人間をして天主へと導くか否かによってその是非が問われることとなります。天主へと窮極的に向かわないなら、カトリック信者はその行為を実行することができません。例えば、経済活動では、コストをできるだけ下げる、という原理があります。ビジネスマンとしては、工場が必要とする原料をできるだけ安い価格で入手しなければなりません。しかしカトリック信者として、経済原理よりも高い別の原理と対立しないように気をつけなければなりません。例えば国益に背くとか、安全性が保証できないとか、その他いろいろの原理です。もしすべての観点から、天主に向かうものである時、初めてそれを行動に移すことができます。

 カトリックにとって、地上のものは手段であり、手段としてそれを望むのみならず、手段としてそれを所有し、手段としてそれを使用すべきなのです。自分の肉体の健康な維持と隣人の救済のために所有し使うのです。その時、地上の富は善となります。もしも地上の富が手段ではなく目的になってしまうとすると、そして永遠の究極目的を到達するのを妨害する程それに心を奪われてしまうとすると、地上の富は悪となります。

 私たちカトリックは、地上の富に信頼をおかない、というよりは、私たち原罪を持って生まれてきた自分自身、人間に信頼をおかないと言うべきでしょう。

 「銀と金は、霊魂の善に関する限りにおいて、善でも悪でもない。それをよく使えば善になり、悪く使えば悪となる。それを得ようと心痛するのはさらに悪く、それだけを追求するのは最悪である。」(聖ベルナルド)

 「お金の中にどっぶり浸かり頭の上に耳の上にお金がある者は、金に溺れる哀れな者たちだ。聖なる人はそれを踏みつけ、それを足台にし、それを支配する。私たちは多くの聖人たちが極めて裕福であったと読む。彼らはこのお金の塔の上に上り、この山の上に立ち、天主の近くにまで上がった。聖なる者たちはお金を持てば持つ程、お金の上に立ち、それを上り、天国に近づいた。それを天主に感謝し、そのために天主をより多く愛した。」(福者ジョルダノ・ダ・リヴァルト)

 悪とは、富の所有にあるのではなく、富を人生の究極目的とすることにあります。「人間のために手段として創られた地上の富」という考えは、従って、私的所有権を正当化します。それと同時に、この地上のものは、私一人だけのものではなく、全ての人々のために創られていますから、私的所有権には、別の高貴な義務を付加させます。多くを持つものは、皆の利益のためにそれを使うということです。裕福なものはその富を持てざる人々を援助するために使うということです。愛徳の原理は、自然の秩序に反しないばかりか、自然を完成させ、キリスト教文明の一部となります。

 天主こそ私たちの人生の中心であり、目的であり、天主以外のすべてのものごとは、天主へと近づくための手段なのです。体にとって霊魂の正常な機能のために必要とする限りにおいて、自分の肉体の健康な維持のために、あるいは充分にそれを持たない隣人のための肉体維持の手段のために、地上のものを使うのです。地上の富は、天主からの賜物ですから、天主からのものといつも考えていなければなりません。

 私たちは、「世俗の気づかいと富の誘惑とにみことばをふさがれて」(マテオ13章)しまわないように、注意しなければなりません。「自分のために、この世に、宝をつんではならない。ここでは、しみと虫とがくい、盗人が穴をあけて、盗み出す。あなたたちは、自分のために、天に宝をつめ。そこでは、しみも虫もつかず、盗人が穴をあけて、盗み出すこともない。あなたの宝のある所には、あなたの心もある。」(マテオ6章)

 人間がこの地上で生きていくためには、この肉体を維持するために、地上のものが必要です。私たちは、合法的な手段によって、必要なだけを、得る義務がありそれは正しいことです。正義と誠実と節度がなければなりません。この地上のものは、少数の貪欲な人々だけのものではなく、全ての人々のために創られていますからです。地上の資源には限りがあるからです。地上の資源獲得が、人間の究極目的となったり、あるいはそれをあまりにも熱烈に獲得しようとしてその他の霊的なことを忘れたり、あるいは将来それが不足するかもしれないと極度に心配しすぎたが故になされたとしたら、それは合法的とは言えなくなります。それは貪欲と傲慢の印となります。(これは中共が現在、全世界で展開している政策のようです。)

 シエナの聖ベルナルディーノは、隣人の利益のために新しい事業によって富を蓄えるのは、豊かになりすぎるのを恐れて何もしないで無益にいるよりも好ましいと言っています。ピオ11世教皇も「天主の掟を遵守し、他人の権利を尊重し、自分の所有物を信仰と良き理(ことわり)に従って使用するのなら」、富の増加を求めるのは合法的であると言います。ただしさらに豊かになるための富の追求、より大いなる権力の追求のためだけの財産の蓄積は、貪欲であり傲慢と言えるでしょう。

 カトリックにとって、富の蓄積のためだけの労働なら悪ですが、将来予想される必要をまかなうため、あるいは自分の地位を良くし隣人と祖国に利益となるために働くのは善となります。「私たちが先に命じたように、落ち着いてそれぞれの仕事につき、手ずから働くように努めよ。それを自分の誇りとしなければならない。そうすれば、外の人にたいしては名誉のある生活がいとなめるだろうし、他人に頼る必要もなくなる。」(1テサロニケ4章)

 前置きが長くなってしまいました。もう一度、私たちの主の御言葉を聞きましょう。

 「よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。また、人は、命の代りになにを与えることができよう」(マテオ16:25)

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!


 ◎ さて 日本語サイト リンク 知的生活の模倣 のウェブマスターさんが、兄弟姉妹の皆様のために2006年の典礼暦付き能率手帳を作ってくれました。東京での聖伝のミサの時に、ミサ聖祭におこしになっていた兄弟姉妹の皆様はすでに入手されたと思いますが、A6サイズ(文庫版の大きさ)の大変良いできで、一週間分が見開きになっており、左が予定表、右がメモ帳です。ご興味がある方は、ウェブマスターさんに直接ご注文なさってください。一冊あたり1000円のカンパだそうです。12月の大阪のミサ聖祭の時には会場に、私が10部お持ちします。

 愛する兄弟姉妹の皆様、そしてこれから婚姻の秘蹟によって結ばれようと準備をしている兄弟姉妹よ、私たちは、「カトリック家族とその敵について」の続きを黙想しましょう。

 今回は (19)カトリック家族の敵: 酒酔い (その2 酩酊は人間の自然本性に反する罪) をお届けします。ごゆっくりどうぞ。

 聖母の汚れ無き御心よ、日本のために祈り給え!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(19)カトリック家族の敵: 酒酔い
 (その2 酩酊は人間の自然本性に反する罪)


◆酩酊は人間の自然本性に反する罪である

 酒に溺れる罪は自然に反する。何故なら、これは肉体を冒し、霊魂を腐敗させ、人間の内にある天主の似姿をけものの似姿にするからである。

 悪魔は人間を無数のやり方で誘惑する。これは事実である。悪魔は人間をして、さまざまなやり方で天主の掟に背かせることができるかもしれない。しかし悪魔と言えども、天主の法が人間の中に、その理性とその愛と自由において据え置いた天主の似姿を奪い去ることはできない。

 傲慢の悪魔は私たち人間を攻撃するかもしれない。しかしたとえ悪魔に誘われて傲慢ちきにふくれあがった鼻持ちならないような男にも、理性と愛と自由という天主が人間に備え給うた偉大な機能は持ち続ける。何故なら、人間は天主の似姿だからである。

 天主の似姿は人間にある。人間の知性、愛、自由こそは、悪魔と言えども冒すことのできない人間本性の本質に当たるものだ。旧約の時代に主は悪魔に言った。「よし、おまえは私のしもべヨブをおまえの手にまかせる。彼の持ち物をすべておまえの手にまかせる。彼の足の裏から頭の先まで悪性のはれ物で苦しめて良い。甘えは彼の財産と子供をすべて奪って良い。ただし彼の命は取るな。」

 全能の天主は地獄の悪魔どもにこう言っているようだ。「おまえは、地上の人間をどのような罪に誘っても良い。ただし彼が人間であることは奪うな。人間は人間のまま残る。」

 ただし悪魔の例外が一匹いる。この悪魔だけは、それによって私たちが天主の子となる成聖の聖寵を私たちから奪うのみならず、私たちからそれによって知覚することができる知性を奪い、それによって私たちが愛する愛情、そしてそれによって私たちが行為する自由をさえ奪うことができる悪魔である。この悪魔は私たちが人間であることさえも失わせてしまうことができる。天主の敵のみならず、人間の本性の敵でもあるこの悪魔はいったい何であろうか? これは不節制という恐るべき悪魔である。

 その他の悪魔どもは人間をして霊魂を滅ぼさせることができるかもしれない。これらの悪魔どもは、人間をして天主の全能をあざけらせ冒涜させる。成聖の聖寵の作り主である天主を冒辱し、霊魂は聖寵を失う。

 ところが酒飲みの悪魔だけは、天主にこう挑戦する。

 「おお、主よ、あなただけが自然本性と、超自然の聖寵の創り主、泉、源である。しかしここには一体どんな聖寵の痕跡があるというのか? 私はあなたに挑戦する。ここにいったいどんな人間の痕跡があると言えるものがあるか、全世界に向かって挑戦する。言ってみよ。」

 読者諸賢よ、酒飲みを見てみよ。彼が酒場から酔いつぶれて出てくるときの「天主の似姿」を見よ。彼はこの酒場で、飲み食いの感覚という最も動物的で卑しいものに溺れてしまった。彼は、貪飲貪食の悪魔の「祭壇」に自分の霊魂を置いてきた。悪魔の中でも最も低俗な悪魔の祭壇に、この人は自分の理性と愛と自由を捧げてきた。

 彼を見よ! 彼の足はよろめき、感覚はなく、すっかり酔いつぶれて酒場から出て来た! 彼の人間らしさはどこにあるのか? 天主の似姿はどこに見つけ得るのか? 彼は考えることもできない。かれはろれつの回らない舌でまともにものを言うことも出来ない。考えをまとめることもできない。赤子じみて、彼の口から出るのは、天を呪う言葉、言っては生けない言葉だけではないか! 彼の愛はどこにあるのか? 彼は愛することもできない。この酒に溺れきった心を、聖なる気高い愛は動かすことはない。彼に来ることができるのはせいぜい不潔への悪魔だ。彼にはこのような状態になってさえも、貞潔に背く罪だけは愛することができる! 最後に、彼の自由はどこに行ったのか? 何故彼は歩くことも立つことも自律することもできないのか? 幼児が彼のところに来て彼を押したら、彼は簡単に倒されてしまうだろう。彼には自由意志が麻痺してしまっている。もし天主の似姿が、人間の知性と心と意志とにあるのなら、私は言わねばならない、これはもう人間ではない。彼は人間性を横に捨て去り、動物性を自分のものとした。野獣性を受け入れた。彼は人類の恥である。彼はライオンのように唸り、叫びたて、ロバのようにはね回る。彼は豚のように汚物の中に転がり込む。彼はいったい何というけものだろうか? 彼は豚だ。いや豚よりもひどい。酔っぱらいよりも不潔で汚らしい動物が一体どこにあろうか? 酔っぱらいの思うことも言葉も行為も、不潔そのものだからだ。

 酔っぱらいの男も女も最も忌み憎むべき自然に反する罪を犯したのだろうか? 彼らは一体いつ自らを獣以下に置く罪を犯したのだろうか? それは彼らが酩酊の悪徳によって理性を失った時ではないだろうか? 町をうろつく酔っぱらいを見てみよ! 酔っぱらいにとって道は狭すぎるようだ。彼の足はその怪物のような身体の重さを支えきれない。千鳥足で倒れ込む。自分の吐いた汚物で体を汚す。犬は彼のところに来て、彼を見て匂いをかいで尾を振る。そして去っていく。犬は彼を自分の同類だと思ったのだろうか? 犬は歩ける。しかし彼は歩けない。犬は自分の家に帰っていく。しかし彼は帰れない。

 これが天主の似姿なのだろうか? 決してそうではない! 彼はもう知性を失ってしまったのだから、天主の似姿ではなくなってしまった。聖霊は何と言っているか? 人間が誉れを失う時、つまり知性を失った時、人間は盲目となった。聖霊は酩酊者を感覚のない野獣と比較している。酒に酔う人間は、天主の似姿ではなく、野獣だ。

 この記事は、
外国語サイト リンク The Sinner's Return To God The Prodigal Son, By: Rev. Michael Mueller, Chapter 2 を参考にしました。

(つづく)


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【ノベナへのお誘い】

◎ 11月29日から12月7日までは、聖母マリアの無原罪の御宿りの祝日までのノベナ(九日間の祈り)があります。このノベナに愛する兄弟姉妹の皆様をご招待いたします。

 アジア管区では今年は管区長のクチュール神父様のご意向で次のようになります。

(1) 日本語サイト リンク 聖母の連祷
(2) 「童貞聖マリアに対する教皇聖ピオ10世の作った祈り」
日本語サイト リンク「マニラの eそよ風」212号 をご参照下さい。)
(3) 呼祷「原罪なくして宿り給いし聖マリア、*御身に寄りすがる我らのために祈り給え!」(三回繰り返す)

◎ 12月8日の無原罪の御宿りの祝日 その日には、
聖母の汚れ無き御心に聖ピオ十世会アジア管区への奉献(奉献文は、次の
日本語サイト リンク「聖ピオ十世司祭兄弟会を童貞マリアとその悲しみに満ちた汚れ無き御心に奉献する祈り」 の中の「聖ピオ十世会」を「聖ピオ十世会アジア管区」に代える)を更新します。


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