マニラのeそよ風

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第307号 2005/10/19 アルカンタラの聖ペトロの祝日

アルカンタラの聖ペトロ

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 まず、改めて、10月の聖伝のミサのスケジュールをハイライトしたいと思います。

【大阪】2005年10月22日(土曜日) 聖母の土曜日(4級)白

新大阪丸ビル本館(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」
◎ 午前9時30分 ミサ聖祭(トマス小野田神父)
◎ 午前10時10分 ミサ聖祭(聖ピオ十世会アジア管区長 クチュール神父)
◎ 午前11時:聖ピオ十世会総長 フェレー司教様による歌誦ミサ:11時
○ 午後12時半頃より:フェレー司教様の講話会

【東京】2005年10月23日(主日) 聖霊降臨後第23主日(2級)緑

東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
○ 午前9時 ~ 10時20分: 悔悛の秘蹟
◎ 午前9時半 ~ 10時20分: 聖伝による堅振の秘蹟
◎ 午前10時半: 聖ピオ十世会総長 フェレー司教様の司式による荘厳ミサ
○ 午後2時半: フェレー司教様による講話会  
○ 午後5時: グレゴリオ聖歌による晩課
(主日の晩課の羅和対訳のプリントをご希望の方は、sunday_vespers_Lat_Japというファイルが富士ゼロックスのネットプリントにアップされております。セブンイレブンに設置されているコピー機でプリントアウトなさって下さい。プリント予約番号は XQPU9XNP です。A4サイズで 7ページです。プリント料金210円は、自己負担でお願い致します。10月26日まで有効です。)

 司式司教による荘厳ミサですが、

 (1) 【集祷文の直前のPax vobis】

 栄光頌(グロリア)が歌い終わると、司式司教は会衆に Pax vobis と歌います。いつものように司式者が司祭なら Dominus vobiscum となるのですが、司教様の場合は、ここで Pax vobisを歌ます。会衆はいつものように Et cum spiritu tuo. と答えます。

 その後に司教様は、集祷文を歌います。2005年10月23日は、宣教の主日なので第二集祷文が加えられます。

 (2) 【最後の祝福】

 司式司教が Dominus vobiscum を歌うと、助祭が Ite missa est を歌います。会衆はいつもの通り、Deo gratias を歌います。

 Deo gratias の後で、助祭、副助祭ら全員が同時に跪きますから、そうしたら会衆の皆様も祝福を受けるために跪いて下さい。

 司式司教は最後の祝福を与えます。

 司教の祝福なので、Sit nomen Domini benedictum とまず司式司教が歌います。

 会衆は、Ex hoc nunc et usque in saeculum と答えます。

 司式司教:Adjutorium in nomine Domini. 【ここで司式司教は十字架の印をするが、これは司教だけがする。会衆はただ次のように答えるだけ。】

会衆:Qui fecit caelum et terram.

司式司教:Benedicat vos Omnipotens Deus, Pater+ et Filius+ et Spiritus+ Sanctus! 【ここで

司教が十字架の印を3回するが、会衆は一度だけ十字を切って次のように歌って答える。】 会衆:Amen!

祝福の後、式長の指示に従って皆が同時に起立します。

 (3) 【最後の退場の時】

 司式司教は、会衆を祝福しながら退場します。会衆は片膝をつきながら祝福を受けて下さい。祝福を受けた後にまた立ち上がります。


 さらに、霊的花束のための多くの「霊的花々」をありがとうございます。枯れも萎れも腐りもしないこれらの花々を午後の講話会の後に、フェレー司教様にお渡ししたいと思います。

 この花束の中には一度も聖伝のミサに与ったことのない方々、今回初めて霊的花束のために私のもとにメールを下さった方などの祈りと犠牲がたくさん込められています。

====引用開始====
 霊的花束ですが、ロザリオの祈り全てと聖マリア・聖ヨセフの連祷をお捧げします。司教様がこられるまでのつもりでしたが、ロザリオは毎日しておりますので、必要なら聖伝のミサが解禁されるまででも。
ただし、毎日3環はとても時間がないので、来日以降は1環に勘弁してください。
====引用終了====

 別の方からは、

====引用開始====
 あと、今回の意向で特に現在努力している事は、朝晩の祈りを、最低でも「公教会祈祷文」の「朝の祈り」と「夕の祈り」を欠かさない、余裕があれば祈祷書中のほかのお祈りも唱え、更に深い黙想に潜心するようにしています。それから、自宅と会社とのエレヴェーターを使わない事、どちらも地上約3階ですが、毎日階段の上り下りをする際に、意向を持って「めでたし」や「お告げの祈り」を唱えています。また、折にふれて、聖書や聖人伝、「キリストに倣いて」、「ロザリオの信心」、レオ13世の「けんそんのしおり」などを読んでいます。ざっと以上ですが、今後も更にお祈りをお捧げします。
====引用終了====

 フェレー司教様にお渡しする数字の数には、このように兄弟姉妹の皆様のいろいろな愛と祈りが込められているのです! このような敬虔な努力を知り、私は感動、感謝、感激せずにはおれません。このような兄弟姉妹の皆様と知り合えた恵みをこころから天主に感謝します!

 では、愛する兄弟姉妹の皆様、そしてこれから婚姻の秘蹟によって結ばれようと準備をしている兄弟姉妹よ、すこし間があいてしまったのですが、私たちは、「カトリック家族とその敵について」の続きを黙想しましょう。

 今回は(13)フェミニズムは宗教問題である をお届けします。ごゆっくりどうぞ。

 聖母の汚れ無き御心よ、日本のために祈り給え!
 聖ピオ10世、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(13)フェミニズムは宗教問題である

 今まで私たちは世俗で普通「フェミニズム」と呼ばれているものを考察してきた。何故なら、この世は「フェミニズム」とか「ジェンダーフリー」とかは宗教とは全く無関係であると信じているからである。しかしカトリック信者は、もっとよく知っているはずである。

 ユートピア的な図式は、社会の中において新しい仕組みが考案され、それは人間の罪深さの結果から全員を保護すると必ず考える。しかし現在に至るまでそのような試みは全て惨めにも失敗してきている。そしてそれは必ず失敗することになっていた。家庭は天主を起源としてる。従って、家庭は原罪を負った人類に最善のものである。家庭生活の失敗は、男と女の罪深さに由来する。家庭の失敗は、天主の計画上の欠陥では決してない。人類は全体として完成させられるのではなく、人間のそれぞれのペルソナが完成させられるだけである。しかもそれはカトリック教会を通して天主から来る聖寵によってのみ可能である。

 教皇レオ13世は、とうの昔に既に何故私たちの文明が崩壊しつつあるかを明確に説明していた。

 「天主ご自身によって創立されたカトリック教会を、生活から切り離し、立法から切り離し、青少年の教育から切り離し、家庭社会から切り離そうとすることは重大で致命的な誤謬である。真の宗教が追放された国家は、うまく運営されることは決してない。」(インモルターレ・デイ)

 フェミニズムは、私たちの文明の崩壊の原因であり同時にその兆候である。ドン・アンスカール・ヴォニエ(Dom Anscar Vonier, 1875 - 1938)という偉大なベネディクト会修道大院長は、その著『天主的な母性』の中で次のような預言的な言葉を書いている。

 「真の文明は、母性に対する態度によって吟味される。人の心が、母親の尊厳に対してデリケートさに満ちあふれていないなら、人間的な感情の本当の精錬された状態ではありえない。従って、母親となることが避けられていたり卑しめられている所には真の文明は有り得ない。」

 フェミニズムは、母性を拒否し卑しめることにより、まさしく西洋文明の破壊者である。

 女性の本性と使命を相応しく理解すると、キリスト教を拒絶する人々の言うことが理解できなくなる。キリスト教だけが、もっと正確に言うと、汚染されていないキリスト教だけが、今まで言われてきた全ての誤謬に対して立ち向かうことが出来る。ペーター・ヴスト(Peter Wust, 1875 - 1940)というドイツ人カトリック哲学者は女性の形而上学的使命について書いているが、彼はこのことを理解したようである。

 「フェミニスト運動は、この四、五十年続けられてきたが、それは私には単に西洋文化の一般的大変動の一部であると思える。ただしその中には極めて遺憾に値するそして痛々しいものがある。存在の本質それ自体を攻撃する革命的傾向を暗示する現代女性の何かがある。解放と放埒の要素が、私たちを不安にさせるフェミニスト運動にはある。そして形而上学的な観点から言うと極めて危険である。・・・この要素は、全ての要求のしぐさ、それ自体で本当の女性らしさを横に押しのけ、私たちが「男の腐ったの」(これは「女の腐ったの」に対応する男性の奇形である)と呼ぶ霊魂の特定の奇形を現すしぐさとして、フェミニスト女性の下に見分けることが出来るかもしれない。

 ここで私たちは誤解をしてはいけない。女性の偉大な特権は、奉仕することができるという権利である。この本質的な奉仕は、その最も深い意味において、母性と言われている。私が奉仕と母性とを本質的な女性の理想であると言うと、フェミニズム理論の信奉者が私に何と言って怒鳴り出すかを私はよく知っている。奉仕と母性とが女性の理想だと夢見るものは、現代ではすぐに田舎もの無知とか古代のロマンチックとか、少なくとも百年時代遅れと罵られる。

 しかし男は家庭においても公的生活においても、第一の権威的な地位を占め続けなければならない。男性はこの地上において天主の永遠の父性を代表している。男性の心は「終わり無き未知」にのめり込み続けている。そして、女性の歴史的使命は、女性自身の特性によって、男性をそこから引き出し、生活の聖なる祭壇へと家庭へと連れ、男性をその意志と知性の遠心力運動から救い出すことである。事実、求心力運動も存在する。つまり内的性、家庭性、継続性、安全性など女性の霊魂の最も偉大な性質を決定づけるもの、特に女性の形而上学的、普遍的母性が、その求心力である。

 女性は人類の道標である。女性は私たちの最も高貴な可能性の成就にまで私たちを導くことが出来る。女性はそれと同時に、私たちを希望のない迷い道に導くことも出来る。それは、もしも女性が位階秩序を変えようとするなら、であり、歴史上それは悲惨な結果を必ず生んできた。歴史の始めと分岐点とは、その両者とも、二者択一の選択が提示されている。そこでは女性が選択をしなければならない。歴史の始めには、女性は男性の同伴として与えられた。しかし女性は悪の力の方を取り、男性の道を迷わせるのに貢献した。後に女性はもう一度現れた。今度は女性の最も天的な形を取って現れた。全ての画家の中でもフラ・アンジリコはこの完全な被造物(聖母マリア)を最も素晴らしく描き出している。天使は聖母マリアに天主の使信を伝え、その小さな聖母マリアの部屋において、人類史の流れはもう一度元に戻された。天主ご自身は(人間的な言い方をすれば)主の使い女の「はい」という返事を聞かれた。この「はい」は、天主をして人類の運命を変えることを可能にした。天の高みから地の最も離れたすみに至るまで、全生命はこの救いの答えを聞いていた。「はい」の答えは来た。そしてその中に母性の本質が含まれていた。「われは主の使い女なり。仰せの如く、われになれかし。」

 ゲルトルード・フォン・ル・フォール(Gertrud von Le Fort, 1876 - 1971)という別のドイツ人女性作家は、『永遠の女性』という本の中で雄弁にも女性に関する時を超えるカトリックの立場を述べている。
(ゲルトルード・フォン・ル・フォールについては、
日本語サイト リンク マニラの eそよ風 第250号
日本語サイト リンク マニラの eそよ風 第300号
を参照のこと。)

 「天主に対して身を委ねることは、被造物が所有している唯一の絶対の力である。」

 「女性がもっとも深く自分自身であるところではどこでも、女性は自分自身ではなく身を委ねたものとしてある。そして女性が自分を委ねるところではどこでも、女性は花嫁であり母である。修道女は礼拝と憐れみの業と宣教に従事し、「マザー」という敬称を付けている。修道女は、この敬称を童貞母として付けている。」

 「女性が身を委ねることをもはや望まず、自分を栄光化することを求める時、破滅が必ず来る。最も深い自己の委ねに対応して、その反対の完全な拒否の可能性もある。これは女性の形而上学的神秘の否定的側面である。女性の拒否は何らかの悪魔的なものを表示し、そのように感じ取られる。」

 「もし偉大な個人的才能の源泉を見いだしたいと思うなら、息子から彼らの父親へと辿っていくべきではない。そうではなく彼らの母親に辿らなければならない。事実は、無数の有能な才能に満ちた男たちは、それらを母親から譲り受けたからだ。」

 「偉大な男は、非常にしばしばたいした子供を持っていない。男は自分の力を自分自身の行為に使う。しかし女性は自分の力を使わずにそれを子供に伝える。」

 「女性が聖であればあるほど、ますます彼女は女性らしくなる。」

 「もはや天主にたいして崇敬へと向かわず、天主に責任感のない文化は、深い洞察によれば、女性の現存を失っている。」

 「母となることは、母親らしく感じることは、特に助けとより所の無いものに対して向かうこと、地上の全ての小さきか弱きものに対して愛を持って助けを持ってかがむことを意味する。」

 「女性が子供に対する権利がないこと、ただし子供の母親に対する権利のみがあるという事実を認めることは、この世にはいわゆる女性の職業或いは天職にたいする権利というものは存在しないこと、ただしこの世は子供の女性に対する権利を持っているという別の事実を認めることに対応している。現代に関わる別の事実を認めることに。精神の母親らしい態度が全く欠如していること以上に、現代世界の状況をより深く悲劇的に示しているものはない。」

 「大動乱の時は、旧式のもののみならず時を超える所有物さえも放棄してしまう危険に簡単に陥る。ここでこそ女性の霊的母親らしさによって、主要に女性がバランスを確立するように求められている。時を超える女性はその民の時を超える所有物の保持者である。他方で、女性の霊的母性の衰退ほど、文化の失墜に効果的に貢献するものはない。」

 「修道女が「マザー」であるという教会の概念は、母である童貞女であり同時に童貞女である母である聖母マリアに分かちがたく結びついている。」

 そして、それから丁度50年後、やはりドイツ人のラッツィンガー枢機卿は彼女の言葉をこうこだまさせている。

 「童貞であると同時に母であるその天命をもって、マリアは私たちの時代を含むあらゆる時代の女性たちのため、創造主が意図されたことに光を投げかける。もっとはっきり言えば、おそらく何よりも ---- 私たちがよく知っているように ---- 女性の本質そのものが脅かされている私たちの時代を照らしている。マリアの童貞性とその母性は、女性がそこから切り離され得ない崇高な運命に、女性の秘義を根付かせる。」(『信仰について』 p 141-142)

以上は次の記事を参考にした。
外国語サイト リンク http://www.sspx.ca/Angelus/2002_September/Feminism_As_Antichurch.htm
SSPX Canada: Feminism As Antichurch Part

カトリックの婚姻と家族については次の記事も参照されたい。
日本語サイト リンク FSSPX Japan: カトリックの家庭(1)
日本語サイト リンク FSSPX Japan: NICE IIの家庭観

(つづく)