第300号 2005/08/30 リマの聖ローザの祝日 アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、 「マニラの eそよ風」 250号 では、ゲルトルード・フォン・ル・フォールについて言及しましたが、今回はやはりゲルトルード・フォン・ル・フォールの書いた『永遠の女性』を紹介したいと思います。『永遠の女性』は、「まえがき」のあと、3部に分かれておりそれぞれ、「永遠の女性」「時間の内における女性」「時間の外にある女性」に分かれています。 今回は、その内の「まえがき」と「永遠の女性」の部分をご紹介します。その他の部分については、おって機会を見つけてお知らせする予定です。最初、前書きを見ると何か難しいような感じがするかもしれませんが、読み進められますと、次第に理解されると思います。深い内容ですので、ごゆっくりお読み下さい。 この日本語訳は、フランス語版を元に、既にある日本語訳を参考にしながら訳しました。天主様の祝福が豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 永遠の女性ゲルトルード・フォン・ル・フォール 著 はじめに女性は象徴であるこの随筆の目的は、女性の意味を解放することにある。これが考察するのは女性の心理学的あるいは生物学的な役割、歴史的や社会的役割ではなく、象徴(シンボル)的役割である。私たちが行こうとする道は、読者にとっても論を待たない困難さを提示する。象徴の言語は、かつては、どこででも生ける思想によって知られた普遍的な言語であった。今日では論理とその抽象的概念がこの象徴の言語を完全におしのけてしまった。そこで、読者に象徴というものの主要な性質を思い起こさせる必要があるように思われる。 象徴とは、しるし、或いはイメージであって、それらのおかげで現実と背後にある形而上学的本質とが、比喩として観られるのであって、抽象的に知られるのではない。象徴とは、目に見えるものにおいて、目に見えないものの言語である。象徴は、森羅万象と全ての本質に知解可能な秩序があり、この秩序は自らを現すことができることを信じることから、これらの事柄やこれらの本質を天主による秩序としてあることを信じることから発している。このことは正にそれが含む象徴の言語によるものである。 象徴は従って、それを担う主体を結びつけ、不可避的にその主体を支配し続ける。それはたとえ人がその象徴の意味をもはや理解しなくなってしまったとしても、あるいはその意味を否定したり退けたりしたとしても、である。象徴は主体が経験しやすい特徴や状態を表明するのではない。主体は一時的に支えとして象徴の役に立つ。しかし、主体がその形而上学的意味を堕落させることができたとしても、象徴は主体と共に堕ちはしない。 象徴の意味は必ずしも、個々の主体が経験によって知るところと一致するわけではないが、だからといって象徴が明らかにする本質的な要素が、この個々の主体だけに帰属されるわけではない。ここでは、象徴的な意味において考察された女性というものが、特別に宗教的な価値に方向付けられていると主張する。しかし特別に「女性的な」宗教性とか、女性が宗教において男性よりも優位に立つ、という意味では全くない。それはこの本の言わんとすることを正反対に誤解することである。言わんとすることは、宗教的価値のイメージを形成するのに相応しいこと、女性の比喩的な表現、である。イメージと表現とは(象徴が示すところであるが)まさしく、なによりもまず第一に、女性の宿命であり使命である。 女性的であるということの主要な意味は、その個別な観点についても真である。この書のいたるところで、物事の表れが女性的な様式で観られている。しかし物事の形而上学的な本質において現されていることについては、女性はそれをどのようなやり方でも自分のものとすることはできない。全ての本質の現れは、この世においては常に二重である。このことを理解するためには、男性的な生命が象徴的に最も高次な2つの形を取ることを考えてみれば充分である。つまり、英雄と司祭である。英雄も、憐れみというこの偉大な女性的徳を知っている。しかしこの憐れみを現すのは男性においてである。すなわち騎士は子供や弱者の防御を担うからである。 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロと共に、司祭は棄てられた子を母親のように胸に抱く。ゴンザガの聖アロイジオと騎士修道会は、男性的な徳として童貞性の重要さを宣言している。私たちは、また反対方向にものごとの二重の表れを認める。それはシエナの聖カタリナが自分の修道女たちに、男性的な徳がキリスト教的な徳であるが故に男性的徳を要求しているのを知る時である。そして私たちが聖母の連祷という、ドグマに染み込んだあの偉大な祈りに注意を払う時、特権的なやり方でこの現れを認めることになる。聖母の連祷はマリアを「愛すべき御母」(Mater amabilis)と呼びかけ、その直ぐ後で「力ある童貞」(Virgo potens)という。「ダヴィドの塔」(Turris davidica)と「正義の鑑」(Speculum justitiae)という男性的呼びかけは、「くすしきばらの花」Rosa mystica という女性的呼びかけに続いている。女性に関する全ての真理がそうであるように、女性の象徴の意味の届く範囲は、かの永遠の女性のイメージ、すなわち全被造物の代表であり男性と女性の代表である聖母マリアのイメージが参照されることによって照らし出される。 【訳註:▲ 聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ(1581一1660)は、フランスの聖人司祭。西南フランスの貧しい農家に生れ、少年時代から苦労を重ねたが、才分を見出されて学問をおさめ、1600年に司祭となる。1605年に海賊に捕らえられ、1607年までチェニスで奴隷となる。1612年、パリ郊外クリシーの主任司祭。司祭からなる「宣教会」と「愛徳童貞会」を設立する一方、フランス国内をめぐって貧者、病人、孤児など不幸な人々の救済に一生を捧げた。多くの慈善団体や病院の守護の聖人と仰がれている。 ▲ 聖アロイジオ(1568―1591)は、イエズス会士の聖人。イタリアに貴族の子として生れ、九才ですでに終生童貞の誓願をたてた。1585年イエズス会に入会、謙遜と従順の生活を送り、節慾と苦業にはげんだ。ローマのペスト患者の看護中に死んだ。彼の特質はその輝く純潔にある。信者青年の保護者。 ▲ 騎士修道会は、十字軍時代に騎士道と修道精神とを結合した男子修道会。聖地防衛とイスラム教に対する西欧の擁護、聖地巡礼者のための病院の設立などを目的とした。「神殿修道会」「イエルサレムの聖ヨハネ騎士修道会」などがあり、病人や貧者の救済に力を尽し、キリスト教的愛を身をもって示した。 ▲ シエナの聖カタリナ(1347―1380)は、聖女、童貞、神秘家。ドミニコ会第三会員。イタリアのシエナに生れ、幼児から天主の特別な恩寵を受け、種々の奇蹟が伝えられている。ペストが流行した時、率先して病人の看護に身を挺するなど多くの愛徳を示したほか、教皇グレゴリオ十一世の時、教皇聖座をアヴィニヨンからローマに戻すために天主の器となって大きな働きをした。常に祈りと苦業の生活にはげみ、神秘的な著書をあらわしている。33歳をもってローマで没。】 永遠の女性天主における決定的なイメージ被造物について永遠という概念を考えると、それはもはや私たちが話題としている被造物ではなく、唯一永遠である天主の永遠が語られる。迷妄に陥った時代、形而上学的本能を腐敗させるがままにしているような時代だけが、1つの被造物に、永遠の概念を当てはめることができる。そうすることによって、それが絶対的意味の永遠であれ、限りのない継続というよくある意味であれ、永遠がこの被造物を高める代りに、かえって無と化してしまうと気づくはずだからだ。永遠という光に身をおくと、被造物は自分が相対的なものにすぎないことを告白する。この告白においてのみ永遠は被造物に自らを認める。自己の時間的条件を解かれ、非時間的なる無条件的天主の前に姿を消す被遺物、それはまさしく非時間的なる無条件的天主に場所を譲るためである。今やこの非時間的なる無条件的天主に受けとめられ、もはや自分に固有の存在理由を現すことを止め、まさに永遠なるものの観念の反映、その似姿、その受け皿以外のなにものでもなくなるためである。浄め、宗教的聖別とは、これ以外の意味を持たない。この意味は、愛の意味と同じく聖性の意味である。またこれは死の意味でもある。私たちがここで「永遠の女性」についてあえて語るのは、まさにこの唯一の意味によってのことである。私たちは、経験的に知る女性の姿が、相対的に不変な特徴(つまり、言葉の狭い地上的な意味における永遠の特徴)の幾つか持っていると分析したり、移し替えたりしようとするのではない。私たちは、女性の形而上学的、全宇宙的な特徴、女性の神秘そのもの、女性の宗教的立場、その起源、天主におけるその究極目的を考えている。 私たちはこの領域に身を置き、自分勝手な個人的な解釈の誘惑を断ち切ろう。宗教的なことに何する肯定は主観的で自分勝手な印象が終わるところから始まる。 芸術だけが・・・さてしかしこの限界をひとたび超えても、どんな言葉で語るべきだろうか。私たちは常に形而上学的なものを、形象というヴェールの下にのみ、すなわち、私たちが再び時間的・相対的なものの地盤の上に立たされる時にのみ、把捉することができる。真に大いなる恩寵に恵まれた、真に偉大な芸術のみが、はかない形象の中に不朽なものを告げ知らすことができるのである。ところが、これを尋ねてみると、私たちはもう一つ他の事実を知らされる。すなわち、偉大なヨーロッパの芸術は、決して壮大なキリスト教的・カトリック的教義から切り離すことができず、それどころか、この芸術は時代を超えた作品において、まさにその司祭かつ証人となっているということである。ベートーヴェンの荘大なミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)が、今なお教会のクレド(信経)のもとに、教会自身が今日もはや集め得ない多数の人を集めているし、世紀を越えてなお、現代の異教徒達の目前にも、絵画や彫刻は贖いのドラマの証人である。この芸術に、ただ美的にだけでなく、宗教的にも問いかけるなら、偉大なカトリックの教義こそがこれらの芸術作品の命の中心、全西洋文化がそこに立脚する時代を超えた個人を超えた土台であると、そして芸術作品はたとえそのことを否定するとしても、この土台に連帯して留まると、告白している。 この世を奉献する力カトリックの教義が、今まで女性についてかつてなされたこともなかったような、最も力強い命題を述べたことを肯定する時が来た。これらの命題は、女性的な特徴の形而上学的解明をしようとしたその他のすべての試みを色あせさせ、神学の単なる考察にすぎないか、あるいは宗教的に内容や意味のないものとして現わさせる。教会は、婚姻の秘蹟において、すべての女性を教会自身と等しいとすることに満足しない。教会は更に、一人の女性を天の女王と宣言した。教会は、彼女を「贖い主の御母」、「天主の聖寵の御母」と呼んだ。勿論、これらの呼び方は、女性的な原理それ自体が人となったことを言うのではなく、「女のうちにて祝せられ」と呼ばれる、ただ一人の女性のことを、言っているのである。私たちはこのことを力を込めて強調する。しかし、この一人の女性は、たとえ女性的なものの象徴を無限にこえているにせよ、しかもなお女性的なものの象徴でもある。彼女のみが、女性の形而上学的神秘に形を与え、それを理解できるものする。 私たちは聖母マリアの教義に少し目を通してみたい。聖母マリアの生涯を描いた巨匠らを参照しよう。たとえはフラ・アンジェリコを。私たちはその最後の絵から始めなけれはならない。なぜなら、実はそれが最初の絵だからである。フラ・アンジェリコは、真の意味での予感を感じながら、自分の数々の作品において、後世における教義の発展を描いた。彼は最後の絵画において、つまり「聖母の戴冠」の絵においてはじめて、無原罪のマリアのその全ての輝きを描いた。歴史的には、聖母マリアの無原罪の御宿りは、もっと後で宣言されたにすぎないが、しかし形而上学的に見れば、無原罪の御宿りの玄義は聖母マリアの玄義の原初にある。無原罪の玄義がすべての最初にあり、それは創造の時の曙光の中に沈潜している。無原罪の聖母の教義は、人間が堕罪以前にどのようなものであったかを私たちに示している。それは、罪に汚される前の被造物の特徴を、人間性における天主の似姿を示している。この観点から、聖母無原罪の御やどりの教義宣言から、私たちのために特別な光が輝きでている。今から数十年前、つまり、教会のリズムにおいて、キリスト教的歴史哲学者ベルジャーエフ(Berdiaeff)が「人間像の崩壊」と宣言した時代の直前、この教義宣言の時の鐘は鳴った。私たちは、「無原罪の御宿り」の宣言と「人間像の崩壊」宣言とが同時代に起こったことの完全な意味を悟るためには、現代まで待たなければならなかった。 上記に述べたことから、マリアの教義が持つ計り知れない、極めて普遍的な意味が明らかになる。無原罪の聖母は、人間性における天主の似姿の理想的典型を提示しているが、この典型は、聖母マリアの受胎告知の場面にいて、目に見える実現を現している。聖母マリアが天使に答えた謙遜な「仰せの如くなれかし(fiat=フィアット)」という言葉は、贖いの玄義を全て含んでいる。何故なら、人間は自分の贖いのために、天主に対して、無条件な自己奉献の心構え以外、何ものも捧げるものがないからである。受胎において女性の役割は、受動的である。古代哲学は、この受動性を単に否定的なものと見ていた。しかしキリスト教の恩寵の秩序においては、受胎を肯定的かつ能動的に捉える。短い言葉のうちにまとめられてはいるが、マリアに関する教義は、被造物の贖いに対する被造物の協力という秘密を私たちに伝えている。聖母マリアの「仰せの如くわれになれかし」は、宗教的要素の特徴を啓示している。そしてそれと同時に、まさにそれが自己奉献であるがゆえに、女性の特徴を啓示している。つまり、「仰せの如くわれになれかし」は、人間性において宗教的なものが完成されるとはどういうことかの普遍的な概念を私たちにくれる。従って、マリアはただ宗教的崇敬の対象であるばかりでなく、聖母ご自身が、天主を礼拝する宗教的要素であり、女性を婚姻の観点から見た時のこの世の奉献力である。 聖母マリアの連祷も、教義的真理にも詩的にも豊かな多くの呼びかけの中に、聖母を「暁の星」と呼ぶ。暁の星は太陽に先だち、やがて太陽の光に没してしまう。マリアの胸に抱かれた天主の御子が、私たちの目を聖母に向けさせるとすれば、ご自分の光を彼女に拡げるからである。そして、この光の輝きにおいて、聖母は「天主の聖寵の御母」である。そしてこの光においてのみ、聖母マリアは「十字架の御母」であり「悲しみの御母」でもある。御子の栄光が聖母マリアを照らし、御子の苦悩は彼女を陰で覆う。苦しみのうちにおいても聖母マリアは自分自身のためにあるのではない。聖母は与えられた。御子と共に苦しむ女性である。共に苦しむ者は、また「共に贖う者」でもある。よく誤解されるが、この言葉はマリアが御母であること、贖い主の御母、贖いの御母ということを意味する。これはキリスト教史におけるマリアの場所を明らかにする。福音史家はたまにしか語らず、教会史は長い間なおざりにしているが、マリアに関する教義は、常にキリスト教信仰が大きな危機にさらされた時にだけにしか現れない。その基本的なドグマはエフェゾ公会議で宣言され、キリスト論に関するネストリウス派の異説排除の一翼を成している。(ネストリウス派はキリストにおけるペルソナの一致を否定した。)マリアは自分のドグマにおいてさえ、自分自身の為ではなく、御子を守るため立ち上るのである。 聖母マリアのこの世におられたときの人間的なお姿の心理的な詳細は、どんな歴史批判的方法や、どんな知的構築をもってしても、さらには、いかに深い愛をもってしても、明らかにされ得ない。それはいわば天主の神秘のヴェールに覆われている。だからこそ、その宗教的真理は天主の秘密においてのみ見いだされる。ヴェールとはこの世においては、形而上学の象徴だからだ。またヴェールは女性らしさの象徴でもある。女性らしい生のすべての最も偉大な状況を見ると、女の姿がヴェールでおおわれていることが分かる。このヴェールのおかげで、キリスト教の最大なる諸玄義の導入が、男ではなく、女によって準備されたのかその理由が明らかになる。キリスト御降誕の玄義のメッセージがマリアへ告げられ、それは、マグダレナへの御復活の知らせにおいて繰り返された。聖霊降臨の玄義については、女性的な純粋に受容の態度をとった人間を私たちに示す。教会自身は同じことを、ミサ聖祭の時と、婚姻の秘蹟の時に、福音側 [=祭壇の向って左側でありより高貴な側] に女性を置くことによって表現している。 形而上学的次元で考察しようと、あるいは贖いの次元の高みで考察しようと、カトリックのドグマは、女性の神秘の核心に奉献行為があることを教えている。この奉献行為の純粋な状態は全ての被造物を無限に越える。童貞聖マリアその人においてのみそれが十全に把握されうる。しかし、女性の姿のいろいろな種類の一段が私たちに提示するように、奉献には無限な多くの段階があることを考えると、自己奉献の断片をも見いだすことが出来る。女預言者シビラが童貞聖マリアの前に来たように、宇宙の神秘はいわば贖いの玄義に先立った。 【訳註:▲ ニコライ・ベルジャーエフ(1874-1948)は ロシアのキリスト者的宗教哲学者。キエフに生まれ、キエフ大学で自然科学と法律を学んだが、マルクスに傾倒して放校され、まもなく「社会哲学における主観主義と個人主義」を発表。1917年革命の直前に正教会の国家至上主義を批判して投獄され、革命後もモスクワ大学に哲学を講じたが宗教を弁護し、マルクス主義を批判して再度投獄の苦しみに合った。1922年ベルリソに亡命。後パリに定住した。現代ロシア正教の代表的神学者として現代西欧文明の精神的危機を分析した。「ドストエフスキーの世界観」等の著書がある。 ▲ エフェゾ公会議(431年)は、カトリック教会の第三回公会議。431年教皇聖ケレスティヌス一世の時、小アジア、リディアのエフェゾにおいて開かる。ネストリウスの異端を処罰し、キリストは天主性と人性をもつが位格はただ一つであること、マリアは天主の母であることを確認した。 ▲ 女預言者(シビラ)は、古代の女予言者。アジアのエルトレアに住んでいた。西暦二世紀頃のユデア人は、布教の目的でシビラ神託(預言の書)を作り、これは初期キリスト信者、特にグノーシス派に尊重された。】 何よりもまず、目に見えないもの
自然と動物 女性らしさという主題は、全創造の隅々まで響きわたっている。それほちょっとした前奏曲のハーモニーのように、よく肥えた耕地の上をかすかに響いている。母性が野生の世界からほとんど奪い取っている野獣の感動的なメスのうえに、この主題は響いている。婚約者や愛する妻の上に、それは響く。人間の母親たちの上にいとも高いところで、それは響く。母親達は一人一人、自分たちを照らす光を受ける。この主題は、放蕩的な愛人たちの官能の中にさえ認められる。この主題は、ごくわずかのつまらぬ贈物や、ほんのちょっとした、全く子供っぽい善意のしるしの上に響く。この主題は、それらを単に思い出しただけでもその上に響く。 それは自然の領域界から、精神的領域、超自然的な領域にまでも登る。女性が極めて深く女性自身であるところ、女性はもはや女性でなくなり、自分を捧げているところはどこでも、この主題が登る。そして女性が捧げられているところは、どこでも女性は妻であり母親である。 祈りや慈善や外国布教に身を捧げた修道女は、母(Mother)とよばれている。彼女は童貞なる母(virgo mater)としてそのようによばれている。口角泡をとばして、新しい永劫(エオン)を預言する女預言者シビラは、「将来の母」である。何故なら、預言とは母性の一形式にすぎないからだ。女預言者シビラがマリアに先立ったように、童貞聖マリアのあとには聖女らがつづく。原初の秘義を、いわばその起源の地に集めながら。従って、女性の成し遂げたもっとも驚くべき使命が、宗教的領域に関わっていることが、十分に納得できるだろう。シエナの聖女カタリナは教皇をアヴィニョンからローマへ連れ帰る使命を受けて、それを成し遂げた。聖女ジャンヌ・ダルクは、軍旗をさえ受けた。しかし、このように例外的な使命を任された時こそ、女性はそれをただ花嫁のように、すなわち、ヴエールのもとに行動するということは、極めて真理である。聖女カタリナも、教皇がローマへ帰還したとき、そこに居合わせなかったし、聖女ジャンヌ・ダルクは焚刑の薪束から立ち昇る炎の中で、そのヴェールを受けとった。ヴェールとは、常に、女性が持つ全ての偉大な使命の特徴的なしるしである。 ヴェールという象徴は、女性に、目に見えないものを帰属させる。目に見えない、とはつまり、愛、善意、憐れみ、心遣い、保護、その実体が現実にこの世には隠されていて、ほとんどの場合裏切られているものの全ての価値である。だから、女性の公生活への進出がはばまれている時代でも、女性の形而上学的な意味はそこなわれない。それどころか、恐らくそのような時代こそ、女性の知らないうちに、女性らしさの巨大な重みを、世界の天秤皿へ投げ込んでいる。 全ての堕落の責任すべての自己奉献において、永遠の女性の神秘から光線が輝いている。しかし、女性が自分自身を探すとき、この光線は消えてしまう。自分の個人的な特徴を強調することによって、女性は自分の永遠の像を破壊してしまう。女性の自己追求が女性の罪の根元に、エワの罪の根元にある。この罪の本性を正確に理解するために、霊と間隔とを対立させるだけでは不十分である。女性の堕落は、この世まで自らを低める被造物の罪ではない。そうではなくこの世から自らを切り離す被造物の罪である。何故なら、被造の世界の本質は、女性の本質と同じく、命じられた通りに動くことの出来る謙遜な状態である。創世の書の叙述によると、堕落はおいしそうな果実の誘惑から始まったのではない。知識への誘惑によって始まったのではない。堕落は、「汝ら天主の如くならん(eritis sicut dii)」という言葉、童貞マリアの「仰せの如く我になれかし」と対立するこの言葉によって始まった。 宗教的秩序において、真の原罪は女性の堕落によって完成し、従って、原罪とは何よりもまず女性の堕落を意味する。それはエワがまず最初に禁断の果実を取ったからではなく、エワがそれを女性として取ったからである。言い換えると、被造物は女性的実体において罪を犯した。何故なら女性は宗教的秩序において罪を犯したからである。これが、聖書がアダムと言うよりもエワのほうをより罪があるとしている理由である。 この場合、エワが最も弱かったから誘惑に陥ったというのは全く誤りである。聖書の創世の書における誘惑の叙述は、エワが男より強かった、男より優れいたことを明示している。この世の観点から見れば、男性は疑いなく、力の外的機能を備えているが、女性はその力の最も深い源泉に命令する。女性の弱さのために女性が敗北したことは決してない。その反対である。女性の敵が、女性の力を発見し、それを憂慮した時、女性は常に敗北した。これは当然であった。なぜなら、この世の最強の勢力が、利己主義的な支配を追求し自分を与えることに満足しなくなったその瞬間、必ず、破局が到来するからである。 退廃した母権社会の指導権をめぐっての女同士の闘争に関する陰惨な神話の中に、女性のもつ権力によって私たちはなおも恐怖を感じる。女性が最低最悪の裏切りをする可能性を持つことは、自らを完全に与え尽くすという召命との代価として常に存在する。女性の神秘は、その時、その否定的な面によって自己を現す。女性であるということ、女性の全本質が自己奉献の行為によって表現されるということでは十分ではない。女性であるということは全てを奉献する力と重なるとまで言わなければならない。女性のそれからの離反は、悪魔的な性質を持ち、悪魔的な印象を残す。 たとえ、エワが悪それ自体ではない、堕落した天使である悪魔によって、エワが男の前に罪を犯したのであって、その悪魔は男性形で語られる、としても、エワは左端とともに誘惑の力を分かち合っている。つまり、自分の個人的な思いを満足させる力、奉献の精神とは反対の力である。堕ちた天使が堕落した男より醜いように、罪の女は罪の男よりも遙かに醜い。女のドラマは、クライスト(Kleist)の「ペンテジィレーア」の中で、素晴らしく展閑されている。神話の中のメドゥーサとエリュンニエらの姿のうちにも、堕ちた女の恐ろしさを映し出している。 初代キリスト教徒らが魔女を信じていたことは、誤りに満ちていたが、その魔女信仰の実践的結果は恐るべきものであった。魔女信仰は、自分の形而上学的な運命に忠実であることを止めた女を前にして人間のもつ恐怖、あの身の毛もよだつ恐怖の正しさを物語っている。今日、女性の罪は、これ以上おぞましいものは無いほどの途方もない俗悪さとして実現化している。堕罪の歴史は絶えず繰り返されている。女性は全ての罪の根元的な責任を負っている。それは彼女が自分の膝の上で罪人らを育てた母親だからというためだけでなく、すべての罪は、男の罪であっても女の罪であっても、形而上学的に女性にだけ保留された領域において犯されるからである。 人間の歴史の初めに罪人が見いだされたように、時の終りにもまた、女が立つだろう。人間の黙示録的な姿は、男ではない。「終末の日々」は、本質的に、男がそこから姿を消す。むき出しの破壊的力に対抗して、男性的な権威が対立することがもはや不可能になる。聖ヨハネの黙示録は、反キリストを人間としてではなく、「深淵よりの獣」として描き出している。黙示録の文章中に人間と認められる唯一の姿は女である。すなわち、自分の使命に不忠実であった女だけが、この世を死と消滅とに陥れざるを得ない絶対的不毛となることができる。 【訳註:▲ クライスト(1777-1811)は、ドイツの大劇詩人。フランクフルトの名門に生れ、軍人となったが、その生活に耐えられず、二十二才の時軍職を退いて故郷の大学で哲学と数学を学んだ後、文筆生活に入り、処女作、悲劇「ローベルト・ギスカール」を書き、ゲーテ・シラーと相知ったが、彼の詩才を認めたのは僅かにヴィーラントのみであった。その後、十年問は漂泊流浪の旅と病気と創作に終始し、程々の苦難をなめ、祖国プロシヤが彼の憎悪するナポレオンと対露同盟を結ぶに至って、遂に死を決意し、ベルリン近郊ヴァンゼー湖畔でピストル自殺を遂げた。喜劇「こわれた瓶」「ペンテジィレーア」「ミヒャエル・コ―ルハース」「ハイルプロンのケートヒェン」「ヘルマンの戦」「ホンブルク公子」などがある。 ▲ 「ペンテジィレーア」(1808年)は、クライストの作。女族アマゾンの女王ペンテジィレーアは激しい愛惜と名誉慾から、ギリシア随一の勇士アキレウスと武力をもって争い、彼を自分の夫にしようと思うが情慾に負け、かえってアキレウスに征服されてしまう。すると彼女は矢を放ってアキレウスを殺し、犬と共にその屍を喰い、自らも胸に剣をさして死ぬ。 ▲ メドゥーサは、ギリシア神話に出てくる女性の怪物、三人姉妹の末で、翼と蛇の毛髪をもつ。ペルセウスに首を切られる。 ▲ エリュンニエ、ギリシア神話にでてくる復讐の女神達の名。ローマでフリエ(Furiae)と呼ばれる。冥府に住み、この世で悪事、特に近親者を殺した者に放しい罰を与えるという。】 性別の顔のない仮面女性の標語は「仰せの如くわれになれかし」、すなわち受胎を受け入れることを暗示し、宗教の言葉で言えば「天主の祝福への同意」であるから、受胎を拒む女性、天主によって祝福されることを望まない女性は、自分とともに必ず大きな不幸を引きずり込むことになる。これは生物学を超えて遙かに遠くにまで影響を及ぼす。拒否は下降線をたどるに引き替え、それと対応して奉献は上昇線に対応する。 アマゾン女族の悲劇的・英雄的な自己放棄と黙示録に現れるような拒絶との間には、一つの世界全部が枠取られている。男性は、支配すべき野獣的な力の前に従属する時、その人間的価値を失う。女性は、自ら娼婦となる時それを失う。「大いなる娼婦」は終末時代の黙示録的なしるしである。 娼婦は「仰せの如くなれかし」の線を根本的に打ち砕く。自分を与える代わりに、娼婦は、それを親密な背信という最も唾棄すべき形に取り替える。すなわち性的な売春である。私たちはこう言って全ての女性たちの中で最も哀れな彼女たちを裁こうとするつもりはない。ただ娼婦は、自分自身に既にその罰を担っているのである。娼婦は愛と謙遜の精神において協力することを放棄した。彼女はただ単なる一つの道具に成り下がることを受け入れた。そして道具は、自分を使うものを支配して復讐する。野性的な力に従属する男は、自分の本能を支配しようとして立ち上がる勝ち誇る「愛人 Mistress」を見る。絶対的な不毛性のシンボルである娼婦は、死の姿を思い出させる。男を手なずける「愛人 Mistress」として、性を売り物にした彼女は腐敗の支配だけを想起させる。 諸世紀の黙示録および諸文明の黙示録は、終末の黙示録の前に来る。私たちの生きている現代は、このことを十分に証明している。以前にはかつて聞いたこともなかったような現代の宗教的失墜は、女性らしさが私たちに提示する外観を通して垣間見られる。ヴェールが示すように、女性がヴェールを捨てたことは深いしょう著的意味を持つ。私たちがこれについて既に述べたように、女性は、その生涯の全ての偉大な行為において、私たちにはヴェールで隠されているように見える。婚姻の日の花嫁も、修道女も、寡婦も同じシンボルを身につけている。外に現れるしぐさは無意味なものでは決してない。外に現れるものは物事の実体から生じ出て、それはその本質を現している。この観点からものを見ると、今の流行のいくつかは単なる品のない裏切りに過ぎない。それらの流行は文字通り、女性を裸にするだけである。女性がヴェールを捨てたことは、常に女性の神秘の崩壊を意味する。 たとえそれが感覚の次元におけるものであれ、女性が自己を与えることを拒否する時、そして全ての礼拝(カルト)の中で最もいとわしいものに身を捧げる時、つまり自分の体の礼拝(カルト)に溺れる時、それは人類が前代未聞の悲惨を苦しむ時であるが、女性は自分の形而上学的な召命を全て失ってしまったという失墜の極度に達したことである。現今の流行でいえば、私たちを見つめるのは、女性らしい虚栄の子供っぽい無邪気な顔ではなく、くだらない幻覚を引き起こさせるような顔、つまり天主の似姿の絶対的反対である。すなわち、性別という顔のない仮面である。この仮面は、まさしく現代の天主無き人びとの象徴である。天主無き人びとには、この仮面の方が、憎しみと飢餓によって歪められたプロレタリアの顔よりももっとよく似合っている。 【訳註:▲ アマゾン女族は、ギリシア神話の好戦的女族。小アジアのテルモドン河附近にその国があったといわれ、トロイア戦争ではトロイア側についた。ペンテジィレーアはその女王。多くの説話がある。】 被造物は協力するそこで私たちはその出発点、つまり無原罪の御宿りのドグマによって明らかにされた純潔さにおける天主の似姿に戻ろう。 あるドグマを宣言する時は、いつも宗教が陥っているある危険に対応している。 既に見たように、その最も一般的な形式において、マリアに関するドグマは、被造物がその贖いに協力することを肯定する。 現代にとって、このドグマの宣言は、はかり知れぬ意義をもっている。 つまり、天主の恩寵は決して私たちに不足することないが、今日、被造物はますます天主の聖寵に協力することを拒否するように思われることである。 被造物が天主の聖寵に協力するという教義は、論理的に、マリアにおいて最も力強い助けを私たちに示している。これは危機における信仰が用いることの出来るような助けであり、宗教が後退することに対抗して勝利を収めるべき唯一の防御である。現代、教会が列聖した聖人達が非常にしばしばマリアの方を向いていたことは、偶然ではない。今日、全神学が聖母の「すべての聖寵の仲介者」というドグマを解決しようと力を注いでいるのも、偶然ではない。聖母の連祷がマリアを「天使の元后」、すなわち「戦いにおける聖ミカエルの元后」と呼び、「使徒の元后」、つまり聖母マリアなしには使徒的宣教も効果がない、と宣言し、「聖なるロザリオの元后」、人間の心の準備と同意がなければ祈りも存在しないと呼ぶ時、既にこのドグマを肯定している。マリアのドグマは、マリアにおいて成就した被造物の協力のことをいうだけではなく、マリアにおいて、全被造物が協力することを言及するのである。 宗教的悲惨、つまり人間が宗教を実践しないという悲惨さは、常に、大きな悲惨へと導く。おそらく、現代ではもはや天主を拒否する直後に天罰が続くということを信じなくなっているだろう。現代はもはや、組織の中心における混乱が、その組織の全ての外的機構をどうしても乱れさせないわけにはおかないという単純な自明の理を忘れてしまった。現代は、それにもかかわらず、この世に未だかつて提示されたことの無かったほどの最も壮大で最も恐ろしい証明が、この真理を証しているのを見た【訳註:多分に第一次世界大戦のことをいうのだろう】。不敬虔に対して勝利を収めるものとしてのマリアに対する信仰は、「耐えざる御助けの」聖母マリアに対する信仰としてその頂点に達する。 男性的な愚かさ女性は私たちに、もたらすという言葉の最も強い意味において、救いを「もたらした」。この命題は、宗教の領域に妥当するだけではなく、まさしく宗教の領域において妥当するが故に、またどこの領域にも妥当する。民族や国家が栄えるには、真の母親達を必要とする。この考えは、まず直接的に生物学的真理に対応するばかりでなく、より深い真理、すなわち、霊的世界が正しい意図を持つ男性で満足せず、母親をも要求するという、より深い真理にも対応する。 ここで道が交叉する。一方で、被造世界が、贖いに協力するのを拒絶したとするなら、他方において、これを自分のものにすると言い出した。世俗化した現代は、あたかも私たちが自分自身を作った創造主であるかのように、自分の救いを自分で足り遂げるという男性的狂気を犯した。この狂気は、なぜ人間が全てにおいて失敗したかを説明している。被造物は、決して贖い主ではない。被造物は贖いに参与しなければならないものである。被造物の能動的行為は、「受胎」を受け入れる以外には、創造されることに失敗する。何故なら、男性も、その精神が何らかの創造的な火花を思いつき精神に宿す時、謙遜と自己奉献において、マリアのしるしのもとにそれを受け入れているのである。さもなければ、男性は何も考えつくことはない。せいぜい彼は自分の理解できる精神を、そしてじぶんでは深い理解をすることが全く不可能な精神を思いつくだけである。確かにこの世界は男性的な力によって動かされている。しかしそれは言葉の最も深い意味において、女性のしるしのもとでしか、豊饒では有り得ない。被造物は、絶対的に、唯一の能力しか持っていない。それは天主に自分を奉献するという能力である。「主のはしため」(Ancilla Domini) だけが「天の元后」(Regina Coeli)である。被造物が真摯に天主に協力するところではどこでも、「創造主の御母」(mater Creatoris)「善き勧めを賜う御母」(mater boni consilii) が現れるのを見る。被造物が自分自身から離脱するところではどこでも、「愛すべき御母」(mater amabilis)「美しき愛の御母」が、この傷ついた世界を助け給う。諸民族が善意をもっているところではどこでも、「平和の元后」(Regina pacis)が彼らのために取りなすのである。 太陽に先立つあけの星この世の贖いは、超自然の世界の贖いのイメージに過ぎない。自然はいわば超自然的なるものの前奏曲を素描し、この前奏曲はまた存在のあらゆる領域に鳴りひびく。麦の種子の婚宴に自らを開く大地は、その最後の休息のうちに死んで行くものをも受け入れるために自らを開く。あらゆる生命は、奉献の行為を成就するために、奉献の行為において生まれる。しかし死んで行くものを受け入れる大地は永遠ではない。ただ大地は死んでいるものを永遠に返すだけである。死んで行くものそれ自体が、その復活の種子となるのだ。臨終を迎えるものの保護者である聖母マリア、「憐み深き御母」(mater misericordiae)は、二重の姿を持つ。死んで行く個々の者につきそう聖母マリア、亡び行くこの世界にもつきそう。聖母マリアは黙示録のマドンナでもあり、被昇天のマリアはその先がけ的なひとつのイメージに過ぎない。 これこそが、画家エル・グレコがその「無原罪の御宿り」の中で書いた黙示録のマドンナである。エル・グレコが聖母マリアの足下に描いた風景の、不安で壊れてしまいそうな美しさは、キリストの来臨を前にした世界の現実を呼び起こし、それと同時に、キリストの再臨において世界が消滅することをも預言している。聖パウロが私たちに言う、今なお常に「生みの苦しみにいる」被造世界の戦慄と苦悩を、彼は表現している。黙示録は単なる消滅だけではない。それは始まりでもある。キリスト者は再び来給う。この世を裁く裁き主は創造主の権能において現れる。黙示録のマドンナは、無原罪の御宿りであるが故に、私たちに新しい天と新しい地を約束する。 苦悩する者の保護者であり「憐れみ深き御母」である聖母マリアは、すでに「天主の聖寵の御母」(mater divinae gratiae)としてご自分を現す。私たちは「暁けの星」という主題を再び見いだす。つまり太陽の光において自らの姿を消すために太陽に先立つ「暁けの星」である。聖母の連祷は、天主の子羊(Agnus Dei)の足下にひれ伏すとき、突然マリアへの偉大な呼びかけを中断する。「永遠に女性的なる方」は、永遠の天主の御前で膝をかがめるためだけに「頂点へを目ざした」。創造主こそが無原罪の御宿りの究極の秘密である。贖い主が共贖者たる聖母の究極の秘密である。創られざる愛なる聖霊の栄光の後光は、冠であり、それと同時に究極のヴェール、童貞なる母(Virgo Mater)の頭上に置かれた永遠のヴェールでもある。 |