マニラのeそよ風

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第298号 2005/08/25 証聖者聖ルドヴィコの祝日

ファチマの聖母

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 8月の東京での聖伝のミサの際には、アジア管区長のクチュール神父様に来日頂き、私たちたちは心から天主に感謝いたします。また管区長様の来日に伴い、多くの兄弟姉妹の皆様の方々にはお世話になりました。特に信徒会長様、侍者団の方々、その他陰で裁縫をなさって下さった姉妹の方、ここでお礼をし尽くしきれるわけではありません。本当にありがとうございました。

 聖ピオ十世司祭兄弟会では、この夏にファチマへ償いの巡礼を計画しております。(日本語サイト リンク 第271号参照) そこで、今回は、クチュール神父様からのファチマへの巡礼に関するお知らせを申し上げしました。

 しかし私の耳の調子がアメリカに行って以来、芳しくなく、クチュール神父様の許可を取ってファチマ巡礼をキャンセルしなければならなくなりました。兄弟姉妹の皆様にはご心配をおかけ致しました。お気遣い下さるメールなどを頂戴し、感謝でいっぱいです。同僚の神父様がたや、神学校時代からの友人の司祭たち、またヨーロッパにいる親しい信徒の方々などと再会するとてもよい機会だったのですが、それも逃さざるを得ず、別の形で犠牲を御捧げることになりました。

 今回飛行機に乗る機会が減ったので、それだけ体にも精神的にもゆとりが出来たような気がします。天主に感謝! 聖母の汚れ無き御心に感謝!

 さて、聖ピオ十世会主催、償いのためのファチマへの国際巡礼は大成功に終わったとのことです。

 ファチマへの巡礼の写真は、次のサイトにありますので、ぜひご覧下さい。

◎ これはフランス語のページです。
外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/communic/presse/2005/fatima/page.php
 La Porte Latine - Fatima
外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/communic/presse/2005/fatima/fatima2/page.php
 La Porte Latine - Fatima No.2
外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/communic/presse/2005/fatima/fatima3/page.php
 La Porte Latine - Fatima No.3
外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/communic/presse/2005/fatima/fatima4/page.php
 La Porte Latine - Fatima No.4
外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/communic/presse/2005/fatima/fatima5/page.php
 La Porte Latine - Fatima No.5
外国語サイト リンク http://www.laportelatine.org/lpl/communic/presse/2005/fatima/fatima6/page.php
 La Porte Latine - Fatima No.6


 さて、昨日付で、聖ピオ十世会本部からの報道発表がありました。

外国語サイト リンク DICI
外国語サイト リンク La Fraternite

 以下に日本語訳をお送りします。ご参考までに。


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聖ピオ十世会本部からの報道発表

 聖ピオ十世司祭兄弟会総長、ベルナール・フレー司教は、2005年8月29日(月曜日)に、カステル・ガンドルフォにてベネディクト16世教皇と謁見する予定である。

 この謁見前には、いかなる宣言も無い。

 メンツィンゲンにて、2005年8月24日


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 また、この謁見の意味を理解するために、DICIにおけるフレー司教様とのインタビューを以下に引用します。

DICI : もしも教皇様と謁見が出来たら、教皇様に何をお求めになりますか?

フレー司教: 私は教皇様に、全ての人々のために全世界で聖伝のミサの自由を求めます。私たちの個人的な状況において、司教聖別のために言われた「破門」が誤りであったということをも意味します。これは、私たちが今後教義に関する話し合いをするときに切り離すことの出来ない、前提となるものです。全ては聖伝のミサの問題に限らないということをよく知っています。しかし、具体的なところから始めなければなりません。最初のことから始めなければなりません。これは進歩主義システムを壊す極めて深い効果的な突破口になるでしょう。これは徐々に、教会の中に、雰囲気と精神の変化をもたらすでしょう。

 ローマにいるある聖省の長官は、2000年の聖年の時に私たちの巡礼行列を見てこう叫びました。「やっぱり、彼らはカトリックだ。私たちは彼らのために何かしてやらなければならない」と。まだ教会にはカトリック信仰を保つ司教や枢機卿たちがいます。しかし悪はあまりにも力が強く、ローマはその悪を切り取る手術のメスを勇気を持って取ろうとしなくなってしまっています。

 教会は十字架につけられた私たちの主イエズス・キリストと同じ状態になるであろうと言うことを私たちはよく知っています。私はファチマの第3の秘密が教会の見かけ上の死に関することではないか、と自問しています。私たちが今生きているこの時代は、前代未聞の状況です。しかしよき天主様の聖寵は、まだ力強く働いています。私たちはキリスト者として生きることが出来ます。私たちは、カトリックの宗教はまだ存在していることを示すことが出来ます。そしてその信仰を生きることが出来ることを示すことが。この活ける聖伝の模範が、ローマと私たちとの関係において重要となります。

 何故なら、エコンはローマに反対していないからです。反対しているなどと言うのはマスコミです。私たちはベネディクト16世教皇様と、教会の劇的な状況についての認識を持っています。召命の失墜を見ながらこの認識においてどうして一致しないわけがあるでしょうか?昨年、アイルランドの首都ダブリンでは、新入学神学生が一人もありませんでした! イエズス会では、1,2年前、全世界中のイエズス会において7名しか誓願を立てた人はいません! しかしローマは皆が認識しているこの結果の原因までさかのぼって見ようとはしません。何故ならそれは第2バチカン公会議を疑ってかかることを意味するからです。勿論、私たちが改心させるわけではありません。改心させるのは天主です。しかし、教会の復興のために私たちは自分の持っている小さな石を運ぶことが出来ます。私たちは自分の出来ることをしなければなりません。聖伝が考古学的な状態にあるのではないことを、今日でも、聖伝が教会の普通の状態であることを、ローマに理解させなければなりません。

 私たちは教会当局に、第2バチカン公会議に関する神学的研究の成果を提出することも出来ます。これには時間がかかるでしょう。その後、司教や司祭たちに対して極めて大きな仕事をすることが待っています。私たちが思っているよりも更に多くの信徒の方々は、聖伝をすぐに受け入れる準備が出来ています。司祭たちにとっては、これはもっと難しいでしょう。第2バチカン公会議の時代を生きた人たち、古いことを全て捨ててしまった人たち、そして第2バチカン公会議の冒険に身を委ねた人らは、もはや元戻りは出来かねるでしょう。しかし若い人々はもっと聖伝に対して開かれています。

外国語サイト リンク http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1007&loc=Fr
 DICI: Parce que Dieu ne change pas
外国語サイト リンク http://www.dici.org/actualite_read.php?id=607&loc=US
 DICI: Because God does not change


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 では、愛する兄弟姉妹の皆様、そしてこれから婚姻の秘蹟によって結ばれようと準備をしている兄弟姉妹よ、私たちは、「カトリック家族とその敵について」の続きを黙想しましょう。願わくは、全てのカトリックの家庭において、母親が、聖母マリア様のような母になりますように! 聖ルドヴィコを生み育てた母親のように聖なる女性となりますように!

 今回は(10)女性中心フェミニズム をお届けします。ごゆっくりどうぞ。

天主様の祝福が豊かにありますように!


 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(10)女性中心フェミニズム

 この女性中心フェミニズムは、平等フェミニズム(ジェンダーフリー・フェミニズム)から抜け出して成長したものである。女性中心フェミニズムには、多くの名前があり、女性中心(ギノセントリック)フェミニズム、急進(ラディカル)フェミニズム、女神フェミニズムなどとも呼ばれる。このフェミニズムは別の極端に走る。つまり、男女の違いを強調しないという方向に進む代わりに、かえってこの違いを極端に強調し、女性の本性をより先鋭化させ再定義しようと試みる。

 女性中心フェミニズムは、「強い」女性、「野性的な」女性、「放埒な」女性など、一般に女性らしくない女性を賛美賞賛する。このフェミニズムも男女が相互に補完し合うものであると言う考えを排除する。

 女性中心フェミニズムは、男女平等にもはや興味を抱かない。そうではなく女性が男性よりも遙かに優位に立つと、戦闘的に宣言する。女性の理想とは、完全に自立・独立した女性であるとする。これによれば男性とは、女性という基本形からの逸脱に過ぎない。あるドイツ人フェミニストの本のタイトルは『男は自然の失敗作だ』である。あるいは別のフェミニストに言わせると、男性は「時代遅れの生命形態」あるいは「欠陥的病気」である。男を断ち切る会(Society for Cutting Up Men)の党宣言(マニフェスト)は、どのような手段をとって男性を根絶するかを詳しく説明している。フェミニストは、自分たちの生き残りを心配して、そのために男性根絶の追求を少しだけ緩和させてもいる。それによれば、極めて少数の男性は動物園で見せ物にするために、生かしておくことも許されるかもしれない、とある。

 平等フェミニズム(ジェンダーフリー・フェミニズム)であろうと、女性中心フェミニズムであろうと、この両者の立場は互いに相容れ合わない。しかし互いが矛盾していると言う事実にもかかわらず、この両者の熱心はほとぼりが冷めない。フェミニストらによれば、この両者の立場の違いによる分裂は「姉妹のけんか」にすぎない。しかしこの両者のフェミニズムのもつ次の共通点は、啓示的である。

 「最初から、女性運動においてレスビアンたちが中心的な役割を果たした。彼女らは普通、女性運動を維持し推進していく勢力であった。・・・フェミニズムとは理論であるが、女性らの同性愛はその実践である。」(Manfred Hauke, God or Goddess? Feminist Theology: What Is It? Where Does It Lead?, Ignatius Press, 1995, pp. 41)

 全てのフェミニストらが必ずしもレスビアンであるとは限らない。しかしフェミニズムと同性愛は緊密に結びついている。

(続く)