マニラのeそよ風

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第288号 2005/06/30 使徒聖パウロの記念

聖パウロ

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 聖ピオ十世教皇は、1908年8月4日、司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告「ヘレント・アニモ Haerent Animo」の中で、聖カロロ・ボロメオの聖職者に対する説教を引用しながら、カトリック司祭の聖徳の根元は御聖体にあると言います。

 「至愛なる兄弟たちよ、主なる天主が、私たちの手中に、いかに偉大な聖なるものをゆだね給うたかを思いみるならば、かかる考察は、聖会の奉仕に身を捧げた私たちにそれにふさわしい生活を送るよう、どれほどの力を与えることでしょう。聖主は御自らと同じく永遠であり、同等である御独子を私の手にゆだねられたとき、ゆだねられなかったものが一つとしてあるでしょうか?聖主は、その一切の宝、その秘跡、その聖寵をも私の手中におかれました。聖主にとって、もっとも貴重な人々の霊魂、ご自分の聖血をもって贖われるほど、ご自身よりも愛したもうた人々の霊魂をも、ゆだね給いました。人々のために、自由に、開けたてのできるようにと、天国さえも私の手にゆだねられました。では、これほどの聖寵をいただき、御いつくしみを受けながら、どうして聖主に対して罪を犯すほど忘恩者になりうるでしょうか?聖主に対して尊敬をかき、聖主ご自身のものであるこの体を汚しうるでしょうか?聖主へのご奉仕に捧げられたこの生涯、この位を汚しうるでしょうか?」
(日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius_x_haerent_animo.html)


■ ところで、トゥルーズにおける御聖体行列については、「マニラの eそよ風」日本語サイト リンク 282号でご紹介しましたが、それについての記事と写真が
外国語サイト リンク http://www.dici.org/dl/nouvelles/Nouvelles_93.pdf にも掲載されています。

■ また、報道によると、カトリック司祭の召命が激減しているため、イギリスではパブで広告を出して呼びかけているそうです。ノーコメント。

【こぼれ話】パブで神父募集へ=英カトリック教会が苦肉の策
2005年 5月30日 (月) 16:32 (時事通信)

乾杯のためささげられたビールジョッキ【ロンドン29日】 英カトリック教会は、神父募集の広告をパブやバーで使われるビールマットに刷り込む計画であることを明らかにした。神父の減少に歯止めが掛からないためだが、起死回生の策となるかどうかは不透明だ。。(写真は乾杯のためささげられたビールジョッキ)
 BBC放送によると、英国のカトリック神父は1990年に850人いたが、今年は600人に減少。さらに10年後には470人程度に減ると予想されている。
 このため、カトリック教会は神父募集の新機軸として、ビールマットの広告を利用することになった。また、地下鉄駅などでも募集のポスターを貼る計画という。
 イングランドやウェールズでカトリック教会の最高責任者を務めるオコーナー枢機卿は「現在、多くの教区が専任の神父がいない状態になっている」と指摘し、神父募集の新作戦への理解を求めている。〔AFP=時事〕
http://news.goo.ne.jp/news/jiji/kokusai/20050530/050529220038.n0ux29nv.html


 では、聖伝によるカトリック司祭と第2バチカン公会議の司祭とはどのように違うか、最終章を見てみましょう。


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第2バチカン公会議以後の司祭職
『司祭の役務と生活に関する教令』を読む

第2部 論理的結論

[6] 結論

 新約の司祭職を担うカトリック司祭は、御聖体のいけにえと直接結ばれ、それを第一の直接の存在目的としています。私たちの主イエズス・キリストが制定した新約の司祭職は、何よりもまず、まずイエズス・キリストの御体と御血とを聖別するために定められました。

 トリエント公会議は、その第23総会で「叙階の秘跡について」こう荘厳に宣言しました(1563年7月15日)。(これについては 日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini23.html を参照のこと)

 「(第1章 新約の司祭職の制定) いけにえと司祭職とは天主の計画によって結ばれており、旧約と新約の両時代に常に存在した。新約において、カトリック教会は主の制定によって御聖体の可見的いけにえが与えられたのであるから、その教会に新しい可見的、外的司祭職があることを認めなければならない(第1条)。こうして旧約の司祭職はこの新しい司祭職に変ったのである(ヘブライ7・12以下参照)。この司祭職は私たちの救い主によって制定され(第3条)、使徒とその後継者に、この司祭職によって、その御体と御血とを聖別し、ささげそして授ける権能と、罪を赦しあるいはつなぐ権能を与えた。このことは聖書に示されており、カトリック教会の伝承も常にそのように教えている(第1条)。」

 ピオ11世教皇は、「カトリック司祭職について」の1935年12月20日の回勅「アド・カトリチ・サチェルドチイ・ファスチジウム(Ad Catholici Sacerdotii Fastigium)」において、こう言っています。

====引用開始====
 トリエント公会議が教えているとおり(第22総会の1)イエズス・キリストは、最後の晩餐の間に、新約の犠牲と司祭職を制定されました。

 「イエズスは、永遠の救世のみ業を行なうため、十字架の祭壇の上のご死去によって、まさに御父なる天主に、ご自身を献げようとしておられながら、しかし、その司祭職は、ご死去と共に断絶すべきではなかったので(ヘブレオ7-24参照)渡され給うた夜(コリント前11-23参照)、私たちの天主なる主は、最後の晩餐の席上、至愛の浄配なる聖会に、今まさに十字架上で成就されようとしている有血の犠牲の再現となるべき・・・人間の本性にかなった・・・目に見える犠牲を残そうと思し召された。聖主はこの思い出がこの世の終わりまで残り(コリント前11-24以下参照)その効果が、日々私たちの犯す多くの罪の赦しに適用されることを欲し給い、ご自分をメルキセデクの位による、永遠の司祭である(詩篇109-4参照)と宜言されつつ、パンとぶどう酒の形色の下に、御体と御血とを、御父なる天主に捧げ給うた。聖主はそのとき新約の司祭に立て給うた使徒らに向かい、これを取るようにと差し出され、彼らと司祭職における彼らの後継者に向かい、「私の記念として、これを行いなさい」(ルカ22-19、コリント前11-24)というみ言葉によって、これを捧げることをお命じになった」のです。

 その時から、使徒と司祭職におけるその後継者とは、このマラキアによって予め告げられた「けがれない捧げもの」(マラキア1-11)を、天に向かって奉拳し始めました。この捧げものによって、天主のみ名は、国々の間に大なるものとなり、それ以来、この犠牲は、世の終わりまで恒久的に、地上のあらゆる場所において、昼夜を分かたず継続して捧げられることとなりました。

 これは、天主なる生贄の真の犠牲であって、単なる象徴ではありません。ここには、罪によってみいつを傷つけられ給うた天主と人類を和睦させる、ある現実の効力がひそんでいます。「何故なら、この捧げものによって、なだめられ給うた聖主(みあるじ)は、痛悔の恩恵と賜物とを賜わり、それが、いかにかぎりないものであろうと、全ての罪と罪過とをゆるされる」(トレント公会議第22総会の2)からに外なりません。

 同じ公会議は、その理由を次のように述べています。「いけにえは同一であり、今司祭の聖役をとおして捧げ給うものは、かの時、十字架の上でご自分を捧げ給うた御者である。違うのは捧げ方だけである。」(同上)

 ここにおいて、筆舌につくせないカトリック司祭職の偉大さが、判然として来ます。カトリック司祭は、イエズス・キリストの御体そのものに対して権能をもち、これを祭壇の上に奇跡的に現存させ、救い主キリストのみ名によって、天主の永遠のみいつに、限りなくみ心にかなうホスチアを捧げるのです。「ああ、何と驚くべきことよ!感嘆し、全く唖然たらざるを得ないことよ!」(金口聖ヨハネ『司祭職について』P.G.XLVⅢ.642)と金口聖ヨハネ司祭がいっているのも当然のことです。
====引用終了====

(トリエント公会議第22総会については、
日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini22.html を参照のこと)

 すべてはここにあります。ミサ聖祭からすべては来ます。カトリック司祭職の尊厳とその義務、特権、使徒職とその効力、それは御聖体への権能とミサ聖祭の効果から生じるものです。ミサ聖祭こそ、カトリックの宗教の中心であり、心臓です。

 聖伝のミサにおいて、カトリック司祭は大司祭イエズス・キリストの道具です。自由で知性を持った道具ですが、しかし道具です。カトリック司祭は、何よりもまず、私たちの主イエズス・キリストに従い、イエズス・キリストに従属するものです。司祭としての全存在、司祭としての霊性、聖性、偉大さ、義務、すべては司祭たるイエズス・キリストへの従属に結びつけられています。カトリック司祭は、人間へとではなく、イエズス・キリストへと向かっていなければなりません。

 だからこそ、旧カトリック教会法典では、聖職者は平信徒よりも、内的にも外的にもより聖なる生活を送らなければならないという義務が規定されていたのです(1917年のカトリック教会法典124条)。

 カトリック司祭は、御言葉の奉仕者であるよりも、むしろ祭壇でいけにえを捧げる司祭です。福音宣教の実りがもたらされる根元は、祭壇の聖なるいけにえから由来します。ミサ聖祭から、贖いの聖寵は流れ出るからです。何故なら、ミサ聖祭は十字架の犠牲を現在化させ、今ここで私の前で現実化させるからです。

 現在のカトリック司祭職と召命の危機において、解決策は一つしかありません。

 すべてのカトリック司祭らに聖伝のミサを返すことです。カトリック司祭らに祭壇の方に向かせ、御聖体の方に心と体と全生活を向かせることです。ただ偽善的に体だけではなく、すべての知性と愛と全存在を誠実に御聖体へと向かわせることです。カトリック司祭に本当のアイデンティティーを返すことです。カトリック司祭のミサ聖祭と十字架と犠牲を返すことです。

 カトリック司祭職を崩壊させるために、ルターはミサ聖祭を否定しました。
 カトリック司祭職を復興させるためには、司祭にミサ聖祭を、真の固有のいけにえである聖伝のミサに触れさせ、それを生きさせなければならないのではないでしょうか。

 司祭がかぶるビレタもラテン語も重要です。しかしもっと重要なことは、カトリック司祭がミサ聖祭を生きる、御聖体を生きる、ミサ聖祭を自分の生とする、十字架を愛する、ということではないでしょうか。私たちが求めるべきは、復古主義でも考古学主義でもありません。古代はこうやっていた、昔はこうだったから、復活させることを主張するのではありません。

 私たちが求めているのは、純粋なカトリック信仰です。それだけです。信仰を維持し、養うために必ず必要な、聖伝の公教要理、カトリック秘蹟、カトリック司祭職、カトリックのミサ聖祭です。そして天主の聖寵の助けをもって、その聖伝の信仰を生きることです。うわべや口先だけでなく。主よ、憐れみ給え!

 カトリック司祭職は、発明されるものではありません。カトリック司祭職は見つけ出すものでもありません。カトリック教会は、イエズス・キリストの永遠の新約の司祭職をその最初から知り、忠実に伝え続けてきました。それが聖伝の司祭職です。


 願わくは、カトリック教会が、もう一度カトリック司祭職を、天主がお望みになったその尊厳に置き直しますように! そして願わくは、私たちの主イエズス・キリストがカトリック司祭職の復興のために、私たちに働くことの出来る聖寵を下さいますように。

 天主は、私たちに、現在までもカトリックの聖伝に従う司祭職と、聖伝の叙階の秘蹟を与え続ける司教たちをルフェーブル大司教を通して私たちに与えてくれました。聖伝のカトリック司祭職を守り抜き、それが継続するために聖伝のままの司教らを与えてくれたルフェーブル大司教の後をしたって、私たちも霊魂の救いとカトリック教会の栄光のために、天主の聖寵の助けをもって働きたいと思います。

 至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!
 至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!
 至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!


文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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 この原稿を書くに当たり、主に Nouvelles de Chretiente n. 91 及び 92号を参考にしました。
外国語サイト リンク http://www.dici.org/dl/nouvelles/Nouvelles_92.pdf
外国語サイト リンク http://www.dici.org/dl/nouvelles/Nouvelles_91.pdf


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------ 参考資料 ------
『司祭の役務と生活に関する教令』
Presbyterorum Ordinis

司教パウルス
神のしもべたちのしもべ
聖なる公会議の諸教父とともに
ことを永久に記念するために

序文

 1 この聖なる教会会議は、司祭が教会の中で持つ重要性について、すでに何回もすべての人に思い起こさせた(注1 第2バチカン公会議、『典礼憲章』;『教会憲章』;『教会における司教の司牧任務に関する教令』;『司祭の養成に関する教令』)。しかし、キリストの教会の刷新に際して、最も重大でしかも日増しに困難な役割が司祭団に課せられるので、司祭についてより詳しく、より深く論じることはきわめて有益である。ここで述べることは、すべての司祭、特に司牧の任にある司祭に該当するものであり、必要な調整を加えたうえで修道司祭にも適応される。司祭は叙階式と司教から受ける辞令とによって、師・司祭・王であるキリストに仕えるために任命され、キリストの役務に参与する。この役務によって教会は神の民、キリストの体、聖霊の神殿として、この地上に休みなく建設されている。したがって、司牧の事情と人間の条件がしばしば根底から変化した状況に際して、司祭の役務をより効果的に援助し、その生活をよりよく支持するために、この聖なる教会会議は以下のことを発表し決定する。


第1章 教会の使命における司祭職

 2 (司祭職)「父が聖化して世に派遣した」(ヨハネ10:36)主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせる。それゆえ、からだ全体の使命に参与しない構成員は一つもないのであって、各構成員は自分の心の中にいるイエズスを聖なるものとして扱い、預言の霊によってイエズスのあかしをたけなければならない。

 しかし同じ主は、信者たちが一つのからだに結合するように、信者の中のある人々を役務者に制定した。このからだの中では「すべての構成員が同じ働きをするものではない」(ローマ12:4)。役務者は信者の社会において、いけにえをささげ、罪をゆるすために、叙階の聖なる権能を持ち、また人々のためにキリストの名において公に司祭としての務めを行う。それゆえ、キリストは自分が父から派遣されたように使徒たちを派遣し、さらにこの使徒たちを通して、かれらの後継者である司教たちを自分の聖別と使命とに参与させた。そして司教の奉仕の任務は従属的段階において司祭たちに伝授された。こうして、司祭団の構成員となった司祭たちは、キリストから託された使徒的使命を正しく果たすために、司教団の協力者となる。

 司教団に結ばれている司祭の務めは、キリスト自身がその「からだ」を建設し、聖化し、統治する権威に参与するものである。したがって司祭の司祭職はキリスト教入信の諸秘蹟を前提とするが、別個の秘蹟によって授与されるものである。この秘蹟は、聖霊の塗油によって特別な霊印を司祭にしるし、こうして、司祭は「かしら」であるキリストの代理者として行動できるように、司祭キリストの姿に似たものとなる。

 司祭はその職分に応じて使徒の任務に参与するものであり、神から恩恵を授けられて、諸国民の中でキリスト・イエズスの役務者となり、諸国民が聖霊において聖化された快い供え物となるように、福音の聖なる任務に従事する。事実、福音の使徒的告知によって神の民が招き集められ、この民に属するすべての人が聖霊によって聖化されたとき、「神に喜ばれる生きた聖なる供え物」(ローマ12:1)として自分をささげる者となる。ところで、信者の霊的供え物は、司祭の役務を通して、唯一の仲介者であるキリストの供え物との一致のうちに完成するものであり、このキリストの供え物は、主自身が来るときまで、司祭たちの手によって、全教会の名において、聖体祭儀において血を流すことなく秘跡的にささげられる。司祭の役務はこのことを目ざし、このことにおいて完成する。事実、司祭の役務の実践は福音を告げ知らせることをもって始まり、キリストの供え物から力と威力をくみとり、「あがなわれた都の全体、すなわち、聖者らの集会または社会が、普遍的な供え物として、われわれを偉大な頭の体とするよう、受難においてわれわれのために自分をささげた大司祭によって、神にささげられること」を目ざしている。

 したがって、司祭が役務と生活とにおいて追求する目的は、キリストにおいて、父である神に栄光を帰することである。この栄光はキリストにおいて完成された神のわざを、人々が自覚と自由と感謝をもって受け入れることにある。・・・


-----参考資料-----
『教会憲章』
Lumen Gentium

司教パウルス
神のしもべのしもべ
聖なる公会議の諸教父とともに
ことを永久に記念するために

第2章 神の民について

 9 どの時代においても、どの民族においても、神をおそれ正義を行なう人はすべて、神に受けいれられる(使徒 10・35参照)。しかし、神は人々を個別的に、全く相互の連絡なしに聖化し救うのではなく、かれらを、真理に基づいて神を認め忠実に神に仕える一つの民として確立することを望んだ。それで、神はイスラエル民族を自分の民として選んで、それと契約を結び、その民の歴史の中に自身と自分の意向とを表わすことによって、またその民を自分のものとして聖化することによって、その民を徐々に教化した。しかし、これらすべてのことは、キリストのうちに結ばれる新しい完全な契約と、人となった神のことば自身によって伝えられる、より完全な啓示とを準備して表象するためであった。「主は言われる。見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る……わたしは、かれらの胎内にわたしの律法を置き、かれらの心にそれを書きしるそう。わたしはかれらの神となり、かれらはわたしの民となる……かれらは小より大に至るまで皆、わたしを認めるようになる、と主は言われる」(エレミヤ:31・31~34)。キリストはこの新しい契約、すなわち、血における新約を制定したのであって(1コリント11・25参照)、肉に従ってではなく霊において一つに結ばれた民、神の新しい民となるように、ユダヤ人と異邦人のうちから一つの民を召集した。したがって、キリストを信じて、朽ちる種からではなく生きた神のことばによる朽ちない種から(1ペトロ: 1・23参照)、肉によってではなく水と聖霊によって新たに生れた者は(ヨハネ:3・5~6参照)、「選ばれた種族、王的司祭職、聖なる民、神に属する民であり……前には民でなかったが、今は神の民である」(1ペトロ: 2・9~10)。

 このメシア的な民は、「われわれの罪のために渡され、われわれを義とするためによみがえり」(ローマ:4・25)、今はすべての名にまさる名を得て、天において栄光のうちに支配 するキリストを頭といただいている。この民は、神の子らとしての品位と自由を備え、かれらの心の中には、あたかも神殿の中におけるように、聖霊が住んでいる。この民は、キリスト自身がわれわれを愛したように愛せよとの新しいおきてを律法として持っている(ヨハネ:13・34参照)。さらに、この民は、神の国を目的とし、その国は神自身によって地上に始められたが、さらに拡張されるべきものである。ついには世の終わりに、われわれの生命であるキリストが現われるとき、神によって完成され(コロサイ:3・4参照)、「被造物自身も腐敗の奴隷から解放され、神の子らの栄光の自由にあずかる」(ローマ:8・21)。したがって、このメシア的な民は、現実にはすべての人を含まず、またしばしば小さな群のように見えるが、それは全人類に取って、一致と希望と救いの最も堅実な芽ばえである。この民は、生命と愛と真理の交流のためにキリストによって設立され、すべての人のあがないの道具として採用され、世の光、地の塩として(マテオ:5・13~16参照)、全世界に派遣されている。

 砂ばくを旅した肉によるイスラエルが、すでに神の教会と呼ばれていたように(ネヘミヤ 13・1、民 20・6、申 23・1以下参照)、現世の中を進みながら将来の永続する国を追求する新しいイスラエルも(ヘブレオ 13・14参照)、キリストの教会と呼ばれる(マテオ:16・18参照)。なぜならば、キリストがそれを自分の血をもって獲得し、(使徒 20・28参照)、自分の霊をもって満たし、見える社会的一致のための適切な手段を与えたからである。神は、救いの作者であり、一致と平和の源であるイエズスを信じ仰ぐ人々を一つの集団に招き集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人と個々の人にとって、救いをもたらす一致の見える秘跡となるためである。この教会は、すべての地域に広げられるべきものとして、人間の歴史の中にはいってゆくが、同時に、時代と民族の境界を超越したものである。誘惑と苦難を通って進む教会は、主が教会に約束した神の恩恵の力に強められる。それは肉の弱さの中にあっても、完全な忠実さを欠くことなく、主にふさわしい花嫁としてとどまり、聖霊の働きのもとに絶えずみずからを刷新し、ついに十字架を経て没することのない光に達するためである。

10(神の民の司祭職) 人々の中から選ばれた大司祭である主キリストは(ヘブ 5・1~5参照)、新しい民を「自 分の父である神のための王国および司祭とした」(黙 1・6、5・9~10参照)。すなわち、洗礼を受けた者は、再生と聖霊の塗油とによって、霊的な家および聖なる司祭職となるよう聖別される。それはかれらがキリスト信者のあらゆるわざを通して霊的供え物をささげ、やみから自分を感嘆すべき光へとかれらを呼んだ者の力を告げる者となるためである(1ペトロ: 2・4~10参照)。したがって、キリストのすべての弟子は、くじけずに祈り、ともに神を賛美しつつ(使徒 2・42~47参照)、自分を神に喜ばれる聖なる生きた供え物としてささげ(ローマ:12・1参照)、あらゆるところにおいてキリストを証明し、尋ねる人に対しては自分たちの中にある永遠の生命の希望について解明しなければならない(1ペトロ: 3・15参照)。

 信者の共通司祭職と職位的または位階的司祭職とは、段階においてだけでなく、本質において異なるものであるが、相互に秩序づけられていて、それぞれ独自の方法で、キリストの唯一の司祭職に参与している。職位的司祭は、自分が受けた聖なる権能をもって司祭的な民を育成し、治め、キリストの代理者として聖体の犠牲を執り行ない、それを民全体の名において神にささげる。信者は、自分が持つ王的司祭職の力によって、聖体の奉献に参加し、また諸秘跡を受けること、祈り、感謝、聖なる生活による証明、自己放棄、行動的な愛をもって、この王的司祭職を行使する。

11(秘跡と共通司祭職の行使) 組織的に構成されている司祭的共同体の聖なる性格は、秘跡と徳行とを通して行動に移される。信者は洗礼によって教会に合体し、霊印をしるされてキリスト教の祭礼にあずかるよう委任を受け、神の子として生れかわって、神から教会を通して受けた信仰を人々の前で宣言する義務を負う。堅信の秘跡によって、いっそう完全に教会に結びつけられ、聖霊の特別な力で強められて、キリストの真の証人として、ことばと行ないをもって信仰を広めかつ擁護するよう、いっそう強く義務づけられる。かれらはキリスト教生活全体の泉であり頂点である聖体の犠牲に参加して、神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身をもささげる。こうしてすべての信者は、いけにえの奉献においても聖体拝領においても、無差別にではなく、それぞれ固有な方法で、典礼行為の中で自分自身の役割を果たす。さらに聖体の集会においてキリストのからだによって養われた者は、この最も神聖なる秘義が適切に示し、見事に実現する神の民の一致を、具体的な方法で現わす。

 告解の秘跡を受ける者は、神の慈悲によって神に加えた侮辱のゆるしを受け、同時に、自分たちの罪をもって傷つけた教会、愛と模範と祈りによって自分たちの回心のために努力している教会と和解する。病者の聖なる塗油と司祭の祈りとによって全教会は、苦しみと栄光を受けた主に、病苦を和らげ病人を救うよう願い(ヤコボ:5・14~16参照)、なお病人に対しては、すすんで自分 をキリストの受難と死に合せて(ローマ:8・17、コロサイ:1・24、2ティモテオ 2・11~12、1ペトロ: 4・13参照)、神の民の善に寄与するように勧め励ます。

 また、信者の中から選ばれて聖なる叙階を受ける者は、神のことばと恩恵をもって教会を牧するために、キリストの名において立てられるのである。さらに、キリスト信者の夫婦は婚姻の秘跡によってキリストと教会の間における一致と実り多い愛の秘義を示し、それにあずかり(エフェゾ: 5・32参照)、この秘跡の力によって、結 婚生活および子女の出産と養育を通して聖となるよう互いに助け合い、結婚生活という身分と序列において、神の民の中で自分たちに固有のたまものを持っている(1コリント7・7参照)。この結婚の結合から家族が生じ、その中で人間社会の新しい市民が生れる。かれらは聖霊の恩恵によって、いく世代にもわたって神の民を永続させるために洗礼によって神の子とされる。このいわば家庭の教会において、両親はことばと模範をもって子どもたちのために信仰の最初の使者となり、子供のおのおのに特有な召命を育て、特に特別な配慮をもって聖職への召命を育成するようにしなければならない。

 これほど多くのすぐれた救いの手段に恵まれているすべてのキリスト信者は、どのような生活条件と身分にあっても、各自自分の道において、父自身が完全である聖性の完成に達するよう主から招かれている。

28 父が聖化し世に派遣したキリストは(ヨハネ:10・36)、その使徒たちを通して、かれらの後継者すなわち司教たちを自分の奉献と使命とに参与する者とした。そして司教は自分の任務を教会の中において、種々の段階によって、いろいろの配下の者に正当に授けた。こうして、神の制定による教会的役務は、種々の聖職階級において、古代から、司教、司祭、助祭と呼ばれる人々によって執行される。司祭は司教職の頂点を持たず、自分の権能の行使において司教に従属しているが、司祭の栄位において司教に結ばれており、叙階の秘跡の力によって、最高永遠の司祭であるキリスト(ヘブレオ 5・1~10、7・24、9・11~28)にかたどられて、新約の真の司祭として、福音を宣教し信者を司牧し神の祭礼を挙行するために聖別される。司祭は唯一の仲介者キリスト(1ティモテオ 2・5)の任務に、自分の役職の段階において参与する者となり、神のことばをすべての人に告げる。司祭は特に聖体の祭礼または集会の儀においてその職務を執行し、そこではキリストの代理者として行動し、キリストの秘義を宣布し、信者の祈りをそのかしらの供え物に結び合わせ、新約の唯一の犠牲、すなわち自分を汚れない供え物として父に一度ささげたキリスト(ヘブレオ 9・11~28参照)の犠牲を、主の到来まで(1コリント11・26参照)ミサの犠牲において現存するものとし、それを適用させる。罪を悔やむ信者や病気の信者のために、司祭は和解と慰めの役務をよく果たし、信者の必要と祈りを父なる神にとどける(ヘブレオ 5・1~4参照)。司祭は牧者でありかしらであるキリストの任務を自分の権限内で行ない、一つの心に結ばれた兄弟的集団として神の家族を集め、キリストを通して聖霊において父なる神に導く。司祭は群の中で、霊と真理において父を礼拝する(ヨハネ:4・24参照)。さらに、ことばと教えについて労苦を惜しまず(1ティモテオ 5・17参照)、主の法の中で読みかつ黙想したことを信じ、信じたことを教え、教えたこ とを実行する。

 司祭は司教職位の賢明な協力者、その助手、その道具であって、神の民に仕えるために召され、自分たちの司教とともに、種々の職務に携わる一つの司祭団を構成する。信者の各地方集団においても、司祭は自分が信頼と寛大な心をもって結ばれている司教をある意味で現存させ、司教の努めと苦労を自分の役割に応じて引き受け、日々の配慮をもってそれを実行する。かれらは司教の権威のもとに、自分にゆだねられた主の群の一部を聖化し治め、自分の場所において普遍的教会を見えるものとし、キリストのからだ全体を建設するために(エフェゾ: 4・12参照)効果的に貢献する。司祭は常に神の子らの善を志し、全司教区、さらに全教会の司牧的活動に協力するよう努めなければならない。このように司教の司祭職と使命とに参与する司祭は、司教を真に自分の父と認め、尊敬をもって従わなければならない。他方、司教は、キリストがその弟子たちを、もはやしもべではなく友と呼んだように(ヨハネ:15・15参照)、自分の協力者である司祭を子、また友と考えなければならない。したがって、叙階と役職の理由で、すべての司祭は教区司祭も修道司祭も司教団に結ばれ、自分の召命と恩恵に従って全教会のために奉仕するのである。

 共通の聖なる叙階と使命によって、司祭は皆互いに親密な兄弟として結ばれている。この兄弟の交わりを、霊的・物質的・司牧的・個人的な相互援助において、集会において、また生活と仕事と愛の共同体において、自発的に喜んで表わすべきである。

 司祭は、洗礼と教えとをもって霊的に生んだ信者を(1コリント4・15、1ペトロ: 1・23参照)、キリストにおける父として世話しなければならない。自分自身が群の模範となって(1ペトロ: 5・3)自分の地方集団を治め、これに奉仕し、こうして、それが神の一つの民全体に与え られた名称、すなわち神の教会という名称で呼ばれるに価するものとなるように(1コリント1・2、2コリント1・1など参照)つとめなければならない。司祭は自分の日々の行動と労苦によって、信者にも未信者にも、カトリック信者にもカトリックでない人々にも、真に司祭的で牧者的な役務の姿を示し、すべての人に対して真理と生命のあかしをたてる者となり、また、カトリック教会において受洗したにもかかわらず秘跡から遠ざかり、さらに信仰を離れた人々をも、よい牧者として探し求め(ルカ: 15・4~7参照)なければならないことを記憶すべきである。

 今日、人類はますます政治的・経済的・社会的に一つに結ばれつつある。したがって、司祭は、司教と教皇の指導のもとに互いに力を合せて働き、全人類が神の一つの家族となるよう、分裂のあらゆる原因を取り除かなければならない。

34(信徒の共通司祭職) 最高永遠の司祭キリスト・イエズスは、自分のあかしと奉仕を信徒を通しても継続することを望んで、自分の霊によってかれらに生命を与え、よいことと完全なことのすべての実行へ絶えずかれらを押し進めている。

 キリストは自分の生命と使命に密接に結ばれた人々が、神の賛美と人々の救いのために霊的礼拝を行なうように、かれらに自分の司祭職の一部をも与えた。したがって、信徒はキリストにささげられ聖霊によって塗油されたものとして、霊の果実が自分の中に常により豊かに実るようにするという、すばらしい召命と手段を受けている。かれらのすべての仕事、祈り、使徒的努力、結婚および家庭生活、日々の苦労、心身の休養を霊において行ない、なお生活のわずらわしさを忍耐強く堪え忍ぶならば、これらのすべてはイエズス・キリストを通して神に喜ばれる霊的供え物となり(1ペトロ: 2・5)、聖体祭儀の挙行におい て主のからだの奉献とともに父に敬虔にささげられる。このように信徒もまた、いずこにおいても聖なる行ないをもって神に礼拝をささげる者として、世そのものを神に奉献するのである。


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 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!


 文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)