第420号 2012/07/07 聖チリロとメトディオ司教証聖者
アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、 願わくは、ルフェーブル大司教様がはっきりと教えて下さったように、そして、フェレー司教様がインタビューで答えたように、第二バチカン公会議を聖伝の光に照らして理解するとは、つまり「聖伝に同意していることを私たちは受け入れ、疑わしいことは、聖伝が常に教えてきたこととして理解し、聖伝と逆のことは拒否する」と、総会がはっきり宣言しますように! 外交的な曖昧な表現ではなく、ティシエ・ド・マルレ司教様が言っているように「外交的なうまい言い逃れを全くせずに、はっきりと私たちの信仰を断言し、結果的に公会議の誤謬を拒絶する」そして「曖昧でない信仰告」を宣言することが出来ますように! ルフェーブル大司教様がしたように、第二バチカン公会議のその発言一つ一つを吟味し、第二バチカン公会議の「解釈」や「理解」が間違っていたのではなく、第二バチカン公会議の文書そのものが、過去の聖伝と反対し矛盾していることを、ぶれずにはっきりと指摘し続けますように! 2005年にフェレー司教様が引用しているように、ルフェーブル大司教様は既に第二バチカン公会議の直後(1966年12月20日)に、オッタヴィアーニ枢機卿に第二バチカン公会議の問題を指摘していました。 「第二バチカン公会議は、教会の中で長期にわたって誤謬をなくすために、誤謬に対して真理を宣言する準備が準備委員会によってなされていた。そうしていたらプロテスタント主義の終焉であったし、教会にとって豊饒な新しい時代の始まりであった。ところが、この準備は極めて酷いやり方で放棄され、教会がかつて体験したこともないような最悪の悲劇に場所を譲った。私たちは教会とリベラルなイデオロギーとの結合を目の当たりにした。第二バチカン公会議は、誤謬を公に宣言していた人々、上記に言及された教皇たちによって排斥された傾向を持っていた人々をして、彼らの教えが今後は認められた教えであると合法的に信じさせることを許した、このことを勇気を持って断言しないことは、自明なことを否定することであり目をつぶることである。[…] 私たちは、ほぼ一般的に言って、第二バチカン公会議は教会の正真正銘の教導権によって、聖伝の宝に決定的に属するものとして教えられた真理の確実さを、改革した、土台から揺り動かしたと言うことが出来るし、不幸にしてそう言わなければならない。 それは、司教らの裁治権の伝達についてそうであるし、啓示の二重の源泉について、聖書における聖霊の息吹(霊感)、義化のための聖寵の必要性、カトリック洗礼の必要性、異端者、離教者、異教徒に於ける聖寵の命、婚姻の諸目的、信教の自由、終末について、等々がそうである。これらの基礎的な点に関して、聖伝の教えは明らかで、カトリック大学などで一致して教え続けられてきた。ところが第二バチカン公会議の多くの文献ではこれらの真理に関してそれを疑うことを許している。」 愛する兄弟姉妹の皆様、よく聞いて下さい。「第二バチカン公会議の多くの文献ではこれらのカトリックの真理に関してそれを疑うことを許している」のです。第二バチカン公会議によって、カトリック教会の生命と教えの真理とは、曖昧のうちに闇に置かれてしまったのです。光を奪われてしまったのです。第二バチカン公会議は、真理を照らし出す代わりに隠してしまったのです。もしもそのことをはっきりと言わないのなら、ルフェーブル大司教の言うように「このことを勇気を持って断言しないことは、自明なことを否定することであり目をつぶること」です。同じ観点について互いに矛盾することを「一つの実体としての教会の連続性の中で行われる刷新つまり改革による解釈法」で、断絶していないとすることはあり得ないからです。 そこで、今回は、 聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆様への手紙 第 68号 から、1966年12月20日、ルフェーブル大司教様が検邪聖省長官オッタヴィアーニ枢機卿に提出した回答を引用することにします。 そして、ローマにて、1974年11月21日にルフェーブル大司教がした宣言を引用します。 天主様の祝福が豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 1966年、つまり第二バチカン公会議の一年後、ルフェーブル大司教様は検邪聖省長官、オッタヴィアーニ枢機卿が教会の状況について問うたいろいろな質問に次のように答えていました。 「・・・現代の悪は、私たちの信仰の真理の否定或いは疑問視よりももっと重大であるようだと私は敢えて言う。今日ではこの悪は、観念の極端な混乱により、また教会の諸制度、修道会、神学校、カトリック学校、とどのつまり教会の恒久的な支えであったものの風解によって示されている。しかしこれは最近数世紀の間教会を浸食している異端と誤謬の論理的継続に他ならない。特に19世紀の自由主義が教会と革命を引き起こしたイデオロギーとをいかなる代償を払っても和解させようと力を尽くしているが、それ以来の続きである。カトリック教会が健全な哲学と神学とにあらがうこれらのイデオロギーに反対していた間は、反対すればするほど教会は進歩していた。その反対にこれらの秩序を転覆させるイデオロギーと妥協しようとすると、その妥協は全て教会の特権を失わせ共通の権利に置いて画一化し、教会を世俗社会の奴隷となす危険を呼び起こした。 カトリックのグループらがこれらの神話に引かれて流される度に、教皇たちは勇敢にも彼らを矯正し、照らし、もし必要ならば排斥した。カトリック自由主義はピオ9世によって排斥された。近代主義はレオ13世によって、シヨン主義は聖ピオ10世によって、共産主義はピオ11世によって、新近代主義はピオ12世によってそれぞれ排斥された。この素晴らしい警戒のおかげでカトリック教会は固められ、発展した。異教徒、プロテスタントらの回心は極めて多い。異端は完全に根こそぎにされ、諸国家はよりカトリック的な立法を受け入れた。 しかしながら、これらの誤ったイデオロギーを満ちるまで受けた修道者のグループは、或る司教らの甘い態度と或るローマ聖省の黙認おかげで、カトリック・アクションや神学校においてこのイデオロギーを伝播することに成功した。しばらくすれば、これらの司祭らの中から将来の司教らが選ばれるだろう。 ここでこそ、当時第二バチカン公会議を捉えなければならない。公会議はカトリック教会の中で長期にわたってこれらの誤謬をなくすために、準備委員会によって誤謬に対して真理を宣言する準備が出来ていた。そうしていたらプロテスタント主義の終焉であったし、教会にとって豊饒な新しい時代の始まりであった。 ところが、この準備は極めて酷いやり方で放棄され、教会がかつて体験したこともないような最悪の悲劇に場所を譲った。私たちは教会とリベラルなイデオロギーとの結合を目の当たりにした。第二バチカン公会議は、誤謬を公に宣言していた人々、上記に言及された教皇たちによって排斥された傾向を持っていた人々をして、彼らの教えが今後は認められた教えであると合法的に信じさせることを許した、このことを勇気を持って断言しないことは、自明なことを否定することであり目をつぶることである。 […] 私たちは、ほぼ一般的に言って、第二バチカン公会議は教会の正真正銘の教導権によって、聖伝の宝に決定的に属するものとして教えられた真理の確実さを、改革した、土台から揺り動かしたと言うことが出来るし、不幸にしてそう言わなければならない。 それは、司教らの裁治権の伝達についてそうであるし、啓示の二重の源泉について、聖書における聖霊の息吹(霊感)、義化のための聖寵の必要性、カトリック洗礼の必要性、異端者、離教者、異教徒に於ける聖寵の命、婚姻の諸目的、信教の自由、終末について、等々がそうである。これらの基礎的な点に関して、聖伝の教えは明らかで、カトリック大学などで一致して教え続けられてきた。ところが第二バチカン公会議の多くの文献ではこれらの真理に関してそれを疑うことを許している。 その結果は、早くもカトリック教会の生活の中で導き出され、適応された。 --- 教会、秘蹟の必要性に関する疑いは、司祭召命をなくさせた。 --- 全ての霊魂が「回心」する必要性があること、またその「回心」の本性にかんする疑いは、修道生活への召命をなくさせ、修練期間における聖伝に従う霊性を崩壊させ、宣教を無用なものとさせた。 --- 人間の尊厳の高揚と良心の自律、自由の高揚によって、権威の正当性に関する疑いと従順の義務に関する疑いが引き起こされ、教会から始まって修道会、司教区、世俗社会、家庭といった全ての社会を揺るがしている。 傲慢はその結果、当然のこととなり、また目の欲、生活のおごりもそうである。現代、どれ程まで道徳的廃退がカトリック出版物のほとんどに行き渡ってしまったかを見るのは、最も恐るべき状況確認の一つであるかもしれない。カトリック出版物において何らの慎みもなく、性について語り、あらゆる手段を使って産児制限すること、離婚の正当性、男女共学、男女交際、キリスト教教育の必要手段としてのダンス、司祭の独身制などについて話す。 --- 救われるために聖寵が必要であることへの疑いは、洗礼を過小評価させ、洗礼を延ばし延ばしにし、悔悛の秘蹟をうち捨てさせている。これは他でもなく信徒らの態度ではなく、特に司祭らの態度のことである。御聖体に於ける現存についても同じである。あたかも現存を信じていないように行動するのは司祭らである。御聖体を隠したり、御聖体に対する尊敬の印を全て省略し、御聖体の名誉のための儀式を全くしないことによってである。 --- エキュメニズムと信教の自由の宣言に由来する、救いの唯一の源泉としての教会の必要性に関する疑い、唯一の真の宗教としてのカトリック教会への疑いは、教会の教導権の権威を崩壊させた。実にローマはもはや唯一必要な " Magistra Veritatis (真理の教師) "ではない。 従って、事実によって追いつめられ、第二バチカン公会議は考えることも出来ないようなやり方でリベラルな誤謬を伝播することを促したと結論付けなければならない。全ての教皇たちがかつて予言していた通り、信仰、道徳、教会の規律はその基礎から揺るがされた。 教会の崩壊は速い足取りで進んでいる。司教評議会に与えられた過大な権威によって、教皇は無力となった。(第二バチカン公会議後の)たった一年だけでも、何と多くの悲しい例を見たことであろうか! しかしペトロの後継者は、そして彼だけが、教会を救うことが出来る。」 以下は、ルフェーブル大司教が強く進めた解決策です。 「教皇様が、信仰の力強い擁護者たちによって取り囲まれるように。教皇様が重要な諸教区に信仰の擁護者を任命するように。教皇様は、反対を恐れず、離教を恐れず、第二バチカン公会議の司牧的配慮を問題視することを恐れず、重要な文書によって、真理を宣言し誤謬を訴追してくださるように。 教皇様が、司教様らが、良き牧者に相応しいように、信仰と道徳を個人的に、そしてそれぞれの司教区において立て直すように彼らを勇気づけて下さるように。勇敢な司教らを支え、彼らをしてその神学校を改革するように、神学校において聖トマス・アクィナスに従った勉強を復興させるようにさせるように。修道会の総長を励まし、修練院と修道院とにおいてキリスト教修業の基本原理、特に従順を維持させるように励まして下さるように。カトリック学校、健全な教えの出版事業、キリスト教家庭からなる会の発展を励まして下さるように。最後に、誤謬を述べる者たちを叱責し彼らを黙らせて下さるように。毎週水曜日の訓話は、回勅や教書、司教らへの書簡の代わりにはなりえない。 おそらく私はこのように発言し、無謀であるかもしれない! しかし私がこの文章を書いたのは、熱烈な愛による。天主の栄光を求める愛、イエズスへの愛、聖母マリアへの愛、主の教会への愛、ペトロの後継者でありローマの司教かつイエズス・キリストの代理者への愛によるものである。[...] 」 次に、ローマにて、1974年11月21日にルフェーブル大司教がした宣言を引用します。 私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。 私たちは、しかしながら、第二バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを拒否し、常に拒否した。実に、これら全ての改革はカトリック教会の瓦解と司祭職の崩壊、いけにえと秘蹟の無化、修道生活の消滅、大学・神学校・公教要理における自然主義とテイヤール主義、教会の荘厳教導権によって何度も排斥された自由主義とプロテスタント主義とに由来する教育のために貢献したし、今でも貢献し続けている。 たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、いかなる権威といえども、19世紀もの長きにわたって教会の教導職によって明らかに表明され、宣言された私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように強制することは出来ない。 聖パウロはこう言っている。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8) これが今日、教皇様が私たちに繰り返し言われることではないだろうか。そしてもしも万が一、教皇様の言葉と行動において、また聖座の諸聖省の文書において、1つでも [過去の教導権との] 矛盾が現れるなら、その時私たちは、常に教えられていたことを選び、私たちは教会を破壊する革新に耳を閉じる。 Lex credendi(信仰の法)を変更することなくles orandi(祈りの法)を深く変更させることは出来ない。新しいミサは新しい要理と新しい司祭職に対応し、新しい神学校、新しい大学、カリスマ運動的教会、聖霊降臨運動的な教会、また正統と常なる教導職とに対立する全てに対応している。 この改革は、自由主義と近代主義とに由来するが故に、その全てに毒が含まれている。これは異端から生み出され異端へと辿り着く。良心的で忠実な全てのカトリック信者にとってこの改革を受け入れ、なにがしらであれそれに従うことは出来ない。 私たちの霊魂の救いのために、教会とカトリックの教えとに忠実である唯一の態度は、改革を受け入れることを断固として拒否することである。 それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。私たちは聖なるカトリック教会に、教皇様に、そして未来の世代に、これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。 それ故、聖伝の真理の光が永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを全て固く保持する。 天主の聖寵と、童貞聖マリア・聖ヨゼフ・聖ピオ10世の御助けによって、こうすることによって、私たちはローマ・カトリック教会に忠実であり、ペトロの全ての後継者に忠実に留まり、fideles dispensatores mysteriorum Domini Nostri Jesu Christi in Spiritu Santo(聖霊において私たちの主イエズス・キリストの玄義の忠実な奉仕者)となることができると確信している。アーメン。
童貞聖マリアの奉献の祝日 + マルセル・ルフェーブル
Rome, le 20 décembre 1966 Éminence révérendissime, Votre lettre du 24 juillet concernant la mise en doute de certaines vérités a été communiquée par les soins de notre secrétariat à tous nos supérieurs majeurs. Peu de réponses nous sont parvenues. Celles qui nous sont parvenues d'Afrique ne nient pas qu'une grande confusion règne actuellement dans les esprits. Si ces vérités ne paraissent pas mises en doute, cependant dans la pratique, on assiste à une diminution de ferveur et de régularité dans la réception des sacrements, surtout du sacrement de pénitence. On constate un respect très diminué de la Sainte Eucharistie surtout de la part des prêtres, une raréfaction des vocations sacerdotales dans les missions de langue française ; celles de langues anglaises et portugaise sont moins touchées par l'esprit nouveau, mais les revues et journaux y diffusent déjà les théories les plus avancées. Il semble que la cause du petit nombre de réponses reçues provienne de la difficulté de saisir ces erreurs qui sont partout diffuses ; le mal se situe surtout dans une littérature qui sème la confusion dans les esprits par des descriptions ambiguës, équivoques, mais sous lesquelles on découvre une nouvelle religion. Je crois de mon devoir de vous exposer en toute clarté ce qui ressort de mes conversations avec de nombreux évêques, prêtres, laïcs d'Europe et d'Afrique, qui ressort aussi de mes lectures en pays anglais et français. Volontiers je suivrais l'ordre des vérités énoncées dans votre lettre, mais j'ose dire que le mal actuel me paraît beaucoup plus grave que la négation ou mise en doute d'une vérité de notre foi. Il se manifeste de nos jours par une confusion extrême des idées, par la désagrégation des institutions de l'Eglise, institutions religieuses, séminaires, écoles catholiques, en définitive de ce qui a été le soutien permanent de l'Eglise, mais il n'est autre que la continuation logique des hérésies et erreurs qui minent l'Eglise depuis les derniers siècles, spécialement depuis le libéralisme du dernier siècle qui s'est efforcé à tout prix de concilier l'Eglise et les idées qui ont abouti à la Révolution. Dans la mesure où l'Eglise s'est opposée à ces idées qui vont à l'encontre de la saine philosophie et de la théologie, elle a progressé ; au contraire toute compromission avec ces idées subversives a provoqué un alignement de l'Eglise dans le droit commun et le risque de la rendre esclave des sociétés civiles. Chaque fois d'ailleurs que des groupes de catholiques se sont laissés attirer par ces mythes, les Papes, courageusement, les ont rappelés à l'ordre, les ont éclairés et s'il le fallait condamnés. Le libéralisme catholique est condamné par Pie IX, le modernisme par Léon XIII, le sillonisme par saint Pie X, le communisme par Pie XI, le néo-modernisme par Pie XII. Grâce à cette admirable vigilance, l'Eglise se consolide et se développe. Les conversions de païens, de protestants sont très nombreuses ; l'hérésie est en déroute complète, les Etats acceptent une législation plus catholique. Cependant des groupes de religieux imbus de ces fausses idées réussissent à les répandre dans l'Action catholique, dans les séminaires grâce à une certaine indulgence des évêques et la tolérance de certains dicastères romains. Bientôt c'est parmi ces prêtres que seront choisis les évêques. C'est ici que se situe alors le Concile qui s'apprêtait par les Commissions préparatoires à proclamer la vérité face à ces erreurs afin de les faire disparaître pour longtemps du milieu de l'Eglise. C'eût été la fin du protestantisme et le commencement d'une nouvelle ère féconde pour l'Eglise. Or cette préparation a été odieusement rejetée pour faire place à la plus grave tragédie qu'à jamais subie l'Eglise. Nous avons assisté au mariage de l'Eglise avec les idées libérales. Ce serait nier l'évidence, se fermer les yeux que de ne pas affirmer courageusement que le Concile a permis à ceux qui professent les erreurs et les tendances condamnées par les Papes, ci-dessus nommés, de croire légitimement que leurs doctrines étaient désormais approuvées. Alors que le Concile se préparait à être une nuée lumineuse dans le monde d'aujourd'hui si l'on avait utilisé les textes préconciliaires dans lesquels on trouvait une profession solennelle de doctrine sûre au regard des problèmes modernes, on peut et on doit malheureusement affirmer : Que, d'une manière à peu près générale, lorsque le Concile a innové, il a ébranlé la certitude de vérités enseignées par le Magistère authentique de l'Eglise comme appartenant définitivement au trésor de la Tradition. Qu'il s'agisse de la transmission de la juridiction des évêques, des deux sources de la Révélation, de l'inspiration scripturaire, de la nécessité de la grâce pour la justification, de la nécessité du baptême catholique, de la vie de la grâce chez les hérétiques, schismatiques et païens, des fins du mariage, de la liberté religieuse, des fins dernières, etc. Sur ces points fondamentaux, la doctrine traditionnelle était claire et enseignée unanimement dans les universités catholiques. Or, de nombreux textes du Concile sur ces vérités permettent désormais d'en douter. Les conséquences en ont été rapidement tirées et appliquées dans la vie de l'Eglise : - Les doutes sur la nécessité de l'Eglise et des sacrements entraînent la disparition des vocations sacerdotales. - Les doutes sur la nécessité et la nature de la “conversion” de toute âme entraînent la disparition des vocations religieuses, la ruine de la spiritualité traditionnelle dans les noviciats, l'inutilité des missions. - Les doutes sur la légitimité de l'autorité et l'exigence de l'obéissance provoqués par l'exaltation de la dignité humaine, de l'autonomie de la conscience, de la liberté, ébranlent toutes les sociétés en commençant par l'Eglise, les sociétés religieuses, les diocèses, la société civile, la famille. L'orgueil a pour suite normale toutes les concupiscences des yeux et de la chair. C'est peut-être une des constatations les plus affreuses de notre époque de voir à quelle déchéance morale sont parvenues la plupart des publications catholiques. On y parle sans aucune retenue de la sexualité, de la limite des naissances par tous les moyens, de la légitimité du divorce, de l'éducation mixte, du flirt, des bals comme moyens nécessaires de l'éducation chrétienne, du célibat des prêtres, etc. - Les doutes sur la nécessité de la grâce pour être sauvé provoquent la mésestime du baptême désormais remis à plus tard, l'abandon du sacrement de pénitence. Il s'agit d'ailleurs surtout d'une attitude des prêtres et non des fidèles. Il en est de même pour la présence réelle : ce sont des prêtres qui agissent comme s'ils ne croyaient plus, en cachant la Sainte Réserve, en supprimant toutes les marques de respect envers le Saint-Sacrement, et toutes les cérémonies en son honneur. - Les doutes sur la nécessité de l'Eglise source unique de salut, sur l'Eglise catholique seule vraie religion, provenant des déclarations sur l'oecuménisme et la liberté religieuse, détruisent l'autorité du Magistère de l'Eglise. En effet, Rome n'est plus la “Magistra Veritatis” unique et nécessaire. Il faut donc, acculé par les faits, conclure que le Concile a favorisé d'une manière inconcevable la diffusion des erreurs libérales. La foi, la morale, la discipline ecclésiastique sont ébranlées dans leurs fondements, selon les prédictions de tous les Papes. La destruction de l'Eglise avance à pas rapides. Par une autorité exagérée donnée aux conférences épiscopales, le Souverain pontife s'est rendu impuissant. En une seule année, que d'exemples douloureux ! Cependant le Successeur de Pierre et lui seul peut sauver l'Eglise. Que le Saint Père s'entoure de vigoureux défenseurs de la foi, qu'il les désigne dans les diocèses importants. Qu'il daigne par des documents importants proclamer la vérité, poursuivre l'erreur, sans crainte des contradictions, sans crainte des schismes, sans crainte de remettre en cause les dispositions pastorales du Concile. Daigne le Saint Père : encourager les évêques à redresser la foi et les mœurs individuellement, chacun dans leurs diocèses respectifs, comme il convient à tout bon pasteur ; soutenir les évêques courageux, les inciter à réformer leurs séminaires, à y restaurer les études selon saint Thomas ; encourager les supérieurs généraux à maintenir dans les noviciats et les communautés les principes fondamentaux de toute ascèse chrétienne, surtout l'obéissance ; encourager le développement des écoles catholiques, la presse de saine doctrine, les associations de familles chrétiennes ; enfin réprimander les fauteurs d'erreurs et les réduire au silence. Les allocutions des mercredis ne peuvent remplacer les encycliques, les mandements, les lettres aux évêques. Sans doute suis-je bien téméraire de m'exprimer de cette manière ! Mais c'est d'un amour ardent que je compose ces lignes, amour de la gloire de Dieu, amour de Jésus, amour de Marie, de son Eglise, du Successeur de Pierre, évêque de Rome, Vicaire de Jésus-Christ. Daigne l'Esprit Saint, auquel est vouée notre Congrégation, venir en aide au Pasteur de l'Eglise universelle. Que Votre Eminence daigne agréer l'assurance de mon très respectueux dévouement en Notre Seigneur. + Marcel Lefebvre,
Archevêque tit. de Synnada in Phrygia,
Rome Your Eminence, Your letter of July 24, concerning the questioning of certain truths was communicated through the good offices of our secretariat to all our major superiors. Few replies have reached us. Those which have come to us from Africa do not deny that there is great confusion of mind at the present time. Even if these truths do not appear to be called in question, we are witnessing in practice a diminution of fervor and of regularity in receiving the sacraments, above all the Sacrament of Penance. A greatly diminished respect for the Holy Eucharist is found, above all on the part of priests, and a scarcity of priestly vocations in French-speaking missions: vocations in the English and Portuguese-speaking missions are less affected by the new spirit, but already the magazines and newspapers are spreading the most advanced theories. It would seem that the reason for the small number of replies received is due to the difficulty in grasping these errors which are diffused everywhere. The seat of the evil lies chiefly in a literature which sows confusion in the mind by descriptions which are ambiguous and equivocal, but under the cloak of which one discovers a new religion. I believe it my duty to put before you fully and clearly what is evident from my conversations with numerous bishops, priests and laymen in Europe and in Africa and which emerges also from what I have read in English and French territories. I would willingly follow the order of the truths listed in your letter, but I venture to say that the present evil appears to be much more serious than the denial or calling in question of some truth of our faith. In these times it shows itself in an extreme confusion of ideas, in the breaking up of the Church's institutions, religious foundations, seminaries, Catholic schools―in short, of what has been the permanent support of the Church. It is nothing less than the logical continuation of the heresies and errors which have been undermining the Church in recent centuries, especially since the Liberalism of the last century which has striven at all costs to reconcile the Church with the ideas that led to the French Revolution. To the measure in which the Church has opposed these ideas, which run counter to sound philosophy and theology, she has made progress. On the other hand, any compromise with these subversive ideas has brought about an alignment of the Church with civil law with the attendant danger of enslaving her to civil society. Moreover, every time that groups of Catholics have allowed themselves to be attracted by these myths, the Popes have courageously called them to order, enlightening, and if necessary condemning them. Catholic Liberalism was condemned by Pope Pius IX, Modernism by Pope Leo XIII, the Sillon Movement by Pope St. Pius X, Communism by Pope Pius XI and Neo-Modernism by Pope Pius XII. Thanks to this admirable vigilance, the Church grew firm and spread; conversions of pagans and Protestants were very numerous; heresy was completely routed; states accepted a more Catholic legislation. Groups of religious imbued with these false ideas, however, succeeded in infiltrating them into Catholic Action and into the seminaries, thanks to a certain indulgence on the part of the bishops and the tolerance of certain Roman authorities. Soon it would be among such priests that the bishops would be chosen. This was the point at which the Council found itself while preparing, by preliminary commissions, to proclaim the truth in the face of such errors in order to banish them from the midst of the Church for a long time to come. This would have been the end of Protestantism and the beginning of a new and fruitful era for the Church. Now this preparation was odiously rejected in order to make way for the gravest tragedy the Church has ever suffered. We have lived to see the marriage of the Catholic Church with Liberal ideas. It would be to deny the evidence, to be willfully blind, not to state courageously that the Council has allowed those who profess the errors and tendencies condemned by the Popes named above, legitimately to believe that their doctrines were approved and sanctioned. Whereas the Council was preparing itself to be a shining light in today's world (if those pre-conciliar documents in which we find a solemn profession of safe doctrine with regard to today's problems, had been accepted), we can and we must unfortunately state that: In a more or less general way, when the Council has introduced innovations, it has unsettled the certainty of truths taught by the authentic Magisterium of the Church as unquestionably belonging to the treasure of Tradition. The transmission of the jurisdiction of the bishops, the two sources of Revelation, the inspiration of Scripture, the necessity of grace for justification, the necessity of Catholic baptism, the life of grace among heretics, schismatics and pagans, the ends of marriage, religious liberty, the last ends, etc. On all these fundamental points the traditional doctrine was clear and unanimously taught in Catholic universities. Now, numerous texts of the Council on these truths will henceforward permit doubt to be cast upon them. The consequences of this have rapidly been drawn and applied in the life of the Church: doubts about the necessity of the Church and the sacraments lead to the disappearance of priestly vocations, doubts on the necessity for and nature of the "conversion" of every soul involve the disappearance of religious vocations, the destruction of traditional spirituality in the novitiates, and the uselessness of the missions, doubts on the lawfulness of authority and the need for obedience, caused by the exaltation of human dignity, the autonomy of conscience and liberty, are unsettling all societies beginning with the Church―religious societies, dioceses, secular society, the family. Pride has as its normal consequence the concupiscence of the eyes and the flesh. It is perhaps one of the most appalling signs of our age to see to what moral decadence the majority of Catholic publications have fallen. They speak without any restraint of sexuality, of birth control by every method, of the lawfulness of divorce, of mixed education, of flirtation, of dances as a necessary means of Christian upbringing, of the celibacy of the clergy, etc. Doubts on the necessity of grace in order to be saved cause baptism to be held in low esteem, so that for the future it is to be put off until later, and occasion the neglect of the sacrament of Penance. Moreover, this is particularly an attitude of the clergy and not the faithful. It is the same with regard to the Real Presence: it is the clergy who act as though they no longer believe by hiding away the Blessed Sacrament, by suppressing all marks of respect towards the Sacred Species and all ceremonies in Its honour. Doubts on the necessity of the Church, the sole source of salvation, on the Catholic Church as the only true religion, emanating from the declarations on ecumenism and religious liberty are destroying the authority of the Church's Magisterium. In fact, Rome is no longer the unique and necessary Magistra Veritatis. Thus, driven to this by the facts, we are forced to conclude that the Council has encouraged, in an inconceivable manner, the spreading of Liberal errors. Faith, morals and ecclesiastical discipline are shaken to their foundations, fulfilling the predictions of all the Popes. The destruction of the Church is advancing at a rapid pace. By giving an exaggerated authority to the episcopal conferences, the Sovereign Pontiff has rendered himself powerless. What painful lessons in one single year! Yet the Successor of Peter and he alone can save the Church. Let the Holy Father surround himself with strong defenders of the faith: let him appoint them to the important dioceses. Let him by documents of outstanding importance proclaim the truth, search out error without fear of contradictions, without fear of schisms, without fear of calling in question the pastoral dispositions of the Council. Let the Holy Father deign: to encourage the bishops to correct faith and morals, each individually in his respective diocese as it behoves every good pastor to uphold the courageous bishops, to urge them to reform their seminaries and to restore them to the study of St. Thomas; to encourage Superiors General to maintain in novitiates and communities the fundamental principles of all Christian asceticism, and above all, obedience; to encourage the development of Catholic schools, a press informed by sound doctrine, associations of Christian families; and finally, to rebuke the instigators of errors and reduce them to silence. The Wednesday allocutions cannot replace encyclicals, decrees and letters to the bishops. Doubtless I am reckless in expressing myself in this manner! But it is with ardent love that I compose these lines, love of God's glory, love of Jesus, love of Mary, of the Church, of the Successor of Peter, Bishop of Rome, Vicar of Jesus Christ. May the Holy Ghost, to Whom our Congregation is dedicated, deign to come to the assistance of the Pastor of the Universal Church. May Your Eminence deign to accept the assurance of my most respectful devotion in Our Lord. Marcel Lefebvre,
Titular Archbishop of Synnada in Phrygia,
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