第412号 2010/01/6 私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日
アヴェ・マリア! 愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでしょうか。 今日は、私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日ですね。御公現の黙想をしていると、御公現の祝日とは、実は「婚姻の神秘」を祝う日であると深く思えてきました。 そこで、この「マニラの eそよ風」をご結婚生活を送る全ての愛する兄弟姉妹の皆様に送ろうと思います。 「マニラの eそよ風」は、今回からまぐまぐ!からも発信するので、今日は記念すべき日でありますが、婚姻の神秘を黙想しながら、婚姻の反対の神秘、つまり、革命という反乱の神秘を黙想し、「マニラの eそよ風」 410号の続きを黙想することを提案したいと思います。 【御公現の祝日は「婚姻の神秘」を祝う】 御公現の祝日には、カトリック教会の聖伝は、私たちに3つの奇蹟を祝うように教えています。例えば、今日の晩課のマニフィカットのアンティフォナをご覧下さい。
Tribus maraculis ornatum diem sanctum colimus : 日本語訳は次の通りです。
私たちは三つの奇蹟に飾られた聖なる日を祝う。 この奇蹟に共通していることは何でしょうか? 私たちの主イエズス・キリストの御神性と御人性との結合です。つまり、天主の第二のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性とが混じり合うことなく分かたれ得ることなく結合している神秘です。何故なら、御公現とは、幼子イエズス・キリストの天主であることを顕示すること(エピファニア)だからです。だから、イエズス・キリストは水を葡萄酒に変えてご自分が天主であることを証明し、洗礼を受けた直後のイエズス・キリストに天から聖父の声が聞こえて「これは私の愛する聖子である」という証言がなされたのです。 何故、天主の第二のペルソナは、ご自分のペルソナにおいて、天主の本性と人間の本性と結合させたのでしょうか? 人間の本性を摂取し給うたのでしょうか? それは、私たちを救うためです。つまり、私たちを天主の命へと導くため、私たちをして天主の三位一体の永遠の生命のまどいの中に結合させ、私たちをいわば天主化させるためです。私たちが水によって洗礼を受けて、罪から清められ、罪を赦され、ついに天主の成聖の恩寵を受け、超自然の命に生き、キリストの命に生き、キリストの御体と御血に養われ、ついに天主とともに天国の至福の宴会に連なるためです。天主のいと高き御稜威を目の当たりに見奉り、至福直感の永遠の生命を受けるためです。 だからこそ、御公現の祝日の集祷文はこう言うのです。
今日、御身の御ひとり子を導きの星によって
(これについては、「マニラの eそよ風」 71号をご覧下さい。) 私たち洗礼を受けた者はすなわちキリストの神秘体の肢体であり、キリストは神秘体の頭です。キリストの神秘体とは、つまりカトリック教会のことであり、キリストと教会とは一体をなします。キリストは教会を花嫁として神秘的な婚姻の結合により、一つの体となっているのです。イエズス・キリストはヨルダン川で洗礼を受けながら、ご自分の神秘体を罪から清めた、つまり、キリストは洗礼を受けることによって、教会と一致し合体し婚姻で結ばれたのです。 キリストの教会との神秘的婚姻は、イエズス・キリストの御神性と御人性との結合の実りです。だから、典礼における「永遠の今日」において、星は博士たちをまぐさおけに導き、イエズス・キリストの御神性と御人性との結合を証ししてそれに相応しい贈り物を捧げただけではなく、すでに、教会はこの贈り物の中に、キリストと教会との神秘的婚姻を祝う「婚姻の引き出物」を見ているのです。さらに、典礼における「永遠の今日」において、教会は、カナの婚姻の宴会のなかに、キリストと教会との婚姻の神秘を見いだし、それに連なる洗礼を受けた私たちが水から出来た葡萄酒を味わって喜んでいる神秘を祝っているのです。 ですから、御公現の讃課(laudes)のベネディクトゥスのアンティフォナにはこうあるのです。
Hodie caelesti Sponso iuncta est Ecclesia, 日本語訳は、次の通りです。
今日、天の花婿は教会と結ばれた。 そうです。私たちは、天主を知り、愛し、これに仕えるためにこの世に生まれてきました。この地上で天主を知り愛し、天国で永遠の愛の火に燃えて幸せに天主を愛するためです。一度、天国で天主と結ばれた私たちは、もはや永遠に離別することがあり得ないでしょう。キリストは、私たちの頭であり、私たちは頭から離れては、生きることが出来ないのです。 【頭を失った肉体は、徐々に腐敗する】 私たちは天主の似姿に似せて創られましたが、天主は私たちをご自分の命に導くために、私たちの似姿を取り人間となりました。天主と私たちとが信仰と愛の火による一致と結合をするために。そして、このキリスト教の信仰と愛徳の火が、「天主の国」を地上に打ち立てようとしました。それがキリスト教文明社会です。 サタンは、最初から嘘つきで人殺しでした。私たちからキリストの命を奪おうとし、憎しみの地獄の火で燃えています。サタンは、このキリスト教文明社会を崩壊させ、人間社会を分解させようとしています。キリストと人類との神秘的婚姻関係を、離婚へと引きずり下ろそうとしています。 「マニラの eそよ風」 410号では、キリスト教から背教し、キリスト教を否定しようとする革命の歴史について考察しました。そこで私たちは、共産主義(第三革命)とは、天主に対する革命(第一革命)と王に反対する革命(第二革命)との結果であると言うことを見ましたが、サタンの策略をもう一度、考察しましょう。 魚は頭から腐るといいますが、人間も霊魂が肉体から離れると、徐々に腐敗を開始します。そしてついには肉体は完全に分解してしまいます。 それと同じように、天主の定めた経綸における現在の世界において、人間社会を本当の意味で生かすカトリック信仰が、社会としての社会から革命によって消滅させられると、社会は徐々に崩壊へとの歩みを進めます。第一革命には第二革命の芽と第三革命の種が含まれているのです。カトリック文明社会にたいする第一革命の反乱は、論理的に、共産革命へと結びつき、人間社会の完全な分解と崩壊へと突き進ませています。 天主を知ろうとしないことは、真の天主を礼拝しようとしないことは、人間をして愚かな者としてしまいます。聖パウロはローマ人への手紙の中でこう断言しています。 「天主の不可見性、すなわちその永遠の力と天主性とは、世の創造のとき以来、そのみわざについて考える人にとって、見えるものだからである。したがってかれらは言い逃れができない。かれらは天主を知りながらこれを天主として崇めず、感謝しなかったからである。かれらは愚かな思いにふけり、その無知の心はくらんだ。かれらは、みずから知者と称えておろかな者となり、不朽の天主の光栄を、朽ちる人間、鳥、獣、はうものに似た形にかえた。 そこで天主は、かれらの心の欲にまかせ、たがいにその身をはずかしめる淫乱にわたされた。かれらは、天主の真理を偽りに変え、創造主の代りに被造物を拝み、それを尊んだ。天主は世々に賛美されますように。アメン。ここにおいて天主は、かれらを恥ずべき欲に打ちまかせられた、すなわち、女は自然の関係を、自然にもとった関係に変え、男もまた、女との自然の関係をすてて、たがいに情欲をもやし、男は男とけがらわしいことをおこなって、その迷いに値する報いを身に受けた。またかれらは、深く天主を知ろうとしなかったので、天主は、かれらのよこしまな心のままに、不当なことをおこなうにまかせられた。かれらは、すべての不正、罪悪、私通、むさぼり、悪意にみちるもの、憎み、殺害、あらそい、狡猾、悪念にみちるもの、そしる者、悪口する者、天主に憎まれる者、暴力をもちいる者、高ぶる者、自慢する者、悪事に巧みな者、親にさからう者、愚かな者、不誠実な者、情のないもの、あわれみのないものである。これらをおこなう者は死に当るという天主の定めを知りながら、かれらはそれをおこなうばかりでなく、それをおこなう人々に賛成するのである。」 【共産主義は、二つの革命の遺産を相続している】 共産主義は、二つの革命の遺産を相続しているので、本質的に天主に対する反乱の続きです。従って、カトリック教会に反対する革命であり、全ての宗教的権威に反対し、全ての宗教に反対します。共産主義によれば、宗教とは人間疎外です。人間疎外とは、人間が人間でななくなること、人間が人間として失われること、人間が人間として完成されないことという意味です。そのためにマルクスは宗教を「人民のアヘン」だと言いました。 マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序論』(Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie)(1844年)の中でこう書いています。 Karl Marx / Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosophie. Einleitung 「実に、宗教とは、人間自身にまだなっていない或いは再び自分を失ってしまった人間の自己自覚であり自己感情である。(Und zwar ist die Religion das Selbstbewußtsein und das Selbstgefühl des Menschen, der sich selbst entweder noch nicht erworben oder schon wieder verloren hat.)」 「宗教上の苦しみは、現実的な苦しみの表現でもあるし、現実的な苦しみにたいする抗議でもある。宗教は、逆境に悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに、精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である。(Das religiöse Elend ist in einem der Ausdruck des wirklichen Elendes und in einem die Protestation gegen das wirkliche Elend. Die Religion ist der Seufzer der bedrängten Kreatur, das Gemüt einer herzlosen Welt, wie sie der Geist geistloser Zustände ist. Sie ist das Opium des Volkes.)」 マルクスにとって、宗教とは不要であるのみならず、積極的に排斥すべき悪となります。何故なら、マルクスの弁証法によれば、天主と人間とは対立しているからです。何故なら、もしも天主が存在するなら、天主は人間を創造したのであり、そうであるならば人間は人間自らを創造することが出来ない、そして人間は人間として存在することが出来ないからです。しかし、マルクスの弁証法によれば、人間は歴史を創造し、人間は人間として存在しているので、天主は存在しないし、天主は人間の創造主でもない、となるからです。 マルクスによれば、人間が天主を呼び求めるとすれば、それは人間がその弱さに押されてのことであり、人間が人間であることを失ったからだと言います。そこで人間は、想像上の超人に、人間が持たない属性を帰属させて、天主を作り上げる、と言います。こうやって出来た宗教は、人間が自分を作り上げることを邪魔し、人間が人間を創造することを阻止することになる、と言います。そこでマルクスによれば、宗教は人間を破壊するもの、つまり悪となるのです。 共産主義の弁証法によれば、天主を無視したり、否定するだけではないのです。そうではなく、人間こそが天主である、創造主であると断言するのです。 人間の外にましまし給う天主という概念は、廃止されなければならず、天主とは人間のこころの産物として、人間の内部に内属するものでなければならないのです。 マルクスは、宗教と所有財産との間に緊密な関係を確立させました。マルクスは、更に、宗教の廃止(無神論)と所有財産の廃止(共産主義)との密接な関係、弁証法的に発展し止揚した無神論(人間の天主化)と弁証法的に発展し止揚した共産主義(真の共産主義)との間に緊密な関係を確立させました。 Karl Marx / Ökonomisch-philosophische Manuskripte 「神の止揚としての無神論は、理論的人間中心主義(ヒューマニズム)の到来であり、私的財産の止揚として共産主義は、人間財産としての真の人間生命の要求であり、実践的人間中心主義の到来である。無神論とは、宗教の止揚によって媒介された人間中心主義であり、共産主義とは私有財産の止揚によって媒介された人間中心主義である。私たちがこの媒介 -- この媒介は前提条件として必要なものであるが -- を止揚したときはじめて、実証的にそれ自身から生じてくる実証的人間主義が存在し始めるだろう。(der Atheismus als Aufhebung Gottes das Werden des theoretischen Humanismus, der Kommunismus als Aufhebung des Privateigentums die Vindikation des wirklichen menschlichen Lebens als seines Eigentums ist, das Wenden des praktischen Humanismus ist, oder der Atheismus ist den durch Aufhebung der Religion, der Kommunismus der durch Aufhebung des Privateigentums mit sich vermittelte Humanismus. Erst durch die Aufhebung dieser Vermittelung – die aber eine notwendige Voraussetzung ist – wird den positiv von sich selbst beginnende, der positive Humanismus.)」 ここで言われている「止揚」という言葉は、ドイツ語の Aufhebung の訳で、これは動詞 aufheben から由来しています。Aufheben は、高める、保存する、止める、廃止する、という意味があって、この多義的な単語を利用して「弁証法」を作ります。弁証法は、三つの契機(Moment)を持ち、よく正、反、合といわれますが、ヘーゲル自身は肯定、否定、否定の否定と呼ぶ方を好みました。肯定は、否定を要請し、肯定と否定との対立は、否定の否定を要請します。否定の否定とは、肯定を止揚する(aufheben)ことで、新しい肯定となって、更なる否定を自然と生み出し、云々終わりなき運動を続けると主張しました。ヘーゲルは論理学の中で「矛盾は全ての運動の根源である」と言っています。 肯定と否定との間にある関係は「疎外」(ドイツ語 Entäusserung 英語 alianation)と言われます。これは肯定が否定されて自分が自分でなくなること、自分がよそ者であるかのようになることを意味し、専門用語で「疎外」と言います。この疎外の中には、苦しむという概念を含んでいます。ヘーゲルによれば、精神は弁証法的に発展・前進するためには自己否定する必要があり、それは苦しいこととなります。 ヘーゲルは、全ての運動の根源である、肯定と否定との間の弁証法的矛盾を「媒介」(ドイツ語 VERMITTLUNG 英語 mediation)といいます。 【カトリック神学の歪曲である共産主義】 マルクスを理解するには、ヘーゲルを理解しなければなりません。ヘーゲルを深く理解するためには、キリスト教の神秘を知っていなければなりません。 御公現の祝日の玄義を黙想したときに既に申し上げましたが、カトリック教会は、人間はこの世では信仰と愛によって天主を観想し、天国では愛によって天主を至福直感するために生を受けたことを教えています。 天主は無限に超越した方であり、全ての被造の存在を本質において超越していると同時に、創造主として全ての被造物をあらしめる者として全ての被造物の最も深奥にましまし給うのです。この無限の三位一体の天主は、まったく必然性もなく、義務もなく、ただ無限の良さから無償で、自由に、全被造物を無から創造しました。 この同じ三位一体の第二の天主のペルソナである天主の御言葉(ロゴス)は、まったく必然性もなく、義務もなく、ただ無限の良さから無償で、自由に、人間となりました。天主の聖子は、天主の聖子であることを止めることなしに、人の子となったのです。これが托身(incarnatio)の玄義であり、聖パウロはフィリッピ人への手紙の中で、この玄義を「天主が自分自身を無とした」と言っています。 「たがいにイエズス・キリストの心を心とせよ。かれは、本性として天主であったが、天主と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷の姿をとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のように見え、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、「イエズス・キリストは主である」といいあらわすためである。」 聖パウロは、ここでギリシア語では εαυτον εκενωσεν (自分を空にする、自分を無きとする)と書きました。ラテン語では、exinanivit です。聖パウロがこの言葉を言ったとき、御言葉が「自分を無として」人間となったときでもキリストが天主であることを止めたわけではなかった、ということを言おうとしていました。天主の御言葉は、天主として留まり、別の者に変化したわけではないのです。聖パウロは、私たちにイエズス・キリストが天主でありながら、その天主の栄光と天主の全能を隠して人間となったその天主の謙遜と愛とを私たちに教えようとしていたのです。 ところが、ルターによる第一革命以来、この言葉が神学的に誤った解釈が導入されました。ルターは、ドグマをそれ自体、真理として、また純粋な観想の対象として興味を抱きませんでした。ルターにとって唯一の関心事は、私たちにとっての真理であり、私たちの義化でした。ルターは自分が十字架の神学と呼ぶものだけに関心を示し、キリスト教の形而上学的な考察には興味を抱きませんでした。ルターにとって、キリストに二つの本性があろうと無かろうとどうでも良かったのです。カトリック教会が教えるように「キリストが、可受難的な人間性において苦しみ死んだ」のだろうが、「キリストが、天主性において苦しみ死んだ」のだろうが、関心がありませんでした。ただ、キリストが私たちの罪を負い、キリスト自身の義を私たちに伝えるということが重要でした。 そこでルターは、観想的・形而上学的な厳密さを欠き、イエズス・キリストにおいて「天主が人間となり罪となった」という表現が、あたかも天主がその全ての天主の本性と本質と不可変性の属性を全て脱ぎ去り、被造物の条件を受けたと理解してしまったのです。これがケノーシス神学として、十八世紀から十九世紀のプロテスタント神学を作りました。 このルター神学理解を誤解したものを基礎に、ヘーゲルは自分の哲学体系を作ります。 ヘーゲルの使った単語「疎外」 Entäusserung とは、"hat sich selbst geäussert" という表現の名詞形です。この表現は、聖パウロのフィリッピ人への手紙のなかの「自分自身を無とした」をルターが訳した時に使った表現でした。 ケノーシス神学による「ロゴスが天主性を無にして人間性を着る、それは霊によって教会共同体において高められるためである」は、ヘーゲルの体系によれば「精神は、歴史のいろいろな形(Gestalten)において、疎外され(無となり)、有限と無限とを含める絶対精神にまで止揚される(高められる)」と歪曲されるのです。ロゴス(肯定)は、超越的な全ての属性を捨てて無となり死に(否定・疎外)、ロゴスは高められる(否定の否定、止揚、 aufheben)という構図です。ヘーゲルによれば、キリストの死は、無化であり、疎外(Entäusserung)であり、同時に、媒介(Vermittlung)です。ヘーゲルが、自分の体系を有名な「主人と奴隷の弁証法」(Dialektik von Herrn und Knecht)で説明しているのも、ケノーシス神学の超越的な天主があり、それを拒否するためでした。 ヘーゲルは、キリスト教の玄義、三位一体の玄義、御托身の玄義、主の御受難と死の玄義などを誤解して、弁証法の三つの契機に移し替えたのです。キリスト教の玄義(神秘)を人間の理性に合わせて作り替えた異端体系を、グノーシス主義と言うので、ヘーゲルの体系もヘーゲル的グノーシス主義と呼ぶことが出来るでしょう。 まだたとえ無神論であったとしてもヘーゲルの体系では、精神は物質よりも優位に立っていましたし、有が無よりも優位であり、運動も上へと向かっていました。 マルクスは人間の肯定は、資本主義によって失われ、共産主義によって救いをもたらさなければならないとしました。このケノーシス神学とパラレルに見ると、マルクスによる人間は、資本主義によって「自らを無とし」無産階級(プロレタリア)となった、しかし、プロレタリアはメシア(救い主)の特徴を帯びることになるのです。共産主義社会は、マルクス主義のバージョンによれば、キリストの神秘体すなわち教会に相当するのです。こうして、共産主義は、反キリスト教の革命を執行するキリスト教の異端グノース主義とも言えるのです。 【マルクスの無神論】 マルクスにとって、無神論(そして共産主義)とは、単なる逃避や単なる否定、単なる欠如や何か(天主・私有財産)の欠如ではありません。これらの否定を通して、人間を肯定することです。天主の存在を否定することによって、人間の現存を措定し肯定することです。天主を単なる否定するために天主を止揚するのではないのです。人間が天主であると断言するために、積極的に人間を天主であると意識させるために天主を止揚するのです。 それと同様に、近代の産業の進歩によってもたらされた私有財産を、単に否定するためにこれを止揚するのではありません。マルクスによれば、この巨大な産業の進歩を人間共同体の手に譲り渡すために私有財産を止揚するのです。 マルクスは、単なる否定の無神論に満足しませんでしたし、単なる否定の共産主義に満足しませんでした。マルクスは、宗教の持つ積極的な価値(天主への信仰)を利用しようと望みました。それと同時に、私有財産の持つ積極的な価値(工業的生産を発展させる巨大な能力)を利用することをもくろみました。そこで、マルクスは、戦闘的無神論の内に積極的(実証的)共産主義を取り込んだのです。 マルクスの体系は、人間をして天主とする積極的なヒューマニズムで、富の生産のためにあります。天主の無い人類は、技術文明の創造者となるべきなのです。積極的無神論と積極的共産主義とは結びつくべきなのです。 【戦闘的無神論は、マルチン・ルターの宗教改革を究極まで進める】 ルターは、超自然の秩序を天主から正真正銘に委託されたローマ教皇に反対する攻撃を浴びせました。聖書を片手に持ちその自由解釈を主張することにより、天主の啓示を全て人間理性のはかろうとしました。しかし、この第一革命は、天主もキリストも廃止しませんでした。ただし現実にキリストと私たちとを結びつける活ける社会的な現実であるカトリック教会を廃止しました。 キリストと私たちとを結びつけるカトリック教会が否定されたからには、プロテスタント革命は論理的に、キリストが天主であることを否定するがしかし天主が存在することは認める唯神論へと、次に現実に天主が存在するか知り得ないとする不可知論へ、ついには天主の存在を否定する無神論へと道を突き進むことになります。天主なるキリストが立てたカトリック教会の巌であるペトロ(=教皇)を否定することにより、ルターはキリストを否定し、天主を否定する道を準備するのです。 典型的なケースがヴォルテールであり、彼はキリストを馬鹿にしますが、しかし天主の存在は信じ続けました。ヴォルテールは、宇宙は巨大な機械仕掛けの時計であり、この時計を作った偉大な時計工作者がいると考えていました。ルターはカトリック教会に攻撃をかけましたが、ヴォルテールは、キリストに攻撃をかけたのです。カトリック教会を創立したキリスト、人間となった天主、三位一体の第二のペルソナへと攻撃の対象が移りました。キリストの史実を書いた福音書が攻撃され、高等科学の容赦ない批判の目にさらされました。自然の作者としてだけの天主を信じる唯神論が、ヨーロッパの十七世紀、十八世紀の知的世界を包みました。 キリスト教の超自然の光なしには、人間は自然の真理ですら疑い始めます。人間の本性がもつ自然の理性を使って知りうる真理さえも人間は疑い始めました。カントは、その全著作をつかって人間は確実に天主の存在を知りうることは出来ないと述べたのでした。唯神論は、不可避的に不可知論へとたどり着いたのです。 或るものは天主と自然とを混同し、汎神論を説き(ヘーゲル)、或るものは天主の死を宣言しました(ニーチェ)。ついには、ルターの遺産相続者として、マルクスの無神論が出て来るのです。 共産主義は、第一革命だけの相続者ではありません。第二革命をも相続し、二つの革命の遺産を相続しています。 第二革命とは、フランス革命に代表されるように王を否定する経済中心主義革命です。第二革命は、人間から政治的条件を奪い取り、人間を単なる経済の一部(homo oeconomicus)としたのです。つまり、経済が全てを支配する世界です。 フランス革命は、権威の尊厳を弱めました。天主の啓示によれば、権威とは全て天主から由来し、共同体の共通善のためにあります。 フランス革命以後、権威は人民から由来し、富を持つ一階級(一部の党)の奉仕のためにあることになります。 フランス革命をもってブルジョワの世界が生まれましたが、リベラルな民主主義国家において、人民は強欲なブルジョワに従属し、ブルジョワは人民をブルジョワの利益のために厳しい労働へと縛り付けるでしょう。 マルクスが現れたとき、国家とは、真の人間から本来人間がもつ人間らしい尊厳を奪い取る人間疎外の機械となっていたのです。たとえ一部の人々の苦痛や犠牲を強いたとしても、全体の善のために様々な対立する意見を調整・調和・和解させる政治権威が消滅した後、市民社会は、利益団体の対立と、階級の対立と、地域利益の対立などにより分裂し始めたのです。国家はその時、支配階級の権力の道具となって現れてきました。 マルクスは、ブルジョワ階級との闘争に勝ってプロレタリア独裁が実現したあかつきには、国家は存在の意義を失い、自然消滅すると予言します。マルクスはこのことを『ゴータ綱領批判』で教え、また同じことをレーニンは『国家と革命』で繰り返します。 「労働者階級は、自己の解放のために、さしあたって今日の国民的諸国家の枠の中で闘うが、あらゆる文明国の労働者に共通する彼らの努力の必然的な成果が、諸国民の国際的な兄弟愛となるであろうことを自覚している」。
『ゴータ綱領批判』 共産主義者とは、宗教のない、政治のない人間であるから、超越者としての天主との関係も持たず、キリストと人々とを結びつけるカトリック教会もなく、国民の共通のいわば父である王のもとでの兄弟姉妹の関係もなく、経済市場で結びついていた同胞としての他の人々との関係もなく、労働だけに生きる人間、経済的産物を生産する道具となるのです。 【人間は、他者とどのようにして関係を結ぶのか】 天主を頂点とする宗教的社会では、人間は、天主を聖父として天主のもとに、人々との霊的な、人間的な、知的な、道徳的な、経済的な、厚い関係の層を作ります。人間は天主を介して人々と関係を結びます。天主を全てを超えて愛するために、隣人を自分のように愛するのです。天主を愛するという目的のために、隣人への奉仕は、天主への愛を証する手段として愛されるのです。 第一革命を経た、人間を頂点とする政治的社会では、人間は人々との間に知的な道徳的な経済的な関係をも築き上げます。人間は、人間と関係を結ぶのです。人間は、自分を愛するために、自分の人間としての完成を目指して、他の人間と直接に関係を結ぼうとします。 第二革命を経た、経済を頂点とする経済的社会では、人間は富の所有にのみ関心があります。金儲けのための自律と自由にのみ興味を持ちます。真理とか善ではなく、快楽を追求します。人間は、物との関係に入るのです。カネと物をかき集めることに全力を尽くすのです。もしも人間との関係に入るとすれば、人間のためではなく、より多くの富を獲得するためです。ブルジョワにとって、プロレタリアとの関係は、自分の利益の追求のためですから、搾取は当然のこととなるのです。経済社会では、人間は物と関係を結ぶからです。 第三革命を経た、労働を頂点とする共産主義的社会では、共産主義は富にではなく、富を生み出す労働にのみ関心があります。天主は敵であり、王の権威も敵であり、ブルジョワ的物質的快楽と楽しみも敵であり、ただ産出する労働にのみ、たとえ労働の成果を受けることがなかったとしても、労働することだけに関心を持たなければなりません。共産主義が創り出す新しい人間とは、産業集団社会の単なる道具に過ぎないことに満足する以外のいかなる望みも持ってはならないのです。共産主義社会では、人間は関係を結ばない一個の道具となるのです。 共産主義は、人間の生活には関心が無く、人間の労働に関心が無い、マルクスはそのことを『ドイツ・イデオロギー』の中でそのことを教えています。 「ひとは人間を意識によって、宗教によって、その他思いの儘のものによって、動物から区別することが出来る。人間自身は、彼等が彼等の生活資料を生産し始めるや否や、自己を動物から区別し始めるのである、この行動たるや、彼等の肉体的組織によって制約されている。人間は彼等の生活資料を生産することによって、間接に彼等の物質的生活そのものを生産する。」 「従って最初の歴史的行為は、これらの欲望を満足するための手段の生産、即ち物質的生活そのものの生産である、しかもこれは人間の命だけをつなぐために、今日もなお、数千年前と同様に、日々刻々遂行されねばならぬひとつの歴史的行為であり、日々刻々充足されねばならぬ一切の歴史のひとつの根本条件である。」
『ドイツ・イデオロギー』 レーニンは、共産主義体制における労働を次のように定義しています。
「共産主義的労働とは、最も教義の、最も厳密な意味において、社会のために無償で提供される労働である。法的義務の履行としての賦役としてでもなく、何らかの生産物への権利を得るためでもなく、あらかじめ定められた法的規律によるのでもなく為された労働であり、全ての規律の外に喜んで提供され、報償を期待しない、見返りを要求しない労働、集団のために労働するという習慣によって条件付けられ且つ共同体の利益のために働く必要性という(習慣となった)感情によって条件付けられた労働、健全な組織の必要に答える労働のことである。」(ウラジミール・レーニン『世俗の秩序の破壊と新秩序の創造について』よりの引用)
Le travail communiste, au sens le plus étroit, le plus strict du mot, c'est le travail fourni gratuitement au profit de la société; un travail qui n'est accompli ni comme une prestation déterminée, ni pour avoir droit à certains produits, ni selon des normes légales fixées d'avance; c'est un travail volontaire fourni en dehors de toute norme, sans attendre une rémunération, sans convenir d'une récompense, un travail conditionné par l'habitude de travailler pour la collectivité et par le sentiment (devenu habitude) de la nécessité de travailler au profit de la communauté - un travail répondant au besoin d'un organisme sain.
(V. Lénine : De la destruction d'un ordre séculaire et de la création d'un ordre nouveau) 従って、最も厳密で正当なマルクス主義によれば「共産主義的教育の基本的目的は、労働が第一の生きるための必要となる新しい人間を養成することであり、この条件を獲得させることは、極めて大切である」と言う。(上掲書 p.369)(L'éducation communiste, dont le but fondamental est de former un homme nouveau pourqui le travail deviendra le premier besoin vital, acquiert dans ces conditions une importance énorme.) 【共産主義にとって、人間とは労働するだけの奴隷である】 「経済人」homo oeconomicus とは、ブルジョワ的社会が生みだしたものです。ブルジョワ的社会では、最も楽をして、最小の労力で、最大の利益と製品とを生み出すように全社会が秩序付けられています。経済人の理想とは、勝ち組になることです。つまり、経済的利益を生み出して、それを楽しむことです。しかし、この理想を手にすることが出来るのは、限られた一握りのほんの少数の人々にすぎません。 かつて存在したカトリック文明社会は、本質的に天主を頂点とし、超自然的であり、司祭的な文明社会でした。全ての人間活動は、天主と人間との一致へと向かっていました。天主を持つ社会では、秩序は天主に由来する社会でした。天主の選びによって王が立てられ、王は臣民たちにとっていわば父のようであり、天主は人間を男と女に創り、目と耳と口を作られたように、様々な役割分担によって社会が機能することは、あまりにも当然でありました。 宗教改革に代表される「第一革命」を経た、十七世紀の社会では、本質的に人間を頂点とし、自然的であり、王的な文明社会でした。王を持つ社会は、秩序のある社会でした。手が口に向かって、おまえは食べてばかりいるだけで働かない!と不平を言うこともなく、手は全体のために働き、口は体の全体のために食べるように、社会には機能の分担がありました。 フランス革命に代表される「第二革命」を経た、ブルジョワ的社会は、一部の一握りの成功した実業家を頂点とする社会を築こうとするのですから、それを正当化するどのような大義名分があるというのでしょうか? 王もなく全ては平等で自由なのですから、何故特権階級が存在することが許されるのでしょうか? 大多数が、一握りの特権階級の経済的成功のためにただひたすら労働することをどのように正当化するのでしょうか? 何故、賃金労働をする大衆の労働の成果を特権的なごく少数だけが楽しんで良いのでしょうか? 全ては手となって、働かなければならないのではないでしょうか? しかし、マルクスはこのことを問題にしたわけではありません。マルクスにとっての問題は、別のところにありました。 マルクスにとって、人間とは自分を創り出す存在、創造主です。自己創造をする人間の物質的生命を生み出す第一の基本的行為とは、労働です。従って、人間は労働の管理の権利を他者に譲ることが出来ないと主張するのです。プロレタリアとは、労働による以外には生産の社会的現実を持たない労働者のことですから、プロレタリアこそが、労働の管理と指導をしなければならない、そうすることによって、疎外化された労働をプロレタリアの手に取り戻すことを主張したのです。人間は労働して、喜んで労働だけをする新しい人類を創造する、と言うのです。 何故でしょうか? 何故なら、マルクスは自由主義経済理論の原理に従って、労働は商品価値を構成する価値があるという法則(労働価値説 Labor Theory of Value)を信じていたからです。労働としての労働に商品価値を構成する価値があるのですから、共産主義敵人間は、価値を生み出すものとしての労働にひたすら明け暮れなければならないのです。その時、労働の結果を楽しむというリベラルな経済人の理想は止揚されなければなりません。制裁の手段としての私有財産すなわち資本は止揚されて、排他的な労働者だけの社会を打ち立てるべきだとしたのです。 私有財産の廃止をもって、マルクスは、賃金労働者たちを全て一握りの特権階級の条件にまで高めることが出来たでしょうか? それとも、一握りの特権階級を賃金労働者たちの条件に下げることになるのでしょうか? アリストテレスと共に常識は、私たちに人間を労働に駆り立てるのは二つしかないと教えています。一つは、自分の財産を殖やそうという欲望、もう一つは、罰を恐れる恐怖です。人間の本性と人間心理は、原罪をもって生まれた人間が、或いは富や快楽を獲得するためか、或いは罰を恐れて労働することを示しています。 労働意欲を自然に起こさせる私有財産が廃止された後、共産主義社会は論理的結論として、別のことによって労働意欲を起こさせなければなりません。つまり強制労働です。使役労働です。 確かにマルクスは、人間の労働は、動物の労働よりも優れていると言います。何故なら、人間は、動物よりも優れた意志、緊張、肉体的および精神的諸力の働きを、労働のためだけに使うからです。マルクスによれば、人間は肉体的および精神的諸力の進歩させるために働くのではなく、労働のために肉体的および精神的諸力を持っているのです。労働とは常に辛いものですから、人間をして労働に仕向けるために、これらの力を人間は持っているのです。共産主義によれば、人間とは、労働者としての人生を送る単なる道具であり使役動物であるのですから、精神的諸力がそのための手段でなくて、一体何なのでしょうか? 「クモは織布者の作業に似た作業を行なうし、ミツバチはそのロウの小室の建築によって多くの人間建築師を赤面させる。しかし、最も拙劣な建築師でも最も優れたミツバチより最初から卓越している点は、建築師は小室をロウで築く以前に自分の頭の中でそれを築いているということである。労働過程の終わりには、そのはじめに労働者の想像の中にすでに現存していた、したがって観念的に現存していた結果が出てくる。彼は自然的なものの形態変化を生じさせるだけではない。同時に、彼は自然的なもののうちに、彼の目的・・彼が知っており、彼の行動の仕方を法則として規定し、彼が自分の意志をそれに従属させなければならない彼の目的・・を実現する。そして、この従属は決して一時的な行為ではない。労働の全期間にわたって、労働する諸期間の緊張のほかに、合目的的な意志が必要とされ、それは注意力として現われ、しかもこの意志は、労働がそれ自身の内容と遂行の仕方とによって労働者を魅了することが少なければ少ないほど、したがって労働者が労働を自分自身の肉体的および精神的諸力の働きとして楽しむことが少なければ少ないほど、ますます多く必要となる。」(カール・マルクス『資本論』第一巻 第3編 絶対的剰余価値の生産 第5章 労働過程と価値増殖過程 第1節 労働過程) 「資本論」第一巻 カール・マルクス著 / § 第3編 絶対的剰余価値の生産 / ☆第5章 労働過程と価値増殖過程 / ★第1節 労働過程 私たちは、ここで、もう一度「マニラの eそよ風」410号でした結論を繰り返さなければなりません。 共産主義によれば、人間とは、天主の子という超自然の恵みを取り上げられ、人間であるということを取り上げられ、動物であると言うことさえも取り上げれた存在となるのです。 共産主義は、人間を物質に変えます。プロレタリアの集団化社会の作り上げる偉大な工場の中に組み込まれた、ナットや歯車の一つと同じものするのです。 プロレタリア独裁の全能の手は、天主の子供という条件を人間から取り上げ、天主の似姿に創られ、天主を観想するために生まれてきたと言うことを否定します。プロレタリア独裁は、人間から自然の支配者であるという理性的条件を取り上げます。さらに感覚的な喜びを楽しむという動物的な条件さえも失わせます。人間は、集団化大工場の要求に従って使われまた捨てられる一個の物質となり、人間は本当の目的を失ってしまうのです。共産主義にとって、最高の価値は物質的生産を行う労働となり、人間が労働の実りを楽しむか否かにかかわらず、目的もない労働そのものだけが価値を持つことになります。共産主義はこうして単なる手段である労働を、人間の究極の目的として打ち立てるのです。 共産主義者にとって、人間とは、天主を観想するという天上の満足もなく、政治的共同体生活という人間的満足もなく、経済的利益を楽しむという動物的な満足もなく、奴隷のように労働すること、ただ単に働く奴隷なのです。 では、どのようにして共産主義は進展していくのでしょうか? 私たちは誰も共産主義のもとでの奴隷になりたくはありません。共産主義が共産主義として浸透すると考えるのは間違っています。共産主義は豊かな国には浸透しないと思うのも間違っています。共産主義を取りたいと思って共産主義の手に落ちる国はありません。国民は、巧妙に欺されて、共産主義を受け入れるように仕向けられているのです。では、一体どうやって? これについては、また後の機会に黙想することを提案します。 愛する兄弟姉妹の皆様に、天主様の祝福が豊かにある良き新2010年をお祈りすると共に、今後も引き続き「マニラの eそよ風」のもご愛顧をお願いいたします。
天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind. |