マニラのeそよ風

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第410号 2009/11/11 聖マルチノの祝日

St. Martin of Tours at Mass
St. Martin of Tours at Mass


獅子の声 (第3号)

アヴェ・マリア!
 愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでしょうか?

 「獅子の声」(第3号)?!

 マニラの eそよ風 (第410号)は、特別に「獅子の声」(第3号)という名前が付いています。何故なら、5年ぶりに、今、アジア管区長の招きでシンガポールに滞在しているからです。シンガポールの新しい美しい聖堂を見る機会が出来、また、昔の懐かしい友人たちと再会できとても幸福です。シンガポールでの聖ピオ十世会では、ますます多くの新しい信徒の方々が聖伝のミサに与るようになっているそうです。

 ところで、先号の「マニラの eそよ風」では、聖ピオ十世会総長のお手紙を紹介しつつ、歴史について少し考察しました。典礼暦年の終わりが近づいていますので、このテーマについて黙想を続けることを提案したい思います。

 つい最近、或る政治家が仏教連盟の支持をとりつけるために高野山に行って「キリスト教文明の行き詰まり」を語ったそうです。報道によるとこの政治家は「キリスト教を背景とした西洋文明が生き詰まっている」と言ったそうです。

「キリスト教は独善的」と小沢氏、仏教は称賛
産経ニュース 2009.11.10 21:21 / 共同通信 2009/11/10 20:56

松長有慶座主と会談する小沢幹事長  民主党の小沢一郎幹事長は10日、和歌山県高野町で全日本仏教会の松長有慶会長と会談後、記者団に宗教観を披露した。この中で小沢氏はキリスト教に対し「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰まっている」との見解を表明。イスラム教については「キリスト教よりましだが、イスラム教も排他的だ」と述べた。

 国政に影響力を持つ与党の実力者による批判発言だけに、波紋を広げる可能性がある。

 一方、仏教に関しては「現代社会は日本人の心を忘れたり見失っている。仏教は人間としての生きざまや心の持ちようを原点から教えてくれる」と称賛した。

(写真) 松長有慶座主と会談する小沢幹事長


「キリスト教は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に
読売新聞 2009年11月10日23時33分

 民主党の小沢幹事長は10日、和歌山県高野町の高野山・金剛峯寺を訪ね、102の宗教団体が加盟する「全日本仏教会」会長の松長有慶・高野山真言宗管長と会談した。

 小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリスト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした文明は、欧米社会の行き詰まっている姿そのものだ。その点、仏教はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい宗教だ」などと述べたことを明らかにした。

 さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。

 小沢氏の発言は、仏教を称賛することで、政治的には「中立」ながら自民党と古くからつながりのある全日本仏教会に民主党との関係強化を求める狙いがあったものと見られる。しかし、キリスト教やイスラム教に対する強い批判は、今後、波紋を広げる可能性もある。

 小沢氏の訪問は、来年夏の参院選に向けた地方行脚の第1弾という位置付けで行われた。


「成仏するのは仏教だけ」小沢幹事長、改めて文明観披露
朝日新聞 2009年11月17日2時 9分

 民主党の小沢一郎幹事長が16日の記者会見で、仏教観と文明観を改めて披露した。

 10日に和歌山県の高野山金剛峯寺を訪れた際に、キリスト教を「排他的」「独善的」と指摘。これに対し、「日本キリスト教連合会」が「キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ『排他的』で『独善的』な発言」と抗議文を送っている。

 これを受けて小沢氏は16日、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明。さらに、エベレストに挑んだ登山家の「そこに山があるから」という発言を引用し「西洋文明は自然も人間のために存在する考え方。(エベレストの)地元では霊峰としてあがめられて、征服しようという考え方はアジア人にはほとんどない」と語り、西洋思想は人間中心だが、東洋思想は人間が自然の一部だと強調。最後は「僕も君も、死にゃ仏になれるんだ、だから」と締めくくった。

管理人により WEB移転時(2010年06月)記事転載


 キリスト教が行き詰まっているのではなく、キリスト教から背教し、キリスト教を否定しようとする西洋が行き詰まっているのです。今回は、何故かを黙想することを提案します。


【キリスト教文明:カトリック文明社会】

 聖ピオ十世は「カトリック文明社会(Cité catholique)」言い換えると、キリスト教文明(Civilisation chrétienne)について、教導権を使って次のように言っています。

「いや、尊敬する兄弟たちよ、誰もが自分が教師および立法者として立つ、この社会的・知的な無秩序この時代にあって、私たちは力をふりしぼって次のことを繰り返し叫ばねばなりません。すなわち、国は天主が築かれたのとは違ったやり方で築かれてはならない、と言うことです。社会は、教会がその礎を置き、その機能を見守るのでなければ打ち立てられることが出来ないのです。否、文明とは今もって発見されるべきものではなく、新しい国家が空をつかむような想念の上に築かれるべきでもありません。文明は[現に]存在してきたのであり、今でも存在するのです。それはキリスト教文明であり、カトリック文明社会(Cité catholique)なのです。これは正気を失った夢想家や反乱者、ならず者による容赦のない攻撃に対して、絶えず打ち立て、再興さえすればよいのです。そしてこれこそ「キリストにおいてすべてを立て直すことonmia instaurare in Christo」に他なりません。」(Notre Charge Apostolique)

 かつて存在したカトリック文明社会は、本質的に天主を頂点とし、超自然的であり、司祭的な文明社会でした。何故なら、全ての人間活動はそれ固有の領域ですばらしい経綸に従って、天主と人間との一致へと向かっていたからです。ローマ教皇をキリストの代理者たる最高司祭として、天主の御言葉の目に見える管理者として、信仰、希望、愛徳のみならず、賢明、正義、節制、勇気など全ての人間の徳を息吹き、天主の御旨の実現へと指導していたからです。

 カトリック的文明社会、Civitas catholica、真のキリスト教文明社会は、13世紀にその頂点に達しました。聖トマスにより智恵は最高点に達し、フランス王聖ルイと共に政治的賢明は絶頂となり、フラ・アンジェリコの筆のもとに芸術は輝きました。カトリック的文明社会は、カトリック教会無しに存在することが出来ません。カトリック教会はカトリック的文明社会無しに存在することが出来ます。教会に敵対する社会の中では、カトリック教会は選ばれた少数の霊魂らにおいてのみ存在することでしょう。しかし、カトリック的文明社会では、カトリック教会の活動を社会が助けつつ、家庭も職場も文化も政治も、全てがキリストへの奉仕のために秩序付けられています。カトリック的文明社会は13世紀にその最盛期を迎えましたが、中世文明がすなわちカトリック文明社会ではありません。カトリック文明社会は時代に拘束されるものではありません。

 全ての社会活動において、天主の権利を尊重し、カトリック教会の教理と道徳とが教える限界を超えることを自ら禁じる社会、これがカトリック的文明社会です。

 天主の創造した被造物のうち、自由意志を持つものとして創られた天使たちの一部は、天主に反乱し、私は従わない!Non serviam! と叫びました。傲慢の罪、自律の罪です。

 天主は善を創造しました。しかし、被造物は天主よりも自分自身の個別の善を好み愛し、創造の世界に悪を持ち込みました。傲慢の罪、貪欲の罪、情欲の罪、など全ての罪の究極のもとは、天主に従わないということ、傲慢自律の罪です。

 悪魔はこのカトリック的文明社会を破壊しようとしました。段階を追って、反キリスト的革命を起こし続けたのです。16世紀に始まった反キリスト教的革命は、カトリック的文明社会の一致を壊し、瓦解を続けました。最後の段階が共産主義社会です。共産主義は、キリスト教の異端で、行動に出た異端と言うことが出来ます。


【人間の四つの観点の段階】

 ところで、人間は私たちの主イエズス・キリストの到来以来、四つの観点から考察されます。

(1) まず、人間が存在しているという観点。

(2) 次に、人間が快楽を要求する感覚を持った動物であるという観点。

(3) 更に、人間が理性を持ち人間であるということ、徳と善とを追求するという観点。

(4) 最後に、人間が超自然の天主の聖寵によって、天主と共に永遠の天主の命のまどいに参与するように招かれているという観点。

 人間は、現実世界に存在していますが、それは動物として感覚するためです。人間は動物のように感覚していますが、それは人間として理性を働かせるためです。人間は天使ではないので、知性を働かせるために感覚を通す必要があるからです。人間は理性を働かせますが、それは究極の真理・善である天主を知り愛するためです。だから、聖トマスは「全ての人間の機能は真理の観想のためにあると思われる」と言ったのです。

 人間が作り上げる社会も、この観点から考察されます。

(1') 人間社会が存在しているという観点。これに人間の機械的労働、手仕事、職人が対応するでしょう。

(2') 次に、人間社会が快楽を追求するという観点。快楽や利益や物質の蓄積のために動き回ることから、資本や経済や投資活動、商人や財界がこれに対応するでしょう。

(3') 更に、人間社会が善徳を追求するという観点。共通善や皆のための福利を追求するということから、政治や統治、政治家や王、貴族らがこれに対応するでしょう。

(4') 最後に、人間社会が天主を追求するという観点。これは、キリストの代理者であるローマの教皇を目に見える頭とするカトリック教会、イエズス・キリストの司祭がこれに対応するでしょう。

 カトリック的文明社会は、全ての社会機能をキリストの与える超自然の真理と善を受けるために秩序付けられ、そのために存在するのです。イエズス・キリストは、人間に購いの聖寵をもたらす為に来られました。イエズス・キリストとカトリック教会の聖寵とは、カトリック的文明社会を作り上げました。本当のキリスト者たちは、男も女もキリスト教的家庭を築き、キリスト教的政治秩序を作り上げました。したがって、13世紀には、聖人の王たちがいました。

 カトリック王の戴冠式には、その国の大司教が次の六つの質問を王にしていました。

「陛下は、ご自分の正しいわざによって、聖なるカトリック・使徒継承の信仰を保全し、強化することを望みますか?」

「陛下は、カトリック教会とその奉仕者たちを保護することを望みますか?」

「陛下は、天主が陛下に委ね給うた帝国を我らが先祖の正義に従って統治することを望み、またこの帝国を力強く擁護することを約束しますか?」

「陛下は、帝国の諸権利を維持し、不正義にも分離させられた地方を取り戻し、それらを帝国の国益にかなうやり方で統治することを望みますか?」

「陛下は、自らを公正な裁判官として、貧しいものにとっても富める者にとっても寡にとっても孤児にとっても忠実な保護者として行動することを望みますか?」

「陛下は、教皇と聖なるローマ・カトリック教会に、それに払うべき従順と忠実と尊敬とを誓うことを望みますか?」

 王が宣誓を為した後に、大司教はそこに集う全会衆に向かって次のように問います。

「あなたたちは、陛下の帝国を強めることを望みますか? あなたたちは陛下に忠実と尊敬を約束することに同意しますか? あなたたちは使徒聖ペトロの言葉に従って、陛下の全ての掟に従うことを約束しますか?」

 全会衆は「アメン」と答えます。

 この王の戴冠式は、カトリック教会が代表して仲介を果たし、主権者である王と人民との相互の権利を聖なるものとしていました。王と臣民との間に互いの約束が成立するのです。この相互の契約が成立した直後に王の戴冠と王の聖別が行われます。

 カトリック教会は王を聖別することによって、世俗の秩序を聖化させ、キリスト教の精神をその中に浸透させようとしたのです。全ての市民生活が祈りとなるように。全ての被造世界が祈りとなるように。地上の政治・経済・芸術文化・労働の秩序が天主の秩序に従い、これを尊重し、動機づけられることによって、全ての活動が深くキリスト教的精神に浸透するために。智恵においても、道徳においても、芸術においても、謙遜で・自己忘却し・全ての善がそこから由来する天主へとのみ向かう精神の発現となっていました。

 カトリック文明社会は、時間に制限されないものです。従って、十三世紀だけに限られたものではありません。しかしかつてこの調和は、もう一度言えば、歴史的に例えば、聖トマス・アクイナスの智恵、聖ルイ九世の政治的賢明、フラ・アンジェリコの絵画を生み出しました。


【第一の革命:天主を否定する人間中心主義】

 この最高のバランスは、しかし、王の傲慢と野望によって壊され始めました。世俗の権力が、天主に仕えることよりも命じることをのみ追求したからです。「私は従わない!」といういにしえの蛇の雄叫びを繰り替え始めたからです。

 フランスの王フィリップ四世(フィリップ・ル・ベル)は、自分を王として聖別したカトリック教会に反対しました。フィリップ・ル・ベルは、ギヨーム・ド・ノガレを使って教皇を捕虜とし、教皇をアナニアにおいて屈辱しました。フランス王の絶対主義(絶対王権)が、キリストの代理者である教皇は軽蔑されたのでした。「私は従わない!」と。

 世俗の君主が自分のわがままにしか従おうとしない、天主の権威を無視するに従って、このような態度を「絶対主義」と呼びます。王の悪しき模範が、近代を開くのです。この王の反乱が、社会全体に新しい精神を開始させ、ついにマルチン・ルターの宗教改革で固められました。

 ルターは、世俗の君主たちの支持を受けて、超自然の秩序を天主から正真正銘に委託されたローマ教皇に反対する攻撃を浴びせました。ルターの革命は、世俗の君主たちの革命でした。貴族たちは、天主に仕えることよりも、自己愛を追求し、教会の高位聖職を貴族階級の閑職と変え、ルターの革命を自分のものとしてしまったのです。超自然を追求するのではなく、自然の拡張をのみ追求しだしたのです。聖書を片手に持ちその自由解釈を主張することにより、天主の啓示を全て人間理性のはかろうとしました。

 王や君主たちのカトリック教会への反乱は、従って、次の人間中心主義の文化を生み出しました。

*絶対主義(王や君主たちが自分の思い通りだけを押し通そうとするが故に)
*自然主義(超自然の秩序を無視して、人間本性と自然の拡張を追求するが故に)
*合理主義(人間が、理性を全てのものごとの基準とするが故に)

 ですから、この第一革命の時代、フランスではルイ十四世の絶対王政が成立しましたが、それと同時に同じフランスではビュフォンやフォントネルの自然主義が発展しています。

 またフランスで、ラ・フォンテーヌのモラリスムも展開していますし、デカルトの合理主義、モリエールの人間主義(フマニスム)、ボシュエのガリカニスム(フランス主義)も発達します。

 ところで、天主を忘れて人間中心主義の世界が現れたとき、つまり、人間の理性を全てのはかりとする合理主義の世界が現れたとき、人間は、理性を失いはじめ、人間理性を人間以下の動物的本能に従わせる世界へと歩き始めたのです。つまり、理性の世界は崩壊し始め、人間は本能のままに動く自由の世界、完全な自由の世界、動物の世界へと動き出したのです。これが自由主義世界で、これは十九世紀を染めるのです。

 デカルトの「我考える」というその理性の高揚は、カントによって理性の安楽死によって終わりを遂げるのです。何故なら、人間は天主の啓示無しに、超自然の恵み無しに、自然と理性の完成にたどり着くことが出来ないからです(第一バチカン公会議)。超自然の恵みから切り離された人間世界は、その瞬間に、人間以下へと堕ちていくしかないのです。

 合理主義は、不可避的に、理性の死でしかなかったのです。だから、合理主義は、カントとニーチェによって理性の自殺で終わりました。

 絶対主義は、不可避的に、王と君主の死で終わるのです。だから、絶対王政は、フランス革命のギロチンでフランス王ルイ十六世の死で終わりました。

 自然主義は、不可避的に、自然を殺して終わるのです。だから、自然主義は十九世紀の唯物論で終わりを遂げます。

 人間主義は、不可避的に、人間に死をもたらすのです。だから、人間主義(フマニスム)はブルジョワの「経済人」とダーウィンの「進化論」によって終わりを遂げるのです。


【第二革命:王を否定する経済中心主義】

 近代人が天主から解放されようと、王や君主たちを中心に第一革命を行い超自然を排除しようとしましたが、それは、同時にそして不可避的に、第二革命を準備しました。つまり、王や君主らによる政治を廃止し、経済が全てを支配する世界を作る革命へと道を開いたのです。

 ルターの革命は、不可避的に、フランス革命へと道を譲りました。フランス革命とは、本質的に、貴族の地位をブルジョワが奪ったことです。政治が経済に席を譲ることです。人間らしい徳のある生活が、人間以下の動物的本能による利益追求生活に取って代わることです。理性が動物的本能に席を譲ることです。文化面で言えば、クラッシックからロマンチックに、絶対王政から民主主義制度に移ることです。

 そもそも革命とは、下位の階級が上位の階級に反逆・反乱し、下位の階級が上位の階級の場を奪うことです。

 フランス革命をもってブルジョワの世界が生まれました。「自然人」ではなく「経済人」が責任を受けます。人間はただ出来事を観察し収集するだけです。もはや事実を解釈したり統一性を与えたりその意味を考察したりする必要はなくなったのです。

 十九世紀は基本的に商業の時代となります。産業と商業と金融の拡張劇の時代です。この時代は政治も経済の要求に従わせることになります。これは丁度、第一革命の時代に、政治が司祭の聖なる文明を消し去ろうとしたように、第二革命では、経済が政治の力を薄めようとするのです。ルソーによって唱えられた主権在民の理論によって政治はその力を失っていきます。

 しかし、丁度、超自然の秩序を否定して純粋に政治を追求しようとしたその瞬間、政治は自分の目的に到達できなくなりました。何故なら、政治とは人々の間の利益の調整であり、どの利益を優先させるかの価値判断は、政治を超える倫理・道徳・神学に委ねられているからです。

 それと同じように、政治の力なくして経済は自分の目的を達成できなくなるのです。何故なら、本来、生産も消費も経済への奉仕のためであり、経済は政治への奉仕のためであり、政治は人間への奉仕のためであり、人間は天主の奉仕のためにあるのですが、政治の力なくしては、経済はその価値を見失ってしまうからです。何故なら、その時、消費は、より多く生産するためであり、より多く生産するのはもっとたくさん販売するためであり、より多く販売するのは、より多く利益を得るため、より多く稼ぐため、となるからです。経済第一主義は、経済の意味を失わせてしまうのです。

 その時、私たちがいま目前としている危険な状態が出現します。世界の富を握りしめる巨大な生産機械と、他方で飢餓と貧困で苦しむ世界の三分の二の人類の状態が。絶対王政の時代に、絶対王政の王の職権乱用によって民衆が苦しんだように、富の生産者の権力の乱用によって、人類は苦しむでしょう。


【第三革命:共産主義革命】

 人間社会が天主を追求するということを否定した後、司祭の文化的影響力を否定した第一革命の結末は、プロ市民の戦闘的無神論の世界です。

 人間社会が善徳を追求し、共通善や皆のための福利を追求するという政治の文化的影響力を否定した第二革命の結末は、デマゴギーのアナーキーの世界です。

 人間社会が自分の利益や物質の蓄積のために働くというブルジョワ経済の文化的影響力を否定するべき第三革命では、全ての権力をプロレタリアに移行することでしょう。労働力以外何も持たないプロレタリアは、ブルジョワと貴族と司祭の地位を占めようとするのです。

 プロレタリアは、ブルジョワにとって代わって私有財産のブルジョワ経済を廃止させようとするでしょう。プロレタリアは、政治家に取って代わって共通善への奉仕のためにある権威という政治を廃止させようとするでしょう。プロレタリアは、司祭に取って代わって戦闘的無神論のシステムを確立させようとするでしょう。

 共産主義者とは、天主の子という超自然の恵みを取り上げられ、人間であるということを取り上げられ、動物であると言うことさえも取り上げれた存在となるのです。共産主義者は、人間を物質に変えます。プロレタリアの集団化社会の作り上げる偉大な工場の中に組み込まれた、ナットや歯車の一つと同じものするのです。プロレタリア独裁の全能の手は、天主の子供という条件を人間から取り上げ、天主の似姿に創られ、天主を観想するために生まれてきたと言うことを否定します。プロレタリア独裁は、人間から自然の支配者であるという理性的条件を取り上げます。さらに感覚的な喜びを楽しむという動物的な条件さえも失わせます。人間は、集団化大工場の要求に従って使われまた捨てられる一個の物質となり、人間は本当の目的を失ってしまうのです。共産主義にとって、最高の価値は物質的生産を行う労働となり、人間が労働の実りを楽しむか否かにかかわらず、目的もない労働そのものだけが価値を持つことになります。

 共産主義者にとって、人間とは、天主を観想するという天上の満足もなく、政治的共同体生活という人間的満足もなく、経済的利益を楽しむという動物的な満足もなく、奴隷のように労働すること、ただ単に働く奴隷なのです。

この項は続きます

 天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように! 


シンガポールにて、
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.