第409号 2009/10/23 聖アントニオ・マリア・クラレットの祝日
アヴェ・マリア! マニラのeそよ風のウェブ・クリエイターさんは、お体が不調で苦しみのうちにおられますが、このたび、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』をほとんど全てウェブサイトにアップして下さいましたので、ご紹介します。感謝します。 このたび、聖ピオ十世会総長のフェレー司教様の友人と恩人への皆様への手紙第七十五号が発信されましたので日本語に翻訳してご紹介いたします。 フェレー司教様は、歴史の重大な時期に私たちがいることを、そして聖母の汚れなき御心の凱旋のために私たちが働かなければならないことを教えてくれています。 歴史とは、人間の行動が織りなして作られたものです。ところで歴史を構成する人間の行動とは、人間がまさに人間であるところの行為です。 人間とはギリシア人たちがうまく定義したとおり「ロゴス(理)を持った動物」であり、人間はこの理性に基づいて、自分について、他者たちについて、また人間の奉仕のためにある物事について、自由に行動します。人間の意志に基づいて、こうあるところが、あれであったり或いはそれであったりします。人間は歴史を作り、人間が理性を持ち自由であるが故に、自分自身の行動に責任を持ちます。 人間が自由であるが故に、歴史は自然本能と対立します。歴史が人間の人間としての行動が織りなすところであるので、その重大な行為が、特定の人間共同体(あるいはその共同体の著名な人物たち)によってなされた重要な行動が記憶されます。 人類という名前の一つの行動の主体はありません。人間の個々人がある民族、ある王国、ある共同体を作り上げ、歴史を作ります。血統や生まれついた土地の違いによって、行動様式に違いがあります。ギリシアとローマとカルタゴは別の理想を求めて行動していました。ギリシアは、人間文化(パイデイア)を求め、ローマは権力が与える栄光(インペリウム)を求め、カルタゴは商業による富を求めていました。 創造主である天主から見ると、歴史は選ばれた人間の永遠の救いの歴史です。そして選ばれた者の長子、第一はキリストです。何故ならキリストは選ばれた者たちの頭であるからです。教会の頭としてキリストは全ての聖人達において、その秩序と完成と力との首位性を持っています。王たるキリストが歴史の中心となります。 天主が人となったという歴史的事実は、世界の無からの創造という事実に並ぶ一大事件でした。天主が人となって生まれる、ということほど偉大な事件はありません。歴史を書く上で、歴史家がどうしても避けて通れない問題です。ニュートラルではあり得ない問題です。それは、まさに、私たちの主イエズス・キリストが、人間となった天主であるのか否かということです。 天主は天地万物を無から創造しました。「創造する」とは、天主がものごとの全存在を与えることです。ものごとは、創造されて初めてこの世に、現実に「ある」ようになります。その前にはものは「あり」えません。「創造される」とは、「無い」から「ある」へと変化することです。ただし、創造による変化は、何かが冷たいから熱いへと動くようなその何か(「基体」と呼んでおきましょう)を前提とするようなものではなく、これ無しにはいかなるものも有り得ない・実在し得ない、基体の存在さえも無かった、絶対的な意味での無いから有るという絶対的な変化です。 被造物から見ると、「創造された」ということは、天主に対する絶対依存の関係であり、最高度に実在的な関係です。 しかし、天主から見ると、天主は天地万物を創造したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。 天主は、この世の現実を創造する義務も必然性もありませんでした。創造しないことも可能であったし、また別の世界を創造することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、今、私たちが、ここにいる世界を自由に選んで、無から在るへと自由に創造しました。 今から2008年前、天主の御言葉は、托身し給い人間となりました。「托身する」とは、天主の第二のペルソナである御言葉が人間性を受容することです。天主が人間となることです。 これは人間本性から見ると、人間が天主性と合体したことであり、托身は、人類全体、さらに被造の世界全体に重大な実在的変化を生じさせました。 しかし、天主から見ると、天主は托身したことによって、いかなる変化も生ずることもありませんでした。 天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ましたが、無限の可能性のうちから、2007年前ベトレヘムで生まれることを自由に選んで、天主でありながら自由に人間性を取り托身しました。しかし、それによって天主の御言葉にも、天主三位一体にも、いかなる変化が生じることも在りませんでした。 従って「神はイエスを通して自己定義された」こともなければ、「神が御自身をイエスの父として定義づけられた」こともありません。因みに「天主の定義」というものはありません。 ですから「イエスが神の永遠の本質に構成的に属する」とか、「イエスにおいて人間の現実が、神に取り入れられた」とか「父の右に上げられたキリストは、人間であることをやめるわけではないのだから、ある意味で人が神の定義に入り込んだ」などということは決してありませんでした。また「イエスの具体的な生涯は、神の永遠の本質に属し、これを構成している」などということも全くありません。 ですから「神の定義は、キリスト教信仰によれば、ナザレのイエスにおける具体的な救いのわざを除外してはありえない」【=つまり「神の定義は、ナザレのイエスにおける具体的な救いのわざをもってなされなければならない。】ということも、キリスト教の正統な信仰とは全く関係ない主張です。これらは「本質」とか「定義」という言葉の意味をよく知らない人のいう言葉遊びにすぎません。 何故でしょうか。天主は、人間となるする義務も必然性もなかったからです。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来たからです。 もう一度確認しましょう。天主が人間となるということ、これはものすごい出来事です。人類の歴史、いえ、被造の歴史における画期的な出来事です。真の天主が真の人間なったという、この信仰に、全キリスト教信仰は立っています。 しかし繰り返しになりますが、天主は、人間となるする義務も必然性もありませんでした。托身しないことも可能であったし、また別のやり方で托身することも出来ました。 ですから「イエスの生と死と復活を、最終的、決定的、不可逆的、終末論的なできごととして信仰告白することの中には、論理的に言って、すでに、このできごとが神の永遠の本質の中に根拠付けられている、という起源論的な主張が含蓄されているである」ということは、全くの間違いだと言わなければなりません。 もしこれが本当だとすると、天主の全能と天主の自由が無くなってしまい、本質によってプログラムされた必然的・本能的必要性として、托身が行われ、救いの業が行われたということになってしまいます。しかし、これはキリスト教信仰に反しているからです。 私たちの主イエズス・キリストが托身することは、天主の自由な愛によってなされました。本質によって必然的になされたものでは決してありませんでした。 天主の立場からすれば、天主の能力は無限であり、その選びの可能性は無限です。しかしその無限の可能性の中から、天主の自由の意志に基づいて、三つのペルソナのうち特に、天主の第二のペルソナ、すなわち天主の聖子であり御言葉のペルソナが、ただ一つの人間本性、すなわちイエズス・キリストの人間本性だけを受容しました。 この現実に選ばれた御托身は、天主の本能的にプログラムされていたものでもなく、天主が三位一体であるが故に可能になったことでもなく、天主の本性の必然性の結果によるのでもなく、天主の自由な意志に基づく天主のお恵みなのです。 天主本性の全能の無限性を前提とする限り、特に聖子が托身する必然性はなく、また天主が人間なる必然性すらなく、全く天主の自由の行為であったのです。 そして天主の御言葉が人間となったことによって、天主は何も変わることがありませんでした。 ここに、天主の私たちに対する自由な無限の愛を見るのです。 天主が人となって私たちの内に住み給うたことは、歴史の頂点であり中心です。私たちにはこれに対して二つの態度しかありません。私たちの主イエズス・キリストを救い主として信じて受け入れるか、あるいは拒否するか、です。キリストの側につくか、あるいは反キリストの側につくか、です。 私たちは私たちの主イエズス・キリストの勝利を確信しています。何故なら真の天主であるからです。イエズス・キリストは聖母マリア様を通して勝利するでしょう、だから私たちは聖母の汚れなき御心の勝利を確信しています。これは、何故なら、聖母マリア様御自身がそれを予告したからです。 天主様の祝福が豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
聖ピオ十世会総長の
親愛なる友人と恩人の皆様、 全世界で私たちのロザリオの十字軍に対して私たちが出会う熱心さは、私たちは慰めに満たし、更にもう一度このことについて皆様に語りかけるように私たちをして促します。 もしも私たちが天にこの多数の「アヴェ・マリア」をもって願っているとすれば、それは勿論、今の時が重大なときであるからです。私たちは聖母マリア様の勝利を確信しています。何故なら、聖母マリア様御自身がそれを予告したからです。しかし、ほぼ一世紀の間起こっている出来事は、つまりファティマでこの凱旋が予告されて以来、私たちはこの勝利の前に、その他多くの不幸が人類を打つだろうと想定しなければなりません。 天主の聖母、終生童貞なる聖マリアによってファティマにおいて与えられた規則はとても単純です。つまり、もしもこの世が回心しないなら、罰せられるだろう、ということです。 「最初の戦争よりももっと恐ろしい次の戦争が起こるでしょう。」 この世は回心しませんでした。そして天主の答えは長く待たされませんでした。第二次世界大戦以後、この世はまだ回心しませんでした。もしもロシアが回心していたとするなら、一体何に誰に回心したのか、私たちに説明しなければなりません。・・・ロシアが経済的自由主義に回心したとでも言うのでしょうか? ほぼ百年後、私たちはこの世がよりよくなったとは言うことが出来ません。むしろその反対です。信仰無き者たちの戦争は更に続き、期待もしていなかった形を取っています。つまり、特に、反乱と教会内部への潜入であり、これに教会の破壊が続いています。 私たちの母なる聖なる教会は、霊的廃墟の固まりに自らを変えつつあります。それと同時に、外的な正面は多かれ少なかれ維持しているようには見えるのですが、そうして教会の本当の状態について欺しています。 この反乱は、第二バチカン公会議を機会にして期待もしていなかった強力な効果を見いだしたと言わなければなりません。それについては深遠な神学議論をする必要はありません。今日では、歴史的事実ですから。 どれだけの責任をこの第二バチカン公会議に帰さなければならないでしょうか? これは難しい質問です。しかしこの公会議は影響なしにとどまったわけではないことは明らかです。そして第二バチカン公会議の結果は確かに悲惨なものでした。 第二バチカン公会議によってこの世と歩調を合わせて共鳴することがなされました。 「私たちも、他の人々に勝って、人間への崇敬を持っている」とパウロ六世は第二バチカン公会議の閉会の時に言っています。第二バチカン公会議の人間中心主義の方向付けは、ヨハネ・パウロ二世によってこれでもかこれでもかと言うほど強調されました。 ところでこの方向付けは、その本質において超自然的である天主の教会にとってよそ者です。教会は、私たちの主イエズス・キリストからその構造、その手段を受けたのみならず、贖いと救いの固有の指名を続けるというまさにその目的を受けたからです。「全世界に行って、全ての被造物に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受けるものは救われ、信じないものは滅びるだろう。」(マルコ16:15) さて、ここに悲劇があります。教会の天主からの使命の代わりに全く人間的な使命が取って代わってしまったからです。驚かずにはいられない大きな神秘です。救霊は第二のものとなり、もはや語られません。 残念なことに、第二バチカン公会議以後の教会の恐るべき危機が天罰であること、その他の全ての天罰よりももっと恐ろしい天罰であることを理解する人々はほとんどいません。何故なら、災害が霊的な事に関するからです。音もなく死よりもさらに悪い無関心のうちになされる殺害であり、死ぬのは霊魂たちです。霊魂における聖寵の喪失は、霊魂に起こりうる最大の損失です。しかしこれは耳に聞こえる音もなくなされ、感じられもしません。そして警戒の声も黙ってしまいました。回心への呼びかけ、償いと罪を避けること、誘惑とこの世を避けることへの呼びかけは、この世に対する同調、少なくとも好意に場所を譲ってしまいました。まさしく、これこそこの現代世界と和平を結ぼうという意図があります。 救いの使命は、こうして人道奉仕の使命という新しいものに席を譲りました。全ての人々、全ての宗教の人々が、この地上で一緒に生活するために助けるという使命に。 ファティマの聖母マリア様のメッセージの回り、私たちがファティマの秘密と呼ぶものは終わっていないことはいかなる疑いもありません。私たちが今生きている時代は、ついには聖母マリア様の凱旋によっていつの日か終わる一連の出来事に必ず挿入されています。聖母マリアの凱旋とはどのようなものになることでしょうか? 私たちはそれをどのようにして見ることでしょうか? いずれにしてもこの凱旋は、終生童貞なる聖マリア様のお言葉によれば、少なくともロシアの回心によってなされることでしょう。 1917年、ローマでは、邪悪な者たちがフリーメーソンの創立200年とプロテスタント主義 の400周年を祝い、特に聖座に反対する凶暴な行進を行っていました。これらのデモはバチカンと教皇とに対するサタンの統治を叫び主張していました。まだ神学生であったマキシミリアノ・コルベはこの悲しい出来後を目の当たりにしてこう言っていました。 「イエズス・キリストの教会に対する、またイエズス・キリストの代理者たる教皇に対するこの死の憎しみは、不良の個人がしている単なる幼稚なお遊びではなく、フリーメーソンの原理 "全ての宗教を特にカトリック教をぶっ潰せ" から体系的に流れ出る一つの行動である。[Pisma Ojca Maksymiliana Marii Kolbego franciszkanina, Niepokalanow, maszynopsis, 1970]. 「私たちの敵が優位を持つに至るまでの行動をして動き回らなければならないとしているのに、他方で私たちがのんきに暇をつぶしている、事業を行うということなくしたとしても祈りだけ満足しているということはあり得るだろうか? 私たちにはもしかしたらより力強い武器、天の保護と無原罪の童貞女の保護がないのだろうか? インマクラータ(無原罪の聖母マリア)は全ての異端に対して勝利を収め凱旋する方であるから、もしも聖母の命令に忠実で従順な下部たちを見いだすなら、頭を持ち上げる敵に場所を譲らないだろう。聖母は私たちが想像することが出来る全てのことよりもっと偉大な新しい勝利を勝ち取ることだろう。私たちは従順な道具として、聖母の御手の中に自らを置き、正当な全ての手段を使い、あらゆるところで言葉と聖母に関する出版物と不思議のメダイを広めながら私たちを紹介し、祈りと予期も半途によって私たちの行動の価値を高めなければならない。」[列福調査においてなされたピニャルバリ神父 P. Pignalberi の証言] マキシミリアノ・コルベは、ファティマの聖母マリアの10月13日の御出現の数日後に無原罪の聖母の騎士団を創立しました。ファティマではその日、太陽の大奇蹟がありました。実に10月16日、六名の神学生の友と共に彼はインマクラータによって全世界を天主へと引きつけるために自らを聖母の汚れなき御心に奉献するのです。 ファティマのメッセージとこのポーランドのフランシスコ会士の対応との間に共通性を見いださずにはいられません。彼の奉献の祈りを読むとこうあります。「おお、聖なる童貞よ、無原罪の御宿りよ、天と地の元后よ、罪人の拠り所よ、天主が全ての憐れみの秩序を委ねることを望み給うた深き愛の母よ、御身への賛美として、ここ御身の足下にいるこの我、憐れむべき罪人、名前・・・、を忝なくも受け取り給え。我は御身にひれ伏して願い奉る。吾が存在を全て御身のものとして、御身の所有物として受け取り給え。我において、我が霊魂と我が肉身、我が命と死と永遠において、御身の御旨のままに行動し給え。我に関する全てを御身の望みのままに配置し給え、そは御身について言われた「女は蛇の頭を踏み砕くだろう」また「御身はただ一人で全世界の異端を克服し給う」ということを成就させんがためなり。願わくは、御身のいとも憐れみ深く全く清き御手において、我が御身の愛の道具、多くの冷淡な霊魂あるいは道を過てる霊魂を生き返らせ完全に開花させることが出来る道具とならんことを。かくして終わりなくイエズスの天主なる聖心の統治が拡張せんことを。実に、御身の現存だけで霊魂らを回心させ聖化させる聖寵を引きつけるなり、何故ならイエズスの天主の聖心から我ら全てに、御身の母なる御手を通して聖寵はわき出るが故なり。」[Scritti di Massimiliano Kolbe, Nuova edizione volume unico ENMI Roma, 1997] 愛する信徒の皆様、この精神においてこそ私たちはこのロザリオの十字軍を開始しました。しかし、祈りはその一部に過ぎません。その他の二つの要素を忘れないようにしましょう。これらも大変重要なものですから。それは償いと聖母の汚れなき御心への信心です。苦行においては、私たちは聖母マリアに対して犯される屈辱を償いたい、聖母マリアの悲しみに満ちた御心と一致して私たちの主イエズス・キリストの十字架のいけにえに出来る限り近く私たちをそれに合わせたいと望みます。何故なら、この十字架でこそ私たちの救いがなされるからです。 私たちはかくしてファティマのメッセージの核心にいることになります。「天主は私の汚れなき御心に対する信心を導入することを望んでいます」と。ロシアの奉献よりも私たちにはもっと重要であると思われるこの最後の側面については、余り強調されていないかもしれません。つまり「ロシアを奉献すること、且つ、聖母の汚れなき御心に対する信心を促進すること」です。そしてこれは聖母の凱旋のために聖母によって示された第二の条件です。 この10月には、バチカンとの私たちの関係は新しい局面、教義に関する討論という段階に入ります。この事は極めて重大であり私たちは皆様にお祈りをお願いいたします。このことは疑いもなく私たちのロザリオの十字軍の一部をなしているでしょう。そしてこの意向は聖母の汚れなき御心の勝利という私たち全てが望んでいる勝利に含まれています。これは私たちの力を完全に超えており、そのような討論ということをするなどということは、祈りと償いという超自然の手段の力によって支えられていなかったとしたら、ただ単に愚かさに過ぎなかったでありましょう。 最後に皆様の寛大な努力に対して感謝をせずにこのお手紙を終えたくはありません。皆様のお陰で世界中で私たちの事業は発展することが出来ています。私たちをゆっくりとさせている何かがあります。「取り入れは多いが、刈り入れのために働くものはすくない。」私たちの主イエズス・キリストはそのことを既に指摘し、その対策を示してくれました。「召し出しのために祈れ!」と。 一月に一度しか、或いは主日だけしかミサ聖祭に与れない、普通の状態であればあった司祭からの全ての援助を受けることが出来ない全ての信徒の皆様のために、私たちはどれだけ助けを送りたいと願っていることでしょうか。・・・天主様は今年二十五名の新司祭を与えて下さいました。私たちは来年はさらに多くの司祭たちの叙階を期待しています。しかしそれでも、全世界における要求は大きく、まだまだ足りないのです。 皆様の全ての努力に対する感謝の深い念をお受け取り下さい。願わくは天主様が皆様に聖寵と祝福をあふれるほど、皆様全てと皆様のご家族、子供達の上に与え給いますように、私たちの全ての願いを込めて祈ります。願わくはロザリオの聖母マリア、聖母の汚れなき御心が皆様を保護し給いますように! 聖母マリアの天主の母である祝日にて、2009年10月11日
+ベルナール・フェレー
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