マニラのeそよ風

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第390号 2007/06/22 聖パウリーノの祝日

聖ピオ十世会インドの修道院、小聖堂
聖ピオ十世会インドの修道院、小聖堂

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか?

 「マニラの eそよ風」日本語サイト リンク 363号では、ウィリアムソン司教様のお話しと、聖アウグスティヌスによる6つの石がめと6つの時代について述べました。

 ウィリアムソン司教様は以前、ホルツハウザー(Holzhauser)神父が書いた黙示録注解(Interpretatio Apocalypsis usque ad cap. XV, v. 5.)の解説をなさり、ヨハネの黙示録の中に出てくる7つの教会(エフェゾ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオディキア)は、7つの時代のことだと教えています。

外国語サイト リンク LAS SIETE EDADES DE LA IGLESIA

 聖ヨハネの書いた「黙示録」にはこうあります。

 あなたたちの兄弟であって、患難と、み国と、忍耐とを、イエズスのうちに、あなたたちとともにしている私、ヨハネは、天主のみことばとイエズスの証明とのためにパトモスという島にいたが、主日に脱塊状態になり、うしろでらっぱのような大声をきいた。その声は「あなたのまぼろしを書きしるして、エフェゾ、スミルナ、ペルガモ、ティアティラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオディキアにある七つの教会におくれ」といった。そう話した声を見ようとして、ふり返ってうしろを見ると、七つの金の燭台があった。そして燭台の間に、人の子のようなものがおられた。かれは長い服を着て、金の帯を胸にしめ、頭とかみの毛とは純白の羊毛のように、雪のように白く、目は、もえるほのおのようであった。足は、炉で精練された貴い青銅のよう、声は、大水の音のようであった。右の手に七つの星をもち、口から両刃の鋭いつるぎが出、顔は、照りわたる太陽のようであった。

 七つの星と七つの金の燭台との奥義は、次のとおりである。

 七つの星は七つの教会の天使であり、七つの燭台は七つの教会である。


 尊者ホルツハウザー神父によれば、これは旧約の7つの時代でもあり、旧約の7つの時代は、新約の7つの時代および聖霊の7つの賜物(上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏)と対応しているとのことです。


(1) エフェゾの教会の天使にこう書け。

『右の手に七つの星をもち、七つの金の燭台の間を歩むものはこういわれる。私は、あなたのおこないと労苦と忍耐とを知っている。あなたは悪い者をたえ忍べず、使徒ではないのに、そう自称する人々をためして、そのいつわりを見ぬいた。あなたはよく忍耐し、私の名のために、たゆまず多くをしのんだ。しかし私は、あなたに、はじめのころの愛がゆるんだことをとがめたい。あなたがどこから落ちたかを思い出せ。改心せよ、そして、はじめのおこないに立ちもどれ。そうせずに、あなたが改心しなければ、私は、あなたの燭台の場所をかえに来る。しかしあなたには長所もある。あなたは、私が憎むニコライ派の業を憎んでいる。耳ある者は、霊が諸教会にいわれることを聞け。勝つ者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせるであろう』。

【解説】(1) Status seminativus(種を蒔く時代)

 第一の時代は、旧約では、アダムからノエまで。

 創世の書には、始めに、天主の霊は水の上を漂っていたが、第一日目天主は光を作り光を闇と分けられたとある。

 新約での対応する第一の時代は、使徒からネロ皇帝まで。世の光は闇に輝いたが、闇はこれを理解しなかった。

 これに対応する聖霊の賜物は、上智(Sapietia)の賜物。

 初代教会は、力強く、活気にみちている。私たちの主イエズス・キリストが西暦33年に復活し、エルサレムの神殿が西暦70年にローマ軍により崩壊する。モーゼの宗教は公式に終わりを遂げた。

(2) スミルナの教会の天使にこう書け。

『初めであり終りである者、死んでまた生きた者はこういわれる。私は、あなたの患難と貧しさとを知っている・・・しかしあなたは富んでいる。・・・ユダヤ人ではないのにユダヤ人と称し、その実サタンの会堂に属する者から、あなたたちがざんげんを受けていることを、私は知っている。あなたは、たえ忍ばなければならない苦しみをおそれるな。悪魔は、あなたたちのうちのだれかを牢に入れて、試みるであろう。あなたたちは、十日の間、試練の苦しみを受けるであろう。死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに命の冠を与えよう。耳ある者は、霊が諸教会にいわれることを聞け。勝つ者は第二の死を受けないであろう』。

【解説】(2) status irrigativus(灌漑の時代)

 第二の時代は、ノエからアブラハムまで。ノエの大洪水は地上を満たした。ノエの方舟は洪水の中から水面に姿を現し、人類を救う。

 創世の第二日目に、天主は水と水とを分け、天を作られた。

 新約のこれに対応する第二の時代は、ネロの後の大迫害の時代。西暦64年から313年までの殉教者の血で赤く染められた時代。キリスト教信徒らの殉教の血は、地上を洪水のように満たした。キリストの教会は、殉教の大洪水の中から無傷で地上に姿を現し、人類を救うだろう。

 対応する聖霊の賜物は聡明(Intellectus)


(3) ペルガモの教会の天使にこう書け。

『両刃のするどい剣をもつものは、いわれる。私は、あなたが住んでいるところを知っている。そこにはサタンの王座があるが、あなたはしかし、私の名を保ち、私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなたたちの間で殺されたときも、なお私への信仰をすてなかった。しかし私は、あることについてあなたをとがめる。あなたのうちには、バラアムの教えにしたがう者がある。バラアムは、イスラエルの子孫に、偶像にささげた肉を食べさせ、また淫行をさせるために、イスラエル人の前にどんなわなをはればよいかをバラクに教えた。このようにあなたにも、ニコライ派の教えにしたがう人々がある。あなたもくいあらためよ。そうしなければ、私はすぐさまあなたのもとに行き、この口の剣をもってかれらとたたかう。耳ある者は、霊が諸教会にいわれることを聞け。勝つ者には、かくれたマンナを与え、また白い石を与えるであろう。そして石にはそれを受ける人以外には、だれにもわからない新しい名がしるされている』。

【解説】(3) status illuminativus(光で照らされる時代)

 第三の時代は、旧約ではアブラハムからダヴィドまで。

 創世の第三日目には、天主は乾いたところを作り「陸」と呼んだ。陸は海のように漂わず堅固である。また、天主は青草と果樹とを創られた。

 新約では、聖シルベステル教皇(在位314年-335年)からレオ三世教皇まで。

 教会博士が多く輩出した時代。コンスタンチノ大帝のキリスト教の自由化によって教会は地下から地上の光のもとに出てきた。また多くの教会博士たちが真理の光で教会を照らした。西方教会の四大教会博士のうち三名(聖アンブロジオ、聖アウグスチノ、聖イェロニモ)が、そして東方教会の四大教会博士(聖アタナジオ、聖バジリオ、ニッサの聖グレゴリオ、アリアンツォの聖グレゴリオ)の全てがこの時代の出身である。三位一体の玄義が多く議論され、イエズス・キリストが真の天主であることが揺るぎなくなった。ニケア公会議により、信仰の定義が確立した。キリスト教の教えは大地のように堅く堅固であり、その上に、多くの聖人達が草木のように輩出した。  対応する聖霊の賜物は賢慮(Consilium)


(4) ティアティラの教会の天使にこう書け、

『天主のみ子、目はもえる焔のよう、足は貴い青銅のようなお方はいわれる。私は、あなたのおこないと愛と信仰と献身と忍耐とを知っている。近ごろのあなたのおこないは前よりも多い。しかし私には、あなたを咎めることがある。あなたはイエザベルを放任している。この女はみずから預言者となのり、淫行をさせ、偶像にそなえたものを食べよと教えて、私のしもべをまどわしている。私は、くいあらための時をかの女にあたえたが、かの女はその淫行をあらためようとしなかった。私はかの、女を、苦しみの床に投げすて、姦淫の仲間をも、もしそのおこないを改めなければ、大なる試練に投げ入れ、また、かの女の子どもを打ち殺そう。こうしてすべての教会は、私が人の心腎までをさぐるものであることを知るであろう。そして私は、あなたたちのおのおのの業にしたがってむくいを与える。ティアティラのその他の人々で、教えにしたがわず、かれらのいわゆるサタンの秘密を知らないあなたたちに、他の荷を負わせることはしないと、私は宣言する。ただ、あなたたちのもっているものを、私がくるまで保て。最後まで私の業を守った勝つ者に、私は、異国に対する権利をあたえよう。かれは、鉄の棒で、土器を割るように、かれらを治める。その権利は、私が父から受けたのとおなじものである。私はかれに、あかつきの星を与えよう。耳ある者は、霊が諸教会にいわれることを聞け』。

【解説】(4) status pacifitcus(平和の時代)

 第四の時代は、旧約ではダヴィドからバビロンに移されるまで。

 創世の第四日目に、天主は天の空に太陽と月と星とを創った。

 新約では、教皇レオ三世(+816年)からレオ十世教皇(1521年)まで。

 レオ三世は、シャルルマーニュを選んだ教皇である。この時代にキリスト教世界が成立した。498年にフランスではフランク王クロービスがカトリックに改宗し、598年にはイングランドの王がカトリックになった。ドイツもアイルランドもカトリック国家となった。スエーデン、スカンジナビア、ロシアも、キリスト教国家となった。キリストの代理者である教皇様は太陽のように燦然と輝き、キリスト教諸王・諸侯は月や星々のように人民を照らした。

 聖霊の賜物は、剛毅(Fortitudo)


(5) サルデスの教会の天使に書け、

『天主の七つの霊と七つの星とを持つ者はこういわれる。私はあなたの業を知っている。あなたは生きている者だと思われているが、実は死んでいる。警戒して、死にかけている残りの者を強めよ。あなたの業が、天主のみまえに完全であると私はみとめなかった。だから、あなたがみことばをどう迎え、どう聞いたかを思い出し、それをまもってくいあらためよ。あなたが贅戒しなかったら、私は盗人のようにあなたのもとに来るであろう。あなたは私がいつおそってくるかを知らない。しかしサルデスにおいて、あなたのうちに衣を汚していない少数の人がいる。かれらは白い服で、私とともに歩むであろう。かれらはそれにあたいする者だからである。勝つ者は白い服をつける。私はその名を命の書から消すことなく、おん父のみまえと天使たちのまえで宣言する。耳ある者は、霊が諸教会にいわれることを聞け』。

【解説】(5) status afflictionis et purgativus(苦しみと潔めの時代)

 第五の時代は、旧約ではバビロンに移されてから洗者聖ヨハネまで。ユダの国は消滅し、ソロモンの神殿は崩壊した。バビロン時代に、メシアに関する考えが変わってしまった。ユダヤ人の間でさえ、異教の神々のために高台が作られて偶像崇拝がなされた。

 創世の第五日目に、天主は各種の魚、鳥などを創られた。

 新約では、私たちが今生きている時代であり、教皇レオ十世(1475年-1521年)から、将来の偉大なる「聖なる教皇」の出現まで。1517年マルチン・ルターによるプロテスタントの発生から始まる背教の時代。

 1517年、プロテスタント革命発生。

 1717年、ロンドンで最初のフリーメーソンのロッジが成立。

 1917年、ロシアのボルシェビキ共産革命。

 プロテスタント主義から自由主義が発生し、自由主義から無神論的共産主義へと繋がった。今では、共産主義からグローバリゼーション(世界統一化)へと向かっている。この地上には罪が満ちあふれるだろう。

 対応する聖霊の賜物は、知識(Scientia)


(6) フィラデルフィアの教会の天使に書け、

『聖なる者、真実の者、ダヴィドの鍵をもつ者、かれが開けばだれも閉じられず、かれが閉じればだれも開かないお方はこういわれる。私は、あなたの業を知っている。私は、だれも閉じることのできない門を、あなたの前にひらいてある。あなたはわずかな力しか持っていなかったのに、私のことばを守り、私の名を否まなかった。私は、サタンの会堂にしたがうある人々を、しいて、あなたのもとに来させよう。かれらはユダヤ人ととなえているがそうではなく、いつわりをいっている。かれらをあなたの足下に行かせて、ひれふさせ、私があなたを愛していることをかれらにみとめさせよう。あなたが、私の忍耐の指令を守ったから、私も地上に住むものを試すために、全世界に来るはずの試練のときに、あなたを守る。私は、すみやかに来るであろう。あなたのもつものをよく守れ。あなたの冠をうばわれるな。勝つ者を私は神の神殿の柱とするであろう。かれはもうそこから出ない。私は、神のみ名、神の都、天から、神のみもとからくだる新しいイェルザレムの名と、私の新しい名とをかれの上にしるす。耳ある者は、霊が諸教会にいわれることを聞け』。

【解説】(6) status consolationis(慰めの時代)

 第六の時代は、旧約では、キリストの公生活

 創世の第六日目に、人間が作られた。

 新約では、聖なる偉大なる教皇の出現と反キリストの誕生まで。聖母の汚れ無き御心の凱旋の時代。この聖なる教皇が出ることは、中世からよく預言されてきた。キリストの生き写しのようなこの聖なる教皇と共に、地上での最後の帝国として、聖なるローマ帝国が復活するだろう。この時代におけるカトリック教会は、偉大であり全てに勝利するだろう。人々は天主を愛することのみ考えるだろう。

「聖なる者、真実の者、ダヴィドの鍵をもつ者、かれが開けばだれも閉じられず、かれが閉じればだれも開かないお方」、すなわち私たちの主イエズス・キリストは、「サタンの会堂にしたがうある人々」を、カトリック教会の足下に行かせてひれふさせる」だろう。

 対応する聖霊の賜物は、孝愛(Pietas)


(7) ラオディキアの教会の天使に書け。

『アメンである者、忠実な真実な証人、天主の創造の本源であるお方は、こういわれる。私はあなたのおこないを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもないが、私はむしろあなたが、冷たいか、それとも熱くあることをのぞむ。しかしあなたは、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいものであるから、私はあなたを口から吐き出す。自分は金持だ、豊かになった、足りないものがないとあなたはいって、自分が不幸な者、あわれな者、貧しい者、めくらで裸の着であることを知らない。私は、あなたに、精練された金を私から買って富め、白い服を買ってまとえ。はだかの恥を見せず、目に目薬をぬって見えるようになれとすすめる。私は、愛するすべての者を、責めて罰するのであるから、あなたも、熱心にくいあらためよ。私は門の外に立って叩いている。私の声をきいて戸を開くなら、私はその人のところにはいって、かれとともに食事し、かれも私とともに食事するであろう。勝つ者は、私とともに王座に坐らせよう。私が勝って父とともにその王座に坐ったと同様に。耳ある者は、霊が諸教会にいわれることを開け』」。

【解説】(7) status desolationis(嘆きの時代)

 第七の時代は、聖金曜日と聖土曜日。

 新約では、反キリストからこの世の終わり(最後の審判)まで。

 創世の第七日目には、天主は御業を終えて安息された。

 聖霊の賜物は、畏敬(Timor Dei)


 それでは、今回は、元仙台司教の浦川和三郎司教様の『祝祭日の説教集』の中に掲載されている「人生」のお説教をご紹介します。


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祝祭日の説教集

浦川和三郎(1876~1955)著

(仙台教区司教、長崎神学校長 歴任)

人生

(1)-人生とは何ぞや?聖書には人生の甚だ短く、頼むに足らざることを種々の物に比較してある。曰(い)わく「人生は影の如く過ぎ、使者の如く走り、船の海を渡るが如く、鳥の空を翔(かけ)るが如く、矢の的に向って飛ぶが如く、泡の水に消え、煙の風に散るが如く、又一泊して過ぐる旅人の如し」と。某、詩人は更に簡単なる一句を以って、人生の果敢(はかな)さを描き、「人生とは何ぞや、緑樹の花なり、太陽、生じて而(しか)して生じ、太陽落ちて而して落つ」と。 人生の果敢(はか)なきことは斯くの如しである。

 我々は決して永く現世(このよ)に留まるものでない、やがて影の如く過ぎ、使者の如く往き、船の如く渡り、鳥の如く飛び、泡の如く消え、煙の如く散(さん)じ、矢の如く去り、花の如く落つべき者である。然らば何うして過ぎ易い現世の事に執着して居られましょうか。


(2)-人生とは何ぞや?ヨブは曰(い)いました「地上に於ける人の生涯は戦なり」(ヨブ一ノ七)と。聖パウロは曰いました「吾等は主に離れて流浪するなり」(コリント後五ノ六)と。

 聖会は教えて曰(い)います「人生は逐謫(ちくたく)の場なり」と告げてくれる。

 実に我々は富を欲しても、現世(このよ)は唯だ過ぎ易い、虚偽の富を与うるのみである。

 名誉を欲しても、唯だ不完全なる、空しい、頼み甲斐もない名誉を与うるのみである。

 楽しみを欲しても、唯だ短い、偽りの楽しみを与うるのみである。

人生の斯くまで果敢(はか)なきを見て、ダウイドは絶叫しました「誰か我に鳩の如き翼を与えん者ぞ、我は飛び去りて平和を得ん」(詩篇五四ノ七)と。

 聖パウロは「誰かこの死の肉体より我を救うべきぞ」(ローマ七ノ二四)と曰いました、イグナチオも亦、之に和して「吾、天を仰ぐ時、地は如何に醜きよ」と申しました。

 これ皆、現世を悪(にく)むの声に外ならぬ。

 然らば我々もこの過ぎ易い、この悪(にく)むべき現世に執着せず、「人、全世界をもうくとも、若し其の生命を失はば何の益かあらん」と曰(のたま)うた主の御言(みことば)を想いましょう、詩人ダウイドと共に「神に愛着し、主たる神に吾が希望を置き奉るは善(よ)し」(詩篇七二ノ二八)と申しましょう。


(3)-人生の目的は何ぞや?貪欲人(どんよくじん)は曰(い)います「人の現世(このよ)に在るのは、多くの富を貯えんが為である」、而して彼はこの富を求めん為に、其の生命を使い尽くして後、手を空うして現世を去るのであります。愚も亦、甚だしいと謂(い)うものではありませんか。逸楽家(いつらくか)は曰います「人の現世に在るのは快楽を極めんが為である」と。して彼は身体の慾を縦(ほしいまま)にして、後、身体は憔悴(やつ)れはて、心は憂いの雲にとざされ魂は罪悪に満ちて、墳墓に入るのである。愚も亦た更に甚だしいと謂うものではありませんか。

 名聞者(みようもんしゃ)はいいます、人は其の名を高くし、世の誉れを買い、己と名を争う者をして、後に撞着(どうちゃく)たらしめんが為に現世に在るのだ」と、彼はその為に夜を日に継ぎ、畢生(ひっせい)の力を奮い、東奔西走、骨を砕き、身を粉にして居る。

 して臨終の時に至ると、その為した所は「空(くう)の空(くう)にして、又、すべて空なる哉」と悟り、臍(ほぞ)を噛むも及ばない、早や後の御祭(おまつり)、何ともされないのであります。学者は曰います「人の現世に在るのは、千巻の書を読み破り、万学の奥義に通じ、博士と持て囃され、先生と尊敬せられ、一世の耳目を聳動(しょうどう)せんが為である」と、彼は之が為に寝食を忘れ、吃々(こつこつ)として勉め励みて、復(また)、他を顧みるの暇なきが如しである。而して其の学、其の名声はやがて北亡一片の煙と共に消え失せて、跡だに止めない、愚も亦、いよいよ甚だしいと謂うものではありませんか。

 人生の目的は富貴にもあらず、逸楽にもあらず、名声、学識にもあらざることは明らかである。故に道と生命と真理なるキリスト様は吾々に教えて「汝等、先ず神の国と其の義とを求めよ」と曰(のたも)うた。

 是れぞ之れ人生本来の目的である、神の国、幸福(さいわい)の国、永遠の国を求める、是れぞ之れ人生の唯一真正の目的である。

 そして此の国を求めんと欲せば、神の御光栄を顕わし、霊魂を救うべく努めなければならぬ。神の御光栄(みさかえ)を顕わし、霊魂を救わんと欲せば、神を誉(ほ)め、神を敬い、神を万事に越えて愛しなければならぬ。

 善く己が魂を修め、之をして永遠の国を得るに相応(ふさわ)しからしめ、此の目的より遠からしむる都(すべ)ての妨害物(じゃまもの)を除(のぞき)、去らなければならぬのであります。