マニラのeそよ風

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第361号 2006/09/22 秋の四季の斎日の金曜日

The Marriage at Cana, Gerard David, c. 1503, Louve, Paris, France
The Marriage at Cana, Gerard David

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 八百屋さんの前を歩くと、ブドウの甘いにおいがぷーんと漂う季節になりました。ブドウを食べると小さな種が出てきますが、こんな種からあんな木がなって、あんな葉っぱを出して、そしておいしいブドウを実らせるんですよね。不思議です。

 太陽の光と雨の水がブドウの汁に変わって、私たちにおいしいブドウを食べさせてくれます。

 エコンの神学校では夏休みが終わって神学校に戻ると、神学生全員が神学校のぶどう畑で毎年今ごろにブドウ狩りをしました。スイス・アルプスの山で日照時間が短くなり、朝はまだ寒い時から畑に出てブドウを刈り取ります。神学校でこうしてミサ聖祭用のブドウ酒を作るのです。

 ブドウ酒を最初に作った人は、聖書によるとノエだったようです。ブドウ酒は私たちに喜びを与えてくれますが、やはり愛の象徴だからでしょう。

 私たちの主イエズス・キリストはカナの婚宴で最初の奇蹟を行い、水をブドウ酒に変えられました。

 このカナの婚宴は現実に歴史上起こったことですが、聖アウグスティヌスは、次のように霊的な意味を解説しています。

 宴会係は、ぶどう酒になったその水をなめてみて花婿をよび、「大抵の人は、先によいぶどう酒を出して、酔いのまわるころに下等なものを出すのに、あなたは、よいぶどう酒をいままでとっておいたのですね」といった。これが最初の奇跡であった。

 キリストは、その時までよいブドウ酒を取っておかれた。すなわち、ご自分の福音をとっておいた。

 預言は大昔からあったが、キリストを知ることを与えない預言は水である。

 「モイゼは消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、顔におおいをかけた。しかしイスラエル人の心は頑になった。今日も旧約を読むとき、そのおおいは垂れたままである。その契約がキリストによって無にされたことが、イスラエル人にあらわされていないからである。今日も、モイゼの書を読むとき、かれらの心におおいが垂れている。しかし、人は主に回心する時に、そのおおいをとられるであろう。」(コリント後3章)

 そして主に回心するとき、今まで水であったものがブドウ酒となる。

 聖書の預言を全て読め。しかしキリストを認めないなら、そこに見いだすものはまずくて不快なものでしかない。そこにキリストを認めよ。そうすればあなたが読むものは香ばしいものとなり、精神を力づける。

 預言は大昔からあったが、キリストについては沈黙し、その意味は隠されたままだった。それは今に至るまで水であった。

 「イエズスは、『ああ、預言者たちのいったすべてのことを信ずるに鈍いおろかな人たちよ。キリストは、これらの苦難をうけて、栄光にはいるはずではなかったか!』とおおせられた。そして、モイゼからはじめすべての預言者にわたり、聖書のすべての本の中で、自分についてしるされたことをかれらに説明された。」(ルカ24章)

 主は彼らの心の目を開き、聖書を解き明かされた。彼らは聖書の中にキリストを認めるに至った。私たちの主イエズス・キリストはこうして水をブドウ酒に変えられた。味の無かったものが味を持ち、心に感動を与えなかったものが感動を与えるようになった。

 主は水をブドウ酒に変える時、旧約聖書もまた主から出ることを私たちに明らかにされた。何故なら、主が命じて石がめを一杯にしたからである。旧約聖書もまた、主によって満たされた。

 世の最初から私たちが生きている時代までは六時代である。
第一の時代は、アダムからノエまで。
第二の時代は、ノエからアブラハムまで。
第三の時代は、アブラハムからダヴィドまで。
第四の時代は、ダヴィドからバビロンに移されるまで。
第五の時代は、バビロンに移されてから洗者聖ヨハネまで。
第六の時代は、キリストから世の終わりまで。

 天主は創造の第六日目に人間をご自分の姿に従って創られた。
それは第六の時代に福音によって私たちの心が、それを創られた方の姿に従って造りかえられること(レフォルマーレ)が明らかになるためである。

 主が水を満たせを命じた六つの石がめがあった。その六つの石がめは六つの時代を意味する。この六つの時代はキリストによって満たされていなければ、空っぽの石がめのようである。預言が満たされ石がめが一杯になったのは、水がブドウ酒に変わる時に、キリストが全ての預言の中で知られるためである。

 預言は全世界のあらゆる国民の救いに関わるものとして与えられた。しかし、モイゼはイスラエルの民だけに使わされた。律法はイスラエルの民だけに与えられ、預言者もイスラエルの民から出た。時代区分もこの民を基準として与えらえた。従って、石がめは「ユダヤ人のきよめのために準備されている」ものだった。


 では、今回は『見よ、彼らがどれ程愛し合っているかを』をご覧下さい。

 ところで、ルフェーブル大司教様の伝記『マルセル・ルフェーブル大司教――地上に降った宝石エコンを作った男』の 第4章 郊外の助任司祭(-1931年)の翻訳が完了しました。どうぞ次をご覧下さい。
日本語サイト リンク CREDIDIMUS CARITATI:  『マルセル・ルフェーブル大司教―地上に降った宝石エコンを作った男』 第4章

 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(31)『見よ、彼らがどれ程愛し合っているかを』:

(I) 夫婦の愛の感情(その7)

12. 大いなる愛の家庭は大いなる喜びの家庭

 もしも愛し合う家庭においては心が常に若さを保つとすれば、そのような夫婦は喜びに満たされている。

 喜びは常に愛によりそう、というのが経験上の事実だ。聖アウグスティヌスもこう言っている。「人は愛する時に歌う。」私たちはこうも言うことができるだろう。「愛されている時にも人は歌う」と。

 愛のない家庭では喜びがない。互いに愛し合う家庭は「喜びの家庭」だ。

 喜びは、家庭の中の愛の現実と力とを計る、間違うことのない判断基準であり最も確実な印だ。もしも夫婦が本当にそして互いに深く愛し合っているかどうかを知りたいなら、彼らが幸福であるかどうかを尋ねてみる(というよりも見てみるだけで充分)がよい。  喜びと愛とは常にともに行くから互いに深い愛で愛し合う夫婦は非常にしばしばこう思うのだ。「私たちはこれほど愛し合ったことがなかった。私たちは今ほど幸福な時はなかった!」と。

(つづく)