第345号 2006/05/26 証聖者聖フィリポ・ネリの祝日
【聖ピオ十世会のシスター入会式】
聖ピオ十世修練院にて、ゲッフィンゲン(ドイツ)
アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
「マニラの eそよ風」 第343号 でご紹介した、六歳の頃から仏寺に預けられ、禅僧として仏に仕え、七二歳まで仏教の住職であった吉井滴水師の書いた手記、『カトリック教と仏教 ――私は、なぜカトリック教を信ずるか―― 』をお送り致します。特に、聖書の成立と仏教経典の成立の違いについて、ご注目下さい。
五十二年前の主の昇天に書かれた前書きを見ると、何か現代の私たちに語りかけているようで感慨深いものを覚えます。少々長い手記ですから、ごゆっくりお読み下さい。
また主の昇天から聖霊降臨まで、聖霊の賜を願って九日間の祈り(ノベナ)をするのが聖伝の習慣ですから、どうぞ、なさって下さい。
良き聖母聖月をお過ごし下さい。
天主様の祝福が豊かにありますように!
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
カトリック教と仏教
私は、なぜカトリック教を信ずるか
ピオ吉井滴水
まえがき
「君はなぜカトリック教を信じますか」との問に対しこの一文を草しました。本冊子に於ては、カトリック教と仏教とを
一、本質的相違より観て
二、聖書と仏典の成立過程より観て
三、教義の比較より観て
の三点より比較考察して、カトリック教のすぐれた点を述べ、同教を信ずる所以を明らかにしましたが、実際に於て私の心をより一層強く動かしたものは、斯る抽象的な理論よりも、寧ろ救霊に対する真摯にして熱烈なる神父諸師の実際的態度であり、愛の精神に依って社会福祉のために尽される教会の献身的活動でありました。百言は一行に如かずと云はる通り、げに、人を動かすものは、百の美辞麗句よりも、一の真実行であります。
私は本冊子の終末に述べた通りの心境に依ってカトリック教に帰依しましたが、私をして今日に至らしむるため、約一年有半の永きにわたって、直接に間接に断えず私を指導策励して下さいましたスパー神父様に対し深甚なる感謝をささぐると共に、ますます信仰を堅め、信仰行にいそしんで、同師の御懇情に報いたいと決心しています。
尚、本冊子出版のはこびに至りましたことは、偏にスパー神父様の御厚意に依るものでありますが、その内容用語などについては岩永神父、酒井康次の両氏より、しばしば有益なる助言を賜りましたもので、ここに記して感謝の意を表します。
昭和二十九年五月二十七日 (御昇天の大祝日)
ピオ吉井滴水
目次
一、宗教の必要
二、世を救う真実の宗教は果して何ぞや
三、本質的相違より観て (天啓と人為)
四、聖書と仏典成立過程より観て
五、教義の比較より観て
六、結論
戦後我国が狭少なる四つの島に限られた結果、多数国民は実に悲惨な状態に陥つた。そして生きんがための欲求は遂に彼等を駆つて、如何なる敗徳汚行をも敢て辞せない邪道に走らせたが、之れは実に憂慮すべき現象で、其匡救は一日も忽にすべきではない。さりとて現在の我国に於て一般大衆に豊かな生活を営ましむる事は、国内に於ける資源の不足と今日の乏しい経済状態では、到底望み得られない事であるから、せめて精神生活を豊かにして、貧困な生活状態より生ずる不満と苦悩とを緩和せしむる事が焦眉の急務で、斯くすることに依って焦燥と煩悶と自棄より生ずる不道徳な行為を絶滅させ得るばかりでなく、寧ろ逆境こそ神の試煉であるとして、感謝と忍耐とを以て受取り、之れに打勝つために大信仰と大勇猛心とを養はせる事が、この混濁せる社会を救う唯一の道ではないか、世に「背に腹はかえられぬ」などと云って或る種の罪悪を、生存上避け得られないものとして認容する人もあるが、斯る頽廃的な気風は是非とも一掃して、「渇しても盗泉の水を飲まず」との高潔な心境に住まわせしめるよう指導するのが先覚者の務めであり、そこに宗教活動の分野があるわけだと思う、健やかな者は医師を要せないが、病める者こそ痛切に医師の必要を感じるように人を恨み、世をのろい、悪を悪と思はない現代に於てこそ、宗教の必要性が一層痛感せらるるのである。
現時我国に於ける宗教々団の多くは、何れも病気の回復や災害の消除を願ったり、立身出世や家運の隆盛を祈ったりする。現世的功利的のものが多数で、宗教本来の目的たる救霊の道を説くものは極めて少ない。仏教の如き日本教界の王座を占むるものでも、現在では何等他の教団と異なることなく、やはり加持や祈祷に依って空虚なる現世利益を説くか、或は自己を清めずして徒らに来世の幸福を求めんとする利己的往生思想を鼓吹するなど、何れも仏教本来の思想とは遠く相離れて、一番大切な救霊の問題をおろそかにしている傾がある。従って一般民衆は精神の浄化を求めようとはせず、ただ現世に於ける物質的肉体的の幸福のみを得んと望み、且つそれを満し得るが如き宗教に心を走せているのは、宗教家特に仏教僧侶の不甲斐なさと教化の不徹底によるものである事は争えない事実である。然しながら仏教が我国に渡来した当初、時の高僧たちは民衆教化や社会改良の面に於いて非常に熱心なる活動をつづけ、偉大なる功果を挙げて我国を仏教化せられたものであったが、其残された功業と感化力とは深く国民の問に浸透し、惰性的であり因習的ではあるが、約八十%の我国民は今尚ほ仏教徒なる名の下に団結している実情であるから、此際仏教僧侶は教祖釈尊の精神に立帰り其芳躅(ほうちょく)にならつて、混迷せる現在の社会に光明を与え、誤れる民衆を正道に引戻すべき責務を果すべきであるが、悲しい事には仏教の現状より見て其期待は裏切られている。仏教は既に救済力を失っている。仏教は老衰状態に陥っている。否な、真の仏教は既に死滅している。
つらつら我国仏教界の現状を観るに、近時ますます本来の使命より逸脱せんとする傾きあるは実に慨嘆に堪えない次第であるが、それに就て思い起すのは支那の中峰国師の事である。彼は国の師と呼ばれし程の名僧で、信仰徳行に於て間然する所なき立派な人であつた。当時支那の仏教界は今日の我国のそれと略ぼ相似た状態であったと思われるのは、彼が時の僧侶の香ばしからぬ行状の数々を指摘して、その反省を促がされた一文が今なほ伝っている事に依って知る事が出来る。文は短いものであるが言々句々人の肺腑を貫き、心ある人士をして覚えず襟を正さしむる感激の文字であるから、参考として其一部を摘録しましょう。(まづいが意訳します)
今の世の僧侶は、形は仏弟子らしく見えるが、心に恥と云うことを知らない、身には法衣をまとつているが、心は常に世の俗事に染み、口には経典を読誦するが、心は常に貪りに走せ、昼は世間の名誉や富貴を得んとして心をくだき、夜は愛欲に悩まされている。表向はいかにも殊勝らしく見せかけているが、かげでは人知れずいかがわしき欲望の奴隷となり下っている。いつも生活のために収入の多からんことのみを計って、大切な救霊の事などはすつかり忘れ、そして間違った思想にとらわれて、真理を観る眼を失っている(以下略す)
実に恥かしい次第であるが、此一文は国師が先見の明に依って、予め今日我国僧侶の生態を描写せられたものとして受取らねばならぬ現実に対し、慚死せねばなりません。事実今の僧侶の多数が宗教家としての自覚と自粛を欠いている事は周知の事であるが、さりとて信仰厚く徳行高き有徳の人々の存在をも亦見逃してはなりません。然しながら「悪貨は良貨を駆遂する」という法則は矢張宗教界にも行われ、これ等純真有徳の士は彼等多数の者と伍するを屑とせず、独り退いて已を清ふするの道を撰び、何事に対しても終始沈黙を守り続ける結果、教界の情勢は益々好ましからぬ方向にのみ流れ行きて、昔は社会を指導していた高僧大徳の地位も、今は俗臭紛々たるいかがわしき人物に汚され、又時々声を大にして教化や救霊の叫を掲げるが、実行の熱意は少しもなく、唯だ仏の名に隠れ仏の名を利用して一身の安きを求めんとする安逸の生活に堕いり、仏に奉仕するの真実心を欠いている事は実に慨かわしい次第で、之れは戦後に於ける宗教政策の行き過ぎから来た影響もありますが、大体に於て僧侶其者の素質と教養の低下に依るものである事は争われません。斯くて其昔世を照らす光であった仏教も漸次其真価を失って、今や全く衰亡の一路を辿っているのは哀れなことであります。
斯の如く、仏教僧侶は自己のために仏を利用することを知るも愛することを知らないが、カトリック教の神父たちは心より神を愛し、神の御旨に従順で、常に清貧に甘んじ、且つ終生貞潔をもって身を護る清浄の人々で、その昔全人類のために十字架上に聖なる血を流し給える、救い主イエズスの愛と熱とを身に体し、イエズスの心を心とし、イエズスの行を行とし、民衆教化に専念していられることは実に敬服に堪えない次第であります。
今や世は一般に神を忘れ、愛の心を失い、己れの本分を尽さずして濫りに権利のみを主張せんとする傾を生じ、人々に柔和謙遜の心なく、思想は混乱し、道義は頽廃して帰する所を知らない、特にいちぢるしく目立つのは青少年の放縦なる事で、之れが匡救は一日をもゆるがせにしてはならない。この事に就いては政治や教育の面より手を打つことも勿論必要ではあるが、所詮正しき宗教の力に頼らねばならぬ問題であり、又かくする事が最も有効適切であると思われる。仏教は表面いま尚ほ一大勢力を持っているかに見えるが、内部に於ては既に崩壊作用を起しつつあるので、最早現在の如き混濁せる社会を救ふべき実力を持たないばかりでなく、既に其意志すら喪失している。今の場合この大任を完全に果し得るものは、世界広しといえどもカトリック教を措いて他に求め得られない事は万人の等しく認むる所で、社会の各層も亦それを要望している。
カトリック教会は救主イエズスの精神を伝承し来れる。純正にして而も強力なる教団で、不動の信念の下に神父を各地に派して、人類救済のために不惜身命の精進をつづけ、あらゆる邪悪を克服して、着々律大なる業績を挙げつつある事は、如何に同教が時弊を救ふに適切なるかを雄弁に物語り、且つ実証している。
次にカトリック教と仏教とを三つの観点より比較し、我らが頼って以て自己の霊魂を託し得べき実の宗教が、果たしていずれなるやを研究して見よう。
西紀前三千年の頃、中央アジアの原住地より東西に移動を開始したアーリアン民族の一部は、東進して印度の中心部なるガンジス河の大平原に達し、そこにはなばなしき高度の文化を築き上げたが、キリストの御降誕に先立つこと五百六十五年の頃、その一支族なる釈迦(シャーキャー)族より一聖者が誕生せられた。時人は彼を釈迦牟尼(シャキャムニ)と呼んだ。牟尼(ムニ)とは聖者の意である。彼は一王家の太子と生れ、幼時より満ち足れる豊かなる生活の中に人となられたが、彼の心中には常に満ち足らざる或ものがあった。それは人生に対する不安と疑惑であった。前途を嘱望された青年も、いつしか白髪の老人となり、健康を誇りたるものも、いつしか病に苦しめられ、やがては死の手に捕えられて、愛する者と永遠に別れねばならぬ悲惨の世相に対し、彼は一般世人の如く無関心ではあり得なかつた。特に愛母マーヤが彼の生後七日にして長逝せられた事は、もの心の付き始めた頃より彼に堪えがたきさみしさと苦悩とを植えつけた。つらつら人生を観ずるに、世は実に無常であり、悲滲であり、苦悩である。取り分け、老い行く事は苦であり、病は苦であり、死は更に苦である。何んとかして老より逃れる道は無いであろうか、死から逃れる道はないであろうか、若しないとすれすれば、我々は風に弄ばるる枯葉の如く、荒波に翻弄さるる捨小舟の如く、前途あんたんとして少しの光明もなき生存で、凡そ人間ほど無意味の存在はないではないか。人間を悩ます老病死の克服なくして、徒らに瞬間の歓楽に陶酔し、浮雲の如き栄誉にあこがるる事は、恰も噴火口上に乱舞するが如きもので、そこには何等の楽も慰もないではないか、世の多くの者が此事実に盲目なのは、何んと云ふあわれな事であろうかと、彼は此問題に就いて日夜心を悩ました。彼は此不安と苦悩の現実相を克服して、自らを救ふと共に、すべての人類にも慰安と救済を与えたいと念願せられた。
当時印度の宗教は、古い伝統を持っている。婆羅門(ばらもん)教と、之に反抗して興つた新思想とがあつて、前者は「転変説」を唱え、後者は「積集説」を唱えた、転変説に依ると、宇宙の始めには唯一の精神的な本体である「梵」(ボン)があつて、万有はそれから転変発生したものであると説き (之はキリスト教の神の思想に似ているが、本説は宇宙内に梵を認むる汎神思想で、キリスト教の超自然の神とは異る) 積集説では宇宙は独立した多くの根本的な要素が積集して出来たものだと説いた (之れは今日の科学の思想に近い、然し其根本的な要素が如何にして存在せるかには説き及ばない) 其結果転変説を奉ずる者は、自己の心が宇宙の本体たる梵と一致冥合する事が望まれ、そのためには禅定を修めて精神を統一し純化して、物質からの束縛を離脱し、梵我一如の境に達する事を理想として、修定主義を唱え、又積集説を信ずるものは、物質と請神とは互に相対立するものであるから、勉めて肉身を苦しめ、物質の力を弱める事に依って精神の力を強め、依って以て人生苦を離脱し得るものと考えて苦行主義を唱道した。この苦業主義と修定主義の二つが、同時の印度における宗教的実践方法であった。青年太子は此等両派の学師聖者と云わるる人々に就いて或時は禅定に専心し、或時は苦行を励まれたがその何れもが彼の疑惑と苦悩を解く力がなかったので、この上は自らの力に依って人生苦解脱の方途を発見するより外に道なしと決心せちれ、二十九才の時に独り山林に入って、つぶさに苦修練行を積み、冥想思索を重ぬること六年にして、三十五才の時遂に前人未到の大悟の境地に達せられた。時人は彼を仏陀(ぶっだ)と呼んだ、仏陀とはサンスクリットの「ブッダハ」の音訳で「覚者」と義訳せられる。即ち自ら真理を覚り、更に他に教えて真理を覚らしめ、且つ自己の行為が常に真理に合致し得る人と云う意味で、この仏陀の教を仏教と略称するのです。
以上述ぶる所に依って知らるる通り、釈迦牟尼 (しゃかむに) ----- 以下釈尊(しゃくそん)と称す ------- の教は全く無師独悟のもので、今日の言葉を以てすれば所謂「人為的宗教」である事がわかると思う。原始経典に次の一節があるから御覧下さい。
外道(げどう)ウパカなる者あり、世尊はガヤに赴き給ふ途上にて彼の来れるを見給えり、「御身は誰によりて出家せるや、誰をか師となせるや、誰の法を信ずるや」彼かくの如く云える時、世尊はウパカに答え給えり、「我はすべてに勝者にして、すべての智者なり、一切を捨て離るるが故に、渇愛(かつあい)すでに尽きて、心解脱(げだつ)せり、自ら独り悟りたれば、誰をか師と称すべき、我には師もなく、等しき者もなし」(中略)かく説き給える時、外道ウパカは「或は然らん」と云いつつ、頭を振りて別の道をとりて行けり。
(註)
外道(げどう)=仏教では仏教以外の教学をすべて外道と称す、
世尊(せそん)=時人が釈尊と尊んで、かく呼んだ、
渇愛(かつあい)=汚れたる欲望の根元、
斯くの如く、釈尊自身の宣言の通り、仏教は釈尊が時の宗教にあきたらずして、自ら思索し、探求し、何人の教をも受けずして、自ら悟り得たる真理を宣説せられたもので、全く人間釈尊の独創的な宗教であります。之れに反し、カトリック教は天地開闢以来、不心得にも神を離れて罪に陥りたる人類を救済せんとの大御心に依って創造主により不断に啓示せられたる御教を、後年御子キリストが聖父の御心のまにまに完(まっと)ふられたもので、聖父も聖子も三位一体の天主におわすが故に、其啓示し給える教を「天啓の教」と申上るのです。わかりやすく云いかえますと、天啓の教とは、仏教の如く人間が作為的に説いたものでなく、人類の御親にまします天主様が、御自分の子供たちを愛し給ふ余り、それ等を救はんとの思召によりて御自らお示し下さいました御教を云ふのです。天主は始め人間を造り給ふと共に順守すべき法則をもお定めになりました。我等は之れを「天地の公道」とか「人倫の大本」などと申していますが、この法則に反し且つ神の命じ給える特別の掟に背いたのが、人類の堕落で、それを救はんがために此法則に順拠すべき形式方法を天主御自ら御説明あらせられ、且つ従来犯せる過誤を是正し、それを償うべき我らの義務的行為をも律し給いましたのが御教えでありますから、すべての者がそれに従い行くことは当然の務めであります。
神は人類の堕落を憐み給ふの余り、之れが救済のために開闢以来機会ある毎に、御教えを垂れ誡勅(かいちょく)をお垂れになりましたもので、その御仁慈のほどは旧約聖書の到る所に拝し得るのであります。而も時満ちて遂に其御独り子イエズス・キリストを地上におつかわしになりましたのが、今より約二千年の昔でありました。キリストは傲慢にして神を受入れざる者の憎悪と迫害とに苦しめられながらも、飽まで父なる神の御心に随順して、至高なる救世の使命に従事せられ、最後に聖なる血を流して人類の罪を贖い、再び天へお帰りになりましたもので、其御活動と御教誠は四福音書に詳であります。
我等はキリストを神の御独り子と申し上げて居りますが、之れは人類救済のために人となり給える天主の第二位格で、聖父と人間の仲介者であり、架け橋となり給える御者でありますから、我らはキリストを通じてのみ救に与り得るのです。聖父は救済の御聖約を人類に知悉せしめ、且つ善き人々に希望を持たせんとの思召に依って、遠き昔より各時代の聖者をして、常に聖なる御約束を預告せしめられました。之れを預言と称しています。預言とは人智に依っては到底察知し得られない遠き未来の事を、神の全知に依って預言せしめ給いしもので、御子キリストの御降誕を始め、御一生の御行動や御苦難御復活等、すべて御子を廻って起り来るすべての出来事を、遠き古より預言せしめ給いました、そしてこれらの預言は最も近きものにても、御降誕に先立つこと実に約五百年以前のことでありました。
しかもそれらの預言があたかも響きの声に応ずるが如く、御言葉通り御子キリストにおいて実現成就せられたのであります。
世には預言なるものに対し疑惑を挿むものがあります。それは我国の新興宗教などに於てしばしば見るが如く、其教祖を神聖化せんとの企の下に、或る出来事の起きし後に殊更に預言を偽作して、「我教祖はかくの如き非凡の御方なり」などと宣伝いたしますが、キリストに関する預言は斯の如き浅簿なる人為的のものと同一視してはなりません。なぜならば、此等の預言はキリストを迫害し、キリストを十字架に付けたる、ユデア人の祖先に依って記されたるのみならず、現にキリストに対し野意を持たないユデア教徒に依って、天啓の聖典として大切に捧持せらるる旧約聖書中に在るので、決してキリスト教徒が後世に至って書き添えたものでない所に、絶対の信頼性と確実性がある訳であります。今其内より参考として二三を摘録して見ましよう。
(一)キリスト御降誕の場所に就いて、ルカ福音書(二の一-七)に依りますと、
其頃、チェザル、アゥグストから天下の人を戸籍につかせよとの詔が出た、(中略)それで人々は皆、名を届けるために各々故郷に帰った。ヨゼフもダヴイドの家系で、また其血統なので、既に懐胎している許嫁の妻マリアと共に、名を届けるために、ガリレアの町ナザレトから、ユダアのダヴィドの町ベトレヘムと云う所についた。そこに居る問に産期充ちて、マリアは初子を生み、布に包んで馬槽に臥させておいた。旅館に居る場所がなかったからである。
と記されてありますが、この事実に対し預言者ミヤアスはキリスト御降生の約七百年前に次の預言をしています。
ベトレヘム-エフラタ-汝はユダの郡中にて最も小さきものなり、汝の中より我ためにイスラエルの君たるもの出べし(ミケアス五の二)
(二)キリストが童貞聖マリアより生れ給いし事に就いて、ルカ福音書(一の二六-三五)には次の如く記してあります。
天使ガブリエルはナザレトと云ふガリレアの町の、ダヴイド家のヨゼフと云ふ人と許嫁である。名をマリアと云ふ処女のもとに遣はされた、天使は彼女のもとに来て「汝に挨拶する、恩寵に満ちた者よ、主は汝と共に在す」と言った。彼女はこの言葉によって心さわぎ、この挨拶はどんな事かと思いめぐらしていた、天使は云った「おそれるなマリアよ、汝は神の御前に恩寵を得た、見よ、汝は孕って子を生むであろう、その名をイエズスと名づけよ、彼は偉大で、いと高言者の子と称えられるであろう〔中略〕それでマリアは天使に云った。「私は男を知らないのに、どうしてそんな事があるでしようか」、天使は答えて言った。「聖霊が汝にのぞみ、至高者の能力の蔭が汝を覆ふであろう、故に生れるべき子は聖なるもので、神の子と称えられるであろう。
之れに対し、預言者イザイアスは既に西紀前七世紀の頃に左の如く預言しました。
見よ、童貞女懐胎して一子を生まん、その名はエンマヌエルと称されん。
(イザイァス七の十四)
「エンマヌエル」とは「我等と共にまします神」の義であります。
(三)キリストが反対者に捕えられて、司祭長カイフアの家に引かれ、又総督ポンシヨ・ピラトに渡された時に受け給いし、堪えがたき侮辱や暴虐なる行為に就て、マテオ福音書は次の如く記しています。
ここに彼等はその御顔に唾し、拳で打ち、或者は平手で叩いて(二六の六七)
そこで彼はバラバを彼等にゆるし、イエズスを鞭たせ、十字架につけるために付した、さて総督の兵卒共はイエズスを役所につれて行き、全隊をそのもとに集め、衣服をはいで赤い外套を着せ、茨の冠をあんで、その御頭にかぶらせ、右の手に葦を持たせ、その前にひざまづき、「ユダア人の王よ、御挨拶申し上ます」と言ってあざけり、又彼につばをかけ、その葦をとつて御頭を打ってあざけって後、その外套をはぎ、もとの衣服をきせ、十字架に付けようと曳いて行った。 (二七の二六-三一)
この事に就いて預言者イザイアスは西紀前七世紀の頃に、次の様に預言しました。
我をうつ者に我背をまかせ、我髪をつかむ者に我頬をまかせ、侮辱と唾とに我顔を覆はざりき (イザイアス五〇の六)
以上はほんの一例にすぎませんが、キリストの御一生はすべて神に依ってなされたる預言の実現であり、成就でありまして、神が人類救済のために斯くあらしむべく予定し給い、又斯くあるべしと予告し給える事が、御子キリストに依って完全に成就されたのでありますが、更に各預言者は神の霊感に依って、何れも異口同音に「この預言に応じて出現せらるる御方こそ神なり」と明確に言っているのであります。今一例としてイザイアスの言を引きましよう。
汝等の神を見よ……汝等を救はんために彼自ら来り給はん (イザイアス三五の四)
右の如く隅すべての預言を成就し給える事に依って、キリストが神なる事を証明し得るのみならず、聖父にまします天主御自らが之を証明していられる事をも見逃してはなりません、マテオ福音書(三の一三~一七)に依りますと
時にイエズスはヨハネに洗礼を受け様としてガリレアよリヨルダンに来給ふた。ヨハネは彼を押し止め様として「私こそ貴方に洗礼を受けねばならない者であるのに、貴方の方から私の元にお出でになるのですか」と言った。イエズスは答えて「今は、させよ、我々が此様に正しい事を悉くしとげるのは、適当な事だからである」と仰せられた。それでヨハネは許した。イエズスは洗礼を受けて直ぐ水から上り給ふた。見よ、天が彼のために開け、神の霊が鳩の形で下り、御自分の上に来るのを見給ふた。又天から声して云った「これは我が嘉する我愛子である」
この天よりの声こそ、天父の御声なのであります。乙の様にキリストが統ての預言を成就せられ、且つ聖父の御証明を受け給いしのみならず、御自らもしばしば自己の神性を宜言して居られます。彼が御年十二才の時の出来事をルカ福音書(二の四一~五〇)に依って伺いましよう。
さて、その両親は過越祭に当って年毎にエルサレムに行った。イエズスが十二才の時、祝日の慣例通り上り、祝日が終って帰る時、その子イエズスはエルサレムに止り給ふた。両親は之を知らず、道つれの中に居るだろうと思っていたので、一日の道を行つてから、親戚知人の中を捜したが見つからない、又さがしながらエルサレムに帰り、三日目に神殿で学者の中に坐り、聞いたり尋ねたりして居られるのに出逢った、聞く人々は皆その智恵と答とを怪しんでいた、両親は之れを見て驚いた。母は「子よ、私達になぜこんな事をしたのですか、御覧、あなたの父と私は心配して探していました」と言った。イエズスは「何故私を探していたのですか、私が、私の父の家に居らねばならない事を知らなかったのですか」と言い給ふた。
之れは文献に現われた神性宣言の最初の御言葉でありました。次に洗者ヨハネがキリストにお尋ねした時の事をマテオ福音書 (一一の二~六) に依って見ましよう。
さて、ヨハネは牢獄でキリストの御業を聞き、弟子達を送って「来るべき者は御身ですか、それとも他のを待つべきですか」と言はせた、イエズスは答えて言い給ふた「行け、そして汝等が見聞きした事をヨハネに伝えよ、盲人は見え、跛者は歩み、癩病者は潔められ、聾者はきこえ、死者はよみがえり、貧しき人には福音が述べられる、私につまずかない者は幸福である。」
「来るべき者」とは人類救済のために出現する神を意味しているのでキリストは「我こそそのものなり」と曰はせられたのであります。又キリストが捕えられてユデア教の司祭長カイファの家に引かれ給いし時の事を、マテオ福音書(二六の五七―六六)は、次の如く伝えています。
イエズスを捕らえた者たちは、長老らが集っていた大司祭カイファの家に引いて行った (中略) 彼等はイエズスを死に定めるために、偽の証拠を求め、多くの偽証人が来たが、それを得られなかった。後に二人の者が来て、「この人は『私は神殿をこぼつて三日で建て得る』と言いました」と云った。大司祭は立って「この人々が汝に対して立てた証拠に何も答えないのか」と云った。イエズスが黙して居られたので大司祭は言ふ「私は活ける神に依つて汝に云ふ、汝はキリスト、神の子であるかを告げよ」イエズスは言い給ふた、「汝の云ふ通りである。又私は汝等に云ふ、今より後、汝等は人の子が全能者の右に坐し、雲に乗り来るを見るであろう」この時大司祭は自分の衣を裂いて云つた。「彼は冒演の言葉を吐いた、どうして他の証人が要ろうか、見よ、汝等は今この冒漬の言葉を聞いたどう思うか」、彼等は、「彼は死に当る」と答えた。
幾多の偽証に対しては一顧をも与えられなかつたキリストが、事、自己の神性に関する限り、敢然としで明確に之れを肯定せられたのでありました。上述の通り、キリストが神の子なる事は、(一)預言の成就に依つて証明せられ、(二)聖父なる神が御自ら声明し給い、(三)キリスト御自らに依ってしばしば宜言せられし所に依つて明確に知る事が出来るのであります。従つて其説き給える御教も、天父の御旨を布演し且つ全うせられたもので、天啓の教に外なりません。
右に依つて知らるる通り、仏教は釈尊の瞑想思索より生れ出たる、無師独悟の教で、人為的のものでありますが、カトリック教は遠き旧約時代よりの預言に応じて出現し給える神の御独り子、即ちイエズス・キリストに依つて説かれたる天啓の教でありますから、其の宣説せらるる教義も、前者が有限なる人智に依つて知り得たる真理の一部なるに対し、後者は無限にして全知なる神に依つて啓示せられたる真理の全体であります。従って仏教の説き得ざる所、又誤れる所はカトリック教に依つて完全に補はれ、訂(ただ)されていますから、我等はカトリック教を学ぶ事に依つて、正しき宗教的知識を得る事が出来るのです。今日我等が完全に神を知り、神に仕え、神の御旨のままなる日暮らしをなし得る事はカトリック教会が神の御教を正しく伝えて下さるからであります。
次に使用経典に就て考察いたしますと、聖書の単一なるに対し、仏典は余りにも多種多様で、等しく仏典と称せらるるも全く別種の教なるかの感を起させるもの多く、特に其内にても浄土部(じょうどぶ)や秘密部(ひみつぶ)の経典 (即ち浄土真宗や真言宗が所依の経典として尊ぶもの) の如きは、どう見ても同一系統の仏教とは思はれないほどの特異点を持つているので、世の仏教を学ばんとする人々は、何れが真の仏教なるやを判別するに苦しむのです。
史実の示す通り、仏教は発生地印度に於て、(一)根本仏教時代、(二)原始仏教時代、(三)部派仏教時代、(四)大乗仏教勃興時代、(五)密教時代の五段階を経て、漸次改変せられ、歪曲せられ、最後には仏教の名を冠せる魔教と化して、西暦十二世紀〔仏滅後千七百年〕を限界として、印度本土より其姿を没しました。
根本仏教とは釈尊直説の真の仏教で、之れが正しく行はれたのは、釈尊が布教を開始せられてより愛弟子アーナンダの死に至る八十五年間で、此問は釈尊の偉大なる感化力と直弟子等の堅固なる信仰とに依つて、誤りなく伝持せられたが、アーナンダの晩年より乱れ始めた教法は、彼の死と共に終末を告げたのでありました。この八十五年間の教法こそ純正なる仏教で、世に之れを根本仏教と称し、釈尊の真の教を求めんとする者に依つて殊の外尊ばれています。アーナンダの死後約百八十年間を原始仏教時代と云い、次の二百六十余年間を部派仏教時代と称していますが、此両期間を通じて (何れも西紀前) 釈尊の教法は著しく変質を来しました。初期経典「阿含」(あごん)は釈尊死後ペトロの如き地位に在つたカツサパが、五百人の上座を召集して結集した正統的な根本経典でありましたが、之れに対し自由思想を有する革新派は、故意に経典の文句を改作し、正義を抹消破却し、又仏説に仮托して仏説に非るものを挿入するなど、いちじるしく異端的色彩を濃厚に致しました。此事は史書「ジーバ、ヴァンサァ」に依って、次の如く伝えられています。
大衆部の比丘(当時の自由革新派の人々、比丘とは「びく」と読み、僧衆の意) は法を乱し、第一結集 (前記カツサパ等の結集したもの) を排し、之れに代るに他を以てし、経典中、彼此顛倒錯置し、律並に五阿含(あごん)に於ける意義文宇を変更排棄す、彼等は一般の教説と特殊の教説とを分たず、将た自然の意義と言外の意義とを弁ぜず、これを曲解し、語言微妙の意義を破り、甚深教典の部分を廃し、偽作以てこれを補えり、(五の三二~三九)
斯の如く、革新派は正統派結集の阿含原典の意義字句に対して、濫りに増減を施し、改廃を加えて、自派の経典を作成し、遂に純正なる根本仏教を破壊し去ったのでありましたが、之れが後の大乗思想の濫觴 (はじまり) でありました。
序に「結集」と云うことを説明いたしましよう。結集とは釈尊の死後遺法の混乱散逸を拒ぐため、弟子等相会して各自の聞ける教法を請出発表して、互に異同を質し、正邪を明かにして、釈尊の教法を結合集成した事を云ふので、之れが西紀前百年頃に至つて始めて筆録されましたが、それまでは単に口唱憶持して伝えたものであります。従つて仏教経興は釈尊の死後約三百五十年間は、単に口唱のみに依つて伝持せられたもので、其問相当脱漏も出来、又附加せられた部分もあつたと思はれますから、後年筆録せられた正統派の阿含経典でも、カツサパ等に依つて結集せられたものとは、可なり違つたものであつたと思はれます。此点バイブルと比較して非常の相違がある事に注意すべきです。
大乗運動が著しく表面化し充のは西暦一世紀の初頭 (仏滅後五百年の末期) で、それまで見たことも聞いたことなかつた多数の大乗経典が相ついで世に現はれました。即ち般若(はんにゃ)、華厳(けごん)、法華(ほっけ)、浄土(じょうど)、維摩(ゆいま) (以上初期) 涅槃(ねはん)、勝鬘(しょうまん)(以上中期) 等の大乗経典は、何れも西暦一世紀より二世紀 (仏滅後六百年より七百年) に至る間に於て (仏説に仮托して著作せられたもので、文辞壮麗、構想雄大なる点より見て、決して尋常一様の思想家によって作られたものでないことは明らかでありますが、同時に又、これら経典が釈尊在世中の説法でない事――――即ち釈尊自身の脈想でない事――――も史的研究の結果確実となつているので、多くの仏教学者は何れも大乗を「非仏説」と称するのであります。
大乗思想はもともと根本仏教より流れ出たものではありますが、余りにも多量の異分子が加つているので、根本仏教の発展と云はんよりも、其成立の経緯と思想内容より見て、寧ろ別種の思想と見るべきであります。然し大乗思想家達は大乗経典を権威あらしめんとの意図より、これ等すべてを釈尊在世の説法となし、其散逸を防がんがため、結集後、一時、天上、竜宮、乾達婆宮、羅刹鬼国等の他界に秘蔵せられていたが、時来つて人間界に将来せられたものだと称していますが、歴史は事実の裏付なき斯る虚構の説を其ままに受取り得ないのであります。
今これ等大乗経典を概観するに、其主流思想は理智主義と平等主義であつて、この点釈尊の理念と一致してはいますが、他面釈尊の排撃棄却せられた思想や行法を多分に取入れ、また釈尊と何等関係なき後代の思想をも多量に織り込んで、一つの思想体系を樹立し、此等全部を釈尊が在世当時宣説せられたるが如き形式の下に記述されているのが大乗経典であつて、決して単なる根本仏教の演繹と見ることは出来ません。従つて根本仏教が人類救済を主目的とせる純宗教なるに反し、大乗経典の多くは何れも宗教本来の線より逸脱して、哲学的色彩が可なり濃厚となつて居りますが、其のうち独り浄土経典のみは「アミダ仏」の救済を高唱している点に異彩を放つています。然しアミダ仏なる名称は釈尊の少しも知られなかつた仏名で、在世中「度も口にせちれた事が無かったにも拘らず、釈尊自らが説がれたかの様に記述せられている所に、大乗経典創作の真相がうかがわれるかと思います。嘗て往年西蔵に潜入して深く仏教を研究せられた河口恵海氏の如きは、浄土の経典を一種の仏教小説なりと極書せられましたが、それは「アミダ仏」の思想が釈尊伝に基いた物語的構想の産物であるからであります。氏は私の師友で宗派仏教反対の急先鋒でありました。
大乗諸経論は大体西暦一世紀より六世紀(仏滅後六百年より千百年まで)の間に於て殆ど完成せられましたので、此期間を大乗仏教興起時代と称していますが、西暦七世紀 (仏滅後干二百年) に至り密教と称する新しい仏教が生れました。之れはあらゆる大乗思想を包含すると共に、印度教等の思想行法を多量に取り入れたもので、大日経や金剛頂経など密教系の経典が其頃創作せられました。この密教は西暦九世紀 (仏減後千四百年) の末葉に印度教の性力派と結合し、醜猥なる行法を設けて病的状態に陥りました。特に左道密教の如きは女性崇拝、魔鬼崇拝を行い、且つ肉欲主義と至真なる妙法とを混合し、仏教本来の面目を没却し去って邪道に陥つたが、西暦十二世紀 (仏滅後千七百年) の頃、西方より侵入せる回教徒のために亡ぼされて、仏教は印度本土より其跡を絶ちました。
「其計画若しくは事業、人よりのものならば崩るべし」と、イスラエルの賢人ガマリエルが警告した如く、人より出たる仏教が如何に悲惨なる径路を辿つて崩壌の路を急いだか、又人智に依つて作られたる経典が如何に乱雑を極めたるかは想像に絶するものがあります。
次にシナや我が国の各宗宗祖と云われた人々を見るに、何れも蓋世の材と絶大なる識とを持っていたが、悲しむべきことには、史的事実に無知なりしため、古今を転倒し、新旧を混同し、後人創作の大乗経典をも悉く釈尊直説の教法なるが如く誤信して、自宗開立の所依となせるため、宗派仏教は何れも皆後人創作の不純なる経典より出たる仏教で、中には印度教系の婬神邪鬼を信仰する魔教的思想なども相当根強くはびこっているのは、実に仏教の.名のために悲しむべきであります。而も各宗祖の此過誤に対し、其後継者も亦之れを識別するの明なく、徒らに宗祖の説に附和して今日に至り、病根深く膏盲に入つて、年や如何ともなし能はざる状賦に立至っているのが今日の仏教であります。
世界に於て最も大部の経典を有すると誇称する仏教経典成立の経緯は略ぼ上述の通りで、実際釈尊の教説を誤りなく伝ふるものは、其昔カツサパ等五百人の上座が結集せる阿含原典のみであつて、大乗経典と称せらるる統てのものは、何れも非仏説と移せらる後世の所産で、釈尊の直説でないばかりでなく、釈尊に依つて好ましからざるものとして排撃せられた思想行法をも多量に取入れた別種のものである事は、既に仏教史家の証明するところでありますから、これ等を依り所とする我国の宗派仏教が、決して仏陀釈尊の正流を汲くんでいない事は自明の事実であります。従つて厳格なる意味に於て、今日我国には仏教と称し得るにふさわしい教団は一も存在しないと云ふべきであります。
斯の如く、人に依つて作られたる仏教が、人に依つて改変せられ歪曲せられて、元の姿を留め得ないのに反し、天啓の教が御摂理に依つて、二干年の昔より其音ありしがままの姿で、何等の改変もなく、正しく伝えられて今日に至り、今や其光は全徴界に輝きわたり、すべての国、すべての民をして、其恩寵を称え、御栄を讃美せしめつつある所以のものは、偏に神より出たる神御自らの教だからであります。
仏教経典の複雑多様なるに対し、旧約と新約とに二大別せらるる聖書は実に純正で単一であります。「約」と云うのは聖書の中に創造主が我等人類にお与えになりました御聖約を多分に含んでいるからであつて、旧約にはキリスト以前にユデア人に与えられた啓示があり、新約には御子イエズスを.通じて全人類に賜つた御啓示が含まれているのであります。
旧約聖書はキリスト降誕以前に書れたもので、その編纂には約一千年以上の年月を費しているが、内容は歴史書二十一部、道徳書七部、預言書十八部を含む四十六巻の書物より成り、新約聖書は四福音書、使徒行録の五部の歴史書と、使徒たちが信者に与えた二十一通の書簡と、黙示録と称せらる、預言書とより成り立っています、旧約に関する説明は省き、今は単に新約に就てのみ申述ます。
四福音書は福音史家と呼ばるる、使徒聖マテオ、使徒聖ペトロの弟子聖マルコ、聖パウロの弟子聖ルカ、使徒聖ヨハネの四人に依つて記されたる、キリストの御伝記と御教の記録で、素朴なる筆致を以て、侮辱せられ給いし事、罵署せられ給いし事などをも、少しも匿さず又弁明もせず、すべてを客観的に公明に記述してある所に、史書として信ずべき価殖があるので、決して人から人へ言い伝えられた伝説や、虚偽や想像を織り交ぜて作られた神話的な事柄を後代に至って筆録したものではありません。
(一) マテオ福音書の著者、聖マテオは十二使徒の一人で、常にキリストに随伴して主の身辺より離れなかつた方であり書すから、主の御数や御行動に就ては細大洩さず知悉して居られました。本書は主としてキリスト教に帰依せしユデア人のために記されたもので、キリストの御昇天後およそ八年より十五年の問に作られたものと云はれております。
(二) マルコ福音書の著者聖マルコは、使徒の上首聖ペトロの弟子であり又通訳でありまして、常に聖ペトロの左有に侍して彼の口より具さにキリストの御行動と御教を聞き、それをローマの信者や異教より帰依したる人々のために記したのが本書で、御昇天後およそ十年位に作られたものと云はれております。
(三) ルカ福音書の著者聖ルカは、聖パウロの弟子で常に彼の布教に随伴して、具さに辛酸を嘗め、前後二回の入獄にも彼と共なりしと云はるるほど彼に傾倒した人で、聖パウロに就てキリストの御教を誤りなく学び、又其御行動に就ても詳細を極めていた事は疑ない所でありました。本害は其序文に在る如く、テオフィロなるローマの一信者に宛られたものなるも、実際は異教より帰して信者となりし人々に宛たものであることは疑ありません。キリスト御昇天後凡そ三十年頃までに作らる。
(四) ヨハネ福音書の著者聖ヨハネは、キリストに依つて「雷の子」と呼ばれしほど熱烈であり、且つ誠実な人でありました。十二使徒中、年齢最も若く、イエズス最愛の弟子で、十字架上より聖母マリアを托されしほど厚き信頼を得て居られました。前記三福音魯が早期の編纂なるに対し、本書は一世紀末即ち聖ヨハネの晩年に作られました。聖ヨハネは一世紀の終わりにエフェゾで此世を去られました。
右に依つて知らるる如く、ヨハネ福音書を除く他の三福音書は、何れもキリスト御昇天後およそ八年より三十年に至る間に出来上つたもので、キリストの御受難、御死去、御復活、昇天等の事実を始め、数々の奇蹟や御教などを現に見聞し、且つ其真実なる事を証明する多数の人々の生存中に編纂公表せられましたもので、其記述の正確なる事は、釈尊の死後約三百五十有余年を隔てたる後代に至って筆録せられた仏教経典とは、同日に論ずる事は出来ません。次に使徒行録は聖ルカの筆に成つたもので、およそ西暦六十三年頃に出来上つたものと推定されます。この外、黙示録と聖ヨハネの書簡三部のみが第一世紀末葉の作で、他の十八書簡は何れも第一世紀中葉の作であります。
以上の記述を綜合要約いたしますと、新約聖書の名の下に収録さるる二十七部の著作中、聖ヨハネの筆に成れる福音書、黙示録、三書簡の五部を除けば、他の二十二部は悉く第一世紀の中葉、即ちキリスト御昇天後およそ三十年以内に筆録されたもののみで、これらの書簡を受取り福音書を拝読せる人々の中には、多数の目撃者や、証拠人や、又反対者なども存命していた訳でありますから、虚偽の事柄を挿入することなどは絶対に不可能で、唯だありし事実をありしがままに伝えたもので、いたずらに自己の教祖を神聖化せんとの企ての下に、後代に至って誇大的に潤色したものと同一視してはなりません。殊にこれらの筆者は何れも日常キリストに近侍し、目の当たりその御行動を拝し御教えに接したる使徒、及びそれら使徒より直接教えを受けたる直弟子のみでありますから、その記事にはいささかの誤謬もなく、且つ仏経典見るがごとき後代の付加物などは全然認め得られない、純正真実なるものであることは、今更云うまでもありません。
現在、仏経典は信仰の書としてよりも、むしろ一部学者の文学或いは哲学の研究対象となりつつあるに反し、聖書は霊的生命の躍動せる信仰の書として世界万民に親しまれつつある所以のものは、果たして何に基因するものでありましょうか。云うまでもなく聖書は霊の糧なる天主の御言葉を記載せる神感の書でありまして、執筆者は何れも神の霊感に浴し、その御指導の下に御啓示を誤りなく筆にしたもので、云はば神の御旨を誤りなく記述したに過ぎないのでありますから、聖書の著者は人間ではなくして、神なりと申しても過言ではないのであります。即ち福音史家は第二次的の著者であつて、神こそ第一次的の著者で在らせられるのであります。斯の如く天主が事実上聖書の真の著者であらせられる以上、全能の御力と聖なる御摂理とに依って、それをいや栄えさせ給い、月を重ね、年を経るに従って、広く地球全土に行き渡らせ給うことは、当然の御処置と申すべきであります。現在聖書は一九一種の言語に訳せられて、地上のあらゆる民族に「神の書」として愛読せられ、名実共に「宇宙第一の書」たるの真価を示していることは、驚嘆に値すると共に実に感激に堪えない次第であります。これに反し、仏教経典が既に久しき以前よりその本来の生命を失って、漸次衰亡の一路をたどりつつある所以のものは、それが永遠性なき有限なる人智に依って作られたもので、神より出たるものでないからであります。
既に申し述べた通り、カトリック教が無限絶対の天主の教なるに対し、仏教は有限なる人智に依って思索探求せられた人の教でありますから、その宣説する教義に広狭深浅の差あるは否定出来ない事実であります。即ち、前者は天主御自らが真理の全貌を啓示し給えるに対し、後者は人智に依って知り得たる真理の一端を顕示せるに過ぎないことであります。従って、この両者の何れが完全にして優れているかは申すまでもない事でありますが、さりとて仏教を無批判に不合理なものと即断してはなりません。勿論釈尊とても創造主の御前に立てば一被造物たるに過ぎませんが、我等人類中に於てば古来稀に見るの聖者でありますから、先づ虚心に彼の説く所に耳傾け、真理に照らして厳正なる批判をなすべきで、信ぜざるの故を以て濫りに排棄してはなりません。
釈尊の教えらた究極の目的は涅槃でありました。これは梵語「ニルバーナ」の音訳で薪が無くなると共に焔(ほのお)が「消え去る」と云う動詞から出た名詞で、よく「滅」と訳されています。釈尊の弟子で智恵第一と称されたサーリプッタと一求道者との間に交わされた談話が原始経典に載っていますから、引用してみましょう。
友、サーリプッタよ、「涅槃涅槃」と称せらる。友よ、何ものが涅槃なる。
友よ、凡そ貪欲(どんよく、むさぼりの心)の壊滅、瞋恚(じんい、怒りの心)の壊滅、愚痴(ぐち、おころかな心)の壊滅、これを称して涅槃と云う。
さらば友よ、この涅槃を実現する道ありや。
友よ、この涅槃を実現するの道あり。
友よ、何をか、この涅槃を実現するの道となすや。
友よ、この聖なる八支の道こそは、此の涅槃を実現する道なれ、それは即ち正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり、友よ、こは涅槃実現の道なり。
これに依って知られる如く、涅槃とは邪悪なる欲望と心念とを滅し尽して得たる、平安の境地を指したものであります。「滅」なる訳語より受くる印象は頗る消極的ではありますが、真の意味は其上に築かれたる、安穏と至楽、平和と静寂なる積極的の境地を指しているのであります。
この平和の境地に達するための順序方法として説かれたのが苦、集、滅、道の四諦(したい)即ち四つの真理であって、釈尊の思想と実践体系は之れに尽きているのであります。彼は四十五年の伝道生活中、何れの時、何れの所においても、又何人に対しても、常にこれを根本的なものとして説示せられたものでした。
以下釈尊の根本教説に略解を加え、カトリック教と対比してみましょう。
釈尊の教の出発点は実に苦の認識であります。憶ふに人生は苦の集積であって、生も苦、老も苦、病も苦、死も苦であるばかりでなく、父母妻子の如き愛する者に別るるは苦であり、好まざる者と共同生活を営み行かねばならぬのは苦であり、願ふ事の達し得られないのも亦苦であつて、挙げ来れば凡そ人生は苦の充満せる世界であると諦観する所に、釈尊教説の根本的な出発点があるのです。勿論世の中には喜ばしい事や楽しい事もあるが、歓楽極って哀愁多しと古人も嘆いた通り、歓楽の裏には必ず苦が附きまとうもので、結局「人生は苦なり」と云ふ事は否み難き事実で、之れは敢て釈尊の新発見でなく、ただ事実を事実として説明せられたまでのことであります。かつてペルシャのゼミールと云ふ王が即位の記念出版物として「人間の歴史」を編纂すべく命ぜられた事がありました。学者達は多くの歳月を費やして書き上げましたが、余りにも膨大であつたので更に書き直させたが、矢張大部のものであつた。そこで更に要約した簡潔なものを提出すべく命ぜられた所、其中の一学者は「人は生れ、人は苦しみ、人は死す」と書いて差上げたと云ふ話がありますが、事実その通りで、人は生れて死んで行くが、其生より死に至る道程の間には種々の苦悩が介在して、或時は生別死別の悲に遭い、財産の喪失を嘆き、病難災厄に苦しみ、憎嫉怨恨に悩む等、百千の煩悶苦悩の襲来するのが人生の実相であります。この事実に基いて釈尊は「人生は苦なり」と叫ばれたもので、之れは仮定でもなく、想像でもなく、全く疑なき現実の相で、之れが第一の苦諦であります。次に斯る人生苦は何処より来れるやと云うに、それは畢竟人間の無知より生ずる欲望の結果で、此の欲望が多くの人生苦を招き集めるから集と名付けられたものです。即ち第二の集諦は人生苦の因で、釈尊はこれを渇愛(かつあい)と名付けられました。そこで我等は此の誤れる欲望を克服することによって、心の平安を得なければなりませんが、その得たる境地即ち「ニルバーナ」こそ終局の目的で、これを第三の滅諦と称します。次に「ニルバーナ」の平和境に達するための実践体系は八つの正道から成っているので、第四を道諦と名づけています。八正道とは次の如きものです。
この八つに依って自己の思いと言葉と行いを正しくし、且つそれを持続して絶えざらしむる所にすべての邪悪は一掃せられ、何時とは知らず平和静寂の境地に到達しうるのだと云うのです。
要するに、人生苦の認識を出発点とし、其原因が無知より生ずる邪欲に在ることを知り、それを克服して平和なる「ニルバーナ」の境地に入らんがためには八正道を修すべしと云ふのが、釈尊が説示された人生苦解脱の思想であり方法であります。従つて其処には神の思想もなければ、神に対する祈願もなく、ただ独自の努力精進に依つて平和の境地を開拓せんとする、自作自受の思想のみでありますが、さりとて殊更に超自然界の神を否定する思想などは少しもありませんし、大体彼の教えは人間中心の思想を根幹としているので、その修道過程には「神の思想」を必要としなかつたものだと思はれます、「神の思想を必要としない」と云ふ事は決して「神を否定する」と云ふ事ではありませんから、此「事を以て彼を無神識者と見るのには多少異論があると思はれます。
今釈尊の教説をカトリック教の教義と対比しますと、釈尊は原罪以後の人類の堕落と苦悩の様相に就て深き考察を払つていられるのです。原罪以前の人類は神に似たるものとして、聖寵豊かに、平和なる至楽の中に神を讃美し、神を愛」、其処には老病死苦などの所謂人生苦なるものを知らなかつたのでありましたが、人祖が倣慢であつた為に悪魔の乗ずる所となり、不心得にも神に背き神を離れて、遂に今日みるが如き老病死苦に見舞はれ、あらゆる災厄に苦しめらる」世相を現出したもので、之れが釈尊教説の「苦」と「集」とに当るのであります。そして我等が原罪以前の罪なき状態に復帰し、やがて天国の至福の中に導かれ永遠の生命に与り得るのが「滅」に当るので、又それに達せんがためには信仰のお恵に与り、罪を避け徳を修むる実践行に励まねばなりません。それが「道」に当る訳であります。私見ではありますが、釈尊は原罪以後のカトリック教の教義体系を、当時の印度民衆の知性に適応するがごとき表現形式で説明せられたの如く感ぜられるのであります。思うに当時印度の宗教は何れも修定と苦行という所謂自力的修道法が盛んでありましたので、その影響を受けた釈尊の教説も亦神の思想の介入しない自力的のものでありました。若し神の思想が之れに加つたならば、釈尊の教説には可なりの変化を来たして、或はカトリック教に近きものとなつたかも知れまぜん。次に比較図表を掲げませう。
(備考)
一、既に申し述べた通り、我国の宗派仏教は余りにも多種多様で、何れも相当違つた教義や主張を持つているので、此等を単一なる仏教の名の下に一括してカトリック教と比較する事は到底不可脂でありますから、今は釈尊の根本教説と比較しました。大体釈尊の思想は彼の有名なる「自灯明、法灯明」なる語 (即ち良く調えられた自己の心を灯とし、依り所として、他を依所とするな、わが説き残せる正法を灯とし、依り所として、他を依所とするなとの釈尊の教説) に依つて知らるる如く全く自力的なもので祈願思想などの無かつた事は既に述べた通りでありますが、今日の宗派仏教になると何れも祈願思想が発達し、祈願の対象を持つようになり、しかもその対象が単一ではなく頗る雑多であることは、今の仏教が昔の清純さを失っている証拠で、これは釈尊の根本説教と比較して、非常な相違であり、変質であります。
二、宗教は何れも人を正しき者たらしめんとするのが本旨でありますが、根本仏敵が人間中心の思想に依って立てられ、カトリック教が神と人との開係に於て立てられている関係上、等しく人を正しき者たらしめんとする上においても、其間に多大の径庭があります。即ら「単に人として正しき者」たらしむる場合と、「神の御前に立ちて正しき者」たらしむる場含との間には其標準に多大の開きがある訳です、真のカトリック教徒が殊の外正義の観念強く道徳水準の高いのはその為であります。
釈尊は人生苦の源を「渇愛」に求めていられますが、之れが原罪に根当するのであります。然しながら、この渇愛が如何にして起こりしかには言及して居られません。即ちカトリック教の教ふる原罪以前の事相に関しては少しも触れてはいられませんが、後世に至り大乗思想家が此欠点を補足せんとて真如縁起説(しんにょえんぎせつ)を唱導し、宇宙万有は悉く真如より顕現せるものなりとの汎神思想を樹立すると共に、人類堕落の原因を無明に求めていますが、之れが釈尊所脱の渇愛に当るもので、これあるがために人類は今日の如き苦悩多き世界に生存しなければならないのだと説いています。そして此無明なるものが如何にして生起せるやとの問に対し、「忽然念起の無明」なる語を以て説明しています。即ち無明は忽然として真如より生起したものだと云つていますが、何故に斯るものが発生したるや、又如何にして発生せるやに就ては頗ぶる不徹底を極めています。此点カトリック教は理路整然として我等の知らんと欲する所を明示しています。
カトリック教の「神思想に対し、真如縁起が汎神思想なるの故を以て、心なき人々は卒然として釈尊の思想を汎神的なものと即断する傾がありますが、それは当を得ていません。勿論釈尊の教説には一神の思想を見出す廓は出来ませんが、さりとて汎神の思想も亦見出し得ません。彼はただ人生苦に悩める人々を救はんとの燃ゆるが如き一念より、単に救済に必要なる手段方法を説かれたのみで、決して後世の仏敦学者が企てた様な学的組織の上に自説を立てられたものではありません。彼は患者に対し応急治療を与ふる臨床医家であつて、実際に必要なき理験は彼の関知せざる所でありました。
右の如く、釈尊は人生苦克服に必要なる実際的条件を明示せられたのみで、原罪以前の事には一言も触れていません。勿給我等が現前の人生苦を克服するには、或はそれにて事足るかも知りませんが、その依つて来る遠因を探求し、其根源にさかのぼって、正しき知織を体得する事は、決してゆるかせにすべきではありません。然しながら人智の及ぶ範囲には限度がありまして、無限大の宇宙の秘奥は知らんと欲するも知り能はさる人智の認識領域外に在るもので、特に超自然界の事に至つては、所詮、神の啓示を仰ぐより外に道はない訳であります。古来真理を探求する者は常に天来の声に導かれて、人生の秘奥に徹しえたものでありますが、之れは「神の自然的啓示」であります。カトリック教は天主の啓示に基いて釈尊の説かれなかった原罪以前に関する明確なる知識を与え、我等に神をしらしめ、神との関係を教え、我等人類が如何にして此世に生じたるや、又如何にして斯る苦難の人生を歩むべく余儀なくせられたるやなどの問題に対し、明確なる回答を与え、最後に我等を救ふて天国の至福の中に導き、永遠の生命に与らしむべき方途をも教えて、人類最終の帰着点を示していますが、これは確かにカトリック教の優れた点であると共に、仏教の企て及ばざる所であります。西暦一世紀(仏滅後六百年) の頃世に現はれた往生浄土の思想は、恐らくカトリック教の天国思想にヒントを得たる大乗思想家の創作ではないかと思はれます。
カトリック教と仏教との主なる相違に就ては、以上申述べた所で略ぼ尽きていますから、最後に今日の日本仏教と根本仏教との著しい相違点に就て申述べましよう。既に申述べた通り現在の日本仏教には旧バラモン教や印度教の思想を始め、釈尊以後の印度哲学や支那の老子や景教などの思想行事が可なり多量に混入しているので、今の日本仏教を其まま釈尊の教と見るのは非常な誤りであります。而も混入せる此等思想の多くは釈尊の教説を説明するためのものでなくして、却つて正しき教説を殿損するものの多いのには驚くの外ありまぜん。憶ふに之れは後世の仏徒が時の思想に迎合し、あらゆる異説を取入れて仏説なるが如く見せかけ、以て信者の増加を計らんとしたものか、或は時の思想に屈服したものかであつて、カトリック教に於ける使徒や其後継者が、異端邪説や迫害の嵐の中に立つて毅然として正義を護り、死して尚ほキリストの教を棄てなかつた堅き信念と、涙ぐましき態度とに比較して、実に雲泥の相違があります。或る論者は今日の仏教を発展仏教なる名に於て呼ぶが、之れは非常な誤りで、発展ではなく変化であり変質であります。今日我国に於て弘く行はるる仏教は、すべてその本質を喪失し去つた違つた形のもので、今日の宗派仏教より釈尊本来の仏教を見出すことは全く出来ないのであります。今我国の各宗派に就て検討するに、浄土宗や真宗の如きは後世大乗思想家の作り上げたアミダ仏を信仰の対象とし、又真言宗の如きは架空の大日如来を礼拝するのみならず、釈尊が排撃せられた事火外道の思想をも多分に取入れて、何れも釈尊を信仰の中心より遠ざけ、禅宗の如きは誤れる禅的思想―――即ち誤れる空思想や中道思想や又正しからざる平等観など―――に災せられて、謙虚の心を失い釈尊の教説を導ばず、天台、法華の如き比較的釈尊中心を標傍する宗派にても、相当雑多の好ましからざる思想を取入れ、且ついかがわしき礼拝の対象物を有するなど、挙げ来れば一つとして恨本仏教の清純なる教義を伝持しているものはありません。彼等各宗派は仏教と呼ばれんよりも、寧ろ宗祖の名によつて、親鴛の教、弘法の教、日蓮の教、伝教の教、又は達磨の教などと称せらるべきが妥当であります。而も此等各宗派の現状を見るに、何れも宗教本来の使命より逸脱して社会教化の線より後退しつつあるのは実に嘆かはしいことであります。
之れに反し、カトリック教会が創設以来幾多の迫害や圧迫に苦しめられ、異端邪説に悩まされつつも、能く其教を護持して、二千年後の今日に至るまで、綿々として誤りなく伝持し来れる事は、今日仏教の変わり果てたる姿と対比して、実に不思議に感ぜらるる次第で、此の感嘆すべき事実は果たして何によって然るやと云うに、それは全く全能なる神の御摂理に依るもので、決して人力の能くするところではありません。それにつけても想い起すのは、彼の賢者ガマリエルが初期キリスト教迫害の当時世人に与えた警告でありました。
その計画若くは事業、人よりのものならば崩るべく、神よりのものならば汝等之れを壊す事能はずして、恐らく神にも逆ふ者と為らるべければなり。
と申されましたが、げに此言の如く、人に依つて造られたる仏教の現状に対し、力トリツク教が二千年後の今日に至るも、教勢に何等の衰えを見せないばかりでなく勲烈なる信仰と燃ゆるが如き人類愛に立脚せる神父諸師が断えず世界全人類に働きかけていられるのは真に心強い事で、げに人より出たるものは衰え、神よりのものは栄えると云はるる事の真実なる事を痛感するものであります。主イエズスは死後三日目に御自らの力で復活し給い、現に今我等と共にいまして、常に聖職者を指導し督励して御意志のままに救霊の御業を遂行せられつつあるので、如何に歳月は経過し、時勢は変化するも、聖なる御摂理に依つて行い給ふ聖業なるが故に、そこには何等の変化も衰えも見ないばかりでなく、却って年と共にいや栄えに栄え行かせ給ふのは当然の事であります。それにつけても、マテオ福音書 (二八の一六以下) の次の一節は、常に有り難く拝読せらるる次第であります。(御復活後の記事)
斯くて、十一の弟子はガリレアに行つて、イエズスが命じ給ふた山に登り、彼を見て礼拝した (中略) イエズス近づいて彼等に語つて書い給ふた、「私は天に於ても地に於ても、一切の権能を与えられた、故に汝等は行つてもろもろの民を教え、父と子と聖霊との名によつて洗礼を施こし、私が汝に命じたすべての事を守れと教えなさい、私は世の終りまで常に汝等と共に居ります。」
「私は世の終りまで、いつも、お前たちと一所に居りますよ……だから、若し思い悩む事や、自分の力に及ばない事があったら、いつでも、お話しなさい。必配せずにネ (言外にあふれた御心)」とのおやさしい御冒葉は如何に深い感激を私達に与えることでしよう。私はこの御言葉を拝する毎に、主があの冒しがたき尊い御顔に、慈愛あふるるほほえみをたたえながら、静かに私を見守つていられるのが、まぶたに浮ぶので、覚えず「主よ、罪深き私を…」と叫ぶのであります。
ところが、釈尊の場合はいささか其趣を異にしています。原始経興には釈尊が臨終に当つて、愛弟子アーナンダに対して述べられた言葉を次の様に伝えています。
アーナンダよ、或は汝等にかある念あるべし、「師の冒葉は終れり、いまや我等の師はあることなし」と、されど斯く思ふ勿れ、わが説きし、わが教えたる、法と律とは、わが亡き後には、汝らの師なり、
即ち、「私は今此世を表ってお前達と別れて行くが、私が説きのこした教法と戒律こそは、私の亡きあとに於けるお前たちの師であるから、私が死んでも嘆くのではないそよ」と悲質にくるる愛弟子を憐みつつ、淳々と慰めの言葉を残しながら、八十才を以て此世を去られたのでありましたが、之れを死後三日後に復活し給える主イエズスが、「私は余の終わりまで、いつまでもおまえたちと一緒におりますよ」と仰られたのに比較して、如何にキリスト教が力強い活きませる神の御教えであるかという事が、しみじみ感じられるので、この点においても私は「カトリック教こそ私たちの本当の宗教だ」と叫びたくなるのであります。
私は幼より身を仏門に投じて広く各派の教学を研究したが、その何れもが人生に対する私の疑惑を解いてはくれなかつた、其後根本仏教を研究するに及んで、私は優れたる知恵と喜びとを与えられた、私は釈尊の根本教説にはこよなく親しみを感じ、それに依つてひたすら自己を探求し自己を完成せんと努力した。釈尊の教は人を迷妄と罪悪より解放すると共に、人類相互間に平和と愛情とを持ち来たすためのものであるが、借しいことに人類終局の帰着点に就てはいささか明瞭を欠くの嫌がある、人も知る如く、釈尊の最終目的は「ニルバーナ」即ちあらゆる邪念を克服して得たる平安の境地に入る事であるが、其後に於ける霊魂の帰趨 (おちつくところ) に就ては多くを語つて居られない、今の日本仏教にはカトリック教の天国思想に近い教説を樹立しているものもあるが、之れは後世大乗思想家の創作に成つたもので、釈尊の思想でない所に物足りない感じがする、私は霊魂の最後の帰着点を求めて、あらゆる教学に眼を注ぎ、あらゆる努力を払いつづけた。
私が姫路カトリック教会を訪れたのは昨年の春まだ寒き頃であつた、スパー神父は懇ろに私を指導し、研究に就てはあらゆる便宜を与えて下さつた、日を重ね月を閲(け)みするに従つて私の智眼は徐々に開け、遂に主の御教の神髄を把握することが出来た、そして今まで私を悩ましていた疑惑もいつしか雲散霧消し、多年求めて止まなかつた霊魂の最後の安住地を見出すことが出来た、それは恰かも雲霧を排して太陽を見るが如きもので、何んとなく私の周囲は明るくなつた、能く苦から遭い難きものに遭い、得がたきものを得た時の喜びを形容するのに「盲亀の浄木」なる語を用いるが、私の場合は正に其通りであった私は、私を今日に導き給ふた神の絶妙なる御摂理を感謝しつつ、心より神の御前にひれ伏した、そして今までの自己の地位や持ち物を放榔して、謙虚なる一求道者となる事を決意した――――其昔ガリレアの湖畔に於て、あの純朴なる漁夫達のなせし様に・・・。
斯くして私は救はれた、然し私をして今日の喜びに浸らしむるの素地をつくり、私の心を鍛えて下さつたのは実に大聖釈尊であつたことを忘れることは出来ません、若し私が釈尊の教説に親んで居なかったならば、斯くもたやすくキリストの玄義を理解し得なかつたでありましよう。
憶ふに、カトリック教が宇宙唯一の宗教と呼ばるる所以は、それが神の啓示し給える教であり、真理を完全に護持し、天主の存在と我等人類の真の在り方を教ゆるが故であります、私は真埋を愛し、真理を求めつづけた、そして、それがカトリック教に依つて護持せらるる事を知つた。私がカトリック教を愛しカトリック教に帰依するのは、偏に真理を愛するがためであります。
(終わり)