第331号 2006/02/23 証聖者聖ペトロ・ダミアノの祝日
アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、 日本で、兄弟姉妹の皆様とまた時を過ごすことができ幸福でした。私は兄弟姉妹の皆様の苦しみを和らげてあげることも、避けさせてあげることもできず、ただ聞いていることしかできない者ですが、近くにいることができた、お話に耳を傾けることができた、ともに笑顔や苦しみ、悲しみを分かち合うことができた、それだけで幸福でした。そして兄弟姉妹の皆様から愛されていることをひしひし感じました。 聖伝のミサにしても、聖ピオ十世会のホームページにしても、その他のいろいろな活動にしても、天主の御恵みと兄弟姉妹の皆様のご協力とに支えられて、こうしてやり続けることができることを身にしみて感じ、天主に感謝と奮発心とにかき立てられる思いです。 また、シンガポールからパリャラーニ神父様を迎えることができて、心からうれしく思いました。やはりイタリア人の神父様と接するとカトリックの長い伝統を感じます。パリャラーニ神父様のような素晴らしい司祭を私たちに送って下さった天主に感謝! 【黙想の本の推薦】
さて、四旬節がますます近づきました。 今回は、
ガブリエル神父様の元来の構成では、 本当は、旧版ではそれ以外のものもあるのですが、聖母文庫には収められていない章などもありますから、とりあえず、上のプログラムで黙想することを提案致します。 従って、これから御復活祭までの間は、是非とも『神との親しさ(3)心の浄化』を推薦致します。 ガブリエル神父様は、この中でカトリックの古典的な教えを伝えてくれます。つまり「何か(の被造物)に執着している霊魂は、どんなに多くの徳をもっているにしても、天主との一致の自由までは到達しないこと」、「主は、あれ、これ、というものだけではなく、"主に付き従うことを妨げる一切のもの" を放棄するように私たちに求められていること」、「天主の愛と調和しない執着をことごとく、根こそぎ放棄すること」、「被造物の無が、天主の全てに至ることを妨げる」ことです。 ただしこの「離脱」という「無」の道は、エキュメニズム運動がその中に見ようとする仏教の言うような「無」ではありません。 何故なら、仏教の「無」は、否定の虚無、無のための無、離脱のための離脱ですが、カトリックのこの「離脱」という「無」の道は、「心と魂と力とを尽くして、徹底的に、全てである天主を愛するようになるための手段」であり、「無限の美と愛、三位一体の天主、一切のものの始めと終わりである天主との一致に私を導く道」、肯定するための無、真の楽しみと喜びのための空虚、天主の御旨を行うために "天主の御旨にかなわない全ての楽しみの放棄"、私たちを空虚に置き去りにするためではなく天主のうちに投げ込むための離脱、天主との一致という目的のための自己放棄・徹底的離脱だからです。 ガブリエル神父様の教える道は、まさにカトリックの正統な古典的教えであり、どこそこの思索家のものでも、どこそこの修道会に固有なものでもありません。聖福音、聖アウグスティヌス、聖トマス・アクィナスが教えたもの、それをアビラの聖テレジアや十字架の聖ヨハネらが実践し、教えたものだからです。 ですから、この良い本をもって兄弟姉妹の皆様が良き黙想をされ、良き四旬節をお過ごしになることを願います。 【大阪カテドラルのファチマのジオラマのニュース】 兄弟姉妹の皆様がご心配しておられた、大阪カテドラルのファチマの聖母の御像とジオラマですが、ファチマの牧童(聖ヤチンタや聖フランシスコおよびルチア)などの像は取り除かれ、その場所には土砂がうずたかく積もっていましたが、聖母像は幸いにもまだ残っているそうです。天主に感謝! ファチマの聖母マリア様の御像と聖ヤチンタや聖フランシスコおよびルチアなどの像が別のもっと良い場所に移動されてでも、できる限り元通りになればどれ程よいことでしょうか! 願わくはそのための手段が見つかり復元されますように! たとえ大阪のカテドラルにおいて復元されなくとも、少なくとも私たちは、私たち自身の心の中に霊的に大切なファチマの聖母マリア様のジオラマを作り、聖母の汚れ無き御心への信心を愛をもって実践しましょう!
天主様の祝福が豊かにありますように! トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) |