第326号 2006/01/27 聖ヨハネ・クリゾストモの祝日
教皇ベネディクト16世
アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
お元気ですか。この前の聖伝のミサでは地面は雪で白くなり、空は雲一つ無くすがすがしく晴れた、新しい年にふさわしいミサ聖祭でしたね。愛する兄弟姉妹の皆様とお会いできて大変幸福でした。
大阪でも東京でも新しい方が来られて嬉しく思いました! 天主に感謝!
教皇ベネディクト16世の最初の回勅「天主は愛なり(デウス・カリタス・エスト)」が、2005年12月25付けで発表されました。インターネット上では次で読むことができます。
ラテン語 BENEDICTI PP. XVI / SUMMI PONTIFICIS / LITTERAE ENCYCLICAE / "DEUS CARITAS EST"
英語 ENCYCLICAL LETTER / DEUS CARITAS EST / OF THE SUPREME PONTIFF / BENEDICT XVI
さて、ここで書きたい記事は色々ありますが、今回は、2005年12月22日の教皇ベネディクト16世の訓話についてご報告したいと思います。
2005年12月22日、教皇ベネディクト16世は第二バチカン公会議の解釈について極めて重要な訓話をしました。教皇ベネディクト16世のこの訓話は、第二バチカン公会議の解釈について取り上げているので、教会の動向を理解する中心にあるものということができるでしょう。
テキストはここで読めます。
英語 ADDRESS OF HIS HOLINESS BENEDICT XVI / TO THE ROMAN CURIA / OFFERING THEM HIS CHRISTMAS GREETINGS
フランス語 DISCOURS DU PAPE BENOÎT XVI / À LA CURIE ROMAINE À L'OCCASION / DE LA PRÉSENTATION DES VŒUX DE NOËL
このテキストの抜粋は、フランス語版と英語版が次でも読めます。
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=1157&loc=FR
http://www.dici.org/actualite_read.php?id=746&loc=US
教皇様は、第二バチカン公会議の結果はどうだったのか? 公会議は正しく受け入れられたのか? と自問自答し公会議の受け入れはむしろ問題があったが、それは何故だったのか?と問題を提起します。
その問題は、第二バチカン公会議の相対立する二つの解釈があることであると指摘しています。一つは「断絶の解釈」(hermeneutique de la discontinuite de de la rupture)、もう一つは「改革の解釈」(hermeneutique de la reforme) です。公会議を「断絶の解釈」で理解したために混乱が生じた、と言います。
その内容を詳しく分析すると、ベネディクト16世が第二バチカン公会議の最も重大な誤りに固執していること、そして第二バチカン公会議を「新しい聖伝」として教会に根付かせようとの意志があることが分かります。
教皇様のこの訓話について、聖ピオ十世会のフランス管区の分析をご紹介します。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2005年12月22日の
教皇ベネディクト16世の訓話について
http://www.laportelatine.org/pourvous/debatquestions/benoit1620061222/benoit16.php
2005年12月22日、教皇ベネディクト16世は第二バチカン公会議の解釈について極めて重要な訓話をした。その内容を詳しく分析するとベネディクト16世が第二バチカン公会議の最も重大な誤りに固執していること、そして第二バチカン公会議を「新しい聖伝」として教会に根付かせようという意志があることが分かる。
2005年12月22日の教皇ベネディクト16世の講話は、教会の動向を理解する中心にあるものである。さて、これに先だってベネディクト16世は興味深い決定をなしている。
11月9日、自発教令でアシジのフランシスコ会の自律性を廃止した。この自律性はパウロ6世が1969年に与えたもので、これを利用してフランシスコ会の会員は典礼および司牧上の革新を自由にしていた。今後はアシジに司教がおかれ、典礼及びカトリック教会法典上の規定に従わなければならなくなった。
12月1日、典礼聖省の書簡は「教皇の名において」、いままでヨハネ・パウロ2世によって力強く自由を与えられてきた「新求道期間の道」は、その果たすべき義務を再確認させられた。特に彼らに示された「道」には「第二奉献文だけをするのではなく、ミサ典書にある他の祈りもすること」などがある。
12月8日、第二バチカン公会議の閉会四十周年には取り立てて何の記念行事もしなかった。これはベネディクト16世の大きなジェスチャーであった。ヨハネ・パウロ2世であったらまちがいなく第二バチカン公会議の成功を凱旋的に祝っていたであろう。ところがベネディクト16世は、その日たしかに導入部で第二バチカン公会議には触れたものの、本質的に天主の御母聖マリアに関する説教をしただけであった。
これらの行為は興味深いものであるが、12月22日の訓話の重大性から比べると遙かに及ばない。
□□□ ベネディクト16世のプログラム □□□
この訓話は、ヨハネ・パウロ2世が始めたものである。毎年クリスマスの少し前に、教皇様はローマ・クリア(ローマの諸聖省、行政機構の責任者たちの集まり)にクリスマスの祝いを述べ、その年の総括をするものである。
この訓話のほぼ半分は昨年の出来事を振り返った。ヨハネ・パウロ2世の死去、世界青年の日、御聖体に関するシノドス、そしてベネディクト16世の教皇登位についてであった。
その際、教皇様は典礼改革の推進者たちのつぎの主張を批判した。「典礼改革の間、ミサとミサ以外における聖体礼拝とが対立しているとしばしば考えられていた。それによると御聖体のパンは見られるために与えられたのではなく食されるために与えられた。教会の祈りの体験において、このような対立には、もはや良識の欠如が明らかにされた。
ベネディクト16世は言葉を続けて、カトリック教会の御聖体に対する聖伝を軽蔑するこの批判を叱責した。
この訓話の核心は第二バチカン公会議を再考察することであった。第二バチカン公会議という極めて重大な問題に関するベネディクト16世の考え方がここに現れている。
□□□ 重要文章 □□□
この訓話の中で第二バチカン公会議の分析は幅広く思索は極めて濃厚である。第二バチカン公会議はヨゼフ・ラッツィンガーその人の人生と思索にとって枢軸となるものであるに違いなく、心からの深い考察が表明されている。
ヨハネ・パウロ2世の書いたものは、複雑で、その言い回しが新しく、明確ではないので、理解するのが大変であるが、それに比べるとベネディクト16世の文章にはそのようなものが無く、読みやすく、何を言おうとしているかが明解である。
この訓話はラッツィンガー枢機卿時代の「信仰について」というインタビュー形式の本の続きと考えられる。そしてこれは枢機卿ではなく教皇ベネディクト16世のものとしてなされている。
□□□ 明確にしようという意志 □□□
カトリック教会に過去40年にわたって毒を盛ってきた第二バチカン公会議の正確な姿を、教皇様は明らかにしたいとしている。この第二バチカン公会議の明確化により、教会の歩むべき道にある妨害を取り除きたいと願っているようだ。
教会の危機を解決するための本質的なことと思われることが、ここで語られている。この訓話を見ると、少なくとも部分的には、教皇様は私たち聖伝支持の動きが第二バチカン公会議に対してなした反論を知っているように思われる。
まずこの訓話で賞賛すべきだと思われるところは、教皇様がカトリックの聖伝の中に身を置こうとし、この聖伝の引いた線の中を歩こうとしていることである。私たちは後に見ることであるが、その意図に反して教皇様はそれをするには至らないであろう。しかし聖伝のラインに身を置こうとするその望みは、大きな前進である。
ベネディクト16世はすでに勇気を持って、幾つかの誤謬を指摘し、叱責した。しかしだからといってこの訓話をもって教会の危機の終焉であると言うべきではない。たとえて言うなら教皇様は事故にあった人を迎える医者にたとえられる。全身は血にまみれ服は裂け瀕死の状態である。医師はまず、服を脱がせ、傷を洗い、どこが負傷しているかを明らかにしようとする。12月22日の訓話でベネディクト16世がしたことは、まさにそれであった。
しかし、傷口がどこにあるのか、どれ程重体であるのかが分かる正にこの瞬間に、それを癒し治療するというもっと複雑で時間のかかる手術や治療が始まるのだ。
さらにベネディクト16世は第二バチカン公会議のうち最も重大な幾つかの誤謬に固執している。これについては後に言及しよう。
□□□ 第二バチカン公会議を聖伝の中に書き込もうという願い □□□
教皇様の意志は、この訓話によると、はっきりしている。すなわち第二バチカン公会議は、その反対に見えたとしても、それにもかかわらず、カトリックの聖伝の真っ直ぐな流れのうちにおいて理解できるのであり、理解しなければならない、ということである。そして第二バチカン公会議をその他の公会議の延長線上に書き込む、ということである。
この連続性ということを証明することを試みて、ベネディクト16世はいろいろなテーマについて触れている。そのうちの幾つかは単に言及されたに過ぎない。例えば「教会とイスラエルの信仰との関係」についてだ。これは第二バチカン公会議の重大なテーマの一つであり、ベネディクト16世の思想にとっても重要なものだ。その他の点についてもっと深く考察されたものもある。例えば信教の自由について、教会と世界との関係について、などだ。
ベネディクト16世の訓話の核心は、第二バチカン公会議文書を解釈するやり方における区別である。この訓話はあまりにも重要であり内容が濃いので、深い研究に値する。
ここでは私たちは、教皇様が訓話で言う第二バチカン公会議の「悪い」解釈というテーマを取り上げることにしたい。何故なら、ベネディクト16世が第二バチカン公会議の問題を解こうと試みているそのやり方をつかむことができるし、その限界とその矛盾点を見ることができるからだ。
第二バチカン公会議以後の危機
教皇様の分析において、率直に第二バチカン公会議以後の危機を告白することから始まっている。曰く「教会の広い分野において、第二バチカン公会議の受け入れが、むしろ難しいやり方でなされたということは誰にも否定できない。」
ベネディクト16世はこの訓話でこのテーマに何度も触れている。例えば、この世に対して開かれることによって全ての困難が解決するだろうと考えていたような人々の誤謬を指摘し、彼らは「現代の持つ内的葛藤と矛盾」および「人間本性の危険なほどの弱さとを軽く見過ぎていた」と言う。
教皇様は第二バチカン公会議の良い実りを認めようとしたい時でさえ、それと同時に、それにニュアンスをつけ、さらに条件をつけ、えん曲な言い方をしなければならなくなっている。曰く「今日では(第二バチカン公会議の)良い種が、全ての見かけに反して、確かにゆっくりとした成長ではあるが、育っている。」
□□□ 二つの解釈 □□□
この第二バチカン公会議後の危機を説明するために、ベネディクト16世は、第二バチカン公会議の二つの解釈を対立させる。一つは「悪い」解釈であり、これが「混乱を引き起こした」。もう一つは良い解釈であり、これが「実りをもたらしたし、もたらしている」。
教皇様は、「不連続と断絶」のために「悪い」解釈を方法的に批判する。この悪い解釈は「マスメディアと現代神学の一部」によって支持を受け、真の第二バチカン公会議は、1962年と1965年の間に投票された文書(テキスト)の中には存在せず、「これらのテキストの背後に現れる革新への跳躍」のなかにある、とする。
この解釈は、第二バチカン公会議文書の文字面を乗り越えて始めて第二バチカン公会議に忠実であり続けることができる、とし、第二バチカン公会議文書に書かれたテキストは、公会議という出来事の現実を不完全にしか反映していない一時的な妥協の産物に過ぎない、と言う。教皇様は「不連続の解釈は、究極的に、第二バチカン公会議以前の教会と第二バチカン公会議以後の教会とを断絶させて終わる危険がある」と厳しく結論付けた。
□□□ 教会の本質的「憲章」 □□□
第二バチカン公会議の「悪い」解釈を説明し批判して、教皇様は新しい議論をした。ベネディクト16世によれば、この解釈は、第二バチカン公会議を「あたかも一種の憲章であるかのように、古い憲法を廃止して新しい憲法を創ったかのように」考える。しかしベネディクト16世はそれに反論する。「公会議の教父達にはそのようなものを創る権利がない。そのようなことを誰も彼らに与えたこともないし、そもそも誰もそのようなことを与えることができない。何故なら教会の本質的憲章は、私たちの主に由来するからだ。」
この議論は力強い。ここで論点を繰り返そう。公会議による教会の構造憲章を変えるのは不可能である。何故なら(1)教父達にはそのようなものを創る権利がないから、(2)そのようなことを誰も彼らに与えたこともないから、(3)誰もそのようなことを与えることができないから。つまり、教会においては、そもそもその原理からして、革命は(そしてそれが「公会議」革命であったとしても)、許されないものであり規範的価値を持たないのだ。
□□□ 「権威ある」解釈 □□□
この「不連続」の教え、教皇三重冠と教皇カッパによる革命、そして第二バチカン公会議の「悪い」解釈に対し、ベネディクト16世は「良い」解釈、「改革」の解釈を対立させている。
教皇様によると「改革」の課程においては、一方で「原理が、背後に隠れつつ、そして内部の決定を動機付けながら、(聖伝の)継続する外観を表現する」が、他方で「具体的な形や付帯的な事実」、またその時々の教会の決定などは「歴史的状況次第で変化を被ることがありうる」。
この「良い解釈」であるが、少なくとも言えることは知的に反論の余地がある。深い分析の価値があるものである。ここでは「悪い解釈」について議論を深めよう。教皇様はたしかに「良い」とか「悪い」解釈という言葉遣いはしていない。しかし意味はそうである。
ところで、私たちのおかれている状況を説明する唯一のものは、この「良い」解釈と「悪い」解釈だけの問題なのだろうか?
第二バチカン公会議に関していえば「権威ある」解釈と「野蛮な(無法な)」解釈との区別があるとしたほうがより現実にあっていないだろうか? また第二バチカン公会議の「権威ある」解釈者たちとは、教皇たちでなはいだろうか? ベネディクト16世はこの反論を意識している。何故なら、その「良い」解釈を支持してヨハネ23世とパウロ6世の訓話を引用しているからだ。
□□□ パウロ6世の解釈 □□□
第二バチカン公会議に関する考えが極めて明確であるとは言えないヨハネ23世についてはここでは触れないことにしよう。今の教皇様が引用する言葉については、それを信用しよう。何故なら、この言葉については2つのバージョン(言い方)があるからだ。一つは明らかに進歩主義的なバージョンであり、もう一つはラテン語でもっと伝統的だ。二つの別々の機会に、ヨハネ23世は2つの別の言い方をした。
それに引き替えパウロ6世はその主張した機会が極めて豊富にある。ところで、パウロ6世が第二バチカン公会議を断絶として解釈したと、少なくとも教会の過去との部分的断絶であると解釈したと責を負わせることができるだろうか?
ベネディクト16世はこの難しさを見て取った。彼はパウロ6世がなした第二バチカン公会議閉会の訓話について、この訓話を見ると「不連続の解釈は説得力のあるものに思える」と言う。そして第二バチカン公会議について言及しつつ、ベネディクト16世は「不連続の幾つかの形が現れ得たし、ある意味で、たしかにそれが現れた」と肯定している。教皇様によるとその不連続の表れは、連続性が「一見すると容易に見失われる事実」であり、「見かけ上の不連続」がより目に見えている、という。
ベネディクト16世はそれを認めたくはないのだが、それ以上にパウロ6世は公会議以前の教会と公会議以後の教会との不連続の味方の中に位置していた。それを特徴付ける3つの例を引用しよう。
□□□ 断絶の意志 □□□
ベネディクト16世によると、ひとつの公会議は教会の憲章を変更することができない。別のところで私たちは、ラッツィンガー枢機卿は、典礼改革で断絶が生じたと嘆いていることも知っている。(「新ローマ教皇わが信仰の歩み」春秋社 2005年にもそのことが触れられている。)
ところで、パウロ6世の1965年1月13日の言葉を、憲章的な典礼の断絶という以外にどのように解釈することができるだろうか。
パウロ6世「この典礼革新が設定しようとする新しい宗教教育は、教会の憲章的原理において刻まれ、人類文化の進歩によってより容易になり強く命じられた大きな動きの中にあって中心的エンジンの役割を占めるために取り込まれました。」
この十年後「ルフェーブル事件」が爆発する。ところでその時も、二回にわたる重要な機会に、パウロ6世は断絶の形を選んだ。
1975年6月29日、パウロ6世はルフェーブル大司教に次のような極めて特異なそして意味深長な言葉を書いている。
パウロ6世「第二バチカン公会議は、ニケア公会議よりも権威がないわけではない、ある観点から見ればニケア公会議よりももっと重要である。」
ある一つの司牧公会議が、キリストが天主であるというドグマを定義づけた公会議よりも重要であるということは、この公会議は現実には、新しい教会を「創立する」公会議であったということだ。
教会のこの新しい形は、その一年後に、ベネリ司教によって特徴付けられることになる。ベネリ司教は当時国務長官代理で、彼はエコンの神学生達にとって「彼らのケースにおいて絶望することは全くない。公会議の教会に真に忠実でありつつ彼らが、司祭職を真面目に準備しようと言う善意であるなら、私たちは最高の解決策を見つける責任を果たそう」と手紙を書いている。
この第二バチカン公会議の味方が「権威のある」解釈なのか、あるいはモンティーニ神学者の「野蛮な(無法な)」解釈であったのかを私たちに言うのはベネディクト16世に属している。
「権威ある」解釈と「野蛮(無法)な」解釈との区別に、「真の」解釈と「間違った」解釈との区別も加えるべきだろう。
□□□ 「真の」解釈と「間違った」解釈 □□□
何故なら、結局、解釈というものはテキストの文字そのものから論理的かつ自発的に由来しなければならず、解釈が「意味の創造」であるとは考えられていないからである。第二バチカン公会議の真の解釈とは、その文書のテキストから「流れ出る」解釈であり、文字の明らかな意味で読んだその解釈のことである。
第二バチカン公会議のテキストがもつ問題の特徴とは、公会議の文書発布四十年後に、教皇様がその意味を説明するためにかくも大きな神学的努力を払わなければならない、という事実である。
ところで第二バチカン公会議に関する支配的な印象は、断絶の解釈であるとは、教会のことをよく観察する人々なら誰でも知っていることである。スーネンス枢機卿は「第二バチカン公会議は、教会内のフランス革命だった」と言ったし、コンガール神父は公会議において「教会は十月革命を起こした」と言った。ラッツィンガー枢機卿も「第二バチカン公会議は、反シラブスであった」と告白した。第二バチカン公会議を断絶であったとみた証人たちのリストは長く続く。
ここでもベネディクト16世は私たちに、第二バチカン公会議のテキストでなくして、いったいどこからこのように支配的な印象が生じることができるのか明確に説明する必要がある。
□□□ 問題の根底に関する議論がついに開かれた □□□
最も基本的な事実を忘れないようにしよう。それは第二バチカン公会議のテキストの客観的な分析は、いくつかの点において、教会の常なる教えとの不連続性を証明する、ということである。
議論は開かれた。明確にこの問題を提起して下さった教皇様に感謝するのが相応しい。ただしこの議論は、教会に対する愛のうちになされ、現実を大胆に直面するべきだろう。
私たちは、客観的現実として、「断絶の解釈」はマスメディアや一部の神学者たちだけがしたのではなく、まず、少なくとも幾つかの観点において、第二バチカン公会議それ自体が、その文字とそのテキストにおいてそうしたと考える。今後の議論は、この重大な点を明らかにしていくだろう。
2006年1月21日
聖ピオ十世会フランス管区