マニラのeそよ風

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第325号 2006/01/19

アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
 今回は「カトリック家族とその敵について」の続きを黙想しましょう。

 今までは、婚姻とは何か、婚姻に反対するイデオロギー、婚姻を破壊する2つの罪を取り上げてきましたが、今回からはではどのようにして婚姻を守り完成へと導いていけるのかについて取り上げていこうと思います。そこで、フランスの或る老司祭が無数の家庭との接触を通してえたその長い経験と神学とをもとに書いた『見よ、彼らがどれ程愛し合っているかを』という本の内容を紹介していきたいと思っています。

 夫婦には、共通のものがなければなりません。低俗なものではすぐに飽きが来てしまいます。相互に愛し合う夫婦は、私たちのために人間となった天主の御言葉であるイエズス・キリストへの愛という共通の原理がなければなりません。

 そしてイエズス・キリストへの愛の故に、私たちは隣人を、特に妻を、夫を、子供たちを愛するのです。

 では具体的にどうすればよいのでしょうか。それは、いつも超自然の目で家族と接することではないでしょうか。

 有名な『心のともしび』という機関誌がありますが、そこには「暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょう」というモットーがあります。これは聖福音の言葉ではありませんが、その通りだと思います。その昔、私がまだ大学生だった頃、カトリック信者のおばさんたちが「カトリックほど、愛、愛、という宗教はないが、カトリックほど愛のない宗教はない」と批判していました。そのおばさんたちは、自分が教会の中でワガママに振る舞って(本人は善意ですが)、愛(感謝、賞賛、認められること)を受けられずにそういう批判に走ってしまったようです。

 イエズス・キリストは「愛されなさい」ではなく「愛しなさい」と教えたのでした。天主以外にはこの地上での報酬を求めないで、与えることを教えたのでした。むしろイエズス・キリストは私たちが愛するが故に、この世から憎まれるだろう、と警告したほどでした。「愛がない」「愛されていない」と不平不満をこぼすよりも、私たちは「愛する」ことを、最も近しい人々から始めて、すすんで愛することを始めたら善いのではないでしょうか。超自然的な意向で愛するのです。

 また私たちは原罪をもって生まれてきましたから、弱さがあります。しかし天主がまします。天主の聖寵があります。私たちは天主の御助けによってよりよくなることが出来ます。私たちはだから、超自然の目を持つと、忍耐と赦しと希望を持ち続けることが出来るのではないでしょうか。

 『見よ、彼らがどれ程愛し合っているかを』を書いた神父様は、それらのことを具体的に示してくれています。

 そういうわけで、今回は(25)『見よ、彼らがどれ程愛し合っているかを』:夫婦の愛の感情(その1)をお届けします。ごゆっくりどうぞ。

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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カトリック家族とその敵について

----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----

(25)『見よ、彼らがどれ程愛し合っているかを』:


(I) 夫婦の愛の感情(その1)

◆(I) 夫婦の愛の感情

「聖寵は自然を廃止せず、かえって自然を完成させる」
(聖トマス・アクィナス『神学大全』1. q.1. a.8. ad. 2)

 私たちがこれから話をする家庭において、まず目に見張ることは、夫婦が相互に感じている感情の一体化だ。始めから存在しているこの感情の一体化は、時が経つにつれて強まり続ける。

 夫婦の様々な感情は常に緊密に結びつけられている。そのためにほとんどの夫婦はこの感情を区別することを考えたこともないほどである。

 しかし、この区別を付けることはいろいろな意味で光を与えてくれるものとなる。特にこの区別により、愛の驚くべき豊かさとその極めて複雑さをよく理解させてくれるからだ。(互いに愛するとはそれほど単純なことではない!)そしてそれにより、このことを知らなかったり無視したりすることが重大な過ちとなりうるいくつかの点に注意を呼ぶ。

 私たちがいまから見ていく順番は、論理的な繋がりを示すいとがあるわけではない。「価値の順位」程度の意味しかない。この順番で見ると分かりやすいと言うだけである。言い換えると別の区分の仕方によっても問題はない。ただ大切なことは、本質的なことを一つも忘れないことである。

 言葉で言い表すことが出来る限りにおいて、キリスト者である夫婦の心に花開き、完成させられる多くの感情である。彼らの心で、互いの愛の鎖を形作るのに役立つ金の(指)輪を鋳造する。

1. 相互の深い共感
2. 常に新たに互いを選ぶ感情
3. 深い優しさの感情
4. 一方がなければ他方が生きていけないかのような印象
5. 配偶者が自分にとってこの世で唯一の存在であるという印象がますます強烈になる
6. 相互の高い評価と感嘆の感情
7. 相互に対する大きな尊敬と心遣いの感情
8. 相互の絶対的信頼
9. 相互の深い感謝の気持ち
10. 深い相互理解の印象
11. 常に愛し始めるという印象
12. 大いなる愛の家庭は大いなる喜びの家庭


1. 相互の深い共感

 互いに愛し合う夫婦は、互いに相互の深い共感を覚える。この共感とは、相互の、優先的な、排他的な、配偶者において喜び、配偶者に引き寄せられることである。ただ単に「楽しむ」というだけではなく、この人において深い喜びと魅力を感じることである。

 この深い共感と排他的な魅力とを感じる印は3つある。(1)配偶者のことを頻繁に常に考えること、(2)出来るだけ早く一緒にいたいと思うこと、(3)一緒にいることの喜びである。

 この相互の喜びの動機(あるいは理由)は、いろいろあり得るが、それだとはっきり言うのは必ずしも容易なことではない。何故なら「心には、理が知らない理がたくさんあるから」だ。しかし特に体や心や霊魂の資質がその理由となるといえる。ある感覚的な魅力が、特に婚姻の最初には重要な役割を果たす。しかしそれよりももっと大切なのは、心と霊と意志と霊魂の資質である。つまり固有な意味で霊的な資質がもっと重要となる。キリスト者の夫婦の間で深い堅固な共感を創り上げるのは、聖徳から由来するある高貴さを互いに認め合うこと、そして両者が共通に達成すべき大きな理想をもとめて完全に一致していることだからだ。

 夫婦愛の場合は常にそうだが、この魅力の基礎は、両性の区別とその相互に補完し合い求め合うという本能的な傾向にある。夫婦愛は、男性と女性との間に、その存在の全てのレベルにある深い違いにつよく印されている。そして両者のパーソナリティーは、その存在と活動の全ての分野において自分の性別によって深く印されている。

 全ての夫婦は、性的な要素(男女が本能的傾向をもっている限定された意味で)が自分らの愛の一部であるとは知っているが、それだけではないとよく知っている。

 この相互の共感と喜びが本当の夫婦愛の一部であり、不在の時や離れ離れになった時など、時が経つにつれて(時には、時が経つほど特に)これが強まると知っている。


2. 常に新たに互いを選ぶ感情

 相互に愛しあう夫婦は、毎日新しく相互に選ぶ。このような夫婦には、毎日「愛しているよ」「愛しているわ」という時、「私は、また新しく、以前よりもまして、他の誰よりもあなたを選ぶ。もしもまた新しく選ぶことが出来るなら、一瞬もためらわないどころか、以前にもまして、最初の日よりも、もっと大きな愛と喜びと抱擁を込めて、あなたを選ぶ。何故なら、以前よりもまして、あなたがどれほど、私の選びと私の愛にふさわしいと知っているから。」と言おうとしているのだ。

 この常に新たに互いを選ぶ態度は、全ての愛に最も感動的な特徴を与えてくれ、互いに愛する夫婦の心に最高の福利をなす。これが彼らの喜びの恒常的源である。

 これと反対の感情がみなぎっている多くの家庭において、あるいは互いにこんなことを言うことをためらわない家庭において「ああ!こんなことだって知っていたなら!またやり直すことが出来たら!」、どれ程の悲しみがあるかは想像に難くない。


3. 深い優しさの感情

 互いに愛し合う夫婦は、互いに深い素晴らしい優しさが支配していることを感じる。

 優しさとは、真の愛の最もデリケートで最も貴重な花かもしれない。これに対立するのは頑なさ、冷たさ、無関心である。優しさは極めてデリケートなことなので、その本性を言葉で説明しきれないように思える。

 但し、優しさは自然な感情で、目に見える態度で外に現れるのであり、優しさが何かは誰にでも分かる。家庭の中に優しさがあるかは容易に区別できる。

 ましてや、優しさを味わっている夫婦は、それを何よりも貴重に思い愛する。夫婦は口をそろえて「優しさのない家庭は愛のない家庭のようだ」と言う。

 特に女性は愛情と優しさに囲まれている必要があるとは共通に言われる。これは本当である。優しさを忘れる夫は、自分の家庭から愛の火を消してしまう危険がある。しかし、男も時としてはメシよりも優しさを必要とする時もある。愛する妻は優しさを決して忘れてはならない。妻が夫に証することのできる最高の愛徳は、最高の優しさを夫に惜しみなく与えて彼を強め助けることである時もあるだろう。


4. 一方がなければ他方が生きていけないかのような印象

 互いに愛し合う夫婦は一方がなければ他方が生きていけないかのような印象をもっている。

 これは愛の最も驚くべき、最も感動的な特徴の一つである。

 その時、夫婦は配偶者について「自分の分身」とか「自分の霊魂の半分」であると言うことが出来るだろう。「自分の霊魂の半分」とは聖アウグスティヌスが、死んだばかりの自分の親友について言った表現で、彼なくしては人生は苦々しく思えるようになったと言う。(『告白』第4巻 第6章)

 夫婦が何らかの事情によって離れ離れにならなければならなくなった時の苦しみがこれで説明される。また多くの老夫婦において、一方の死によって他方が孤独になり、生き残った方が途方に暮れることも理解できる。


5. 配偶者が自分にとってこの世で唯一の存在であるという印象がますます強烈になる

 相互に愛し合う夫婦は、配偶者が自分にとってこの世で唯一の存在であるという印象がますます強烈になる。

 婚姻によってもたらされる完全な共同生活は、二人の間に、二人の間以外には存在しない特別な絆を織りなすからだ。

 同じ喜び、同じ苦しみ、同じ恐れ、同じ希望を、共有して生きてきたのは、他には誰もいない。彼らは互いに自分を与えあったが、そのような相手は他には誰もいない。全てにおいて彼らは互いに受け合ったが、そのような相手は他には誰もいない。

 年が経つにつれ、ますますの確信と感嘆とをもって、夫婦は自然とこう言うようになる。「私たちが年をとるに連れて、あなたは私にとって、かけがえのないものとなっている。」

 相互に愛し合う夫婦にとって、ある日自分がその他多くの中から選んだその人が、世界中でも、似たようなものがいない特別な存在となる。


6. 相互の高い評価と感嘆の感情

 相互に愛し合う夫婦は、相互に高い評価と感嘆の感情を抱いている。この評価と感嘆は、夫婦の愛と共に大きくなっていく。

 高い評価とは、相手においてその資質、価値、徳、善を認めそれを評価することである。感嘆とは、これらの資質、価値、善を見てそれを愛することである。

 しかし、彼らが配偶者において見いだす自然で人間的なレベルでの善や価値を超えて、キリスト者の夫婦は、それよりも無限に高く素晴らしい価値の存在を知っている。それは洗礼を受けたものがもつ成聖の聖寵の豊かさであり、聖徳と聖性の進歩を何よりも高く評価する。

 その時、夫が妻に、例えば結婚十五周年の日に「十五年前に愛していたよりも、今のおまえをもっと素晴らしいと思い、さらに愛しているよ。何故ならおまえは、以前私が考えていたよりももっと善い女性だから」と言ったとして何の驚くことがあろうか。

 妻が二十年の結婚生活の後に夫にこう言ったとしたら何という素晴らしい賛美となるだろうか。「私は、今までにもましてあなたのことを自慢に思います。何故なら時が経つに連れて、私はますますあなたが何と素晴らしい人間であるか、何と素晴らしいキリスト者であるか、何という夫であり、何と優れた父親であるかを発見し、主が私にあなたを与えて下さって、何という素晴らしい方を下さったかを見いだしているから・・・。」

(つづく)