マニラのeそよ風

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第321号 2005/12/13 殉教者童貞聖ルチアの祝日

聖ルチア


アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 こんにちは!お元気ですか。

 待降節ももう半ばを過ぎ、後もう少しでクリスマスですね! 私たちのためにお生まれになるイエズス様に、祈りと犠牲の霊的プレゼントを捧げてよく準備いたしましょう。

 クリスマスを準備する待降節は、四旬節と少し似た意味があります。私は、そこで今年の待降節は、イエズス様の荒れ野での40日間の断食を黙想していました。

 今年の12月8日、聖母の無原罪の御宿りの祝日には、第2バチカン公会議が終わって40周年。私は次のようなことを考えていました。兄弟姉妹の皆様のご感想を聞かせて頂ければ幸いです。

 無原罪の御宿りよ、我らのために祈り給え!
 聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が豊かにありますように!

 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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荒れ野での誘惑と無原罪の御宿り

 イエズス・キリストは、天主の聖子にして人の子。たとえ天主の聖子ということが私たち人の目には隠されていたとしても。

 イエズス・キリストの神秘体であるカトリック教会も、天主の創った教会であり人間の集まりである教会。たとえ天主の創った教会ということが私たちの目には隠されていたとしても。

 洗者聖ヨハネから洗礼を受けてすぐイエズスは荒れ野に行かれた。それは、

「天が開け、
天主の霊がはとの形で、
彼の上に下るのを見られ、
天から、
これは私が喜びとするいとし子である、
と言う声がした」
(マテオ3:16)

その洗礼の直後であった。

「イエズスは聖霊に満ちて、...
ヨルダン川から帰られてのち、
霊によって荒れ野に連れて行かれた」
(ルカ4:1)

 そこでイエズス・キリストは40日間、昼も夜も、6週間の間、断食をした。

 「イエズスは荒れ野で40日間.... 野獣と共に住み」野獣でさえもイエズスに慣れる程であった。

 イエズスは、次の日も、次の日も、祈り、祈った。その間何も食べなかったので、体はやつれ、弱り果てた。「彼は虫であって人ではない」かのようだった。イエズスは、棄てられたらい病人であるかのようだった。

 しかしこの男は天主の聖子であると宣言している。天からの声はそれを確認した。天主の聖子!

 「この世の頭」すなわちサタンにとって、この言葉の意味を探るのは重要なことであった。

 確かにイエズスの母親は、生まれた時から罪の汚れを持たなかった。これはその印の一つだ。エワを創造した時から、このような女性はかつて存在したことがなかった。

 イエズスの誕生の次第は天主の聖子の印であった。イエズスという名前もその印だ。

 サタンは他の人間たちの霊魂に働きかけて誘惑することができた。しかしイエズスの心には入ることができない。

 以上の印は、雄弁ではあるが信じないものにとっては決定的なものではなかった。サタンは旧約の預言者たちが預言していた印の成就をみて確認しようとした。その最初はパンのしるしだ。

 メルキセデクはパンを捧げた。モーゼは天からのパンを食べさせた。ダヴィドは神殿のパンを食べて力を付けた。エリアは天使からパンを受けてそれを食べ、その後40日の間何も食べなかった。旧約の司祭と預言者と王とのしるしは、パンのしるしだ。もしもイエズスが本当に天主の聖子だったなら、パンのしるしを行わなければならない。パンの奇跡をなさねばならない。それが天主の聖子であるしるしだ。

 疲れ果て空腹に苦しむ人の子の前に、試みる者が突如として現れた。天からの声が彼のアイデンティティーを宣言した。天の声はイエズスが誰かを明らかにした。イエズスはそれを確認するだろう。天の声はイエズスが天主の聖子であると言った。聖書が言うように、天主の聖子のしるしはパンに対する命令能力だ。サタンは石を手にとった。

「試みる者が近づいて、
あなたが天主の聖子なら、
これらの石がパンになるように命じよ、
と言った。」
(マテオ4:3)

 イエズスはサタンを見て、彼の言うことを耳にした。サタンはよく知られたモーゼのしるしをイエズスに要求していた。モーゼは砂漠でこのしるしを行った。しかしイエズスはその誘惑に動かされなかった。イエズスは、モーゼ自身がパンのしるしがどういう意味であったと説明しているのかをもって、その答えとしようとした。

 太祖モーゼは、自分を取り巻くイスラエルの民に、自分の死ぬ前に遺言として警告した。イスラエルの民は天主に向かうに、あまりにも物質的すぎる、と。天主は必要の時に助けてくださる。天主は常に助けてくださった。しかし最も必要なことは、地上的な物質的なことではなく、天主の御旨を果たすことである。モーゼはこう言った。

「天主はおまえたちをへりくだらせ、
おまえもその父たちも知らなかった
マンナを食べさせてくださった。
それは、人間とはパンだけで生きるのではなく、
天主の口から出る全てのものによって、
生きるものであることを
教えるためであった。」
(第二法8:3)

「イエズスは言いかえした。
人はパンだけで生きるのではない。
天主の口から出る
全てのみことばによって生きる、
と書かれてある。」
(マテオ4:4)

 サタンは、モーゼの行いをしてみよと迫った。イエズスはモーゼがその行いから引き出した真実の教えを持ってそれに答えた。マンナという物質的なしるしの下には、霊的な意味が含められている。モーゼはその霊的な意味を教えた。すなわち、全ては天主への奉仕のためにある、天主の御旨を果たすためにある、ということだ。

 イエズスは、石をパンには変えなかった。石は石のまま残った。何故か?

 石は償いと悔悛のしるしだからだ。アダムの罪のために、この地は呪われた(創世記3:17)。原罪のために、地はイバラとアザミを生やすだろう。罪の償いのために人の子はそのイバラを冠としなければならない。人間は、額に汗してパンを得なければならない。パンは償いの代価としてようやく得られるからだ。アダムの不従順によって、死と苦しみがこの世に入った。人間は土から出たので、その土に還らなければならない。人間はちりであって、ちりに還らなければならない。

 イエズス・キリストは岩だからだ。イエズス・キリストは生ける祭壇石だ。その上でいけにえが捧げられる祭壇だ。悔悛と悔い改めと、償いを果たすために、祭壇は祭壇として残らなければならない。祭壇が食卓に変わってはならない。イエズス・キリストは、昨日も今日も代々に同じであるからだ。

 しかし、イエズス・キリストは、別の方法で天主の御旨のままのやり方で、パンのしるしを行うだろう。それは自分の時が到来してからだ。天主の御旨に従って、パンの奇跡を行い、旧約の預言を全て成就させるだろう。イエズス・キリストは、天から下った生きるパンである。イエズスは、パンを増加させて数千人に食べさせ、またついには、パンを自分の肉体に変え、世の終わりまで、石ころだけの砂漠のようなこの世に生きる私たちをご自分の体で養ってくださるだろう。十字架の木の祭壇に生けるパンを実らせ、私たちを罪の償いのいけにえに参与させるであろう。天主の口から出る全てのみことばによって生きるようにさせてくださるだろう。

 試みる者は、どうやってもイエズスを動かすことはできなかった。聖書によって彼は黙らされた。それなら、サタンは仕返しを試みる。聖書に聖書で。今度は食欲よりももっと高次の欲求に訴えようとした。自己顕示欲だ。自己顕示欲を満たし、それと同時に聖書が成就する、という形に持っていく。もしもイエズスが天主の聖子であるなら、預言の成就に反対するわけはなかろう。

「また、悪魔は、イエズスを
聖なる都に連れて行き、
神殿の頂上に立たせて、
あなたが天主の聖子なら、
下に身を投げよ。
天主はあなたのために、
天使たちに命じ、
天使たちはあなたの足が石に当たらぬように、
手で支える、
と書かれているのだから、
と言った。」
(マテオ4:5)

 これは、詩篇91:9-12からとられている。

「あなたは、 "主は私の逃れ場" と言って
いと高きものを自分の住まいとした。
どんな悪も起こらず、
疫病があなたの幕屋に近づかぬのは、
主が天使たちに命じ、
あなたの道を守られたからだ。
足が石につまづかぬよう、
彼らがあなたを手で支える。」

 イエズスは、それに答えて、もう一度モーゼを引用する。

「天主なる主を恐れ、敬い、
その名によって誓いをせよ。
おまえたちの周囲の民が拝む神々に
従うことはするな。
おまえたちの中に住まわれる主は、
妬み深い天主であるから、
もし、そのようなことをするなら、
天主の怒りは燃え、
地の面からおまえは消し去られるに違いない。
マッサでしたように、
天主なる主を試みてはならぬ。」
(第二法6:13-16)

「イエズスは、
また、
あなたの天主なる主を試みるな、
と記されてある、
と答えた。」
(マテオ4:7)

 人間は、天主の御旨を果たして、自分が完成される。土くれは壷つくり職人になすがままにさせ、壷作りは土くれから土器を作る。大理石は彫刻家に削られるがままにさせ、芸術品となる。われは主のはした女なり、仰せの如くわれになれかし。人間は天主に開かれていなければならない。天主に愛に満ちた信頼が無ければならない。病にかかったとき、苦しみを受けたとき、十字架を担わなければならなくなったとき、人間はそれを甘受して天主の御旨として受け取る。そこに完成がある。

 土くれも大理石も、職人のやることを先走ったり先取りしたりしない。何故、丸い形にしたのか?

 痛いじゃないか! ああするべきだ、こうするべきだ、とは言わない。人間も、あえて天主を試みるようなことはしてはならない。

 「骨折をしても、お祈りをすれば治るよ」それは、キリストの教えではない。お祈りはもちろんしよう。しかし医者に行ってギプスをしてもらわねばならない。

 「私たちが何もしなくても、真理は必ず勝利するよ」それはキリストの教えではない。

 「私たちは何をしても天国に行く、地獄はない、天主は助けてくれるから、天主は憐れみの方だから」それはキリストの教えではない。

 もうよい。試みる者がいくら命じても、頼んでも、イエズスが天主の聖子であるか否かはしるしでは明らかにしようとしないことが分かった。サタンは別のやり方をしなければならない。

 旧約の全ての預言のなかで、来るべき天主の聖子が王であることの預言、その王国についての預言以上に、鳴り響いているものはない。彼が王であることは、繰り返し、繰り返し預言されてきた。ダヴィドがこの預言の典型であり前表である。ダヴィドの王系から将来のメシアが生まれるはずである。預言はたしかに彼が司祭であり預言者であり天主の聖子であると言うが、それらの預言は彼が王であるという預言の輝きに飲み込まれてしまっている。

 イエズスはダヴィドの家系、王の血筋を引いている。

 彼が生まれるについて、こう言われた。

「それは偉大な方で、
いと高きものの子と呼ばれる。
また、その子は主なる天主によって、
聖父ダヴィドの王座を与えられ、
永遠にヤコブの家を治め、
その国は終わることがない。」
(ルカ1:31-32)

 イエズスが生まれた時、天使はこう言った。

「今日、ダヴィドの町で、
あなたたちのために、
救い主が生まれ給うた。
すなわち、主キリストである。」
(ルカ2:12)

 老人は神殿で彼についてこう呼んだ。

「異邦人を照らす光、
御民イスラエルの誉れである。」
(ルカ2:32)

 遙かかなたの地から、王たちがやって来て彼を訪ね求めてこう言った。

「お生まれになったユダヤの王は、
どこにましますか?
われわれはその星が上るのを見たので、
礼拝に来た。」 (マテオ2:2)

 もしもこの男が天主の聖子だったなら、彼は王であったろう、すくなくともある日、王になるだろう。小さなユダヤ人だけの王ではなく、彼の王国には限りがないはずだ。その王国は地の果てまで及ぶだろう。サタンはこの点をつこうとする。

 今現在、或る意味で、サタンはこの世を支配している。この世の王国はサタンに属している。サタンはこの「半分真理」を使う。プロの嘘つきは、誰にも嘘と分かる嘘はつかない。プロの嘘つきは真理の仮面の中に、嘘を混ぜるのだ。サタンは上手くだますために真理を言うことを知っている。

 サタンは、砂漠のイエズスのところでついに自分の本当の姿を見せる。ルチフェル、光の王として、この世の君主は自分のベールを取る。サタンは、全世界が彼に付き従っているのを見せた。過去、現在、未来の国に続く国々が、ルチフェルの支配下にあるのをイエズスに見せつけた。これは、この世の支配者であるサタンの凱旋的な傲慢であった。

「悪魔はまた、イエズスを、
非常に高い山に連れて行き、
瞬く間に、この世の全ての国とその栄華を見せた。」

 全てはルチフェルのものだ。ルチフェルはどんな戦いにも負けることはないだろう。

 しかし、預言によればそうではない。サタンはこの世の全ての富と支配力を持ってしても、敗北を喫するだろう。もしもイエズスが天主の聖子であるなら、彼は将来、サタンを征服するだろう。しかしどうやって? 預言は平和的に成就することができないのか? サタンは既に自分の王国をイエズスに与えてしまって、しかもサタンの自尊心を守り続けることができるのではないか? サタンがそれを礼拝することを拒んできたその方が、サタンを礼拝する、何という勝利であろうか。サタンは、自分の最高の権力と尊厳を見せて、イエズスに次の言葉を発した。

「この権力とこの国々の栄華を
みなあなたにやろう。
これらは私に任せられているから。
私は自分の望むものにこれをやるのだ。
あなたが私の前に平伏して
私を礼拝するなら、
私はこれをみなあなたにやろう」

 これは誘惑と言うよりも、提案であり挑戦であった。こうせよ、そうするなら、おまえと私とのあいだは全てうまくいく。もしも拒否するなら、死に至るまでの戦いになるぞ。

 イエズスはそれを拒否した。イエズスは戦争宣言をした。

「サタン退け!
天主なる主を礼拝し、
ただ天主にだけ仕えねばならぬ、
と書かれている。」
(マテオ4:10)

 この言葉に天主の啓示の本質が全て含まれている。これは、天から啓示を受けた宗教と異教とを区別し、真の天主の王国と、闇の王国とを区別する極印だ。天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えるとき、天主は本当の力によって、万民を治めることを授け給うだろう。天主ご自身が、彼に栄光を与え給うだろう。イエズス・キリストは、最後に、聖父にこう願うだろう。

「聖父よ、時が来ました。
あなたの聖子に光栄を与え給え。
聖子があなたに光栄を帰するように。
そしてあなたが聖子に授けられた
万民を治める力によって、
聖子に与えられた全ての人に、
永遠の命を与え給うように。
永遠の命とは、
唯一のまことの天主であるあなたと
あなたの遣わされたイエズス・キリストを
知ることであります。
私はあなたがさせようと思し召した業を成し遂げ、
この世にあなたの光栄をあらわしました。」
(ヨハネ17:2-6)

 イエズス・キリストは王だ。しかしキリストは聖父への従順と十字架と自己犠牲と愛といけにえによって王国を勝ち取るだろう。私たちを贖うだろう。イエズス・キリストに栄光を与えるのは、聖父だ。イエズス・キリストはサタンが提案したのとは別の方法で、自分が王であることをあかしするだろう。サタンと妥協することによるこの世の征服は、敗北にすぎない。

 サタンは全てを試みた。しかしイエズスはサタンに動かされなかった。

「あらゆる試みを終えた悪魔は、
定められた時まで、
イエズスを離れ去った。」
(ルカ4:13)

 荒れ野での試みの後、まだ一週間ほどしか経たない内に、イエズスはガリレアのカナに行った。 一週間前、悪魔は、空腹のイエズスに石をパンに変えるように命じたが、イエズスはそれを拒否した。 ところが、今、一人の女性の報告のような提案に、100リットル程入るみずがめ6つの中の水をすべて上等のブドウ酒に変えてしまうだろう。

 聖母マリアは言う。

「あの人たちに、ブドウ酒がなくなりました。」
(ヨハネ2:3)

 イエズスは答える。

「婦人よ、
それが私とあなたに何のかかわりがありましょう。
私の時はまだ来ていません。」

 聖母マリアは、かつて大天使ガブリエルにこう言った。

「われは主の使い女なり、仰せの如く、われになれかし。」

人は、天主の口から出る全てのみことばによって生きる、と知っていた「主の使い女」は、
「あなたのみことばの通りになりますように」 と答えた。何故なら、全被造物は天主に奉仕するために、天主の御旨を果たすためにあると知っていたからだ。

 そして、今、同じ「主の使い女」は給仕係に言う。

「何でもあの人の言うとおりにしなさい。」
(ヨハネ2:5)

「そこには、ユダヤ人の潔(きよ)めのために準備されている、
3,4斗入りの石瓶が6つあった。
イエズスは給仕人に、
その石瓶に水をいっぱいにしなさい、
と言われたので、
彼らが口までいっぱいにすると、
それを汲んで、宴会係に持って行きなさい、
と言われた。
彼らが持っていくと、
宴会係は、ブドウ酒に変化したその水を味わってみて、
彼はそれがどこから来たのかを知らなかったが、
汲んできた下男たちは知っていた、
花婿を呼び、
たいていの人は先に良いブドウ酒を出して、
酔いの回る頃に下等なものを出すのに、
あなたは良いブドウ酒を
今までとっておいたのですね、
と言った。」

「これが最初の奇跡であった。 イエズスはガリレアのカナで、
この奇跡を行い、
その光栄を示されたので、
弟子たちはイエズスを信じた。」
(ヨハネ2:11)

 アダムは、エワによって罪を犯した。

 イエズス・キリストは、最初の奇跡を聖母マリアの言葉によって始めた。イエズス・キリストの公生活において、この奇跡だけがポツンとある。その前にも、その後にも数ヶ月経つまでしばらく、奇跡をされたという記録がない。イエズスは言った。

「私の時はまだ来ていません。」

 時が来ていないのに、イエズス・キリストは聖母に従った。過去30年間、イエズスは聖母に従った。イエズスは聖母マリアのどんな些細な望みも実行に移した。イエズスは、聖母に従順たり続けるだろう。時の終わりまで、世の終わりまで、従順を守り給うだろう。サタンがこの世の全ての栄華と引き替えに命じても、イエズスはがんとして言うことを聞かなかった。しかし天主の御母聖マリアのお願いのようなちょっとした言葉にイエズスは従い続けるだろう。

 これは旧約のサタンに対する預言の最初のしるしではないだろうか。

「私は、おまえと女との間に、
おまえの末と女の末との間に、
敵意を置く。
女の末は、おまえの頭を踏み砕く。」
(創世3:15)

 イエズス・キリストは、将来、ただ単に水をブドウ酒に変えるばかりでなく、ブドウ酒をご自分のいと尊き御血に変え給うだろう。




 カトリック教会は聖霊に満ちて、カトリック教会こそが、天主の創った教会である、救いの唯一の方舟である、と主張し続けてきた。1943年、教皇ピオ12世は「キリストの神秘体とはカトリック教会である」と確認した。その直後、カトリック教会は霊によって第2バチカン公会議に連れて行かれた。

 しかし「試みる者」はカトリック教会に近づいて、「もしも、教会が天主によって創られた真の教会なら、石のようなこの世が、地上の楽園になるように命じよ」と言ったかのようだ。「人類の一致」の建設のため、「人間の尊厳」「諸民族の平和」「進歩」「善意の全ての人々の一致」を作れ。カトリック教会は今まで「天主」だの「天国」だの「地獄」だの、死んだときの話しばかりをしてきた、カトリック教会が真の教会なら、生者の教会なら、この世の「平和」「進歩」「人権」「人間の尊厳」のために働け、人間のために働け、この地上のことにもっと関われ、と言っているようだ。

 カトリック教会は、真の天主の教会、イエズス・キリストの花嫁かつキリストの神秘体なら、イエズス・キリストと同じ返事をするべきだろう。

「イエズスは言いかえした。
人はパンだけで生きるのではない。
天主の口から出る
全てのみことばによって生きる、
と書かれてある。」
(マテオ4:4)

 カトリック教会は言い返す。

「人は、この世のことだけで生きるのではない。
天主の御旨を知り、それを果たし、そうすることによって、
天主と共に天国において永遠に生きるために
この地上に生きている。」

 さらに「試みる者」は、カトリック教会に近づいて、「もしも、カトリック教会が天主の教会なら、真理の教会なら、真理は自ずと燦然と誤謬に対して輝き、誤謬は自然と消滅するだろう。真理ならば、真理には保護はいらないはずだ。いままで享受していたカトリック教会の特権を全て捨て去れ。今まで高い地位に留まっていたが、カトリック教会が真理の教会なら、皆と同じレベルにまで下がれ。そうしても天主はカトリック教会を助けてくれるだろう。カトリック国家などと言うものはあってはならない。国家はカトリック教会を保護してはならない。天主のものは天主に、チェザルのものはチェザルに与えよ。」と言っているようだ。

「イエズスは、
また、
あなたの天主なる主を試みるな、
と記されてある、
と答えた。」
(マテオ4:7)

 カトリック教会はこう答えるだろう。

「チェザルも天主のものは天主に与えねばならない。
国家も、真理を真理として認め、
真の天主に帰すべき光栄を、
国家は真の天主に与えねばならない。」

 さらに「試みる者」は、カトリック教会に対して、こう試みているようだ。

「もしもカトリック教会が真に天主の教会なら、この世を福音化し、キリストの名前を広げるべきだ。しかし、そのためにはこの世と仲良くなるべきだ。この世はフランス革命の精神で成立している。自由、平等、博愛だ。信教の自由、全ての宗教の平等、真理と誤謬とに対する等しい愛だ。もしもカトリック教会がこの革命の成果を否定するなら、この世はカトリック教会に対して戦いを挑むだろう。カトリック教会に対して憎しみを抱くだろう。そうしたら、教会は損をするのではないか。この世から愛された方が良かろう。バチカンは、国連と将来の世界統一政府のなかで最も偉大で優位に立つ国となろう。カトリック教会は、世界統一宗教の中で、最も高い地位を占めるセクションとなるだろう。そうなったら容易にキリストの教えも全世界に広まるだろう。」

「そうだ、もしもこの世の精神を受け入れるなら、この権力とこの国々の栄華をみなカトリック教会にやろう。これらは私に任せられているから。私は自分の望むものにこれをやるのだ。あなたがこの世の前に平伏して、それを礼拝するなら、私はこれをみなあなたにやろう。」

 カトリック教会が、天主の御国を拡張させるのは、そんなやり方によるのではない。

 カトリック教会はそれを拒否する。教会はサタンに戦争宣言をする。

「サタン退け!
天主なる主を礼拝し、
ただ天主にだけ仕えねばならぬ、
と書かれている。」
(マテオ4:10)

 では、教会はどうするのか? どこに行くのか?
 カトリック教会は、聖母の無原罪の御宿りに行く。

「聖母の無原罪の御宿りよ、ご覧下さい。
この世には、天主への信仰と愛がなくなってしまいました。
私たちを憐れんでください!」

 聖母の無原罪の御宿りは、私たちのためにイエズス・キリストに取り次いでくださることを私たちは確信している。

「私は、おまえと女との間に、
おまえの末と女の末との間に、
敵意を置く。
女の末は、おまえの頭を踏み砕く。」
(創世3:15)

 ついにカトリック教会はイエズス・キリストと共にこう言うだろう。

「聖父よ、時が来ました。
あなたの聖子に光栄を与え給え。
聖子があなたに光栄を帰するように。
そしてあなたが聖子に授けられた
万民を治める力によって、
聖子に与えられた全ての人に、
永遠の命を与え給うように。
永遠の命とは、
唯一のまことの天主であるあなたと
あなたの遣わされたイエズス・キリストを
知ることであります。
私はあなたがさせようと思し召した業を成し遂げ、
この世にあなたの光栄をあらわしました。」
(ヨハネ17:2-6)