第299号 2005/08/27 聖ヨゼフ・カラサンゾの祝日
アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
8月には東京でヨゼフ君とマリアさんの間に生まれた長男ヨゼフが、クチュール神父様の司式によって洗礼のお恵みを受けました。天主に感謝! このたび洗礼を受けて天主の子となったヨゼフ君が良き聖なるカトリック信者となり、天国の福楽を勝ち取りますように。またヨゼフ君とマリアさんの夫婦に、天主の御憐れみにより多くの子供が恵まれますように! 兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いいたします。
8月22日には、日本の第1の守護者である聖母の汚れ無き御心の祝日でしたが、大阪の新大阪丸ビルの「聖母の汚れ無き御心巡回仮聖堂」では、夕方4時に集い、ロザリオの祈り、聖母マリアの連祷、聖母の汚れ無き御心に日本を捧げる祈りを捧げることが出来ました。天主に感謝!
時を同じくして、ファチマでは聖ピオ十世司祭兄弟会の4名の司教様たちが一致して、ロシアを聖母の汚れ無き御心に奉献しました。これは、教皇様がついに全世界の司教たちと一致してロシアを聖母の汚れ無き御心に捧げるその日を待望しつつ、カトリック司教の資格で、カトリック司教が持つその力の及ぶ限りでの奉献でした。聖母の汚れ無き御心よ、カトリック教会を、全世界を、憐れみ給え!
第2バチカン公会議は、新しい神学を発表し、新しいミサを作りました。第2バチカン公会議の新しい教えは、「罪」について新しい概念を持っています。「罪」は、もはや天主に反対する不正義、天主の御稜威を傷つけるものであるではなくなっています。従って、罪のために罪の償いをする必要性もなくなります。「罪」が何であるか分からなくなってしまった新しい神学は、何という「悪魔的な方針の間違い」でしょうか。
罪がどれほど天主の御稜威を傷つけるかを見せ、分からせるために聖母の汚れ無き御心があります。私たちは、罪を償わなければなりません。特に天主の御母聖マリアに対して犯される罪を償わなければなりません。ファチマの聖母マリアが私たちに訴えることは、罪の償いのための祈りと犠牲を愛を込めて捧げることです。天主の童貞母が、私たちに、私たちの過去犯した罪と、人類が天主に犯し続けている冒涜と涜聖、不潔と淫乱、頽廃と傲慢、その他多くの罪の償いをする恵みを取り次いで下さいますように!
また、私たちはここで、聖伝のミサに与りたいと願いながらも癌との闘病のため、癌を患う奥様をお持ちのため、あるいは、お父様とお祖母さまとの看病とでどうしても聖伝のミサの会場まで来れないため、あるいはその他のやむを得ない事情のために聖伝のミサに与れない兄弟姉妹の皆様の苦しみとつらさをお察し申し上げ、心から愛するご家族の方々のご快復とご健康のためにお祈り申し上げます。
これを読んでいる学生の諸君には、ぜひ、若い時から体を鍛えておいて下さい。「敬虔を得るために自分を鍛錬せよ。体の鍛練はたいして役に立たぬが経験はすべてに役立つ。」(ティモテオ4:7-8)特に目は、非常にデリケートなので、本を読む時もよい姿勢で読書をする習慣をつけて下さい。無理に凝視したり、猫背になたり、寝転がって本を読んだり、太陽の直射日光の下で本を読んだりすると、すぐに目が悪くなります。コンピューターのやりすぎにも注意して下さい。
では、愛する兄弟姉妹の皆様、そしてこれから婚姻の秘蹟によって結ばれようと準備をしている兄弟姉妹よ、私たちは、「カトリック家族とその敵について」の続きを黙想しましょう。
今回は(11)フェミニズムは人間本性を否定する をお届けします。ごゆっくりどうぞ。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
カトリック家族とその敵について
----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----
(11)フェミニズムは人間本性を否定する
アリストテレスによると、「均等な人びとが均等ならぬものを、ないしは均等ならぬ人びとが均等なものを取得したり配分されたりする」ときに、不正義が生じるとある(ニコマコス倫理学 第5巻 第3章)。フェミニストは明白に真理であることを否定しようとしている。、つまりフェミニストは男と女とが互いに補足し合うように創られている、ということを否定しようとする。このことを女性の本性を否定することによってなしている。女性性を否定するには、あるいは男女の違いはない、と言うか、あるいは男女の違いを誇張し、あるべき女性とは、完全な自立・独立の存在であるとするか、である。
フェミニズムは、女性的という概念それ自体が女性に強制させられたものだとし、女性的ということそれ自体を攻撃し、拒否する。フェミニズムによれば、女性的という考えは、父系システムの優位的な力によって女性に押しつけられ、ヨーロッパの芸術や文学に見いだされる小説の文化によって強化された。
もし女性が人間本性を、天主から創造されたものと見なすのを拒否するなら、従って、もしも女性が人間本性は天主から与えられたものであり、不可変のものであるということを受け付けないなら、女性は非人間化してしまう。そしてフェミニズム運動を詳しく調べれば調べるほど、正にこのことが起こっていることが分かる。ヨゼフ・ピーパーはこの危険をこう言って説明している。
「ロジェ・ガロディーがいう通り、人間をその本性と過去とから解放させて考えることは私たちには不可能になる。正に、私たちはそのような "解放" を意味があるとも望むべきものであるとも考えることは出来ない。この解放の概念は、人間の理想、あるいは人間観として、天主によりデザインされたのでもなく、天主によって存在に呼び出されたのでもなく、その反対に、自分自身をデザインし、発明し、創造する存在を意味するからだ。」
まさしく、フェミニストのよく使う表現が「自己定義」「自己規定」である。フェミニストはこう言う。「あなたの性におかれた制限は、父系制度があなた自身の自己定義に置くことを望んでいる制限の中央にある。」ここで「あなたの性におかれた制限」とは、つまり「堕胎やレズビアンを自由にすることが出来ない障害」のことである。
このような考えは、シモン・ド・ボヴォワールや、彼女を通ってサルトルにまで遡る。もしも天主が存在するなら、人間は天主によって創造され、人間は天主に自己の行動の責任を負う。サルトルはむしろ天主が存在しないほうが良いとした。サルトルはいう。「人間本性などを創る天主が存在しないので、人間本性など存在しない。」
シモン・ド・ボヴォワールは、自分のパートナーの言葉を女性に当てはめる。「誰も女性としてこの世に生まれてくるのではなく、女性になるのだ。」
皮肉なのは、フェミニストらの唱えたその他多くの誤謬は、白人男性にその起源を有していることである。例えばマルクス、エンゲルス、ユング、サルトル、ティリッチなどだ。
男女が互いに補完し合うということは、フェミニズムに反対するものとフェミニズムを支持するものとの分岐点である。
ホーク(Hauke)はカトリックの立場を代表してこう言う。
「婚姻は、常に男女相互の補完性と分かちがたく結びついている。男女は互いに依存しあい、これはただ単に、相互に掛け替えがないと言うだけではない。人間存在が壊されたことを示す警告のしるしは、レズビアンの促進である。男女を相互に補完し合う対の存在であると見ることが出来なくなってしまう結果は、将来のない存在であり、生物学的見地から見ただけでも消滅するしかない存在である。家族制度を傷つけようとするものは誰であれ、人類からその未来を効果的に取り除く。男らしさ、女らしさということは創造主によって与えられた。これは階級闘争を構成する要素となるためにではなく、相互補完性という尽きることの出来ない豊かさの源として創造された。男性は女性を必要とする。女性も男性を必要とする。」
(Hauke, God or Goddess? Feminist Theology, pp. 106-107)
ホークはフェミニストの立場もこう説明する。
「強制された性別の廃止は、フェミニスト神学の直面している最も緊急の課題である。」 レズビアン行為の実践を擁護する、あるいは少なくともそれを黙認することは、フェミニスト人類学の核心からでる当然の帰結であって単なる偶然の一致ではない。ドリス・ストランの発言は当を得ている。「女性と男性とは、決定的に、互いに補完し合うことを止めるべきだ」
(Ibidem pp. 94-95)
聖パウロは、天主の真理を故意に拒否するとどういうことになるかを既に説明している。
「実に天主の怒りは、不正によって真理をさまたげる人々のすべての不敬と不正にたいして、天からあらわされる。天主について知りうることは、かれらにとっても明白だからである、天主がそれをかれらにあらわされたからである。
天主の不可見性、すなわちその永遠の力と天主性とは、世の創造のとき以来、そのみわざについて考える人にとって、見えるものだからである。したがってかれらは言い逃れができない。かれらは天主を知りながらこれを天主として崇めず、感謝しなかったからである。かれらは愚かな思いにふけり、その無知の心はくらんだ。かれらは、みずから知者と称えておろかな者となり、不朽の天主の光栄を、朽ちる人間、鳥、獣、はうものに似た形にかえた。
そこで天主は、かれらの心の欲にまかせ、たがいにその身をはずかしめる淫乱にわたされた。かれらは、天主の真理を偽りに変え、創造主の代りに被造物を拝み、それを尊んだ。天主は世々に賛美されますように。アメン。
ここにおいて天主は、かれらを恥ずべき欲に打ちまかせられた、すなわち、女は自然の関係を、自然にもとった関係に変え、男もまた、女との自然の関係をすてて、たがいに情欲をもやし、男は男とけがらわしいことをおこなって、その迷いに値する報いを身に受けた。
またかれらは、深く天主を知ろうとしなかったので、天主は、かれらのよこしまな心のままに、不当なことをおこなうにまかせられた。かれらは、すべての不正、罪悪、私通、むさぼり、悪意にみちるもの、憎み、殺害、あらそい、狡猾、悪念にみちるもの、そしる者、悪口する者、天主に憎まれる者、暴力をもちいる者、高ぶる者、自慢する者、悪事に巧みな者、親にさからう者、愚かな者、不誠実な者、情のないもの、あわれみのないものである。これらをおこなう者は死に当るという天主の定めを知りながら、かれらはそれをおこなうばかりでなく、それをおこなう人々に賛成するのである。」(ローマ1:18-32)
(続く)