第296号 2005/08/11 平日・殉教者聖ティブルティオと聖スザンナの記念
アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
聖母の被昇天の祝日が近づいています。
カトリック教会は、とても大胆ですね。一介の人間の女性を「天主の御母」と呼び、「天の元后」、「天使の元后」と呼ぶのですから。
天主の御母聖マリアのこの栄光はどこに由来するのでしょうか?
それは「我は主のつかい女なり、仰せのごとく我になれかし」と天主の御旨に同意したことによります。
童貞聖マリアは、天主の秩序を完全に受け入れ、それに協力し、「主のはした女、主の女奴隷」となったが故に、「天の元后、天の女王」となったのです。「主のはした女」であったがゆえに、人類の救い主を産むことが出来たのです。全人類に救いをもたらすことが出来たのです。
天主は、男と女とが互いに補完し合うことを望まれました。男が頭となって家族を作り、男性が女性を愛し、女性は男に従うことを望まれました。夫は妻を、丁度キリストが教会を愛したように、愛さねばなりません。キリストが教会のために命をさえ投げ出して、自分のことを顧みず、教会を自分と一心同体であると考えるように、夫は妻を愛さねばなりません。妻も、教会がキリストに従うように、唯一イエズス・キリストだけに従うように、夫に従わなければなりません。そして夫婦が「我らは主のしもべ・はした女、仰せのごとく我らになれかし」と天主に従うとき、その時、夫婦は高められ、祖国に、そして人類に救いをもたらすことさえ、なし得るようになるのです。
(この意味で、キリストの唯一の花嫁であるカトリック教会が、キリスト以外の神々を認めるかのようなエキュメニズム運動は、淫婦のような行為ではないでしょうか。エキュメニズムについては、三上教授の訳された 「エキュメニズムの諸々の誤謬」をご覧下さい。)
愛する兄弟姉妹の皆様、そしてこれから婚姻の秘蹟によって結ばれようと準備をしている兄弟姉妹よ、いつも天主とともに、天主への愛のこもった従順のうちに生きて下さい。
それでは「カトリック家族とその敵について」の続きです。
(8)フェミニズム をお届けします。ごゆっくりどうぞ。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
カトリック家族とその敵について
----- これから婚姻の秘蹟によって
結ばれようとする兄弟姉妹に -----
(8)フェミニズム
キリスト教の敵どもは、家族の構成員の少なくとも一人が、家族という天主の制定した制度を壊す「狂気の不敬な」試みを熱心に企てることが望ましいと思っているようである。エデンの園で何が起こったかを思い出してみると、次のやり方を自然と思いつく。女性は男性に極めて強い影響力を持っているので、私たちが女性を変えるならこの世界を変えることもできることになる。つまり、女性を堕落させればこの世界も堕落する、ということになる。
フェミニズムとは、フランス人社会主義者シャルル・フリエ(Charles Fourier, 1772-1837)によって初めて使われたようである。しかしこれが普通に使われるようになるのは、20世紀になってからである。フェミニズムという言葉を使う道の途中には、女性解放とかウーマン・リブなどということばも使われた。
チェスタートンが1923年にこの意味を説明している。
「フェミニスト:女性的な (feminine)ことすべてに対する嫌悪からそう言われる」
フェミニズムは、家族を崩壊させる試みの本質的一部であり、天主によってたてられた秩序、自然の秩序と超自然の秩序という両方の秩序に反対する反抗である。1852年、女性権利の集会の政治的演説において、エリザベス・オウクス・スミス(Elisabeth Oakes Smith)はこう言っている。
「友よ、いったい何の目的で私たちがここに集まったかを私たちは理解しているでしょうか?私たちが目的としていることは、社会の元后の秩序を完全に転覆させること、現存の社会を丸ごと崩壊させること以外の何ものでもないことを私たちが完全に理解しているでしょうか?」(メリー・デイリ『純粋な肉欲:基本的フェミニズム哲学』1984年より)
フェミニズムは、天主によって建てられた秩序を全て完全に拒否する。そして最も重要なことは、フェミニズムが家族と母性を拒否することである。フェミニストはこの拒否を高らかに歌う。例えばフェミニストの法学教授キャサリン・マッキノンはこう言う。
「フェミニズムは、売春と結婚とセクシュアル・ハラスメントとを区別が付けられないと強調している。」
フェミニズムの主張の中心には常に堕胎をする権利がある。自分の子供の生死に関する権利を勝ち取ることは、母性を拒否する最も確かなやり方だからである。現代のマスメディアの醜い表現を使うなら、フェミニストは、反家族、反結婚、反子供、反男性、反キリスト教である。フェミニストにとって同性愛の男性(ホモ)は問題がない。何故なら彼らもまた婚姻の制度と子供をもうけることを拒絶しているからである。
フェミニズムは、それが何に反対しているかをよく知っている。しかし何のために肯定的であるのかについてはあまり確かではない。従って、フェミニズムの定義を求めることは無駄に終わる。無数の「定義」と言われるものがあり、フェミニスト自身でも何のためにについて同意を見ていない。フェミニストが確かな唯一のことは、彼らが何に反対しているかである。
天主が真にましますことが認められないと確信するフェミニストは、キリスト教の家族を主要な悪と見なす。フェミニストらは、男と女とが互いに補完し合うという考えを拒絶する。フェミニストにとって男と女とはむしろライバルである。
フェミニストらは、「ステレオタイプ化した役割」が賞賛されるとき、例えば最も完全な男とは男らしい男、最も完全な女とは最も女性らしい女、あるいはチェスタートンが「一つの国にとって重要なことは男が男らしく、女が女らしくあることだ」などと言うのを聞くとき、蒼白になる。
カトリック教会は、報酬を求めて労働しなければならない不幸な現代女性の窮状に同情してきた。教会はそのような女性らが正当な賃金を得るための闘争を支持した。ピオ12世教皇は現代のカトリックの女性の問題に関して最も神経を使った教皇である。しかし教会はフェミニズムの基礎的主張を受け入れることが出来ない。つまり家族の拒否と母性の拒否の主張と妥協することが出来ない。
フェミニズムはイデオロギーである。そしてその典型、模範、パターンとしてマルクス主義に従っている。ケネス・ミノグ(Kenneth Minogue)はイデオロギーの特徴をこううまくまとめている。
「イデオロギーの中心概念は、あまりにも抽象的であり、教条と言うよりもむしろ教条を生み出していく機械である。そしてその最も単純な言い方の形式は "全ての悪は抑圧体制から生まれる" である。その最も重要な帰結は "真理は武器である" という言い方である。・・・
イデオロギーは理論的徴兵制の一形式である。全員は敵か味方のどちらかにつかなければならない。この戦いにおいて全ては軍人である。イデオロギーは中立と言うことを偽物として拒否する。・・・
すべてのイデオロギーは権力を得るための手段である。・・・
イデオローグは、自分を社会の批判家として全人類から区別する。その他一般の人々は時々、不道徳、乱用、不正義などの批判者である。しかしイデオローグは、社会の規律と規範そのものさえも絶え間なく批判するプロセスに身を置いている。イデオロギー的批判は、その他一般の人々が許容範囲に過ぎないことにおいても、抑圧を発見する。・・・
社会改革の障害は、他の世界宗教を信じることである。キリスト教はこの種の宗教である。従って、イデオロギー的思想の流れにおいてその最初の動きは、その他の社会宗教の形式がいかなるものであれ、宗教の批判でなければならない。従って、イデオロギーはキリスト教の超越的な側面を拒否する。この本質的点はマルクスのした転倒によって要約される。基礎的な立場はこれである。人間が宗教を創り、宗教は人間を創らない。・・・
イデオロギーは、現代世界を構成する全てを完全に崩壊することを目ざす。・・・
イデオロギーは現代西洋文明の心臓を突き刺そうとする短剣である。・・・
イデオロギーは、二つの信念が批判的に対立したとき一つの形しか取らない、つまり全面戦争である。」
フェミニズムの流れは主に2つある。すなわち、
(A)平等フェミニズム(これは日本語ではジェンダーフリーとも言われるようだ):これは一時代前に流行ったものでマルクス主義に息吹を受けている。これは精力的に促進され、第三世界を除いてあらゆるところで重大で悲惨な結果を生み出している。
(B)女性中心フェミニズム:これは宗教にもっと関心を寄せた現代版フェミニズム。キリスト教に浸透することも含んでいる。
では、私たちはこれらを詳細に見ていこう。
(続く)