マニラのeそよ風

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第287号 2005/06/30 使徒聖パウロの記念

聖パウロ、ステンドグラス

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 6月には、私が韓国にいる間、実は私の父も一緒に韓国に来てくれました。父にとって2回目の外国旅行(最初は私の大学卒業の年にフランスに一緒に行きました)、最初の韓国訪問でした。父には以前から招待していたのですが、祖母の面倒を見なければならない、町内会長の仕事がある、などで外国旅行がなかなか実現しませんでした。しかし今年、町内会長の仕事も終わり、私の祖母が亡くなり、私の誘いを断る理由もなくなったようで、「司祭館の掃除洗濯をするために」韓国に来てくれました。

 韓国では、父は信徒の方々から大歓迎を受け、至り尽くせりのもてなしを受け、天主にどれほど感謝してよいか分からないほどです。地下鉄でソウルの中心まで行き少し観光もしましたが、私には病者の訪問の仕事があったので父にも来てもらったりもしました。歓迎を受けた後、父はこんなことならもっと早く韓国に来ていたら良かった、韓国の言葉を勉強したいとも言っていました。何故こんな話を書いたかというと、最後にお別れの挨拶の中である韓国の信者の方が、父に言った言葉が印象的だったからです。

 「また韓国にいらして下さい。またお会いしましょう。地上で会えなくても、天主の十戒をお守りになって、天国でお会い致しましょう。」

 天国! そうですね。私たちの本当の祖国、天主を永遠に愛し、諸聖人とともに永遠の福楽を味わう天国で、永遠に生きるためにこの涙の谷に今私たちは生きています。私たちはいつかこの地上で別れ離れになることがあっても、天国でともに天主の喜びを生きるように努めましょう! そのためにも天主の十戒を遵守しなければなりません。真の天主なる聖父と聖父が世に遣わした私たちの主イエズス・キリストを信じなければなりません。「永遠の命とは、唯一の真の天主であるあなたと、あなたの遣わされたイエズス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17:3)アメン!

 では、聖伝によるカトリック司祭と第2バチカン公会議の司祭とはどのように違うか、続きを見てみましょう。


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第2バチカン公会議以後の司祭職
『司祭の役務と生活に関する教令』を読む

第2部 論理的結論

[5] 典礼上の論理的結論

 以上の考察を原理として、典礼においてどのような論理的な結論が導かれるかを箇条書きにしてみます。

[5-1] 祝う主体

* 司祭は、神の民の座長としての存在であるが、主役はあくまでも信徒である。ミサは何よりもまず、神の民の集会であり、信徒がミサを捧げるのであるから、彼らがみことばを読み、聖体を授けることを、司祭は座長として司会する役務を持つだけである。信徒に主体的に行為させなければならない。
(「聖体祭儀の集会は、司祭を長とする信者共同体の中心である。」『司祭の役務と生活に関する教令』第2章 5番)

* 司祭は神の民の集会の座長に過ぎないのだから、神の民が不在の時にはミサをする理由が存在しない。だから司祭が一人でミサを捧げることは疑問視される。

* 典礼は、天主の聖なる民全体が能動的に捧げるべきものである(『典礼憲章』41)から、司祭不在の「集会祭儀」が促進されなければならない。そのためにこそ会衆はそれぞれ能動的に典礼に与るために分かち合いの過越の食卓に集う。
「典礼の現実の主体は、もはやキリストではない。つまり霊によって聖父を礼拝し信徒らを聖化するキリストではない。典礼の主体は人間のペルソナ、言い換えれば祝う共同体である。」(ダネルス枢機卿 Cardinal Daneels, Communio, N. 128, 1996, p. 86)

* 司祭は、神の民のために存在しするのだから、神の民の方に向けられていなければならない。
司祭は、天主にいけにえを捧げるためにキリストの方を向く、のではなく、神の民の方を向かねばならない。

* 司祭はその定義からして「従属的段階において」の存在であり「司教団の協力者」、あくまでも「司祭団の構成員」の一司祭であるから、司教団と一致するものとして、司祭団の構成員として、初めて司祭たりうる。司祭は神の民のために叙階され、そのために第一に秩序付けられ、神秘体全体の司祭職が司祭の源泉なのだから、それをしるしとして明らかに示さなければならない。従って、司祭たちは、第2バチカン公会議の新しい司祭職のヴィジョンが明らかに示されるように、ミサの共同司式を執行しなければならない。

* ミサは、天主聖父に捧げられたイエズス・キリストの贖いのいけにえというよりも、「ミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」であり、主体は神の民であるから、司祭は、天主にというよりも、神の民に話しかける。そのためにラテン語ではなく全て各国語でミサは執行される。


[5-2] 祝う対象

* 「キリスト」をいわうが、「天主の聖子、天主性において御父と全く等しい永遠の天主の御言葉、私たちの罪の贖いのためにに人となり十字架の上でいけにえとなったキリスト」というよりも、復活し・昇天し・栄光を受け・称揚された人間としてのキリスト、完全な人間としての、人間の理想を体現したキリストを祝う。典礼は過越の秘義を祝うことにより、復活したキリストというシンボル(象徴)を通して既に救われている人間らを祝う。つまり「全人間家族」と「人間の尊厳」を祝う。

* 万物の作り主なる天主に「大地の恵み、労働の実り」を捧げ、この地上(大地)にいる人間の労働と行動を祝う。「罪」は「天主への侮辱」であるが、むしろどろほど人間社会に悪い影響を与えるかという「罪の社会的影響」を「信者の心に徹底させなければならない」(『典礼憲章』107 ちなみに『典礼憲章』において「罪」という単語が現れるのはここだけである。)のであって、人間が罪を犯し続けているために、人間が罰を受けるべきであること、人間が天主の恵みに相応しくないことなどは言及されない。罪とは社会的悪であり、キリストによって自動的に高められた人間の尊厳を、会衆が能動的に祝うことによって、この悪は癒される。


[5-3] 祝い方

* ミサは「いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴」(『典礼憲章』47)であるから、また「しるしであることによって、教育のためにも寄与する」から、「信者が秘跡のしるしを容易に理解」するために、祭壇ではなく「食卓」が強調され、人間の連帯と兄弟愛とを現すものとなる。

* ミサは、人間を天主へと結びつけると言うよりも、むしろ人間と人間とを結びつけるものであり、会衆へ、人間へと向かう。「人間こそ、われわれの全叙述の中心点」(『現代世界憲章』3)であり、「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」(『現代世界憲章』 12)からである。


[5-4] 祝う場所

* 新約の司祭は御聖体に対する権能を受け、御聖体という究極の至聖所をもっていた。聖伝によれば、巨大な大聖堂もグレゴリオ聖歌もすべての美術・芸術も、聖変化が起こり御聖体を安置する祭壇のため、祭壇は御聖櫃のため、御聖櫃はチボリウムのため、チボリウムは御聖体のためであった。イエズスはすでに福音で「ご自分の体の神殿について語っておられた」(ヨハネ2:18-21)。しかし、第2バチカン公会議の考える究極の至聖所とは、祈るために集う会衆であり、人間である。もっと正確に言うと人間の良心である。「しかし、人間は自分の良心を通して神法の命令を知り、そして認める」(『信教の自由に関する宣言』3)。人間の良心はすべて正しく、どんなものであろうと、すべて天主的であり、決して間違えることがなく、全く自由であり、最も聖なるものである。第2バチカン公会議の司祭は、この人間の良心の自由に奉仕する。


[5-5] 司牧上の論理的結論

* 司祭は司牧上においても、社会正義・人間の尊厳・この世との対話について、信徒らを指導し、それを率先して実践しなければならない。
(『司祭の養成に関する教令』20 「[神学生は]教育学、心理学、社会学が提供する補助手段を利用することを学ばなければならない。同様に、信徒の使徒的活動を起こし、これを育て、また使徒職の種々の効果的な形態を促進するように入念な教育を受けなければならない。」また『現代世界憲章』43 §5 「[司牧者たちは]絶えず研究を続けて、世とのあらゆる意見の人々との対話において自分の役割を正しく果たすことができるよう努力しなければならない。」)


[5-6] 神学上の論理的結論

* 1983年のカトリック新教会法典では、第2巻の第1、及び第2で、聖職者の権利と義務を語る前に、信徒の権利と義務を取り上げている。

* 司祭叙階の秘蹟によって、聖伝によれば「聖職権」が与えられ、司教によって「裁治権」が別に与えられると考えられていたが、第2バチカン公会議によれば叙階の秘蹟は「裁治権」を与えると考えられているように思われる。


(新しい典礼についての考察については、
日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/qa/qa8.html
あるいは、
日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html
また、
日本語サイト リンク http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/quam_obrem.html
などをもご参考にして下さい。)

(続く)


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 至聖なるイエズスの聖心は、賛美せられさせ給え!
 イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!

 使徒聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
 アルスの聖司祭、我らのために祈り給え!

 日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
 天のすべての天使、聖人達よ、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!


 文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)