マニラのeそよ風

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第286号 2005/06/30 使徒聖パウロの記念

聖パウロ

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。

 カトリック司祭は、叙階の秘蹟によって、パンを御聖体に聖変化させるという偉大な権能を私たちの主イエズス・キリストから受けました。御聖体こそ、カトリック司祭生活の中心でなければなりません。「もはや私はおまえたちをしもべとは呼ばない。友と呼ぶ。」

 私たちカトリック司祭は、イエズス・キリストの忠実な友でなければなりません。私たち司祭は、友であるイエズス・キリストと同じことを考え、同じことを望み、同じことを話さなければなりません。ただ名前だけの友であってはなりません。

 カトリック司祭は、聖変化をさせるために存在しています。司祭が、イエズス・キリストのペルソナにおいて「これは私の体である」との聖変化の言葉を唱えると、パンは御聖体に聖変化します。だから司祭は、自分をも、自分の全存在をも、イエズス・キリスト化させ、聖変化させ、第2のキリストとならなければならないのではないでしょうか。

 イエズス・キリストの犠牲は完全なものです。何故ならイエズス・キリストは、大司祭であり同時に屠られるいけにえであり、そこに完全な一致があるからです。Sacerdos et Victima! だから、イエズス・キリストの司祭は同時に捧げる司祭であり屠られるいけにえとならねばなりません。ホスチアにならなければなりません。純潔な白い丸い沈黙のホスチアにならねばなりません。

 ホスチアこそ、カトリック司祭の読むべき教科書です。謙遜と柔和の教科書。天主の永遠の愛の歴史が書かれている歴史の教科書。

 御聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストよ、カトリック司祭を憐れみ給え!

 では、聖伝によるカトリック司祭と第2バチカン公会議の司祭とはどのように違うか、続きを見てみましょう。


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第2バチカン公会議以後の司祭職
『司祭の役務と生活に関する教令』を読む

第2部 論理的結論

[4] 第2バチカン公会議の新しい司祭が捧げる「いけにえ」とは何か?

 [4-1] 導入

 『司祭の役務と生活に関する教令』2番は言います。

====引用開始====
「父が聖化して世に派遣した」(ヨハネ10:36)主イエズスは、自分が受けた霊の塗油に自分の全神秘体を参与させた。すなわち、主イエズスにおいて、すべての信者は聖なる王的司祭職となり、イエズス・キリストを通して神に霊的供え物をささげ、かれらを暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力を告げ知らせる。
====引用終了====

 これによれば、すべての信者が聖なる王的司祭職(原文では単数)になり天主に「霊的供え物」を捧げる、これこそがキリストの司祭職への参与です。そして司祭は、すべての信者が「霊的供え物」を捧げることが出来るように、信徒のこの共通司祭職への奉仕のために、職位的司祭職を受けます。しかし主体はあくまでも神秘体であり、主要な行為はすべての信者が一つになって霊的供え物を捧げることです。


 [4-2] 「霊的供え物」

 では、信徒たちが天主に捧げる「霊的供え物」とはどういうことでしょうか?私たちはそのことをここで考察してみたいと思います。そのために、第2バチカン公会議で「霊的供え物」について言及されている箇所を少し読んでみます。

 『教会憲章』34(信徒の共通司祭職)は、こう言っています。

====引用開始====
「最高永遠の司祭キリスト・イエズスは、自分のあかしと奉仕を信徒を通しても継続することを望んで、自分の霊によってかれらに生命を与え、よいことと完全なことのすべての実行へ絶えずかれらを押し進めている。

 キリストは自分の生命と使命に密接に結ばれた人々が、神の賛美と人々の救いのために霊的礼拝を行なうように、かれらに自分の司祭職の一部をも与えた。したがって、信徒はキリストにささげられ聖霊によって塗油されたものとして、霊の果実が自分の中に常により豊かに実るようにするという、すばらしい召命と手段を受けている。かれらのすべての仕事、祈り、使徒的努力、結婚および家庭生活、日々の苦労、心身の休養を霊において行ない、なお生活のわずらわしさを忍耐強く堪え忍ぶならば、これらのすべてはイエズス・キリストを通して神に喜ばれる霊的供え物となり(1ペトロ: 2・5)、聖体祭儀の挙行において主のからだの奉献とともに父に敬虔にささげられる。このように信徒もまた、いずこにおいても聖なる行ないをもって神に礼拝をささげる者として、世そのものを神に奉献するのである。
====引用終了====

 つまり、共通司祭職の役割は、この世そのものを天主に奉献し、この世を「暗やみから自分の感嘆すべき光へ呼んだ者の力」を、この世に告げることです。そのような「この世そのものの奉献」が「霊的な供え物」と考えられます。それを「聖体祭儀の挙行において」聖父に捧げるのです。

 『典礼憲章』2(教会の秘義における典礼の位置)もこう言います。

====引用開始====
「事実、典礼は信者が、キリストの秘義と真の教会の本来の性格とを生活をもってあらわし、他の人々にも示すために大いに役立つものである。・・・典礼は(教会の)中にいる者を、日々、主における聖殿、霊における神の住居として建て、キリストにみち満ちた成長にまで達せしめようとする。同時に典礼はキリストをのべ伝えるために、教会の中にいる者の力を驚くべき方法で強め、こうして外にいる者に対しては、教会を諸民族の前に掲げられたしるしとして示す。そのしるしのもとに散在する神の子らが一つに集められ、一つの群、ひとりの牧者となる。」
====引用終了====

 つまり、司祭ではなく、あくまでも信者がキリストの秘義と教会の性格を日常の生活をもって現し、この世そのものを聖化するという、共通司祭職のために大いに役立つ手段であり、キリストをのべ伝えるための手段であり、ついにはこの典礼というしるしのもとに神の子らを一つに集めるべきもの、となっています。

 ここでは、ミサにおいてイエズス・キリストが犠牲(victima)の天主の子羊となって無流血の仕方ではあるが真に屠られるという事実よりも、キリストをのべ伝えるための、神の民を一つに集めるもの、となります。ミサ聖祭が十字架の玄義を秘跡的に、今私たちの目前で、現実化させることについては沈黙したままです。

 『典礼憲章』12(典礼外の祈りの必要)は「われわれをも永遠の供え物とする」ことを「霊的ないけにえ」として語っています。

====引用開始====
 しかし、霊的生活は、聖なる典礼の参加だけに限られているのではない。キリスト信者は、共同で祈るよう召されているが、それでも、なお自分の部屋に入って、隠れて父に祈るべきであり、されに絶え間なく祈るべきであるとさえ使徒は教えている。また、同じ使徒は、イエズスの生命がわれわれの死すべき肉に現われるように、イエズスの死の跡を常にわれわれの体の中に持ち運ぶよう教えている。そのために、われわれはミサの犠牲において、主が「霊的ないけにえの奉献を受け入れて、われわれをも」主自身のために「永遠の供え物」とするよう主に祈願するのである。
====引用終了====

 ここでもミサ聖祭が、むしろ2000年前になされた犠牲を記念しつつ、会衆が自分自身を永遠の供え物として、捧げることのみが語られています。

 『典礼憲章』はキリストがミサ聖祭において無流血のやり方で真の意味で屠られることを言わずに「十字架の犠牲」と「死と復活の記念」を語り、「キリストが食される復活の祝宴」を強調します。

====引用開始====
47 われわれの救い主は、渡されたその夜、最後の晩さんにおいて、自分のからだと血による聖体の犠牲を制定した。それは、十字架の犠牲を主の再臨まで世々に永続させ、しかも、愛する花嫁である教会に、自分の死と復活の記念を託するためであった。それは、いつくしみの秘跡、一致のしるし、愛のきずなであり、キリストが食され、心は恩恵に満たされ、未来の栄光の保証がわれわれに与えられる復活の祝宴である。
====引用終了====

 その時、ミサ聖祭は、秘跡的に現実化される十字架上の罪の償いのための贖いというよりも、ライトモチーフとしての過越(復活)の祝宴、過越(復活)の秘義へと結びつきます。

====引用開始====
『典礼憲章』5(救いのわざと過越の秘義)人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのわざは、神の偉業によって旧約の民のうちにかたどられたが、主キリストは、特に、その受難、死者の国からの復活、光栄ある昇天による過越の秘義によってこれを成就し、この秘義によって「われわれの死を死によって打ちこわし、生命を復活によって回復した」。
====引用終了====

[4-3] まず教会の行為としてのミサ

 『典礼憲章』は、「キリストに代わって集会をつかさどる司祭が神にささげる祈りは、聖なる民全体と、参会者一同の名によってとなえられる」(33)とし、「したがって典礼は、当然イエズス・キリストの司祭職の行使と考えられ、典礼において人間の聖化が感覚的なしるしによって示されるとともに、また、おのおののしるしに固有な方法で実現される。そしてイエズス・キリストの神秘体、すなわち、その頭と成員とによって、公的礼拝全体が行なわれるのである。」(『典礼憲章』7)「典礼の行事」を「司祭キリストとそのからだである教会のわざである」(同 7)と言います。

 教会の常なる教えによれば、ミサ聖祭はまず第1にキリストの犠牲でありいけにえです。キリストこそがミサ聖祭において司祭且ついけにえとして第1の場所を占めています。そして副次的にそして従属的にミサ聖祭は教会の犠牲であるとも言えます。ミサ聖祭や典礼は、確かにキリストの神秘体の頭であるイエズス・キリストとその肢体の神秘体全体の礼拝行為であるといえますが、その参与の仕方には程度の違いがあります。ミサ聖祭がイエズス・キリストの名前において行われること、ミサ聖祭においてイエズス・キリストが最も主要で第1の主体であることが強調されなければなりません。しかし第2バチカン公会議では、典礼は「キリストと教会のわざ」として平等におこうとします。そのために、天主の聖なる民が能動的に典礼に参加しなければならないとされるのです。従って、司祭は「集会を司る」司会者としての役目しか与えられません。

 だからこそ「一つの祭儀の上で一つの祈りをもって行なわれる同じ祭儀、特に同じ聖体祭儀において、神の聖なる民全体が充実した行動的参加をもってこれにあずかるとき、教会が最もよく表明される」(『典礼憲章』 41)とされ、行動的参加が強調されるのです。そこで、キリスト信者は「聖なる行為に、意識的に、敬虔に、また行動的に参加し、神のことばによって教えられ、主のからだの食卓において養われ、神に感謝をささげ、ただ司祭の手を通してだけでなく、信者も司祭とともに清い供え物を奉献して、自分自身を奉献することを学び、こうして、キリストを仲介者として日々神との一致と相互一致の完成に向い、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように」(『典礼憲章』 48)ならねばならないとされます。

 もはや第2バチカン公会議において、ミサの執行の主体は会衆です。すべての信徒は、仲介者キリストの役目を果たします。キリストは確かに2000年前に罪のためのいけにえとなったことを記念しつつ、第2バチカン公会議の典礼においては、共同体としての教会が主体となって、民が自分自身を天主に捧げることがもっとも重要な「霊的供え物」となるのです。

 第2バチカン公会議によれば、叙階の秘蹟によって、司祭には神の民に対する権威が授与されるので、司祭は、神の民あっての司祭であり、会衆と関係がある時に限って、司祭は自分の司祭職を実践することが出来ることになるからです。そのとき、司祭が御聖体を全実体変化させる権能を叙階によって受けるかどうかは沈黙が守られます。司祭が神の民を建てることだけが、あくまで注目されるのです。

 コンガール神父(Pere Congar)は言います。

 「司祭は魔術師の力[原文のまま 全実体変化・聖変化のこと]を持っているわけではない。しかし司祭は、終末論的かつ天的なパンで養いながらキリストの体において神の民を築く役割を持つ。」(前掲書 p247)

 「各信徒は、祭司団の成員であり、この祭司団の主体、キリスト教礼拝の主体である。ただしこの祭司団は天主の制定の基礎のうえに組織だっている。この構成員のあるものは、集会の座長あるいは祭司団における長として、祭司団としての礼拝をその充満において執行するために "叙階" される。礼拝は本質的に、(活ける)信仰の礼拝である。これは、個人的・霊的ないけにえの観点のもとで礼拝である。個人的・霊的いけにえ(=霊的供え物)とは、生活を奉献することに他ならない。それは十分の一税でもなければ初穂でもなく、外的な "もの" でもない。私の存在、"私のこの世における存在" 他者に対する私の存在である。」(前掲書 p255)

 「司祭は、キリスト者が信仰によって自分たちの全生活を通してささげる霊的いけにえを引き起こし教育するために、そしてまた聖体祭儀においてこのいけにえを、キリストの唯一の最高のいけにえと一致させるために叙階される。」(Congar, Le sacerdoce du Nouveau Testament. Mission et culte, p 205)

 ログ神父(Frere Logue O.C.D.)は、こう説明します。

 「コンガール神父は、職位的司祭職を理解するには、キリスト教の礼拝を理解しなければならない。だがキリスト教的礼拝は、本質的に霊的いけにえ(=霊的供え物)によって構成されている。」

 これらの言葉は、テイヤール・ド・シャルダンの言葉を想起させます。

 「私にはパンもぶどう酒もない。・・・私は、御身の司祭として、御身にこの全大地という祭壇のうえで、この世の労苦を捧げましょう。」(Teilhard de Chardin, La messe sur le monde, p 1)

 これは『司祭の役務と生活に関する教令』の忠実な言い換えでなくて何でしょうか。第2バチカン公会議の司祭の役務の目的および完成は、御聖体の聖変化ではなく、民の「聖変化」なのですから。第2バチカン公会議の司祭は、「諸国民が聖霊において聖化された快い供え物となる」ために、「福音の使徒的告知によって神の民が招き集められ、この民に属するすべての人が聖霊によって聖化され」るために叙階されるのですから。『司祭の役務と生活に関する教令』2番を引用します。

====引用開始====
 司祭はその職分に応じて使徒の任務に参与するものであり、神から恩恵を授けられて、諸国民の中でキリスト・イエズスの役務者となり、諸国民が聖霊において聖化された快い供え物となるように、福音の聖なる任務に従事する。事実、福音の使徒的告知によって神の民が招き集められ、この民に属するすべての人が聖霊によって聖化されたとき、「神に喜ばれる生きた聖なる供え物」(ローマ12:1)として自分をささげる者となる。・・・ 司祭の役務はこのことを目ざし、このことにおいて完成する。事実、司祭の役務の実践は福音を告げ知らせることをもって始まり、キリストの供え物から力と威力をくみとり、「あがなわれた都の全体、すなわち、聖者らの集会または社会が、普遍的な供え物として、われわれを偉大な頭の体とするよう、受難においてわれわれのために自分をささげた大司祭によって、神にささげられること」を目ざしている。
====引用終了====


[4-4] 第2バチカン公会議の新しいミサ

 だからこそ、第2バチカン公会議後に出来た、新しいミサ典書では「神の民」という唯一の典礼の執行者しか認めないのではないでしょうか。ローマ・ミサ典書総則の最初の文章は、ミサの挙行を「キリストの行為であり、位階によって秩序付けられている神の民の行為」(ローマ・ミサ典書総則1番)であると位置づけているからです。

 何故なら、会衆が「普遍的教会」を表現するしるしであるからであり、そうである限りにおいてキリストの現存を実現させる効力があると考えているからです。新しいミサにおいては「一つに集まった信者が一致する」(ローマ・ミサ典書総則24番)ことによって、「集まった信者」は主を現実に現存させる、としています。(「司祭は、集まった共同体にあいさつをして、主の現存を示す。このあいさつと会衆の応答は、ともに集まった教会の神秘を表す」(ローマ・ミサ典書総則28番)。)

 こうして、第2バチカン公会議の教えに従い、新しいミサ典書では、役務的司祭の行為によって実体的に現存するようになるいけにえとしてのキリストの現存は価値を失い、主の霊的現存を高揚し、この主を現存せしめる主体は、神の民となります。

 新しいミサにおいては、典礼挙行の主要な行為主体は二つです。すなわち等しくキリストと会衆です。だからこう言われます。「奉献=この記念の中で、教会、とくに今ここに集まった教会は、聖霊のうちにあって、汚れのないいけにえを父にささげる。しかし教会は、信者が汚れのないいけにえをささげるだけでなく、自分自身をささげることを学び」(ローマ・ミサ典書総則55番ヘ)、このささげは、共通祭司職によってなされます。

「ミサの祭儀において、信者は・・・王の祭司となって、神に感謝をささげ、また司祭の手を通してばかりでなく、司祭とともに汚れのないいけにえをささげる」(ローマ・ミサ典書総則62番)からです。こうして新しいミサのローマ・ミサ典書総則が「いけにえ」の奉献について語るたびに、総則は司式司祭と信徒との共通の行為として語ります。

 1992年の『カトリック教会のカテキズム』も、このことを確認しています。

「1348 全員の集合。キリスト者は感謝の祭儀のために、一堂に会します。集会の長は祭儀の主宰者キリストご自身です。キリストは新しい契約の祭司で、目には見えなくても祭儀全体を自ら主宰されます。司教または司祭は、キリストに代わって(頭であるキリストの代理者として "in persona Christi capitis")集会を司式し、朗読の後に説教し、供え物を受け、奉献文を唱えます。全員がそれぞれに祭儀の中で、朗読者、供え物を運ぶ者、聖体を配る者、またアーメンによって参加を表明する全会衆として積極的に役割を果たします。

 以上を見ると、1969年版のローマ・ミサ典書総則7番がミサとは何かを説明して何故次のように宣言したかが理解できます。

Cena dominica sive Missa est sacra synaxis seu congregatio populi Dei in unum convenientis, sacerdote praeside, ad memoriale Domini celebrandum. Quare de sanctae Ecclesiae locali congregatione eminenter valet promissio Christi 'Ubi sunt duo vel tres congregati in nomine meo, ibi sum in medio eorum' (Mt.XVIII, 20).
(日本語訳:主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ:18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。)

 1970年版では次のようにいくらかの伝統的な表現に加筆訂正されましたが、本質的には同じです。何故なら、司祭は、集会の座長としての頭としてのキリストを代表し、ミサは、十字架を記念する会食であるが故に犠牲である、と理解されるからです。

 「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ:18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。十字架のいけにえが続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中、奉仕者の中、みことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。」

 この定義は、第2バチカン公会議の『典礼憲章』2番を思い出させます。

 「典礼は(教会の)中にいる者を、日々、主における聖殿、霊における神の住居として建て、キリストにみち満ちた成長にまで達せしめようとする。同時に典礼はキリストをのべ伝えるために、教会の中にいる者の力を驚くべき方法で強め、こうして外にいる者に対しては、教会を諸民族の前に掲げられたしるしとして示す。そのしるしのもとに散在する神の子らが一つに集められ、一つの群、ひとりの牧者となる。」

 信徒の共通司祭職は、まさに、この世を聖化し、この世のすべての人々を、全人類を一つにする役目を担い、典礼はその目に見えるしるしとなるのです。第2バチカン公会議の司祭は、そのために奉仕しなければならないのです。現代の人類は、自分のすばらしさに感動し、人間の崇高な召命を自画自賛していますが、第2バチカン公会議の司祭は人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とをあかしするために、すべての人の兄弟的な一致を確立するために、裁くためではなく救うために、この世に奉仕し、人間に奉仕するために存在するのです。

 『現代世界憲章』も同じことを言います。

====引用開始====
3(人間に対する奉仕) 今日人類は、自分が発見した事がらと自分の力に感動している。しかし、世界の発展の現状について、全宇宙における人間の位置と役割について、個人および集団の努力の意義について、さらに事物と人間の究極目的について、しばしば疑問に悩まされる。・・・これら種々の問題について人類と話し合い、・・・救いの力を人類のために提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とを最も雄弁に証明することになる・・・人間、すなわち統一であり全体である人間、肉体と霊魂、心と良心、思想と意志を備えた人間こそ、われわれの全叙述の中心点である。・・・人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。・・・教会の望むことはただ一つ、すなわち、真理を証明するために、裁くためではなく救うために、奉仕されるためではなく奉仕するために、この世に来たキリスト自身の仕事を、弁護者である霊の導きのもとに続けることである。
====引用終了====

(続く)


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 至聖なるイエズスの聖心は、賛美せられさせ給え!
 イエズスの至聖なる聖心よ、我らを憐れみ給え!

 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らを憐れみ給え!

 使徒聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え!
 アルスの聖司祭、我らのために祈り給え!

 日本の尊き殉教者たちよ、我らのために祈り給え!
 天のすべての天使、聖人達よ、我らのために祈り給え!

 天主様の祝福が兄弟姉妹の皆様に豊かにありますように!


 文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)