第254号 2004/10/07 聖なるロザリオの聖母マリアの祝日
アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
昨日は、緊急にサンティ神父様の病院に呼ばれました。非常に弱っておられました。しかし、私が到着すると、最後の力で私にむかって微笑み、いろいろお話しをして下さいました。まさかこんなことになるとは誰にも想像がつかなかったね、と言うことから始まって、体中が痛いこと、天主様はすべてを支配していること、自分はファチマの幼いヤシンタの真似をしていること、痛みを聖母の汚れ無き御心に対して犯されている罪を償うために捧げていること、罪人の回心のために捧げていること、聖なる死を望んでいること、聖母マリア様、聖ヨゼフ、ルフェーブル大司教様、ラゾ司教様、自分の母親のいる天国に安らかにいきたいこと、を教えてくれました。兄弟姉妹の皆様のお祈りをお願いします。
さて、今回は、ラテン・ミサ誌(Latin Mass Magazine)2004年秋号に掲載予定の、ラテン・ミサ誌とフレー司教(聖ピオ十世会総長)とのインタビューの前編を日本語でお知らせします。フレー司教は、1958年4月12日スイス生まれ。1982年ルフェーブル大司教によって司祭に叙階され、1988年6月30日司教に聖別されました。1994年以来、聖ピオ十世会の第3代総長を務めて現在に至っています。
ラテン・ミサ誌とフレー司教(聖ピオ十世会総長)
とのインタビュー (前編)
ラテン・ミサ誌
「司教様、あなたと聖ピオ十世会のあなたと同じ司教様たちとは、ローマ典礼様式のすべての司祭たちがラテン語で聖伝のミサを執行する権利を持っていることを公式に認めることをバチカンに要求しました。一般の傍観者はこう自答自問するかもしれません。何故、教会当局はそのような要求を前にしてためらわなければならないのか? 古いミサを解放したから、と言って教会は何か失うものでもあるのか? と。」
フレー司教
「まず、古い典礼様式は一度も廃止されたことがないと言うことを思い出す必要があります。この事実は、9名の枢機卿からなる或る委員会によって1986年に確認されました。またこの事実はカストゥリヨン・ホヨス枢機卿が私たちにこう言って(2001年2月12日の会話において)確認しました。『基本的に教皇様は古い典礼様式が決して廃止されたことがないと言うことを認めている。』さらにこのことについてはメディナ枢機卿が『自分はこのミサが禁止されたとはどこにも見たことがない』と記事(ラテン・ミサ誌2003年 春号の記事)を書いて、それを再確認しています。そこで私たちは次のように結論付けなければなりません。聖伝のミサの自由を与えることによって、教会が失うような唯一のこととは、ラテン典礼様式に35年にわたって行使された沈黙の圧制によって不正義の状態が強制させられていたがそれが失われるだけであると。平信徒と、特に、古い典礼様式に従ってミサ聖祭を執行する正当な権利を行使することを望む司祭とに対してなされた陰険なやり方でのプレッシャーも、一部は無くなることでしょう。この偽りの平和と、新しいミサという典礼様式の一致によって今日得られたと考えられ主張されている平和の平穏も、一部的に消えるでしょう。私としては、聖伝のミサの自由は、救いの挑戦になるのではないかということを疑うことが出来ません。何に対する挑戦かというと、進歩主義者たちは、信者が毎週ミサに来つづけるようにするためにはミサで創造的なことをすることが必要になっていると思っているのですが、その創造性に対する挑戦です。結局のところ、教会は何も失うことがありません。むしろその反対に、大きな規模でトリエント・ミサを再導入することによって大きなものを得るでしょう。教会と霊魂を愛する者は誰であれ、この自由を与えることを瞬時でもためらうべきではないでしょう。私たちはよく、しかもバチカンにおいてさえも、トリエント・ミサに立ち戻らないならば、教会はこの現代の危機から抜け出すことが出来ないだろう、と聞きます。多くの司祭たちは、聖伝のミサと接することによって自分のアイデンティティーを見いだすことでしょう。何故なら、ミサこそ彼らの叙階の第1の目的だからです。
ラテン・ミサ誌
「一部で主張する人々がいるのですが、多くの人が古いミサをするように戻ると、司牧上の一致が危険になる、と言われていますが、本当でしょうか?」
フレー司教
「司牧上の一致について話す前に、一致と言うことそれ自体について話さなければなりません。聖ピオ5世のミサには、一致を確かに擁護していた多くの要素がありました。これらすべての要素は、新しいミサにおいて脇に置かれました。何故なら極めて大きな無秩序の可能性が創られたからです。自由のための開放性は、新しいミサにおいては極めて大きいものです。例えばインカルチャレーション、地方の様々な司教団の裁量に任された多くの革新、などなど。俗語の導入によって一致に対してなされた大きな裂け目については言うまでもありません。聖ピオ5世のミサ聖祭に与えられた自由は何かに変化を与え、新しいミサに問題を起こすでしょう。新しいミサは、全くその元来の姿に追い抜かれてしまい、全く貧しいものと映るからです。では、率直に言って、一体どこに一致に対する本当の危険というものが存在するのでしょうか?」
ラテン・ミサ誌
「聖伝に対する現在のバチカンの態度をどう判断しますか?」
フレー司教
「カストゥリヨン・ホヨス枢機卿の努力に関しては、枢機卿は聖伝の典礼を守りたい、或いはそれに戻りたいという信者や司祭らに猶予とホッと息をつく可能性を与えようと一生懸命になっていると思います。私たちは枢機卿のその態度に感謝すべきです。
そしてカストゥリヨン・ホヨス枢機卿は "反対の陣営" にいる人々から、特にバチカンにおいて、多分に多くの攻撃を受けたことでしょう。しかし聖ピオ十世会が直面している困難は、個人的な問題ではないと考えます。
以上を述べた上で、私たちは第2バチカン公会議の出した改革と新しいミサに優位を与えようという変わらない意図に気が付いています。それは古いミサを執行することは、単なる教皇様からの譲歩にすぎない、ローマは典礼問題に関して司教たちに強制することは出来ない、典礼様式において平和を作らなければならない、などと主張し、言い続けることによって、それが分かります。これらすべては、聖伝は教会の例外であって一般の普遍法は、新しいミサと第2バチカン公会議後の改革であり続け、これが将来にわたって規範であり続ける、という結論に導くのです。これらすべては、聖伝を非常にひ弱な状況に留めようとするのです。聖ペトロ会の現状は、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿の治めるエクレジア・デイ委員会の実りをすばらしく良く表現している挿絵です。古いミサだけを保存するように試みていたビジーク神父が総長職から下ろされ、聖ペトロ会はほとんどすべての典礼上の妥協をいつでもする準備が出来ている少数派によって要職を占められ、日ごとにその信憑性を失っています。聖ペトロ会には教会の危機についての明確な指針が無いので、それに関して指針を持つ可能性さえも奪われているので、聖ペトロ会内部でその会員らの分裂の大きな可能性を秘めています。」
ラテン・ミサ誌
「あなたは、バチカンが聖ピオ十世会を現在どのように判断していると思いますか?」
フレー司教
「 "不従順、反逆、傲慢、偏狭、極端、過激主義" このように私たちを表現し、バチカンの位階階級はこの態度のために、ローマと私たちとに問題が生じたと考えていることでしょう。私たちの良い側面、良い実りは、同じ当局によって認められていますが、私たちは混乱の作り主であると考えられていることでしょう。実際、ローマが私たちについて考えていることを知るのは極めて難しいことです。何故ならローマそれ自体が分裂しているからです。私たちに関して、互いに矛盾する公式宣言が存在してさえいるからです。この混乱した状況のために、それが補足的な理由となって、私たちは曖昧な外交的な同意に向けて突進することを避けています。何故なら、曖昧な同意においては、一方が、そしてしばしば両者がその問題の観点に関して確実なことを言えないからです。
ラテン・ミサ誌
「ローマは、聖ピオ十世会が離教状態にあると考えていますか?」
フレー司教
「バチカンからの公式宣言の中のあるものにはその言い方が私たちが離教であるかのように結論させるかもしれないようなものがあるにもかかわらず、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿は私たちとの会話の中で確かに私たちは離教でもなければ異端でもないこと、また全問題は私たちの教会法上の状況を正常化させることだけであるとはっきり宣言したと、私は確認できます。極めて重要な様々な事実がこの発言に対応しています。実際問題として、ローマは、私たちが本当に離教者でもあるかのように、決して私たちをそのようなものとして対応したことがありませんでした。例えば、カトリック信者が教会を離れて、カトリック教会以外[の司教]から司祭叙階を受けて、もう一度教会の中に戻ったとすると、当局はそのような司祭がカトリック教会の内部で、教会外で受けた叙階の秘跡を執行することを許しません。これがカトリック教会の一般のやり方です。ところで或る司祭が聖ピオ十世会を離れてローマに行くと、ローマ当局は彼らをそのまま受け入れ、司祭職をそのまま執行することを許しています。
さらに、カンポスがその状況を正常化させた時、公式文書(複数)の中で、離教についての話が一言も出て来ませんでした。ところでカンポスは数年以来、私たちが今いるのと同じ状況にいたのです。さらに、私たちは「キリスト者の一致促進のための教皇庁立諮問委員」からコンタクトがあったことが一度もなく、エキュメニカルな対話をするように提案されたこともありません。最近ではカトリックの高位聖職者が私たちを訪問しました。彼は私たちの修道会では聖体降福式の時に教皇様のために祈っているのを聞いて大変驚き、こう言いました。『あなたたちは、ローマでするよりももっと教皇様たちのためにお祈りしているようですね!』」
ラテン・ミサ誌
「[大聖年から] 4年の対話の後でも、あなたたちは聖座との合意にまだ達していませんね。私たちは、聖ピオ十世会の立場が『合意』の前に、聖伝のミサが『解放されること』、そして正確に言うと、それを望む司祭にはすべてに聖ピオ5世のミサ聖祭を捧げる自由が与えられること、がなければならないと言うことであると知っています。ところで現在、これは可能ではないように思われます。聖ピオ十世会は聖座とのその他の会話への門を閉ざしてしまうのでしょうか、それとも別の提案をするのでしょうか?」
フレー司教
「まず、聖伝のミサの自由ということは不可能な仮説ではない、ということを言いたいと思います。不可能なこととは、それはカトリック教会の全ての司祭たちに、明日、聖ピオ5世のミサ聖祭を捧げることを義務づけることでしょう。しかし、聖伝のミサに近づく自由を与えること、そしてこの典礼様式は廃止されたことがないということを認めるだけ、これは不可能な仮説ではありません。これは正義に基づく要求にすぎません。私たちはもっと多くを要求することも出来ました。しかし私たちはそれをしませんでした。私たちはこのような自由が、聖ピオ5世のミサと聖伝とへの復帰というますます増大する運動を生み出すことを期待しています。
後には、私たちはローマが新しいミサに反対し古い典礼様式を擁護する立場を取ることを要求することでしょう。もしかしたら、私たちはそれを今すぐに要求すべきだったかもしれません。しかしそうなると私たちはローマに不可能なことを要求していると非難されるかもしれません。もしもローマが、私たちがそのようにお願いした要求を今満足させることが出来ないと答えるとすると、私たちは対話を続けるだろうか? それとも私たちはそれをもう止めてしまうことだろうか? その他の解決策を探すべきではないだろうか?
ここで理解すべきことは、現在の状況はミサの問題だけに限らない、問題はもっと大きいということです。私たちがすることの出来るその他の提案は全て、今現在の破滅的な危機から脱出するのを助けるという目的を持つことでしょう。私たちは偽りの対話を導入しません。今日の教会の現実は、生きるか死ぬかの戦いの状況です。私たちはいつかローマにこう言わなければならないでしょう。『あなたは選択をしなければなりません。生きるために聖伝を維持するか、さもなければ死んでしまうか。』しかし歴史がそれを証明する、と思います。そして既に証明しつつあります。
私は、私たちが問題であるのではない、と言いたいと思います。ただし、私たちが教会に問題があるということの印である、とは言えるかもしれません。ほんのしばらくの間、聖ピオ十世会のことは忘れましょう。聖ピオ十世会が存在していなかったとしましょう。全教会で全てのことはより良くなるかどうか言って下さい。私たちは今、とてつもなく巨大な戦いの真っ最中にいます。この戦いの山場は、カトリック信仰を、そこからでる全ての結論と結果を含めて守るかどうか、にかかっています。従って、私たちの話し合いの目的、私たちの努力の目的は、常に、善の力を発展させる手段を見つけること、そして同時に教会の超自然の命を麻痺させている悪の力を弱める手段を見つけることとなるでしょう。これを言いながら、私たちは他人の場所を取ろうなどというつもりはありません。ただし私たち自身の場所に留まりながら、時として、自分の長上に彼らの義務を思い出させることは禁止されてはいません。
以上のことを言った上で、もしも、教会の頭がこの危機の状態に終わりをもたらそうという明確で断固とした意志を持っていることを私たちが見ない限り、和解への重要な進展というのはありえないのではないかと思います。とどのつまり、私たちが求めていることは、この意志を明確に示して欲しいと言うことなのです。」
ラテン・ミサ誌
「最近の御聖体に関するバチカン文書において、典礼の乱用を廃止しようという明確な意志が見て取れるでしょうか?」
フレー司教
「病人に必要な治療を、半分しか施さなかったとしたら、この患者は完全に治癒できません。中途半端なやり方では充分ではないのです。もう一度申しますが、これは生きるか死ぬかの戦いです。このバチカン文書は、進歩主義者をいらだたせるもので、恐るべきものです。しかしこれには公布した手段を遵守させようという決意がありません。その結果として、ローマ・クリアの権威がまた失墜することになります。人々はこの文章を馬鹿にしています! これが悲しい現実です。人々はこれを馬鹿にしていますが、馬鹿にしたからといって誰か処罰された人がいるでしょうか? アメリカでは、これはヨーロッパだけのための指針だと言っています。ヨーロッパではフランス人は「フランスでは全てが問題ない」と言い、ベルギーでは「新しいことは無い」、スイスでは「これは普遍法であるが、私たちは個別法しか関わらない、従ってこの法は私たちには関係がない」と言っています。私はバチカンが何もしていない、とは言いません。私はただこの文章がもたらした現実の実りを探しているのですが、どこにも見あたりません。」
ラテン・ミサ誌
「あなたたちは批判ばかりして、ローマでなされている良いことについてはそれを認めようとしない、という批判に対してあなたはどのように答えますか?」
フレー司教
「私たちの宣言の多くは、私たちは決して満足しない、私たちはローマにおける何らかの善を認めたくない、という結論に到達するかもしれません。しかしそれは本当ではありません。私たちには、現在ローマがおかれている状況がとても敏感で、大変デリケートであり難しいものであると言うことをよく理解しています。教会内部の分裂の危険は極めて巨大で、それは全く現実のものです。分裂と言っても、私たちの分裂という話しをしているのではなく、進歩主義者たちの諸勢力が分裂するという話しをしています。事実、これは危険がある、と言うだけに留まらず、すでに分裂は現実となっています。今から15年前、ガニョン枢機卿は北アメリカの事実上の離教(material schism)について、そしてローマが本当の意味での離教(formal schism)にならないようにしていることを語ったことがあります。亀裂は至る所にあり、教会の一致の残る部分は、ますます上っ面の要素にすぎなくなっています。一致のための力となるべきものは完全に弛緩しています。例えば信仰の一致、教えの一致を見てください。1つの教会から別の教会に行って、司教区から別の司教区へ行って、1つの国から別の国に移って、そこでのお説教を聞き、そこで教えられている要理の内容を見て、私にどこに一致があるのかを言ってください。私たちは、このような状況が殉教者の血を流すこと無しにどうして解決されるのか自問自答します。そして例え教会が殉教の血なくしてこの状況を正常化したとすると、それこそ教会の全歴史の最大の奇跡となることでしょう。ローマの高位聖職者の中にはこの危機的な状況に気が付いている人々がおり、彼らに出来る限りのことをしていることだと思います。しかし、私たちは行動の原理と実際に使われる手段とがもっと超自然のものであることを待望しています。そして正に、聖ピオ5世の聖伝のミサを再導入させることは、この超自然の次元を包含するでしょう。もちろん、その他の多くの行動も必要です。」
(つづく) 後編 第255号
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)