マニラのeそよ風

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第252号 2004/09/30 聖ヒエロニモの祝日

アヴェ・マリア!
 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。今回はご質問にお答えします。


■ Q&A 質問コーナーです

 「マニラの eそよ風」と FSSPX Japan ホームページの違いは、「マニラの eそよ風」では「破門された」という前提で読まなければ意味が通じない文章を発信しているのに、FSSPX Japan は「破門されていない」という説明が書かれていることです。

 FSSPX Japan が正しいとすれば、破門されたことを前提に書かれている「マニラの eそよ風」の意味が通じなくなります。「マニラの eそよ風」の言っていることが本当だと信じるならば、破門されていないという FSSPX Japan の説明が事実ではないということになります。

 破門されていないのに、なぜ破門に値しなかったことを相手に確認させなければならないのですか? 破門されていないのに、なぜ破門の撤回を正式に要求しなければならないのですか?


■ お答えします。

 ご質問をありがとうございました。

 もしかしたら、このような疑問をお持ちの方も他にもいるかと思い、「マニラの eそよ風」でお答えしたいと思います。私は、このご質問で兄弟姉妹の皆様がどこで誤解を抱かれるのかが分かりました。感謝します。

 問題は、何が あるいは 誰が 破門されたのか、ということではないでしょうか。誤解の元は、「司教」と「聖ピオ十世会」との同一視あるいは混同なのではないかと思います。

 そこで私はこう言う説明を付け加えたいと思います。

バチカンは聖ピオ十世会の破門について述べたことはない

(あ)  カトリック教会の一修道会(組織)としての「聖ピオ十世会」と、そこに属する個々の司教・司祭(個人)は、法的に別の存在である。
(い)  バチカンは、「聖ピオ十世会」を組織として一度も破門だと宣言したことはないし、離教だと言ったこともない。
(う)  従って、聖ピオ十世会は組織として破門されていない。

 従って、FSSPX Japanでは「聖ピオ十世会」は破門されていないという説明を書いています。私たちは、聖ピオ十世会は破門されてもいませんし、離教状態でもありません。聖ピオ十世会の秘跡に与ることによって、離教は成立しません。

 修道会という組織と個人との両者の区別が存在しているので、ニューヨーク大司教区のジェラルド・マーレイ神父(Fr. Gerald E. Murray, J.C.D.)は、「彼ら(=聖ピオ十世会のこと)は離教者として破門されていません。なぜならばバチカンは彼らが教会を離れたとは一度も言わなかったのですから。」とか、「聖ピオ十世会の内部について、バチカンは一度もいかなる司祭も、平信徒も離教的である[教会を離れている]と宣言したことがありません。」などと言っています。


6名の司教の「自動破門」は、カトリック教会法典の他の条項を無視しているので、同じカトリック教会法典(1323条の4)によればいわゆる「自動破門」は成立せず、従って無効である

 しかしながら、1988年7月1日、ガンタン枢機卿は、この司教聖別を離教行為であるし、カトリック教会法1382条による「自動破門」に当たると宣言し、6名の司教たち(個人)つまり、司教聖別をしたルフェーブル大司教と共同聖別司式者のデ・カストロ・マイヤー司教、および聖別されたウィリアムソン司教、ドゥ・マルレ司教、フレー司教、デ・ガラレッタ司教、以上合計6名の司教が、自動的に破門された、と言ったことがあります。

 それと同時に離教を支持するものにも破門刑の警告(つまり、離教を支持することは、破門を将来受けることになると警告した)したこともあります。


必要の状態に迫られて法を犯す人は、刑罰の対象にならない(カトリック教会法1323条の4)

 しかし「自動破門」が書かれているその同じカトリック教会法典によれば、

(1) 必要の状態(緊急状態)に迫られて法を犯す人は、刑罰の対象にならない(カトリック教会法1323条の4)

Can. 1323 - Nulli poenae est obnoxius qui, cum legem vel praeceptum violavit: 4°metu gravi, quamvis relative tantum, coactus egit, aut ex necessitate vel gravi incommodo, nisi tamen actus sit intrinsece malus aut vergat in animarum damnum
外国語サイト リンク http://www.ihlisoft.de/cgi-bin/dbman.cgi?db=ciclat&uid=&view_records=1&Canon=1323&Text=&view_records=Suche&bool=and

とあります。

カトリック教会法典の英訳は次をご覧下さい。
外国語サイト リンク http://www.vatican.va/archive/ENG1104/_INDEX.HTM


 客観的に見て緊急状態などなく、個人的な思い込みだったとしても、個人的過失がなくそう思いこんだ場合、刑罰を受けない(カトリック教会法1323条の7)

 しかもカトリック教会法典には、次の規定もあります。

(2) そもそも、客観的に見て「必要の状態」などというものがたとえ存在しなかったとしても、
 (a) もしも誰かが必要の状態があると過失なく思いこんで、その行為を行った場合、
----> 刑罰を受けない(カトリック教会法1323条の7)。

Can. 1323 - Nulli poenae est obnoxius qui, cum legem vel praeceptum violavit: 7°sine culpa putavit aliquam adesse ex circumstantiis, de quibus in nn. 4 vel 5.
外国語サイト リンク http://www.ihlisoft.de/cgi-bin/dbman.cgi?db=ciclat&uid=&view_records=1&Canon=1323&Text=&view_records=Suche&bool=and


客観的に見て緊急状態などなく、個人的な思い込みだったとしても、個人的過失があった場合、自動刑罰を受けない(カトリック教会法1324条§3及び§1の8)

さらに、

(2) そもそも、客観的に見て「必要の状態」などというものが存在しなかった、しかも、
 (b) 必要の状態があると、過失的に思ったうえで、この行為を行った場合、
----> 自動的刑罰は受けない(カトリック教会法1324条§3及び§1の8)

Can. 1324 - § 1. Violationis auctor non eximitur a poena, sed poena lege vel praecepto statuta temperari debet vel in eius locum paenitentia adhiberi, si delictum patratum sit: 8° ab eo, qui per errorem, ex sua tamen culpa, putavit aliquam adesse ex circumstantiis, de quibus in can. 1323, nn. 4 vel 5;

Can. 1324 - § 3. In circumstantiis, de quibus in § 1, reus poena latae sententiae non tenetur.
外国語サイト リンク http://www.ihlisoft.de/cgi-bin/dbman.cgi?db=ciclat&uid=&view_records=1&Canon=1324&Text=&view_records=Suche&bool=and

とあります。


教会法による刑罰は、悪意をもって行ったが故に大罪を犯したときに限られる(カトリック教会法1321条§1、1323条の7)

またカトリック教会法典によると、

(3) 教会法による刑罰は、悪意や怠慢などにより、主観的に罰せられるべき大罪を犯したときに限られる(カトリック教会法1321条§1、1323条の7)

Can. 1321 - § 1. Nemo punitur, nisi externa legis vel praecepti violatio, ab eo commissa, sit graviter imputabilis ex dolo vel ex culpa.
外国語サイト リンク http://www.ihlisoft.de/cgi-bin/dbman.cgi?db=ciclat&uid= &view_records=1&Canon=1321&Text=&view_records=Suche&bool=and

Can. 1323 - Nulli poenae est obnoxius qui, cum legem vel praeceptum violavit: 7° sine culpa putavit aliquam adesse ex circumstantiis, de quibus in nn. 4 vel 5.
外国語サイト リンク http://www.ihlisoft.de/cgi-bin/dbman.cgi?db=ciclat&uid=&view_records=1&Canon=1323&Text=&view_records=Suche&bool=and

とあります。

 つまり、たとえ客観的に見て大罪であっても、主観的に罪ではないと信じ込んで行った、善意で行った「犯罪」の場合、カトリック教会法典による刑罰は受けることはできないのです。


ルフェーブル大司教は、カトリック教会の緊急状態に迫られて司教聖別を行わなければならない良心上の義務があった

教会の危機という緊急状態のために、善意で司教聖別を執行した場合、カトリック教会法典で罰を受けることはできない。

 さて、ルフェーブル大司教は、カトリック司祭が継続するため、天主に従順であるため、必要の状態に迫られて司教聖別を行わなければならない良心上の義務があったことをはっきり宣言しているので、カトリック教会法によれば、ルフェーブル大司教も司教聖別された司教たちも、すくなくとも「自動」破門という刑罰を受けることがないからです。


カトリック教会法典によれば「教皇許可無しの司教聖別」は、すなわち「離教行為」ではない

「エクレジア・デイ」の論理は、厳密な意味では、カトリック教会法典に基づいていない。

 自発的使徒書簡「エクレジア・デイ」3によれば、

「この行為(=教皇許可無しの司教聖別)は、それ自体において、教会の一致のために極めて重大な最高の重大性の事柄におけるローマ教皇への不従順の行為であり、このような不従順は実際的にローマ首位権を拒否することを暗示し、離教的行為を構成する。このような行為を行ったことにより、カトリック教会法典 1382条で予定された重大な制裁が適応された」

3. In itself, this act was one of disobedience to the Roman Pontiff in a very grave matter and of supreme importance for the unity of the church, such as is the ordination of bishops whereby the apostolic succession is sacramentally perpetuated. Hence such disobedience - which implies in practice the rejection of the Roman primacy - constitutes a schismatic act.(3 Cf. Code of Canon Law, can. 751.) In performing such an act, notwithstanding the formal canonical warning sent to them by the Cardinal Prefect of the Congregation for Bishops on 17 June last, Mons. Lefebvre and the priests Bernard Fellay, Bernard Tissier de Mallerais, Richard Williamson and Alfonso de Galarreta, have incurred the grave penalty of excommunication envisaged by ecclesiastical law.(4 Cf. Code of Canon Law, can. 1382.)
外国語サイト リンク http://www.vatican.va/holy_father/john_paul_ii/motu_proprio/documents/hf_jp-ii_motu-proprio_02071988_ecclesia-dei_en.html

とあります。

 つまりこの論理は、
大前提「教皇許可無しの司教聖別」は「離教行為」である。
ところで「離教行為」は「破門」に相当する。
結論「教皇許可無しの司教聖別」は「破門」に相当する。 ということです。

 しかし、カトリック教会法典によれば、「教皇許可無しの司教聖別」は、カトリック教会法典の第2部「刑罰の部」の第3項「教会の権能の横領とその執行における犯罪」TITULUS III "DE MUNERUM ECCLESIASTICORUM USURPATIONE DEQUE DELICITIS IN IIS EXERCENDIS" の項(カトリック教会法典1378-1389条)に含まれるものであり、「離教行為」であるとは想定されていません。

 「離教行為」に関する罰則は、それとは別に「刑罰の部」の第1項「宗教及び教会の一致に反する犯罪」TITULUS I "DE DELICTIS CONTRA RELIGIONEM ET ECCLESIAE UNITATEM" で扱われています(カトリック教会法典1364-1369条)。
外国語サイト リンク http://www.codex-iuris-canonici.de/liber6.htm#0101

 従って、カトリック教会法典を厳密に見る限り、大前提となる「教皇許可無しの司教聖別」は「離教行為」である、は教会法上正しくありません。

 カトリック教会法典では「罰を与える時には厳密でなければならない」odiosa sunt restringenda ので、特に「破門」という重大な罰則の適応については極めて正確で厳密でなければなりません。

 従って、
「教皇許可無しの司教聖別」はすなわち「離教行為」だから、「破門」に相当する、という論理は成立しません。


教皇様の不可謬権は、刑罰する時にまで及ぶものではない

 ガンタン枢機卿は、以上のようにカトリック教会法典を誤って適応させたのですが、残念なことに、1988年7月2日、ヨハネ・パウロ2世教皇は教令「エクレジア・デイ」において、ガンタン枢機卿の告発を繰り返しました。(カトリック信仰によれば、教皇は、誰かを刑罰をする時に不可謬権は無い。)従ってあかたもバチカンの(カギ括弧付きの)「公式」であるかのような見解として、6名の司教たちが破門されたかのように報道されてしまいました。

 従って、この6名の個人の自動破門については、ローマのカトリック教会法の専門家など、さらに私たち聖ピオ十世会は、この「自動」破門はカトリック教会法によれば成立しない、と主張しています。

 従って、教会の緊急状態のため、破門に値しなかったことを聖ピオ十世会がバチカンに確認させなければならないのは(「聖ピオ十世会」という組織の破門のことではなく)、司教たち個人に関する要求です。

 何故「聖ピオ十世会」という組織と、例えばルフェーブル大司教や聖別された司教らという個人が、法的に異なる存在かと言うことについては、説明の必要はなく、蛇足かも知れませんが、一言を付け加えれば、

(1) カトリック教会の歴史の中には、(私の記憶が正しければ例えばカプチン会のように)修道会創立者が後に破門されたケース、或いは修道会に属する特定の会員・個人(例えばアウグスチノ会に所属していた、マルチン・ルター)が破門されたケースがあるが、だからといって修道会それ自体が組織として破門されたと言うこととは全く区別されていること、

(2) 修道会の創立者であっても、個人としては組織としての修道会とは区別されるなら、ましてや修道会の一会員を修道会と同一視することは出来ないこと、

(3) ところで、ルフェーブル大司教は、確かに聖ピオ十世会の創立者、初代総長であったが、1988年当時の総長はシュミットバーガー神父であり、ルフェーブル大司教らは聖ピオ十世会に所属する一会員に過ぎなかったこと、などを挙げたいと思います。



 率直なご質問をしてくださって感謝します!
 これで、疑問が解消できれば幸いに思います。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)