第244号 2004/09/10 トレンティノの聖ニコラオの祝日
トレンティノの聖ニコラオ / ピエトロ・ペルギーノ (1507)
アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。
ジェラルド・マーフィー神父は、ニュー・ヨーク大司教区の司祭でありローマのグレゴリオ大学でカトリック教会法博士を準備しました。(グレゴリオ大学は、カトリック教会において最高学府と考えられている大学です。)マーフィー神父は「故マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の信者らのカトリック教会法上の身分:彼らは離教徒として破門されたのか?」という題の論文を提出し、優秀な回答であるとして学位を得ました。
マーフィー神父は、1995年8月にアメリカの the Latin Mass 誌(1995年秋号50-61ページ)のためにロジャー・マッカフレイとのインタビューに応じています。私たちは以下にその主要な部分を引用して兄弟姉妹の皆様にご紹介したいと思います。ご参考までにどうぞ。
「ノー! ルフェーブル大司教は破門されていない!」
ジェラルド・マーフィー神父とのインタビュー
ロジャー・マッカフレイ
「【聖ピオ十世会による】ラテン語のミサについて、簡単に学位論文の結論を要約して下さることが出来ますか?」
マーフィー神父
「私は、聖ピオ十世会の聖堂でミサや秘跡に与る人々が破門された、或いは離教徒であるのか否かと言うことを調べようとしました。
私の論文は、ルフェーブル大司教によって叙階された聖ピオ十世会の司教たちが、そしてルフェーブル大司教自身も、司教聖別の時に教皇によって破門されたと宣言された事実に基づいています。」
ロジャー・マッカフレイ
「【破門宣言は】ガンタン枢機卿という仲介を通して、ですね。」
マーフィー神父
「その通りです。その後に教皇は教令『エクレジア・デイ』のなかでこの宣言に言及しています。」
ロジャー・マッカフレイ
「そして教皇はこの教令に個人的にサインをしていますね。」
マーフィー神父
「全くその通りです。この教令は教皇の発したものです。問題は、聖座が発表した破門について、その教令の効力がどれほどそれ以外の人々にまで及ぶのか?と言うことです。」
ロジャー・マッカフレイ
「つまりこの教令が、司祭や信徒たちにどれほど関わるのか?と言うことですね。」
マーフィー神父
「はい。私の結論は次の通りです。私の見る限り、彼らは離教者として破門されていない、と言うことです。何故ならバチカンは彼らについて破門されていると一度も言ったことがないからです。唯一ハッキリと破門されたとされたのは6名だけです。すなわち、叙階された4名の司教らとルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教です。疑問はまだあります。聖ピオ十世会の聖堂と関係を持つ者たちについて、この教令の効力が及ぶなら、どこまで及ぶのかと言うことです。そのために私は研究し論文を書きました。」
ロジャー・マッカフレイ
「つまり、神父様、 “新しいカトリック教会法典に従えば、信徒たちも司祭らも離教徒として破門されていない” というあなたの結論に到達するためには、あなたは次のことを自問自答しなければならなかった、つまり、ルフェーブル大司教とその他の5名の司教たちは破門されたのか否か?ということですね。」
マーフィー神父
「その通りです。」
ロジャー・マッカフレイ
「何故、あなたはまずこの問題を研究しなければならなかったのですか?それからあなたの到達した結論とは何でしょうか?」
マーフィー神父
「もし問題の根本に辿り着けば、問題の結果はもっと明確になります。そのように、もしもルフェーブル大司教が離教者として破門されたのであれば、その他の人々も同様に破門されている危険があります。もしもルフェーブル大司教が離教を引き起こし、その他がそれに従っているのなら、もしかしたら彼らは離教に賛成しているのかもしれません。
ところでこの問題を取り扱うに当たって2通りのやり方があります。1つはルフェーブル大司教と彼の司教たちだけが破門されているが、その他の人々については、法の意図、或いは立法者の意図(すなわちこの場合は教皇とその協力者たち)は言及していない、と言うやり方。
或いは第2のやり方として、実はルフェーブル大司教は破門されていなかったということを証明し、従って誰も破門されていないと証明するやり方です。
この第2のやり方によって “カトリック教会法典上の立場から言えば” ルフェーブル大司教は、カトリック教会法典によって処罰の対象となりうる離教行為の罪には該当しない、という結論に達しました。ルフェーブル大司教は教皇に対して不従順の罪が帰せられ得ますが、ルフェーブル大司教はこの【司教聖別の】行為によって自動的に受ける(latae sententiae)破門を受けることを避けるように、法の意図を汲むように行動しました。もちろん、ルフェーブル大司教は教皇の判断に基づく決定によって、【自動破門ではなく】判決による破門を受ける可能性はありました。」
ロジャー・マッカフレイ
「あなたは、2つの理由によってルフェーブル大司教の司祭たちと平信徒たちは破門されていないと信じるようになったのですね。それではカトリック教会法典に基づく2つの理由とは何でしょうか。」
マーフィー神父
「はい、大まかに言えばそうです。破門刑を受けることが出来た唯一の人々は、司教たちだけでした。ところでカトリック教会法典によれば、破門とは、聖座の権威によって明確に為された宣言だけに依存しているのではありません。自動破門と言われている刑罰を含む教会法典は、人が不法行為を犯した場合のことを想定しています。不法行為とは、教会法典上の不法行為のことですが、その時、人はこの行為に結びついている刑罰を自動的に受けることになります。ところで、自動破門というタイプの刑罰は、離教者となる人々について想定されています。
しかし、聖ピオ十世会の平信徒と司祭たちの場合、バチカンは一度も彼らが離教者となったと宣言したことがありません。バチカンは確かに離教を承認してはいけない、離教に参与してはいけない、とは警告しましたが、バチカンはそれが具体的にどういうことなのかについて一度も説明したことがありません。従って法の疑いがあります。言い換えれば誰かが離教者であるのか否かの事実について不確実性があります。
例えば、今ここで太郎さんの例を取ります。太郎さんは聖ピオ十世会の司祭によって運営されている聖堂に通っています。さてこの司祭は、聖ピオ十世会の司祭であるがゆえに離教司祭なのでしょうか? このことはバチカンが一度もハッキリと言ったことがありません。ここにおいて疑問がありえます。
誰もが知っているように、聖ピオ十世会は離教状態にはないと主張しています。聖ピオ十世会の司祭の行為と宣言は善意(bona fide)でありえます。「私は離教者ではありません。私は離教を支持しません。何故なら、離教など存在しないからです」と。
平信徒も同様に、善意で、同じ確信を持ちうるのです。彼の善意のために、彼に “あなたは法の想定した条件を満たしたので、法を知りつつ破ったために自動破門を受けることになりますよ” と反論できなくなるのです。」
ロジャー・マッカフレイ
「バチカンは或るケースにおいて明確なやり方でこのことに白黒つけました。ハワイで平信徒のグループが、ルフェーブル大司教の司教たちの1人の司教がたてたミサに与ったために、2年前(1993年のこと)ハワイ司教であるフェラリオ司教によって破門されました。しかしラッチンガー枢機卿はフェラリオ司教の破門の決定を覆しました。あなたの学位論文はそのことにも言及していますか?」
マーフィー神父
「いいえ。ハワイのケースですが、ラッチンガー枢機卿に控訴した人々の法的な動機について、私はよく知りません。しかし破門を宣言した司教は、ラッチンガー枢機卿によれば、カトリック教会法典に従っても、事実においても、破門を正当化することが出来ませんでした。」
ロジャー・マッカフレイ
「ハワイの司教は破門宣言で、『彼らは(要点だけ言うとすると)離教徒のもとに通っているので、私は彼らを破門し、彼らを離教徒であると宣言する』と言いました。ラッチンガー枢機卿はこの破門を無効とし、彼らは離教徒ではなかったと宣言しました。このことはあなたの論点に大きな重みを加えます。」
マーフィー神父
「はい、私もそう思います。聖ピオ十世会の平信徒と司祭とに関して私が辿り着いたのと全く同じ結論です。私はラッチンガー枢機卿が正しいと思います。何故ならルフェーブル大司教によって叙階された司祭、或いはルフェーブル大司教の協力者の1人がする儀式に与るという事実は、教皇あるいは教皇に従う司教たちとの交わりを故意に断絶するということを意味することにはならないからです。そして、離教の定義とは正に、この交わりを故意に断絶することに他ならないからです。」
ロジャー・マッカフレイ
「あなたは平信徒にこの儀式に与るように勧めるというのではなく、ただ単にその儀式に与るという事実は、平信徒が離教徒であることを意味しない、と言っているのですね。そしてラッチンガー枢機卿も或るインタビューの中で同じ事を暗示させています。
ラッチンガー枢機卿は、自分は聖ピオ十世会の儀式に与る平信徒が “教皇との全き交わりのうちに今でもいるという確信を持っている” と知っていると宣言しました。ラッチンガー枢機卿は “これらの平信徒に対して寛大な・・・態度をとる” ことを強く勧めています。
そこであなたは一方で聖ピオ十世会の儀式に与ることを勧めるというわけではなく、他方で聖ピオ十世会の儀式に与ることは必ずしも離教的行為ではないと言いたいのですね。」
マーフィー神父
「私の知る限りでは、聖座は聖ピオ十世会の司祭によって執行される儀式に与るという単純な事実が離教行為を構成するなどと宣言したことは一度もありません。
従って、こう自問自答するべきです。 “それは、カトリック教会法典の単純な解釈の結果としての、また平信徒に提案することの出来る、論理的結論なのか?”と。論争全体を取り巻く状況から見て、私はあなたの言うとおりのケースだとは思いません。
ではその状況とは何でしょうか? ルフェーブル大司教とその協力者たちは常に離教は存在していないと主張し続けてきていることです。間違っているにしろ正しいにしろ、彼らはこの離教が存在していないという概念をその協力者たちや平信徒たちに公に広め、カトリック教会法典に則った論理を使って議論を進めていることです。
従って、私は聖ピオ十世会の儀式に与りながら善意を持って行為し、離教的な障害を全く見ることなしに誠実にいることが出来ると思います。
一般に言って、もし無効なミサが、一般の教区でたてられていることをあなたが証明できれば、この状況を改善するために教会の高位聖職者たちは対策を講じることでしょう。しかし無効なミサがたてられていることを私たちはよく知っています。ラッチンガー枢機卿自身も、教理聖省長官に就任した時、御聖体の秘跡が相応しく取り扱われるように司教たちに指導しなければなりませんでした。ラッチンガー枢機卿は司教たちに、今後一切、無効なパンでミサをしないように命じ、(謝礼を受けて)無効なミサがたてられたその意向について、全てのミサをやり直すように勧告しました。私はあなたの雑誌の読者の中にもおそらく、御聖体拝領をしたとき、それがお菓子のパンだったために、その有効性について疑問を抱いた人もいると思います。
では別のケースを見てみましょう。あなたの教区の或る司祭がカトリックの道徳と教えに反対のことを教えていることを、あなたがよく知っていたとします。例えばこの司祭は地獄の存在を否定する、或いは離婚し、再婚した人でも御聖体を拝領できると教えている、更にこのような司祭の態度を司教が黙認している、と言うことをあなたはよく知っている。そうしたら聖ピオ十世会の聖堂に行って正しい教えを受けることが出来るのではないでしょうか? 私にはそのほうが良いと思われます。私にとっては異端の説教を聞くよりもましだと思います。もしかしたら私は間違っているのかもしれません。しかしあなたは異端説を聞いているよりも、信仰において平安のうちにいるという教会法典上の優位にあると思います。」
ロジャー・マッカフレイ
「ラッチンガー枢機卿は1988年以降、何度も繰り返し ルフェーブル大司教のことについて自分の考えを述べています。ラッチンガー枢機卿は聖ピオ十世会の聖堂にミサに与りに行く人々に対して理解を示し、時には好感さえ表しています。
それなら何故、あなたと私とはラッチンガー枢機卿と同じ好感を表明してはいけないのでしょうか? 何故私たちが聖ピオ十世会の信者たちに対して好感を示すと、その度ごとに聖座に対する忠誠心に欠けていると非難されなければならないのでしょうか? 神父様、あなたもこの雑誌のこの項を読んだ後に、離教的であると告発されることでしょう。あなたはそのことに気が付いていますか?」
マーフィー神父
「そのようなことはないと思います。私はカトリック教会法典の研究者です。私はこの方面で学位を取りました。私はルフェーブル大司教の破門という学位論文を書きました。残されていることは、この専門的な点に関する広大な範囲の知識を探究するだけです。ただし、何度も為された教皇に関する批判という感情的で論争的な側面を除くならば、です。何故ならルフェーブル大司教は、必ずしも証明されない火事を起こさせるような宣言を何度もしたからです。
ただ1つ確かなことは、教会の内部に危機が存在しているということです。ある意味でルフェーブル大司教はそのことを理解しました。ルフェーブル大司教の主張の幾つかはその他の司教や枢機卿も同意しています。」
ロジャー・マッカフレイ
「プライベートに、同意していると言うことですね。」
マーフィー神父
「プライベートに、そして時としては公に同意しています。私はラッチンガー枢機卿がしたレポートは、現代の教会で起きていることに関してルフェーブル大司教の分析と多くの点で共通していると思います。しかしカトリック教会法典に関することについては、教会法典の専門用語で表現されているので、また感情を切り離して研究しなければならないので、教会の危機を理解するよりももっと理解しやすいと言うことを認めなければなりません。それこそ私がしようと努力していることです。
私が離教を勧めていると考える人は間違っています。私が望むのは聖ピオ十世会とその信者たちとの和解です。私は、彼らの主張、彼らが離教をしているのではないと主張しているその観点は注意深い吟味に値すると考えます。
もしも教皇が “今日より30日後、ルフェーブル派のミサに与り続ける人々は全て自動的に破門され離教徒であると見なされる”などと教令に条項を付けて発布していたとしたら、もっとことは明快になったかもしれません。私はこの定義の明快さはどちらかの立場を取るか選択を迫ったと思います。」
ロジャー・マッカフレイ
「しかし教皇がそのような手段を執らなかったという事実は、教会法典と離教の定義の解釈に関して、現状の曖昧な状況に教皇が満足しているということを意味するのですね。もしも教皇がそのことに悲しんでいたとしたら、教皇はあなたが今言ったように行為していたのではないのでしょうか?」
マーフィー神父
「私は、現在、教会法典的な厳しさが欠けていると思っています。一度曖昧な警告が出され、その後にそれを一度も明確にしようとしていないのです。それは、制裁がなければないほど後に再統合がより簡単になり、優しく紛争を解決できるだろうという期待のもとに為されています。
この論理が事実に基づくものであるかについては論争ができます。しかし私は、教皇はこの観点から行為したと思います。教皇自身この文章を取り扱わなければならないことに苦痛を感じていたようです。私が判断することができるかぎり、その他のネゴシエーションが無い限り、この運動はおそらく教会から遠く離れ続けていくでしょう。その固有の存在を正当化するためにそうしなければなりません。」
ロジャー・マッカフレイ
「もしすでにそうでないとしたら、その時にはすぐに離教的になってしまうだろうということですね。」
マーフィー神父
「はい。そこで私が既にした区別に戻るのです。もしかしたら離教的な運動かもしれません。しかしこれは、離教の受ける教会法典上の制裁を受けたことがありません。何故なら、ただ単純に、新しい教会法典はルフェーブル大司教が司教聖別をするその瞬間の主観的な状態を吟味することを要求しているからです。」
ロジャー・マッカフレイ
「それが新しい教会法典の要求することですか?」
マーフィー神父
「その通りです。」
ロジャー・マッカフレイ
「もしも新しい教会法典がそうすることを求めているなら、教皇がそれを求めていることになります。そこにジレンマがありますね。」
マーフィー神父
「全くです。教皇教会法典の範囲のうちにおいて行為しています。それは誰であれそうすることです。ただし教皇との違いは、教皇は同時に立法者であり教会法典を変えることが出来るということです。もしも教皇が教会法典を変更しないなら、もしも教皇が、”個別法”と言われるものを発布しないなら、教皇は一般法に支配されます。個別法とは法の特定な適応、或いは法に対する特定の条項の追加です。教皇は教会法典を変更することが出来るのに、ルフェーブル大司教のケースにおいてはそうしませんでした。ところで教会法典には、もしも誰かが不法行為を行う重大な理由、大きな必要性が存在していたと考えていたなら、この人は自動的に受ける(latae sententiae)制裁を受けない、という条項があります。
私は教皇自身が教会法典の立法者ではない、と言いましょう。教皇になされた助言が発表されました。オッセルヴァトーレ・ロマーノは、教会法典1323条が言うところの必要状態は適応され得ないと評価する告知を掲載しました。
教皇の助言者たちは教皇にルフェーブル大司教は教会法典1323条と1324条を適応することが出来ないと断言したと考えます。そのために教皇はその宣言においてこの条項について言及しませんでした。私の見るところでは、教皇の助言者たちは間違っています。何故なら、ルフェーブル大司教のケースは正に、新しい教会法典が旧法と比べて極めて緩やかになっているところの代表例だと思うからです。それにひきかえ古い教会法典は全く明らかでした。
古い教会法典においては、もし不法行為を犯したなら、その反対が証明されるまで罪を犯したことになります。新しい教会法典では、もしも不法行為を犯し、それをすることが主観的に必要であったと判断していたのなら、必ずしも制裁を受けるとは限りません。
もちろん、教皇は自分の権威によって制裁を与え、それとして発表することが出来たかもしれません。しかしそこで私たちはジレンマに陥るのです。ルフェーブル大司教は、自分は教会の善のために行為しなければならなかったと主張しました。私たちは、いやルフェーブル大司教は自分のために自分の利益のために行為したと言うことが出来るかもしれません。その点については議論することが出来ます。
そこにおいて、教皇の機能と教皇の権威について、私の思うにはこう言うことが出来ると考えます。 “教皇様、私は、カトリック教会法典1324条はこのケースについて適応され得ると考えます” と。ルフェーブル大司教は従って破門されていなかったかもしれません。もちろん、私は如何なる信者も破門されなかったし、されていないと思います。
このケースの場合、全てはガンタン枢機卿の公の発表から生じた結果です。ガンタン枢機卿は2条の教会法典、つまり離教に関する教会法典の条項と、教皇の許し無くなされる非合法な司教聖別の条項とが、意図的に違反された、と考えました。
ガンタン枢機卿の発表は実にこう指摘していました。 “彼らは法を犯したのみならず、それに関する制裁を受けるようなやり方でそれを犯したことは公に明らかである” と。しかしそのように言うという事実が、制裁を創り上げるのではありません。ガンタン枢機卿は制裁は既に存在していたと断定します。ここにおいて同意することが出来ないと言うことが出来ます。 “お言葉に反して失礼ですが、枢機卿閣下、私はあなたの法の適応は正しくないと思います”と。
更に良いやり方では、ルフェーブル大司教はこのように言うことが出来たでしょう。 “ガンタン枢機卿が私にどうするか否かにかかわらず、私は教会法典1324条を適応させます”と。何故なら、状況の主観的判断はその個人的な評価に委ねられているからです。
もしも法を破るものが誠実に “私の霊魂と良心とにおいて、私は如何なる悪をしたと思いません。何故なら、私は法に反してそのように行動する必要があったからです”と言うなら、教会法典1324条をいちいち呼び出す必要もなく、自動的に受ける制裁を全て避けることが出来るからです。
ところで教皇は、あなたが既に強調したように、次のように言うことも出来ました。”その教会法典の条項については忘れましょう。私は宣言します。私の判断に従わない限り、今日のこの日から数えて、彼らは私の固有の権威によって破門されています”と。しかし教皇はこのようには行為しませんでした。教皇様は自分の助言者たちの言うまま、現行の教会法典のままにしただけでした。
私はそこが新しい教会法典の欠如しているところだと思います。主観的な結論が制裁に影響を及ぼすなら、そこから教会法上の不確実性が生じてしまいます。とにかく一般的な確実性の欠如が生じます。当然、法を犯す人々のほとんどは、完全に病的に廃退している人と権威に敢えて反対する人を除けば、それが自分の義務であったと考えています。率直に言って、私はルフェーブル大司教がそのような悪しき意向において司教聖別を行ったとは思いません。」
翻訳:トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)