マニラのeそよ風

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第239号 2004/08/02 司教証聖者 聖アルフォンソ・マリア・リグオリの祝日
第240号 2004/08/02 司教証聖者 聖アルフォンソ・マリア・リグオリの祝日
第242号 2004/09/08 童貞聖マリアの御誕生の祝日
第243号 2004/09/10 トレンティノの聖ニコラオの祝日
第245号 2004/09/13 
第246号 2004/09/15 御悲しみの聖母の祝日
第247号 2004/09/16 教皇殉教者聖コルネリオと司教殉教者聖チプリアノの祝日
第248号 2004/09/17 アシジの聖フランシスコの聖痕の記念
第249号 2004/09/18 クペルティーノの聖ヨゼフの祝日
第251号 2004/09/29 大天使聖ミカエルの祝日

link 主の祈りの解説 前編

主の祈りの解説(後編)
聖トマス・アクィナス


Pater noster, qui es in caelis,
sanctificetur nomen tuum.
Adveniat regnum tuum.
Fiat voluntas tua, sicut in caelo, et in terra.
Panem nostrum quotidianum da nobis hodie,
et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimittimus debitoribus nostris.
Et ne nos inducas in tentationem,
sed libera nos a malo. Amen.


天に在す我らの父よ、
願わくは聖名の尊まれんことを。
御国の来たらんことを。
御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを。
我らの日用の糧を今日我らに与え給え。
我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え。
我らを試みにひき給わざれ。
我らを悪より救い給え。アーメン。


Joshua Reynolds, The Child Prophet Samuel in Prayer


第4の請願
Panem nostrum quotidianum da nobis hodie.
「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」


53. 或る人は自分の深い知識や知恵によって臆病になってしまうことがよく起こります。それゆえ彼には、種々の必要を考えて気落ちすることがないよう、心の剛毅が必要となります。「主は、弱った者に力を与え、無き者には強さと強靱さを増し加え給う」(イザヤ40:29)。そして、この剛毅こそを聖霊が与えるのです。「霊が私の中に入り、私を自分の足で立ちあがらせた」(エゼキエル2:2)。ところで、これこそ聖霊が与えるこの剛毅で、人間の心が必要なものごとに欠如するのではないかという恐れによって気落ちすることなく、必要とするものはすべて天主から自分に与えられることを確信させるためです。それゆえ、この剛毅を与えられる聖霊は、私たちが天主に対して「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」と請願することを教えられるのです。したがって、聖霊は剛毅の霊と呼ばれます。


54. ところで、次のことを知らねばなりません。即ち、先行する3つの請願においては、現世において始まるけれども、永遠の生命においてでなければ完成されない霊的なものが請願されています。即ち、天主のみ名が聖とされることを請願する時、天主の聖性が知られることを請願し、み国の来ることを請願する時、私たち自身が永遠の生命に与かる者となることを請願し、天主の意志の行われることを請願する時、その意志が私たちにおいて成就されることを請願しています。すべてこれらは、たとえ現世において開始するとしても、永遠の生命においてでなければ、完全に所有されることができないものです。それゆえ、この現世の生活においても完全に所有されることのできる何らかの必要物を請願することが必要でありました。そのため、聖霊は、この地において完全に所有される、現世の生活における必要物を請願するように教えられたのです。そしてそれは、同時に、現世的なものもまた天主によって私たちに摂理的に配慮されていることを示すためでした。そしてこれが「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」が言う意味です。


55. ところで、主は、この祈りの言葉によって、通常、現世的事物に対する願望より生じる5つの罪をさけることを、私たちに教えています。即ち、

(1) 第1の罪は、人が自分に相応するものに満足せずに、自分の身分や条件を越えたものを、無節度な欲求によって求める罪です。衣服を望むに当って、兵士であるのに、兵士としての衣服を望まずに貴族の衣服を望んだり、下級聖職者であるのに、下級聖職者の衣服ではなく司教の服を望んだりする如きです。そしてこの悪徳は、人々の願望が現世的事物に対して過度に愛着するに従って、人々を霊的事物から遠ざけるのです。


主は、私たちにこの悪徳をさけることを教え、私たちがただ「糧(パン)」のみを、即ち、各自の条件に応じた現世の生活の必要物のみを請願するように教えられたのです。この「現世の生活に必要なもの」はすべて「糧(パン)」という言葉のもとに解されています。それゆえ、主は、快適なものでも、種々のものでも、ぜいたくなものでもなく、それなしには人間生活をおくることができないパンを請願するように教えられました。何故なら、パンはあらゆる人に共通したものだからです。「人間の生活の初めは、パンと水である」(集会書29:28)。「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」(1ティモテオ6:8)と使徒聖パウロも言います。


56. (2) 第2の悪徳は、人が現世的事物を獲得するに当って、他の人々を苦しめたり、騙したりする悪徳です。この悪徳は、不正に奪った物財を返済することが困難なゆえに、危険な罪です。というのは、聖アウグスチヌスが言うように、奪ったものを返却しない限り、罪のゆるしが得られないからです。主は、この悪徳をさけることを教るために、私たちが他人のパンではなく私たちのパンを請願するように教えられたのです。何故なら、略奪者は、自分のパンではなく他人のパンを食するからです。


57. (3) 第3の悪徳は、過度の気遣いです。或る人々は、自分の所有しているものに満足することが決してなく、常により多くのものを所有することを望んでいます。これは、節制の欠けたことです。何故なら、願望は必要に応じて節制されねばならないからです。「富も貧困も我に与え給うなかれ。ただ我が生活に必要なものを与え給え」(格言30:8)。主は、この悪徳をさけるよう私たちに教えられて、「我らの日用の糧を」つまり、一日の、あるいは一時期のパンを、と言われたのです。


58. (4) 第4の悪徳は、不節度な貪食です。即ち、或る種の人々は、多くの日数のために充分とされるものをただ一日で食べ尽くすことを望んでいます。これらの人々は、日用のパンではなくて十日分のパンを請願しています。そして、その過度の消費によって、すべてを蕩尽してしまうようになります。「大酒飲みと貪食者とは貧しくなる」(格言23:21)。「酒に酔う働き手は、富むことはない」(集会書19:1)。


59. (5) 第5の悪徳は、忘恩です。即ち、或る種の人は、その富によっておごり高ぶり、自分の所有するところのものが天主からのものであることを認めませんが、これは、極めて邪悪なことだからです。私たちが所有するものは、霊的なものにせよ現世的なものにせよ。すべて天主からのものです。「すべてはあなたのものであって、私たちはあなたのみ手からそれを受けた」(歴代上29:14)。それゆえ、主は、この悪徳を除くために、「我らの糧を」「我らに与え給え」と述べました。それは私たちのすべてのものが天主から賜わるものであることを私たちが認識するためです。


60. ところで、このことについて私たちにはひとつの教訓があります。即ち、時として、人が多くの富を有しながら、その富から何らの有益さも得ることなく、ただ霊的な害悪と現世的な害悪だけしか得ることがないということです。「私はこの世でもうひとつの悪を見た。それは人間のうえにしばしば起ることがらである。天主が富と財産と名誉を与えられ、その望むものが何ひとつ欠けたもののない者がいる。しかし天主は、この者にそのものから食べることを得させられずに、他の者がそれを食い尽くすことがある」(伝道6:1-2)。「たくわえた富がその所有者に害を及ぼすことである」(同書5:12)。それゆえ、私たちは、私たちの富が私たち自身に有益であることを請願しなければなりません。そしてそのことを請願して、「我らの糧を我らに与え給え」、即ち、富を私たちにとって有益なものとなして下さい、と祈るのです。【さもなければ】「彼の食べたものは、彼の腹の中で変わり、かれの内で毒蛇の毒となる。彼は財貨をのんでも、またそれを吐き出す。天主がそれを彼の腹から押し出されるからである」(ヨブ20:14-15)。


61. なお、現世の事物に関する別の悪徳、過度の気遣いがあります。或る人々は、一年後に関するこの世の事物について今日思いわずらったり、またそれを所有していても、決して心を安んじたりすることがありません。「何を食べ、何を飲み、何を着ようかと言って、思いわずらってはならない」(マテオ6:31)。それゆえ、主は、私たちのパンが私たちに今日与えられることを、即ち、今現在、私たちに必要なものが私たちに与えられるように、請願するように、と教え給うたのです。


62. ところで、以上とは別の2つの種類のパンが見いだされます。即ち、秘跡的パンと天主のみ言葉のパンです。

従って、私たちは、教会において日々作られる私たちの秘跡的パンを請願します。それは、それを秘跡において拝領しているように、それが私たちに救いのために与えられるためです。「私は、天から降った生けるパンである」(ヨハネ6:51)。「主のおん体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである」(1コリント11:29)。

いまひとつのパンは、それは天主のみ言葉です。「人は、ただパンだけで生きるものではなく、天主の口より発するすべての言葉によって生きる」(マテオ4:4)。それゆえ、私たちは、主がパンを、即ち、天主のみ言葉を私たちに与え給わんことを請願するのです。ところで、このことから、正義に飢え渇く至福が人間にもたらされるのです。というのは、人は霊的なものを所有した後に、より一層それを願望するからです。その願望より飢えが生じ、その飢えより永遠の生命の飽満がもたされるのです。


第5の請願
et dimitte nobis debita nostra sicut et nos dimittimus debitoribus nostris.
「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え」


63. 或る人々は大きな知恵と剛毅とをそなえているために、余りにも自分の力に過信して、その行動に賢明さを欠き、またその意図する所を達成するまでには至りません。「計画は、賢慮によって強められる」(格言20:18)。さて、剛毅を与えられる聖霊は、同じく賢慮(=善き助言)をもお与えになるということに注意して下さい。というのは、人々の救いに関わる善き賢慮はすべて、聖霊に由来するものだからです。ところで、人は、苦難の中に在る時に賢慮を必要とするのであって、例えば人が病気におちいった時に、医者の賢慮を必要とするように、です。それゆえ、人は、罪によって霊的に病におちいった時、いやされようとすれば、賢慮を求めねばなりません。

ところで、罪人に賢慮が必要であることは、ダニエル書4:24の言葉に示されています。「王よ、私の思慮を受けいれ、施しによってあなたの罪を贖いなさい。」したがって、罪に対する最良の賢慮は、施しとあわれみです。そのため、聖霊は罪人に「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え」と請願して祈るように教えています。


64. ところで、私たちは、天主の権利に属するものから奪ったものを天主に返さねばなりません。ところで、天主の権利とされている所は、私たちが私たち自身の意志よりも天主の意志を重んじて、その意志を行うということです。したがって、私たちが天主の意志よりも私たち自身の意志を重んずるようなことがあれば、天主からその権利を奪うことになります。そして、それが罪なのです。したがって、罪は私たち自身の負い目です。それゆえ、私たちが天主に対して罪のゆるしを請願するようにと、聖霊の賢慮があるのです。またそれゆえ、私たちは「我らの罪を赦し給え」と述べるのです。


65. ところで、この請願の言葉において次の3つのことを考察することができます。即ち、第1に何故この請願が行われるのであるか。第2に、何時この請願が成就さかるか。第3に、その成就のために私たちの側から何が必要とされているか、です。

(1) 第1については、次のことを知らねばなりません。即ち、私たちは、この請願から現世の生活に必要とされる次の2つのことがらを推察することができます。

(1-1) そのひとつは、人は常に敬畏と謙遜の中にいなければならないということです。実に、人間はこの世において、人間自身の力によって罪をさけて生活が可能であると主張するほど僭越な人々がいました。しかしながら、このことは誰にも与えられていません。例外は、限りなく聖霊を有し給うキリストと、聖寵に満ち満ちておられて、そのみもとにはいかなる罪も存しない聖なる童貞女マリアだけです。聖アウグスチヌスは、「私は、罪について論じられる場合、その方(即ち、聖マリア)については何ら言及することを欲しない」と言っています。これに対して、他の諸聖人については、小罪にさえもおちいらないということは与えられてはいません。「もし私たちが、私たちには罪がないと言うならば、それは私たち自身をあざむくことになり、私たちの中に真理はない」(1ヨハネ1:8)。

また、そのことは、この請願自体によっても証明されています。というのは、「主の祈り」は、明らかに、あらゆる人々、聖なる人々にもそれを唱えることが妥当しており、その中で「我らの罪を赦し給え」と唱えるからです。それゆえ、すべての者が、自ら罪人または負い目ある者であることを認め、告白しているのです。もし罪人であるならば、敬畏し謙遜でなければなりません。


66. (1-2) いまひとつは、私たちは常に希望において生きなければならないということです。即ち、私たちは罪人であるにしても、絶望してはならないのです。それは、使徒聖パウロが「彼らは絶望して、放蕩に、あらゆる淫乱のわざに自分自身を委ねた」(エフェソ4:19)と言うように、絶望が私たちをしてより大きな、種々の罪におちいらせないためです。したがって常に私たちが希望をいだくことは、極めて有益なことです。何故なら、人は、どのように大きな罪人であっても、完全に痛悔して改心する限り、天主がゆるして下さることを希望しなければならないからです。そして、こうした希望は、私たちが「我らの罪を赦し給え」と請願する時、私たちにおいて強固にされるのです。


67. しかし、ノバチアヌス派は、この希望を取り除いてしまいました。彼らは、人は受洗後一度でも罪を犯すならば、もはや永久に天主のあわれみを得ることがないと主張しました。しかし、次のキリストのみ言葉が真であるならば、この主張は真ではありません。「あなたが私に願ったので、私はあなたの罪をことごとくゆるした」(マテオ18:32)。それゆえ、あなたが請願する日が、いかなる日であっても、罪の痛梅をもって願う限り、天主のあわれみを得ることができるのです。このように、この請願から、敬畏と希望が生じます。何故なら、痛悔し、告白する罪人はすべて、天主のあわれみを得るからです。それゆえ、この請願が必要だったのです。

(2) 第2については、次のことを知らねばなりません。即ち、罪の中には、天主に対して犯した罪過(culpa)と、その罪過に対して与えられる刑罰(poena)という2つがあることです。しかし、罪過は、告白と償いを行う決心をともなう痛悔においてゆるされます。「私は、私自身を責めて私の不義を主に告白しようと言った。そして、あなたは、私の罪の不敬をゆるされた」(詩篇31:5)それゆえ、罪過のゆるしを得るには告白を行う決心をともなった痛悔でたりるゆえ、絶望してはなりません。


69. しかし、恐らく、もし痛悔によって罪がゆるされるのであれば、それでは司祭は何のために必要であるのか、と言う人もいるかもしれません。
この反論に対しては、次のように言わねばなりません。即ち、天主は、痛梅によって罪過をゆるされ、そして永遠の罰はこの世の罰に変えられます。しかし、この世の罰に対しては義務づけられたままにとどまります。したがって、もし罪の告白を行うことなしに、それも軽蔑によってではなく、妨げられて行うことなしにでありますが、この世を去った場合、煉獄に行かねばなりません。そして、この煉獄の刑罰は、聖アウグスチヌスの言われているように、極めて大きいものです。これに対して、罪を告白する場合、司祭は、ゆるしの鍵の権能に基づいてこの刑罰よりあなたを解き放つのです。あなたは、告白においてこの権能に服しております。それゆえ、主は、使徒たちに対して次のように告げられたのです。「聖霊を受けよ。あなたたちがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたたちがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」(マテオ20:22-23)。したがって、ひとたび人が告白する時、このような罰の何かがゆるされ、再度告白する時、同じようにゆるされ、そして告白する回数によって、すべての罰がゆるされることもあり得るのです。


70.ところで、使徒の後継者たちは、この罰のゆるしについて他の方法を考案しました。即ち、贖宥の恩恵で、これは愛徳の中に【=成聖の状態に】在る者に、指示され発表された通りそれだけ益するものです。そして、教皇がこれを行い得ることは、充分明らかです。何故なら、多くの諸聖人は数多くの善行を行われ、しかも少なくとも大罪に関しては罪を犯さなかったのであり、諸聖人のこれらの善行は教会の利益のために行われたからです。同じく、キリストと聖なる童貞女マリアの功徳は、いわば教会の宝庫の中に置かれてあります。そこから教皇および教皇が委任した人々は、こうした功徳を必要な場合に分け与えることができるのからです。

したがって、このように、罪は、痛悔によってその罪過に関してゆるされるだけではなく、さらに、告白によって、更に贖宥を通して罰に関してもゆるされるのです。


71. (3) 第3については、私たちの側から、隣人が私たちに対して犯した罪をゆるすということが、要求されていることを知らなければなりません。それゆえ「我らが人に赦す如く」と言われ、さもなければ、天主は私たちをゆるされません。「人は人に対して怒りを含みながら、なおかつ天主にあわれみを請い求める」(集会書28:3)。「ゆるせ。そうすれば、あなたたちもゆるされるであろう」(ルカ6:37)。それゆえ、この請願に限ってのみ条件 がつけ加えられて、「我らが人に赦す如く」と言われているのです。従って、赦さないならば赦されません。


72. しかし、「我らの罪を赦し給え」は唱えても、「我らが人に赦す如く」は唱えずに黙っていようとあなたは言うかもしれまん。
つまり、あなたはキリストをあざむこうと望んでいるのでしょうか?しかし、あなたはあざむけません。何故なら、この祈りを作られたキリストは、この祈りをよく記憶しておられ、それがため、あざむかれえないからです。それゆえ、あなたが口で唱えるならば、心にそれを満たさねばなりません。

*4 テキストを contritio ではなく condicio と読む。


73.しかし、隣人をゆるすことを決心しない者は、はたして「我らが人に赦す如く」と唱えるべきでしょうか。唱えるべきではないと思われます。何故なら、唱えれば嘘になるからです。

これに対して、嘘にならないと言わねばなりません。なぜなら、それは自分個人のペルソナにおいて(自分の立場で)祈っているのではなく、教会のペルソナにおいて(教会として)祈っているからであり、教会はあざむかれないものです。それゆえ、請願そのものが複数の形で示されているのです。


74. しかし、2つの仕方でゆるしが行われることを知らねばなりません。即ち、ひとつは、完全な人々の行うゆるしであって、この場合、害をこうむった者が犯した者を探してゆるしを与えるのです。「平和を求めよ」(詩篇33:15)。いまひとつは、一般的にすべての人の行うものであり、すべての人がそれに義務づけられている仕方であって、それは、請う者にゆるしを与えるということです。「あなたを害した隣人をゆるせ。そうすれば、あなたが祈る時、あなたの罪がゆるされるだろう」(集会書28:2)。


75. ここから「幸いなるかな、あわれみある人」といういまひとつの至福が生じて来ます。あわれみは、私たちをして隣人をあわれむようにさせるのです。


第6の請願
Et ne nos inducas in tentationem,
「我らを試みにひき給わざれ」


76. 或る人々は、罪は犯したものの、そのゆるしを得ることを望み、それがため、告白し、痛悔しますが、しかし、再び罪におちいらないように、然るべきすべての努力を傾けようとはしません。これはふさわしくないことであって、一方では罪を悔やんで泣きながら、他方では罪を犯してその泣くところのものを積み重ねているからです。それがため、イザヤ1:16に次のように言われています。「洗え、身をきよめよ、私の眼前からあなたたちの悪い思いを取り除け。悪事を働くことをやめよ」。それゆえ、既に述べたように、キリストは、先の請願においては罪のゆるしを請願することを教え、この請願においては、私たちが罪をさけることができるように、即ち、私たちそれによって罪におちいる誘惑にひき入れられないように、請願することを教え、「我らを試みにひき給わざれ」と述べられたのです。


77. このことについて、3つのことが問われます。即ち、第1、試みとは何であるか。第2、人はどのように、いかなるものによって試みられるか。第3、私たちは試みにおいてどのように救われるか、です。


78. まず次のことを知らねばなりません。即ち、試みるとは、試す、または検査することにほかならないのであって、それゆえ、人を試みるとは、人の徳を検査することです。

ところで、人の徳は、徳が2つのことを要求することに従って、2つの仕方で試される、または検査されます。即ち、

(1)ひとつは、善く行うことに関するものであって、つまり、善く行うか、どうかということについてです。

(2)いまひとつは、悪に注意することについてです。「悪より離れ、善を行え」(詩篇33:15)。 したがって、人の徳の検査は、或る場合は、善く行うことについて、或る場合は、悪をさけることについて行われます。


79. (1) 第1に関して、人が検査されるのは、善行に対して、例えば、断食であるとかその他これに類したことがらに対して、速かであるかどうかということです。あなたが善行に対して速やかであると見いだされる場合は、あなたの徳は大きいのです。こうした仕方で時として天主は人を試みられる場合があります。しかし、それは、人の徳が天主に隠されているからではなく、すべての人々にその徳を知らしめるためであり、またすべての人々にそれが模範として与えられるためです。天主がアブラハム(創世記22章)やヨブを試みられたのは、こうした仕方によるものです。したがって、天主がしばしば正しい人々を苦難にあわせられることも、それは、正しい人々が忍耐をもってその苦難を耐えることによって、かれらの徳が現わされるためであり、またかれら自身が徳においてさらに進歩するためです。「あなたがたの天主、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くしてあなたがたの天主、主を愛するかどうかが知れわたるように、あなたがたを試みられる」(申命記13:3)。それゆえ、このように、主は善へと誘発することによって試みられます。


80. (2) 第2に関しては、人の徳は、悪への誘惑ということを通じて検査されます。もしそれによく抵抗して承諾を与えないならば、その場合、その人の徳は大きいのです。しかし、もし人が誘惑に屈服してしまうならば、その場合、その人の徳は何もないことになります。しかし、天主は、こうした仕方によってはなにびとをも試みられることはありません。なぜなら、ヤコボ1:13に言われているように、「天主は、悪の誘惑者ではない。自らなにびとをも誘惑されない」のです。

人が誘感されるのは、(2-1)自らの肉、(2-2)悪魔、(2-3)この世によってです。


81. (2-1) 肉によっては、2つの仕方で誘感が行われます。

(2-1-1)第1に、肉は悪へと扇動するからです。何故なら、肉は常に自己の快楽、即ち、肉的快楽を探し求めており、そうした快楽の中にしばしば罪が存しているからです。事実、肉的快楽にふける者は、霊的なことがらを怠るのです。「人はそれぞれ、自分の欲望によって試みられる」(ヤコボ1:14)。

(2-1-2) 第2に、肉は善行よりひき離すということによって誘惑します。即ち、霊は、それ自体では、常に霊的善において喜びますが、しかし、肉は霊に重くのしかかって妨げます。「朽ちはてる肉体は、霊魂に重荷となる」(知恵9:15)。「私は、内なる人としては天主の律法を喜んでいる。しかし、私のからだには別の律法があって、それが私の精神の律法に対して戦いをいどみ、私をからだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだす」(ローマ7:22)。

ところで、この誘惑、即ち、肉の誘惑はきわめて危険なものです。というのは、この私たちの敵、即ち、肉は、私たち自身に統合されており、そして、ボエチウスの言うように、親密な敵以上に危害を加える悪疫は他にないからです。それゆえ、肉に対して警戒しなければなりません。「誘惑におちいらないように、警戒して祈れ」(マテオ26:41)。


82. (2-2) 悪魔は、最も強力に誘惑を行います。即ち、肉が屈服した後、他の敵が、即ち、悪魔が反撃して立ち、大きな戦いが私たちと交わされるのです。使徒聖パウロは、次のように言っておられます。「私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、権勢、力、この暗黒の世界の支配者たちである」(エフェソ6:12)。そこから悪魔は試みるものといわれるのです。「かの誘惑する者が、あなたがたを誘惑することのないように」(1テサロニケ3:5)。

ところで、悪魔は誘惑するに当って、極めて巧妙にそれを行います。即ち、悪魔は、砦を包囲する優れた軍隊の指揮官のように、攻撃を加えようとしている相手の弱点を見抜いて、その最も弱い部分から誘惑するのです。それゆえ、悪魔は、人々が肉を屈服させた後には、人々が最も傾きがちなものについて、例えば、怒りや傲慢や、その他諸々の精神的悪徳について誘惑するのです。「あなたがたの敵である悪魔は、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(1ペトロ5:8)。


83. ところで、悪魔は、誘惑を通じて次の2つのことを行います。即ち、

(2-2-1) 悪魔は、誘惑しようとする者に対して、何らかの悪と見えるものを直ぐに示すのではなく、善の外見を有する何らかのものをまず示し、少なくとも最初にそれを通して主要な決心からかれを多少なりとも引き離すのです。というのは、たとえ少しでもかれを引き離せば、後に罪に引き入れるのに一層容易になるからです。使徒聖パウロは「サタンは光りの天使に姿を変える」(2コリント11:14)と言います。

(2-2-2) 次に、罪に引き入れた後は、罪から再起することを許さないようにかれを束縛します。「彼の急所の神経は折り曲げられた」(ヨブ40:12)。このように、悪魔は、2つのことを行います。騙し、そしてその騙された者を罪の中に束縛するからです。


84. (2-3) この世は、次の2つの仕方で誘惑します。即ち、

(2-3-1) 現世の事物に対する過度で節度を欠いた願望を通じてです。「あらゆる悪の根は、貪欲である」(1ティモテオ6:10)。

(2-3-2) 迫害者や暴君を通じて、恐れさせることによってです。「私たちも、暗黒の中に閉じこめられる」(ヨブ37:19)。「キリスト・イエズスにあって敬虔に生きようとする者は、みな、迫害を受ける」(2ティモテオ3:12)。「肉体を殺す者を、恐れるな」(マテオ10:28)。


85. したがって、以上によって、試みとは何か、どのように、また何によって試みられるかが明らかにされました。

(3) 次にどのように人はこの試みから救われるか、を見てみます。

ところで、これについて、次のことを知らねばなりません。即ち、キリストが私たちに祈り求めるように教えられているのは、私たちが試みられないことではなく、試みにひき入れられないということです。というのは、人は、試みにうち勝つならば、勝利の冠をかち得るからです。「私の兄弟たちよ。あなたがたがいろいろな試みに遭った場合、むしろそれを非常に喜ばしいことと思いなさい」(ヤコボ1:2)。「子よ、天主の奉仕につくに当って、・・・あなたの魂を試みにそなえよ」(集会書2:1)。同じく「こころみを耐え忍ぶ人は、幸いである。それに打ちかてば、命の冠をうけるからである。」(ヤコボ1:12)。それゆえ、主が請願するように教えられているのは、私たちが、承諾を通じて試みにひき入れられることのないようにということです。「あなたたちは、人の力をこえる試みにはあわなかった」(1コリント10:13)。というのは、試みられるということは人間の常としてあるにしても、承諾することは悪魔的なことであるからです。


86. ところで、「私たちを試みにひきたまわざれ」と言いいますが、天主は悪へと導かれるのでしょうか?

私は次のように言います。即ち、天主は許可することによって悪へと導かれるということです。即ち、天主は多くの罪ゆえに人から聖寵を取り去られ、聖寵が取り去られたならば、人は罪へと転落するという意味において、です。それゆえ、私たちは詩篇70:9において、「私の力の失せる時、主よ、私を見捨て給うな」と歌います。

しかしまた、主は、次のものを通じて人が試みにひき入れられないように導きます。即ち、
愛徳の熱情を通じて。というのは、愛徳は、たとえどのように小さな愛徳であっても、すべての罪に抵抗できるからです。「大水も、愛を消すことができない」(雅歌8:7)。

知性の光を通じて。天主は、この知性の光を通じて、行うべきことがらについて私たちを教えておられます。アリストテレスが言うように、罪人はすべて無知な者であるからです。「私は、あなたに悟りを与え、教えよう」(詩篇31:8)。ダヴィドはそれを請願して、次のように言っています。「私の目を照らして下さい。私が死の眠りにおちいり、私の敵が『自分はかれに勝った』と言わないように」(詩篇12:4-5)。


87. ところで、この光は、私たちが聡明の賜物を通じて得るところのものです。そして、私たちが誘惑に承諾しない時、「幸いなるかな、心の清い人。それは天主を見るだうから」(マテオ5:8)と言われている心の清さを守り、それによって天主の直観に到達するのです。願わくは、それに私たちを導き給わんことを!


第7の請願
sed libera nos a malo. Amen.
「我らを悪より救い給え。アーメン」

88. 上で主は私たちに、罪のゆるしを請願すること、また私たちがどのように試みをさけることができるかを教えられました。さてここでは悪に対する保護を請願することを教えられています。そしてこの請願は、聖アウグスチヌスの言うように、あらゆる悪、即ち、罪、病気、苦しみに対する一般的な請願です。しかし、罪と試みについてはすでに述べられたので、ここでは他の諸々の悪について、即ち、この世の全ての逆境や苦難について語らねばなりません。天主は、これらの諸々の悪から4つの仕方で救って下さるのです。即ち、


89. (1) 第1に、苦しみが起こらないようにすることによってです。しかし、これはまれにしか起こりません。というのは、聖なる人々はこの世においては苦しめられるのであって、2ティモテオ3:12に言われているように「キリスト・イエズスにあって敬虔に生きようとする者は、迫害を受ける」からです。しかし、天主は、時に或る人々に対して、悪によって苦しめられることのないようにされる場合があります。即ち、天主がその人が無力であり、悪に抵抗できないことを知っておられる場合です。それは、ちょうど医者が弱い病人に強い薬を与えない場合と同じです。「見よ、私は、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったからである」(黙示録3:8)。ところで、このことは天上の祖国においては一般的となります。何故なら、そこではなにびとも苦しむことがないからです。「天主は、6つの苦しみから」即ち、6つの時代に区別される現世の生活の苦しみから、「あなたを救い出され、第7の苦しみにおいて悪はあなたに触れることがない」(ヨブ5:19)。「もはや、飢えることも渇くこともない」(黙示録7:16)。


90. (2) 第2に、苦しみにおいて慰めをお与えになって、救って下さいます。というのは、天主が慰めて下さらない限り、人は耐え忍ぶことができないからです。「私たちは極度に、私たちの力の及ばないほど圧迫された」(2コリント1:8)。同書には更に「しかし、へりくだる人々を慰める天主は、私たちを慰めて下さった」(2コリント7:6)。「私の心における苦しみの多きに応じて、あなたの慰めは、私の魂を喜ばす」(詩篇93:19)。


91. (3) 第3に、苦しむ人々に数多くの善をお与えになり、諸々の悪を忘れさせることによって、救って下さいます。「嵐の後になぎをもたらされる」(トビア3:22)。それゆえ、この世の苦しみや艱難は、恐れるべきものではありません。何故ならそれらは、それに伴う慰めによって、また期間の短さによって容易に耐え忍べるからです。使徒聖パウロも言います。「実に、私たちが受ける短く軽い患難は、はかりがたいほど大きな永遠の光栄を準備する」(2コリント4:17)。何故なら、それらの苦しみによって、私たちは永遠の生命に到達するからです。


92. (4) 第4に、試みと苦しみが善と変えられるからです。それゆえ、「我らを苦しみより救い給え」ではなく「悪より救い給え」と言うのです。というのは、苦しみは、聖なる人々にとって光栄の冠へと導くものであるからであって、またそれがため、苦しみについて聖なる人々は誇るからです。「さらに、私たちは、苦難に在ることを誇りとする。それは、苦難が忍耐を生むことを知っているからである」(ローマ5:3)。「あなたは、苦しむ時に罪をおゆるしになる」(トビア3:13)。それゆえ、天主は、苦しみを善に変えられることによって、人々を悪や苦しみからお救いになられるのです。そして、このことは最大の知恵の印です。悪を善へと秩序づけることは、知恵ある者の特質だからです。また、そのことは苦難の中で保たれる忍耐を通じて行われます。他の諸徳が善を用いるのに対して、忍耐は悪を利用するのです。それゆえ、忍耐は悪においてのみ、即ち、逆境においてのみ必要とされるものです。「人の知恵(doctrina)は、忍耐を通じて知られる」(格言19の11)。


93. したがって、聖霊は、上智の賜物を通じて私たちに請願するようにさせています。この賜物に通じて、私たちは平和がそれへと秩序付けている至福に到達します。何故なら、私たちは、逆境時にも順境時にも忍耐を通じて平和をかち得るからです。またそれがため、平和をもたらす人々は天主の子ら、即ち天主に似た者と呼ばれるのです。即ち、それは、何ものも天主を害することができないように、同じく、何ものも、順境も逆境も、この人々を害することができないからです。従って「平和のためにはたらく人は幸いである、何故なら彼らは天主の子と呼ばれるだろうから。」(マテオ5:9)。


94. 「アーメン」は、すべての請願の全体的確認です。


主の祈りの要約的解説

95. 主の祈りの概説には、次のことを知らねばなりません。即ち、主の祈りには、願望される全てと避けられる全てが含まれていることです。

ところで、願望されねばならない諸々のものの中で最大に願望されるものといえば、それは最大に愛されるものであり、それは、即ち、天主ご自身です。それがため、あなたは先ず第1に、天主の栄光を「願わくは聖名の尊まれんことを」と唱えて、請願します。

さて、あなた自身に関するもので天主に対して願望されねばならないものが、3つあります。即ち、 第1は、あなたが、永遠の生命に到達することで、あなたはそれを「御国の来たらんことを」と唱えて、請願します。

第2は、あなたが天主の意志と義とを行うことです。あなたはそれを「御旨の天に行わるる如く、地にも行われんことを」と唱えて、請願します。

第3、あなたが、生活に必要なものを得ることで、あなたはそれを「我らの日用の糧を今日我らに与え給え」と唱えて、請願します。

ところで、主ご自身これら3つについて、マテオ6:33でこう言います。即ち、第1については「先ず、天主の国を求めよ」、第2については「そしてその義を」、第3については、「これらすべてのものはあなたたちに加えられるであろう」と。


96. ところで、避けられねばならないもの、逃れねばならないものとは、善に対立するものです。ところで、先ず願望されるの善は、上に述べられたように、4つあります。即ち、

第1の善は、天主の光栄です。そして、これには如何なる悪も対立しません。「たとえあなたが罪を犯しても、天主に対して何を害し得ようか。たとえあなたが正しく行っても、天主に対して何を与え得ようか」(ヨブ35:6)。何故なら、天主が罰するものとしての悪からも、また、天主が報うものとしての善からも、天主の光栄が生ずるからです。

第2の善は、永遠の命です。そして、これに対立するものは罪です。というのは、罪によって永遠の命が失われるからです。それゆえ罪が取り除かれるために、私たちは「我らが人に赦す如く、我らの罪を赦し給え」と請願します。

第3の善は、義と善行です。そして、これに対立するものが試みです。というのは、試みは私たちが善行するのを妨げるからです。そこで試み取り除かれるために、私たちは、「我らを試みにひき給わざれ」と請願します。

第4の善は、必要な諸物財です。そして、これに対立するものは、逆境や苦難です。それゆえ、それが取り除かれるために、私たちは「我らを悪より救い給え」と請願するのです。「アーメン。」