第238号 2004/07/31 証聖者 ロヨラの聖イグナチオの祝日
アヴェ・マリア! 兄弟姉妹の皆様、お元気ですか。 私たちは、「アヴェ・マリア!」を唱えるのが大変好きですが、今回は聖トマス・アクィナスによる天使祝詞の解説をお届けします。
THE HAIL MARY
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THE ANGELIC SALUTATION | 天使祝詞 |
This salutation has three parts.] |
1. この祝詞には三つの部分が含まれています。
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The Angel gave one part, namely: "Hail, full of grace, the Lord is with thee, blessed art thou among women."[1] | その第一の部分を天使がしました、すなわち「めでたし、聖寵、満ち満ちてる方。主は御身と共にまします。御身は女のなかで祝せられ給う」です。 |
The other part was given by Elizabeth, the mother of John the Baptist, namely: "Blessed is the fruit of thy womb."[2] | 第二の部分を洗者聖ヨハネの母であるエリザベトがしました、すなわち「御胎内の実(子)も祝せられ給う」です。 |
The Church adds the third part, that is, "Mary," because the Angel did not say, "Hail, Mary," but "Hail, full of grace." But, as we shall see, this name, "Mary," according to its meaning agrees with the words of the Angels.[3] |
第三は教会が付け加えた部分であって、「マリア」がそうです。何故なら天使は「めでたし、聖寵に満ち満ちてる方」と言ったのであって、「めでたし、聖寵満ち満てるマリア」を言ったのではないからです。しかし、のちに見るように、「マリア」という名はその意味からすれば天使の言葉に合っています。
カトリック教会によって「御胎内の御子も祝せられ給う」に「イエズス」の聖名が加えられるようになったのは、14世紀になってからのようです。(教皇ウルバノ8世(1261年―1264年在位)によると言う説もあります。)聖トマス・アクィナスがこの解説を書いたのは1273年のことで、イエズスの名前について解説はされていませんが、神学大全の第3部第37問第2項にはイエズスの名前についての解説があります。また「天主の御母、聖マリア、罪人なるわれらのために今も臨終のときも祈り給え。アーメン」という祈願文が加えられたのは15世紀に至ってのことです。シエナの聖ベルナルディーノは後半部を知っていました。現在私たちが使っている形は1568年聖ピオ5世の定めた聖務日課において公式に決定されました。聖トマス・アクィナスの時代には、天使祝詞(アヴェ・マリア)には、現代のものの最初の部分しかありませんでした。
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"HAIL MARY" | 「めでたし」 |
We must now consider concerning the first part of this prayer that in ancient times it was no small event when Angels appeared to men; and that man should show them reverence was especially praiseworthy. | 2. この第一の部分についてこのことを考察しなければなりません。それは、古代においては、天使らが人間に出現するということは決して小さなことではなく、また人間が天使らに敬意を示すということは最高の称賛に価することでした。 |
Thus, it is written to the praise of Abraham that he received the Angels with all courtesy and showed them reverence. | それゆえ、アブラハムを称賛するために、アブラハムが天使を接待し敬意を示したことが記されています。 |
But that an Angel should show reverence to a man was never heard of until the Angel reverently greeted the Blessed Virgin saying: "Hail."
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しかし、天使が人間に敬意を示すということは、聖なる童貞女に天使が敬意をこめて「めでたし」と挨拶するまでは、前代未聞のことでした。
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THE ANGEL'S DIGNITY | 天使の尊厳 |
In olden time an Angel would not show reverence to a man, but a man would deeply revere an Angel. This is because Angels are greater than men, and indeed in three ways. | 3. ところで、古代においては天使が人間に敬意を示すのではなく、人間が天使を敬っていました。その理由は、三つの点で天使が人間より偉大であったからです。 |
First, they are greater than men in dignity. This is because the Angel is of a spiritual nature: "Who makest Thy angels spirits."[4] But, on the other hand, man is of a corruptible nature, for Abraham said: "I will speak to my Lord, whereas I am dust and ashes."[5] It was not fitting, therefore, that a spiritual and incorruptible creature should show reverence to one that is corruptible as is a man. | (1) まず第一に、尊厳性に関して。というのは、天使は霊的本性のものだからです。「あなたは霊をご自分の使いとされる」(詩一〇三の四)。これに対して、人間が属する本性は朽ち果てねばならない本性です。そのため、アブラハムは「わたしはちりと灰に過ぎないものの、あえて主に申し上げます」(創一八の二七)と言っています。それゆえ、朽ちることのない霊的被造物が、朽ち果てねばならない被造物、すなわち人間に敬意を示すのはふさわしくなかったのです。 |
Secondly, an Angel is closer to God. The Angel, indeed, is of the family of God, and as it were stands ever by Him: "Thousands of thousands ministered to Him, and ten thousand times a hundred thousand stood before Him."[6] Man, on the other hand, is rather a stranger and afar off from God because of sin: "I have gone afar off."[7] Therefore, it is fitting that man should reverence an Angel who is an intimate and one of the household of the King. | (2) 第二は、天主との親密さに関してです。何故なら天使は天主の近くに仕える者として天主と親密だからです。「幾千のものがこの方に仕え、幾万のものがそのみ前に立っていた」(ダニエル七の一〇)。これに対して、人間はよそ者、罪によっていわば天主から遠くに離れている者としてあります。「わたしは逃げて遠く離れてしまった」(詩五四の八)。それゆえ、主に近く親しい者としてある天使に人間が敬意を示すのはふさわしいことです。 |
Then, thirdly, the Angels far exceed men in the fullness of the splendor of divine grace. For Angels participate in the highest degree in the divine light: "Is there any numbering of His soldiers? And upon whom shall not His light arise?"[8] Hence, the Angels always appear among men clothed in light, hut men on the contrary, although they partake somewhat of the light of grace, nevertheless do so in a much slighter degree and with a certain obscurity. | (3) 第三に、天使は天主の聖寵の輝きの充満のゆえに人間よりも優れています。すなわち、天使は天主の光りを最高の充満さをもって分有しているからです。「その軍勢の数ほどのものが他にあろうか。その光りに照らされないものがだれかいようか」(ヨブ二五の三)。天使が常に光りをともなって出現するのはそのためです。これに対して、人間は聖寵の光りそのものに何らか与っているとしても、それは極めてわずかであり一種の暗黒のなかにおいてです。 |
It was, therefore, not fitting that an Angel should show reverence to a man until it should come to pass that one would be found in human nature who exceeded the Angels in these three points in which we have seen that they excel over men--and this was the Blessed Virgin. To show that she excelled the Angels in these, the Angel desired to show her reverence, and so he said: "Ave (Hail)."
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4. したがって、以上の三つの点に関して人間本性において天使よりも優れた者が見いだされるに至るまでは天使の方から人間に敬意を示すのはふさわしくなかったのです。そして聖なる童貞女はそのようなお方でした。それがため、天使は聖なる童貞女がかの三つの点において自分よりも優れた方であることを表わすために「めでたし」と述べ、かの女に敬意を示すことを望んだのであります。
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"FULL OF GRACE" | 「聖寵、満ち満てる」 |
The Blessed Virgin was superior to any of the Angels in the fullness of grace, and as an indication of this the Angel showed reverence to her by saying: "Full of grace." This is as if he said: "I show thee reverence because thou dost excel me in the fullness of grace." |
5. それゆえ、聖なる童貞女は次の三つの点において天使に優っていました。 (1) まず、聖寵の充満においてであります。聖寵はいかなる天使におけるよりも聖なる童貞女のうちに一層満ち満ちていました。それゆえ、天使はそのことを表わすために敬意をこめてかの女に「聖寵に満ち満ちた方」と述べたのです。すなわち、それはあたかも次のように述べていたかのようです。「あなたは恩龍の充満においてわたしよりも優れた方です。そのため、わたしはあなたに敬意を示します」と。 |
The Blessed Virgin is said to be full of grace in three ways. First, as regards her soul she was full of grace. The grace of God is given for two chief purposes, namely, to do good and to avoid evil. The Blessed Virgin, then, received grace in the most perfect degree, because she had avoided every sin more than any other Saint after Christ. Thus it is said: "Thou art fair, My beloved, and there is not a spot in thee."[9] |
6. ところで、聖なる童貞女が聖寵に満ち満ちた方と言われるのは次の三つの点に関してであります。すなわち、 (1-1) まず第一に、聖なる童貞女がそのうちに聖寵のすべての充満を有しておられたその霊魂です。何故なら、2つの天主の聖寵が与えられるからです。つまり、善を行なうためと悪をさけるためです。ところで、聖なる童貞女はこの二つに対して最も完全な聖寵を有しておられたのです。というのは、かの女はキリストに次いで他のいかなる聖人にもまさってあらゆる罪を避けられたからです。ところで、罪には、一つに原罪があります。しかし、聖なる童貞女はご受胎の最初の瞬間から原罪から免れていました。或いは大罪か小罪かのいずれかがあります。しかし、童貞聖マリアはこれらの罪からも解放されていました。それゆえ、雅歌四の七に「わたしの愛する者よ、あなたのすべては美しく、あなたにはいかなる汚れもない」と述べられています。 |
St. Augustine says: "If we could bring together all the Saints and ask them if they were entirely without sin, all of them, with the exception of the Blessed Virgin, would say with one voice: 'If we say that we have no sin, we deceive ourselves and the truth is not in us.'[10] I except, however, this holy Virgin of whom, because of the honor of God, I wish to omit all mention of sin."[11] For we know that to her was granted grace to overcome every kind of sin by Him whom she merited to conceive and bring forth, and He certainly was wholly without sin.
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聖アウグスチヌスはその著「自然本性と聖寵について」において次のように語っています。「聖なる童貞女マリアを除き、他のすべての聖人や聖女はこの世に生きていたとき罪を犯すことがなかったか否かと尋ねられた場合、みな声をそろえて、わたしたちに罪がないと言うならば自分自身をあざむくことになり、真理はわたしたちのなかにないと叫ぶであろう。ところで、さきに「聖なる童貞女を除き」と言ったが、罪について論じられる場合、わたしは主への尊敬によって聖なる童貞女に関してはいかなる問題をも提起しようとは思わない。それは、次のことを知っているからである。すなわち、かの聖なる童貞女には罪に全面的に打ち勝つために要するよりもはるかに大きな聖寵が与えられているのであって、かの女は、全く罪のないお方を懐胎され、そして出産されたのである」。
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VIRTUES OF THE BLESSED VIRGIN | 聖なる童貞女の徳 |
Christ excelled the Blessed Virgin in this, that He was conceived and born without original sin, while the Blessed Virgin was conceived in original sin, but was not born in it.[12] | しかし、キリストは次の点で聖なる童貞女に優っておられます。キリストも童貞聖マリアも原罪なしに懐胎せられ、そして誕生されたが、聖なる童貞女は原罪なしに誕生されましたが、しかし、童貞聖マリアはキリストとは異なり、原罪のうちに懐胎する法の下にあるものでした。童貞聖マリアが原罪から全く免れ懐胎したのは、全人類の救い主である御子イエズス・キリストの功徳を先取りした聖三位一体の特別な聖寵と特権によるものでした。 |
She exercised the works of all the virtues, whereas the Saints are conspicuous for the exercise of certain special virtues. Thus, one excelled in humility, another in chastity, another in mercy, to the extent that they are the special exemplars of these virtues-as, for example, St. Nicholas is an exemplar of the virtue of mercy. The Blessed Virgin is the exemplar of all the virtues. | 7. さらに聖なる童貞女はあらゆる徳のわざを実行されていました。これに対して、他の聖人の場合は、その実行したのは何らかの特定の徳のわざであります。すなわち、或る聖人は謙遜であり、他の聖人はあわれみに富み、したがって、聖人たちはみな或る特定の徳の模範となっています。例えば、あわれみの徳の模範としては聖ニコラウスがそれに当っています。ところが、聖なる童貞女はすべての徳の模範としてあります。 |
In her is the fullness of the virtue of humility: "Behold the handmaid of the Lord."[13] And again: "He hath regarded the humility of his handmaid."[14] So she is also exemplar of the virtue of chastity: "Because I know not man."[15] And thus it is with all the virtues, as is evident. Mary was full of grace not only in the performance of all good, but also in the avoidance of all evil. | すなわち、そのなかに謙遜の模範が見られます。「わたしは主のはしためです」(ルカ一の三八)。「主はこのいやしいはしために目童貞女て下さいました」(同四八)。同じく、貞潔の模範が見られます。「わたしはまだ男を知りません」(同三四)。このように、極めて明らかなように、あらゆる徳の模範を見いだすことができます。以上のように、それゆえ、聖なる童貞女は善を行なうことに関しても罪をさけることに関しても聖寵に満ち満ちた方であられたのです。 |
Again, the Blessed Virgin was full of grace in the overflowing effect of this grace upon her flesh or body. For while it is a great thing in the Saints that the abundance of grace sanctified their souls, yet, moreover, the soul of the holy Virgin was so filled with grace that from her soul grace poured into her flesh from which was conceived the Son of God. Hugh of St. Victor says of this: "Because the love of the Holy Spirit so inflamed her soul, He worked a wonder in her flesh, in that from it was born God made Man." "And therefore also the Holy which shall be born of thee shall be called the Son of God."[16]
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8. (1-2) 第2に、肉または身体に及ぶ霊魂の溢れに関して聖寵に満ち満ちておられました。というのは、霊魂が聖化される聖寵を有するということは聖人たちにあっては、はなはだ偉大なことであります。しかし、聖なる童貞女の霊魂における聖寵は、霊魂から肉にまであふれ出てその内から天主の子が懐胎されるまでに満ち満ちていました。それゆえ、フーゴ・デ・サント・ヴィクトーレは次のように言っています。「聖マリアの心には聖密の愛が特別な仕方で燃え立っていたゆえに、その内において極めて驚くべきことが行われ、天主であり人であるところの御者がそこから誕生されたのである」。「それゆえ、あなたから生まれる者は聖なる者、天主の子と呼ばれます」(ルカ一の三五)。
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MARY, HELP OF CHRISTIANS | |
The plenitude of grace in Mary was such that its effects overflow upon all men. It is a great thing in a Saint when he has grace to bring about the salvation of many, but it is exceedingly wonderful when grace is of such abundance as to be sufficient for the salvation of all men in the world, and this is true of Christ and of the Blessed Virgin. Thus, "a thousand bucklers," that is, remedies against dangers, "hang therefrom."[17] Likewise, in every work of virtue one can have her as one's helper. Of her it was spoken: "In me is all grace of the way and of the truth, in me is all hope of life and of virtue."[18]
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9. (1-3) あらゆる人に及ぶ充満に関しても聖寵に満ち満ちておられました。というのは、多くの人々と救いに充分なほどの聖寵を有することはいかなる聖人においてもはなはだ偉大なことであります。しかし、もしこの世のあらゆる人々の救いに充分であるほどの聖寵を有することがあれば、それは全く偉大極まることであります。ところが、それはキリスト及び聖なる童貞女のうちに見られるのです。すなわち、あらゆる危険に光栄ある童貞女から救いを得ることができるのです。それゆえ、雅歌四の四に「それに幾千の盾(すなわち、危険からの救い)が掛けられている」と述べられています。同じく、あらゆる徳のわざにおいて聖なる童貞女を援助者として有することができます。それゆえ、聖なる童貞女に関連して、「わたしのなかに生命と徳のすべての希望があります」(集二四の二五)と述べられています。
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マリア | |
Therefore, Mary is full of grace, exceeding the Angels in this fullness and very fittingly is she called "Mary" which means "in herself enlightened": "The Lord will fill thy soul with brightness."[19] And she will illumine others throughout the world for which reason she is compared to the sun and to the moon.[20]
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10. 以上のように、それゆえ、聖なる童貞女はすべての聖寵に満ち満ちておられたのであり、またそれとともに、その聖寵の充満において天使よりも優れておられたのです。またそれゆえ、かの女がマリアと呼ばれるのは適切です。何故なら、マリアは一つには「自己において照らされたもの」を意味しています。それゆえ、イザヤ五八の一一に「主はあなたの魂を輝きで満たされる」と述べられています。また、「他を照らすもの」をも意味しています。したがって、聖なる童貞女は太陽や月になぞらえられています。
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"THE LORD IS WITH THEE" | 「主、御身と共にまします」 |
The Blessed Virgin excels the Angels in her closeness to God. The Angel Gabriel indicated this when he said: "The Lord is with thee"--as if to say: "I reverence thee because thou art nearer to God than I, because the Lord is with thee." | 11. (2) 聖なる童貞女は天主との親密さにおいて天使よりも優れておられます。それゆえ、天使はそのことを表わすために「主は御身とともにおられます」と言ったのであります。それはあたかも次のようであるかのようです。「わたしは御身に敬意を示します、何故なら、御身はわたしよりも天主に一層親密であられるからです、主は御身とともにおられるからです。」。 |
By the Lord; he means the Father with the Son and the Holy Spirit, who in like manner are not with any Angel or any other spirit: "The Holy which shall be born of thee shall be called the Son of God."[21] | 主が、御子とともに御父がまします、と天使は言うのです。このこといかなる天使、いかなる被造物にもなかったことです。「それゆえ、あなたから生まれる者は聖なる者、天主の子と呼ばれます」(ルカ一の三五)。 |
God the Son was in her womb: "Rejoice and praise, O thou habitation of Sion; for great is He that is in the midst of thee, the Holy One of Israel."[22] | 胎内に御子である主がおられます。「シオンに住む者よ、喜びおどりてほめたたえよ。なぜなら、あなたのなかにおられるイスラエルの聖なる方は大いなる方であるからです」(イザヤ一二の六)。 |
The Lord is not with the Angel in the same manner as with the Blessed Virgin; for with her He is as a Son, and with the Angel He is the Lord. | したがって、主が聖なる童貞女とともにおられるのは天使とともにおられるのとは違った仕方によってであります。すなわち、主は聖なる童貞女とともには子としておられ、天使とともには主としておられます。 |
The Lord, the Holy Ghost, is in her as in a temple, so that it is said: "The temple of the Lord, the sanctuary of the Holy Spirit,"[23] because she conceived by the Holy Ghost. "The Holy Ghost shall come upon thee."[24] The Blessed Virgin is closer to God than is an Angel, because with her are the Lord the Father, the Lord the Son, and the Lord the Holy Ghost--in a word, the Holy Trinity. Indeed of her we sing: "Noble resting place of the Triune God."[25] "The Lord is with thee" are the most praiseladen words that the Angel could have uttered; |
聖霊である主があたかも神殿におられるようにおられます。それゆえ、聖なる童貞女は「主の神殿、聖霊の至聖所」と呼ばれています。それは、その懐胎が聖霊によって行われたからです。「あなたの上に聖霊がのぞまれます」(ルカ一の三五)。 以上のように、それゆえ、聖なる童貞女は天使よりも主に一層親密であられます。なぜなら、御父である主、御子である主、聖霊である主、すなわち、三位一体全体がかの女とともにおられるからです。それゆえ、かの女について「全三位一体の高貴なる玉座 Totius Trinitatis nobile triclinuium 」と歌われています。実に「主は御身とともにおられます」は聖なる童貞女に対して言われることのできる言葉のなかで最もすぐれた高貴な言葉です。 |
and, hence, he so profoundly reverenced the Blessed Virgin because she is the Mother of the Lord and Our Lady. Accordingly she is very well named "Mary," which in the Syrian tongue means "Lady."
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12. 聖なる童貞女は主の母であられ、またしたがって、女主人でもあられます。それゆえ、天使が聖なる童貞女に敬意を示すのは当然なことであります。またそれゆえ、マリアという名称がかの女にふさわしいのであります。というのは、マリアはシリア語で「女主人」を意味しているからです。
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"BLESSED ART THOU AMONG WOMEN" | |
The Blessed Virgin exceeds the Angels in purity. She is not only pure, but she obtains purity for others. She is purity itself, wholly lacking in every guilt of sin, for she never incurred either mortal or venial sin. So, too, she was free from the penalties of sin. Sinful man, on the contrary, incurs a threefold curse on account of sin. | 13. (3) 聖なる童貞女は清さに関して天使よりも優れておられます。というのは、聖なる童貞女は単に自分自身において清くあられただけでなく、さらに他の人々に対しても清さを配慮されたからです。すなわち、聖なる童貞女は罪に関しては最も清い方であられたのであって、大罪にも小罪にもおちいられることはありませんでした。同じく刑罰に関しても最も清い方であられたのであります。 |
The first fell upon woman who conceives in corruption, bears her child with difficulty, and brings it forth in pain. The Blessed Virgin was wholly free from this, since she conceived without corruption, bore her Child in comfort, and brought Him forth in joy: "It shall bud forth and blossom, and shall rejoice with joy and praise."[26] | 14. というのは、人間には罪のために、三つののろいが与えられました。第一は女に与えられたのろいです。すなわち、腐敗をともなって懐胎し、不快のうちに胎児を宿し、苦しみのうちに出産しなければならないということです。しかし、聖なる童貞女はこののろいからまぬがれておられたのであります。なぜなら、かの女は腐敗をともなわずに懐胎し、慰めのうちに胎児を宿し、喜びのうちに救い主を出産されたからであります。「芽ぐみに芽ぐんで、声をあげて声をあげて喜び歌うだろう」(イザヤ三五の二)。 |
The second penalty was inflicted upon man in that he shall earn his bread by the sweat of his brow. The Blessed Virgin was also immune from this because, as the Apostle says, virgins are free from the cares of this world and are occupied wholly with the things of the Lord.[27] | 15. 第二は男に与えられたのろいです。すなわち、額に汗を流してパンを食べねばならないということです。しかし、聖なる童貞女はこののろいからもまぬがれておられるのであります。なぜなら、使徒聖パウロが述べているように、童貞女はこの世のわずらいから解き放たれてただ天主のことのみに心を用いるものだからです(一コリント七章)。 |
The third curse is common both to man and woman in that both shall one day return to dust. The Blessed Virgin was spared this penalty, for her body was raised up into heaven, and so we believe that after her death she was revived and transported into heaven: "Arise, O Lord, into Thy resting place, Thou and the ark which Thou hast sanctified."[28] | 16. 第三は男女に共通して与えられたのろいです。すなわち、ちりに帰らねばならないということです。しかし、聖なる童貞女はこののろいからもまぬがれておられたのであります。なぜなら、辛いなる童貞女はその肉体とともに天国へと上げられたからです。すなわち、わたしたちは聖マリアは死後よみがえらせられ天国へと運びあげられたもうたと信じています。「主よ、立ち上って下さい。御身の安息の場所におはいり下さい。御身と御身の聖なる箱も」(詩篇一三一の八) |
Because the Blessed Virgin was immune from these punishments, she is "blessed among women." Moreover, she alone escaped the curse of sin, brought forth the Source of blessing, and opened the gate of heaven. It is surely fitting that her name is "Mary," which is akin to the Star of the Sea ("Maria--maris stella"), for just as sailors are directed to port by the star of the sea, so also Christians are by Mary guided to glory.
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17. 以上のように、それゆえ、聖なる童貞女はすべてののろいからまぬがれておられたのであります。したがって、「御身は女のなかで祝福された方」であります。すなわち、ただ聖なる童貞女だけがのろいを取り除き、祝福をもたらし、天国の門を開かれたのであります。またそれゆえ、マリアという名称はかの女にふさわしくあります。というのは、マリアは「海の星」を意味しているからであります。すなわち、キリスト信者は、あたかも航海者が海の星によって港へと導かれるように、マリアによって栄光へと導かれるのであります。
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"BLESSED IS THE FRUIT OF THY WOMB" | 「御胎内の御子も祝せられ給う」 |
The sinner often seeks for something which he does not find; but to the just man it is given to find what he seeks: "The substance of the sinner is kept for the just."[29] Thus, Eve sought the fruit of the tree (of good and evil), but she did not find in it that which she sought. Everything Eve desired, however, was given to the Blessed Virgin.[30] | 18. ときとして、罪人が或るもののなかに獲得することのできないものを求め、義人はしかしそれを獲得するということが見られます。「罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる」(格言一三の三二)。ところで、エワはその実のなかに求めたにもかかわらず、願望していたものを見いだせませんでした。これに対して、聖なる童貞女はその実(子)のなかにエワが願望していたものをすべて見いだされたのであります。 |
Eve sought that which the devil falsely promised her, namely, | 19. というのは、エワはその実のなかに三つのものを願望していました。すなわち、 |
that she and Adam would be as gods, knowing good and evil. "You shall be," says this liar, "as gods."[31] But he lied, because "he is a liar and the father of lies."[32] Eve was not made like God after having eaten of the fruit, but rather she was unlike God in that by her sin she withdrew from God and was driven out of paradise. | (1) 一つは悪魔がエワに偽って約束したところのものです。すなわち、善と悪とを知って天主のようになるということです。「あなたたちは神々のようになろう」(創世記三の五)。ところで、悪魔が偽ったのはかれ自身偽る者であるとともに、偽りの父であるからです。すなわち、エワは実を食することによって天主に似た者とならないばかりか、かえって似つかない者となってしまったのであります。すなわち、罪を犯すことによって自分の救いである天主から離れ去り、そのため、楽園から追放されるに至ったのです。 |
The Blessed Virgin, however, and all Christians found in the Fruit of her womb Him whereby we are all united to God and are made like to Him: "When He shall appear, we shall be like to Him, because we shall see Him as He is."[33] | これに対して、聖なる童貞女とすべてのキリスト信者は、かの女の胎内の実(子)のなかにさきのものを見いだします。すなわち、わたしたちはキリストを通して天主に一致し、天主に似た者となるのであります。「しかし、それが現われるとき、わたしたちは天主に似た者となることがわかっています。なぜなら、そのとき、わたしたちはかれをありのままに見るからです」(一ヨハネ三の二)。 |
Eve looked for pleasure in the fruit of the tree because it was good to eat. But she did not find this pleasure in it, and, on the contrary, she at once discovered she was naked and was stricken with sorrow. In the Fruit of the Blessed Virgin we find sweetness and salvation: "He that eateth My flesh . . . hath eternal life."[34] | 20. (2) 第二にエワがその実のなかに願望していたものは快楽です。すなわち、その実は食べるのに好ましいものでありました。しかし、エワはそれを見いだせませんでした。というのは、かの女はただちに自分が裸であることを知り、苦しみをいだくに至ったからです。これに対して、わたしたちは聖なる童貞女の胎内の実(子)のなかに甘美と救いを見いだします。「わたしの肉を食する者は永遠の生命を有します」(ヨハネ六の五五)。 |
The fruit which Eve desired was beautiful to look upon, but that Fruit of the Blessed Virgin is far more beautiful, for the Angels desire to look upon Him: "Thou art beautiful above the sons of men."[35] He is the splendor of the glory of the Father. | 21. (3) 第三にエワの実は見た目には極めて美しいものでありました。しかし、聖なる童貞女の実(子)はそれよりもはるかに美しくあり、天使たちはそれを仰ぎ見ることを切望してやみません。「あなたは人の子らにまさって美しい」(詩篇四四の三)。なぜなら、かれは御父の光栄の輝きであられるからであります。 |
Eve, therefore, looked in vain for that which she sought in the fruit of the tree, just as the sinner is disappointed in his sins. We must seek in the Fruit of the womb of the Virgin Mary whatsoever we desire. | それゆえ、エワがその実のなかに見いだせなかったものは、いかなる罪人もまた罪のなかに見い出すことはできません。したがって、わたしたちは聖なる童貞女の実(子)のなかに願望しているものを求めるようにしなければなりません。 |
This is He who is the Fruit blessed by God, who has filled Him with every grace, which in turn is poured out upon us who adore Him: | 22. ところで、その実(子)は天主によって祝福されました。なぜなら、天主はその実(子)にありとあらゆる聖寵を満たされたのであって、その実(子)を敬うことによって、わたしたちにその聖寵が注がれるからです。 |
"Blessed be God and the Father of our Lord Jesus Christ, who hath blessed us with spiritual blessings in Christ."[36] | 「わたしたちの主イエズス・キリストの父なる天主はほめたたえられますように。天主はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって、わたしたちを祝福して下さいました」(エフェソ一の三)。 |
He, too, is revered by the Angels: "Benediction and glory and wisdom and thanksgiving, honor and power and strength, to our God."[37] And He is glorified by men: "Every tongue should confess that the Lord Jesus Christ is in the glory of God the Father."[38] |
天使によって祝福されています。「賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢力とが、永遠にわたしたちの天主にあるように」(黙示録七の一二)。 人々によって祝福されています。「すべての舌は、“イエズス・キリストは主である”と告白する。それは父なる天主がほめたたえられるためである」(フィリッピ二の一一)。「主の名において来る者は祝福されますように」(一一七の二六)。 |
The Blessed Virgin is indeed blessed, but far more blessed is the Fruit of her womb: "Blessed is He who cometh in the name of the Lord."[39] | 従ってかくの如く、聖なる童貞女は祝福された方でありますが、しかし聖なる童貞女の実(子)はさらに祝福された方であられるのです。 |
ENDNOTES
1. Luke i. 28.
2. "Ibid.," 42.
4. Ps. ciii. 4.
5. Gen., xviii. 27.
6. Dan. vii. 10.
7. Ps. liv. 8.
8. Job, xxv. 3.
9. Cant., iv. 7.
10. I John, i. 8.
11. "De natura et gratia," c. xxxvi. Elsewhere St. Thomas says: "In the Angelic Salutation is shown forth the worthiness of the Blessed virgin for this conception when it says, 'Full of grace;; it expresses the Conception itself in the words, 'The Lord is with thee'; and it foretells the honor which will follow with the words, 'Blessed art thou among women' " ("Summa Theol.,"
III, Q. xxx, art. 4).
12. St. Thomas wrote before the solemn definition of the Immaculate conception by the Church and at a time when the subject was still a matter of controversy among theologians. In an earlier work, however, he pronounced in favor of the doctrine (I Sent., c. 44 Q. i, ad. 3), although he seemingly concluded against it in the "Summa Theologica." "Yet much discussion has arisen as to whether St. Thomas did or did not deny that the Blessed virgin was immaculate at the instant of her animation ("Catholic Encyclopedia." art. "Immaculate Conception"). On December 8, 1854, Pope Pius IX settled
the question in the following definition: "Mary. ever blessed Virgin in the first instant of her conception, by a singular privilege and grace granted by God, in view of the merits of Jesus Christ, the Saviour of the human race, was preserved exempt from all stain of original sin."
13. Luke, i. 38.
14. "Ibid.," 48.
15. "Ibid.," 34.
16. "Ibid.," 35.
17. Cant., iv. 4.
18. Eccl., xxiv. 25.
19. Isa., lviii. 11.
20. "The Blessed Virgin Mary obtained such a plenitude of grace that she was closest of all creatures to the Author of Grace; and thus she received in her womb Him who is full of grace. and by giving Him birth she is in a certain manner the source of grace for all men" ("Summa Theol.," III, Q. xxvii, art. 5). St. Bernard says: "It is God's will that we should receive all graces through Mary" ("Serm. de aquaeductu," n. vii). Mary is called the "Mediatrix of all Graces," and her mediation is immediate and universal, subordinate however to that of Jesus.
21. Luke. i. 35
22. Isa., xii. 6.
23. Antiphon from the Little Office of Blessed Virgin.
24. Luke. i. 35
25. "Totius Trinitatis nobile Triclinium."
26. Isa., xxxv. 2.
27. I Cor., vii. 34.
28. Ps. cxxxi. 8.
29. Prov., xiii. 22.
30. Here St.Thomas compares the fruit of the forbidden tree for Eve with the Fruit of
Mary's womb for all Christians.
31. Gen., iii 5
32. John, viii. 44.
33. I John, iii. 2.
34. John, vi. 55.
35. Ps. xliv. 3.
36. Eph., i. 3.
37. Apoc., vii. 12.
38. Phil., ii. 11.
39. Ps. cxvii. 26.
これは、聖トマス・アクイナスによる天使祝詞の解説です。"Le Pater et l'Ave" par Saint Thomas d’Aquin, Nouvelles Editions Latines, Collection DocteurCommun, Paris. 1967に所有されているラテン語を底本にしました。(横の英語は、参考までに付けたものです。)また、これを既に日本語にされた神父様がたが2名おられ、竹島幸一神父様とピオ渡辺吉徳神父様(「ロザリオの信心」)です。私は竹島幸一神父様のなされた訳を主に参考にしました。
聖トマス・アクイナスの時代には、聖母マリアの無原罪の御宿りの教義が明確ではなかったので、そこに関する部分については、"Le Pater et l'Ave", Nouvelles Editions Latines のフランス語訳の部分を参考にして加筆してあります。その部分について、竹島神父様が「補注」として、「ザ・トミスト」誌第一七巻一九五四年)に所収のT・U・ミュラニー師の論文「聖トマスの著作における無原罪のマリア」の結論の部分を訳出しておられるので、参考までに掲げます。
竹島神父様による補注
「以上の論考は、聖マリアの無原罪の御宿りに対する聖トマスの教説について以下のごとき諸結論を示唆する。すなわち、
一 聖トマスは少なくとも初期の著作においては明らかに無原罪の御宿りを説いていた。我々はかれがその説のために見いだした論拠は適切であると結論せざるをえない。
二 しかし、その後の著作はマリアが原罪をまぬがれたという、先の明白な説を反復していない。
三 後期の著作の或るものは表現上無原罪の御宿りの否定を含んでおり、マリアは原罪のうちに懐胎されたと述べている。しかし、その意味するところは、マリアの肉体は人間霊魂が注入される以前にあっては他のいかなる胎児の場合と同様聖化されてはおらず、またそれがため、その肉体は霊魂が注入されるとき霊魂に原罪を伝達するために適したところの道具としてあったということにすぎない。それはしかし、マリアの無原罪の御宿りの教義に決して背馳するものではない。
四 聖トマスの著作の或るものは、さらに、マリアは人間霊魂が注入された後に聖化されたという言葉を含んでいる。他の著作は、適切にはマリアは人間霊魂が注入されるその瞬間に聖化されることができなかったという言葉を含んでいる。しかし、それらのテキストの表現及びその前後関係には細心なる分析が試みられ、聖トマスの教説全休との調和のもとに解釈されることを要求している。すなわち、マリアの人間生命の最初の瞬間における聖化の可能性を排除しないものとして解釈されることを要求している。
五 したがって、聖トマスが後期の著作において無原罪の御宿りを説いたと主張するのが不合理であるように、それと同様に、かれがマリアの人間生命の時間的最初の瞬間における聖化を排除または否定したと主張するのは、(すなわち、マリアの無原罪の御宿りを排除または否定したと主張するのは)明らかに聖トマスのテキストとその全体的教説に反するものである。
六 聖トマスがこの問題に対してとっている態度は、慎重、保留の一種として記述されるのが最善と思われる。聖トマスはたしかに最初マリアの無原罪の御宿りを説いていたのであるが、その後、注目すべき慎重さをもって、また自分の論述における不完全さを犠牲にして、それに関して自己を再度肯定的または否定的見解へと決定的に属させることをひかえさせたのである。いずれにせよ、聖トマスの言葉はマリアの無原罪の御宿りの可能性を含意しているものの、しかし、マリアが原罪から予防されることによってまぬがれていたという事実を肯定するものでも否定するものでもない。
七 聖トマスが後期に示した保留の理由は、恐らくローマ教会の態度がそれであったと思われる。すなわち、聖トマスは年少時をナポリ近郊で過しており、そこではマリアの懐胎の祝日がかれの時代より数世紀も前から祝われていた。そうした事実は、聖トマスが初期に主張していたマリアの原罪からの自由に対する明白な肯定を説明するのに寄与するものであろう。しかし、聖トマスの時代にはローマ教会はマリアの懐胎を崇敬するいかなる祝日をも許可していなかった。とはいえ、聖トマス自身が述べているように、そうした祝日を祝う他の諸教会の慣習は全面的に非難されてはいなかった。他方、また、当時の著名な神学者たちは、マリアの懐胎の祝日が祝われる場合、崇敬の対象となっているのはマリアの罪なき懐胎ということではなく、或る不特定な時におけるマリアの聖化である、と教えていた。超自然的なことがらに関する問題において、聖トマスは自分の個人的見解を聖座の態度よりも重視するような立場はとることがなかった。それがため、かれは、教会と同じように、それ以上のいかなる判断の明確な表現をも保留したのである。
八 聖トマスは初期に説いた無原罪の御宿りの肯定をそれとは正反対の表現をもって撤回するようなことは決してなさなかった。そればかりか、かえって教父たちが行なったように、マリアがあらゆる汚れから絶対的な仕方でまぬがれて自由であることを明確に教えている。それがため、聖トマスはマリアが無原罪のうちに誕生したという自己の説を持ち続けたようである。そうした場合においても、聖トマスのキリスト教界の最高権威に対する尊敬は、ローマ教会が問題を決定するまで、自己の見解を蓋然的なものとして説くこと要求した。いずれにせよ、聖トマスがとった保留的な所説は、ローマ教会の態度という光からすれば、当時における最善のものであった。聖トマスの没後三世紀半を経た後においても、その時の教皇は神的知恵がまだ教会に問題を明らかにしていないことを宣言せざるをえなかった。したがって、その知恵のすべてが教会に由来するところの者においてなおさらそれについて確かであることはできなかった。
マリアの無原罪の御宿りに関する聖トマスの論述において、ほかにいかなるものが見いだされるにせよ、最も明確なことは、ローマ教会に対するかれの恭順である。そこには誤りがない。それにあるのは最終的にただ勝利のみが、倫理的、知的、永遠の勝利のみである」(T・U・ミュラニー師「聖トマスの著作における無原罪のマリア」(The Thomist, 1954, Vol. 17 所収より)
一八五四年、教皇ピオ九世によって聖母マリアの無原罪の御宿りが信仰箇条として発布されたが、その大勅書「イネファビリス・デウス」のなかで次のようにそれが宣言されている。
「三つのペルソナにまします、聖なる唯一の天主のほまれ、天主の母である童貞女の光栄と飾り、カトリックの信仰の賞賛とキリスト教の繁栄のために、我々は、我々の主イエズス・キリスト、使徒聖ペトロ、聖パウロおよび、我々の権威によって、いとも聖なる童貞女マリアは、懐胎されたその最初の瞬間において、全能なる天主の特別の恵みと特典とにより、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を見越して、原罪の汚れにそまらぬよう予防されたという教義が天主から示されたものであり、したがって、すべての信者が固く、常に信ずべきものと宣言し、かつ定義する」。
天主様の祝福が豊かにありますように!
心からの祈りのうちに
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)