マニラのeそよ風

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第236号 2004/07/13

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 大変暑い季節となりました。兄弟姉妹の皆様においてはいかがお過ごしでしょうか。どうぞ、夏ばてなどをなさらないようにご自愛下さい。

 さて、私は最近、FSSPX Japan BBS(掲示板)において、次のような質問を書き込みました。それについては、兄弟姉妹の皆様の中にはお読みになった方もおられるかもしれませんが、その内容をお伝え致します。


■ 【質問 1】 質問の1のテーマは真の従順です。

 ここにカトリック信者のAさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。さて、彼の父親が彼にカトリック信仰と道徳に反するようなことをするように命令したとします。Aさんは、自分の父親に対してどのような態度を取るべきでしょうか?

(1) 父親の望みは絶対である。たとえ天主の掟に反するような悪事であれ父親の言うことを聞く、それが従順だ。
(2) 父親として尊敬するが、しかし残念ながら、天主の掟に反するならそれをすることは出来ない、そのような命令に従わないことこそが真の従順だ。
(3) 天主の掟に反するような悪事を命令するような人は、父親として認めない。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?


【質問1に対する 答え】

正しい答えは(2)です。

親は私たちにとって天主の代理者であり天主ではありません。しかし天主の代理者であるが故に、天主を愛するために、親に従順であるべきです。しかし、もしも天主の戒律に親の命令が反する場合、それに従うことは「従順」ではありません。「へつらい」です。

「私たちは人よりも天主に従わなければなりません。」もちろん、親の命令は明らかに客観的に天主の掟に反しているものでなければなりません。堕胎を命令された、避妊を命じられた、カトリック信仰を捨てることを命じられた、等々です。

Aさんは、大変苦しい苦悩に悩まされることになるでしょう。もしかしたら親から勘当されるかもしれません。が、父親の命令に従うことは、天主の命令に背く限り罪です。ですから、父親として尊敬するけれども、しかし残念ながら、天主の掟に反するならそれをすることは出来ない、そのような命令に従わないことこそが真の従順、と言わなければなりません。

しかし、だからといって、子供としてAさんは「父親として認めない」ということは出来ません。

私たちは、これを原理としてアナロジーを使ってその他の場合に適応していくことにしましょう。



【質問 2】 真の従順というテーマのつづきです。

 ここにカトリック信者のAさんがいます。彼は天主の十戒を守る男性で、特に第四戒を大切にしています。

 さて、彼の属する司教区の司教様が、どのような理由なのかは分かりませんが(例えば、新しい異端の神学にかぶれた? 隠れ共産主義者? AA1025? フリーメーソンの会員? 統一協会の信奉者がカトリック教会に潜伏?)、彼にカトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教し(例えば共産主義、近代主義)、模範を示し(例えばカトリック以外の宗教行事に参加する)、命令した(例えば御聖体に対する崇敬の態度の禁止)とします。

 Aさんは、自分の司教様に対してどのような態度を取るべきでしょうか?

(1) カトリックの司教様がカトリック信仰と道徳に反するようなことをするように説教し、模範を示し、命令する、などと言うことはありえない。司教様は絶対である。AA1025や異端の司教などということはカトリック信者の考えるべきことではない。たとえ天主の掟に反するような異端説であれ司教様の言うことを聞き信じる、それが従順だ。

(2) 司教様として尊敬するが、しかし残念ながら、天主の掟に反するならそれをすることは出来ない、そのような命令に従わないことこそが真の従順だ。

(3) 天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック司教として認めない。

上のうちどれがカトリック信者の取るべき態度でしょうか?


【質問2に対する 答え】

答えは(2)です。

私たちは、カトリックの道徳の原理を日常生活に適応させて生活しなければなりません。

 司教様は、子羊である信徒たちを守り導くために選ばれた牧者、使徒の後継者、私たちの霊的な父親です。ですから、司教様は、いつどんなときも、私たち信徒が真の信仰を守るように警戒してくださるべき方です。私たちは、司教様において私たちの主イエズス・キリストを見るのです。ですから、司教様には大きな尊敬を払わなければなりません。それは、たとえ司教様ご自身が「僕のことをファースト・ネームで呼んでね」と言ったとしても、です。私たちは、天主の代理者であるが故に、天主を愛するために、司教様に従順であるべきです。しかし、司教様は私たちにとって天主の代理者であり、天主ご自身ではありません。

 もしも天主の戒律に司教様の命令が反する場合、それに従うことは「従順」ではありません。「へつらい」です。「私たちは人よりも天主に従わなければなりません。」

 その時、カトリック信徒たちは、大変苦しい苦悩に悩まされることになるでしょう。しかし、司教様の命令に従うことは、天主の命令に背く限り罪です。ですから、父親として尊敬するけれども、しかし残念ながら、天主の掟に反するならそれをすることは出来ない、そのような命令に従わないことこそが真の従順、と言わなければなりません。

 もしそのようなことが起きてしまったら、私たちは、司教様が正しい道へ戻られることを祈りながら、同時に、司教様には従えませんとお返事できる勇気を天主様がくださることを願いましょう。

 例えば、コンスタンチノープルの新しく就任した大司教ネストリウスが、クリスマスの説教の時、童貞聖マリアが「天主の御母」であると言うことに対して疑問を挟んだとき、例えば信徒エウゼビオスは、それに対して公に抗議をしました。カルケドンの公会議でネストリウスは公に排斥されるのですが、カトリック信徒たちは、「司教様だから」という理由で妥協したり、盲目的に付き従ったり、一緒に道を踏み外したりはしませんでした。

 しかし、だからといって、私たちカトリック信徒は個人の権威を持って「司教として認めない」ということは出来ません。

 さらに言えば、他の信者に対して「カトリックの司教様がカトリック信仰と道徳に反するようなことをなさるはずがない」と言うことは、真理に反することです。何故なら、過去の異端者たちは、主に司教様などのような聖職者らだったからです。

 第4戒に関して更に言えば、聖フィッシャー司教と聖トマス・モアは、王ヘンリー8世がカトリック信仰と道徳に反するようなことを命令したので、王様として尊敬するが、しかし残念ながら、天主の掟に反するならそれをすることは出来ない、と言いながら殉教していきました。

 私たちは、カトリックの信仰の遺産の真理をよく知り、それを守る知恵と勇気を頂くことが出来るように、聖フィッシャー司教と聖トマス・モアの取り次ぎを願いましょう!



【質問 3】 質問3のテーマは教皇様の不可謬性です。

 カトリック教会によると、第1バチカン公会議が荘厳に宣言した、教皇様の持つ不可謬性というドグマは、何を教えているのでしょうか?

(1) 教皇様の不可謬性とは、ある人が教皇様になるとその瞬間に、天主の特別な聖寵の働きによって、教皇様は罪を犯さなくなることだ。

(2) 教皇様の不可謬性とは、教皇様が罪を犯すことができない、ということではなく、教皇様が間違いを言わないと言うことだ。教皇様が言うことは、全て真理となる。ある教皇様がAはBだと言えばAはBとなる。そして次の教皇様がAはBではなくCだといえば、AはCとなることだ。カトリック信者は、現行の教皇様の言うことは、教皇様の言うことであるが故に、それが何であれ、それが真理であると信じなければならない。次の教皇様が別のことを言えば、新しい教皇様の言うことに従わなければならないことは言うまでもない。

(3) 教皇様の不可謬性とは、教皇様が罪や誤りを犯すことが出来ないと言うことではない。しかし、教皇様がEX CATHEDRAで(=教皇座から)宣言する時、すなわち、次の4つの条件を満たすとき、

    (あ) 全キリスト信者の牧者として教師として,
    (い) その最高の使徒伝来の権威によって
    (う) 全教会が守るべき
    (え) 信仰と道徳についての教義を決定する時

天主の助力によって、教皇様には不可謬性が与えられている。そのような特別な宣言は、信仰の遺産に含まれていた永遠不変で普遍の真理であるがゆえに、教皇様がそれを真理と確認することである。この真理は、何時どこでも真であり、真理であるが故に信じなければならない。

 上のうちどれがカトリック教会の教える教皇様の持つ不可謬性のドグマでしょうか?


【質問3に対する 答え】

答えは(3)です。

 何故なら、第1バチカン公会議 第4総会(1870年7月18日)キリストの教会に関する第1教義憲章「Pastor aeternus」第4章 教皇の不可謬教導職についてには次のようにあるからです。

3070 聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは,聖霊の啓示によって,新しい教義を教えるためではなく,聖霊の援助によって,使徒たちが伝えた啓示,すなわち信仰の遺産を確実に保存し,忠実に説明するためである。すべての教父たちと聖なる正統信仰を保った博士たちは,この使徒伝承の教えを尊敬し,これに従った。彼らは,この聖ペトロの座が,あらゆる誤謬の汚れによごされないことを十分に理解していたからである。すなわち,われわれの主である救い主は,弟子たちの頭に「私はあなたのために,信仰がなくならないようにと祈った。あなたは心を取戻して,兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22・32)と約束している。

3071(1837) この真理と決して欠けることのない信仰の賜物(カリマス)が,天主からぺトロとこの教座を占める彼の後継者に与えられた。それはすべての人の救いのために崇高な任務を果し,キリストの群全体を誤謬の有毒な餌から遠ざけ,天上の食物をもって養い,分裂の機会を取除き,全教会の一致を保ち,彼の基礎の上に築かれて,地獄の門に対して勇敢に立向うようにするためである。

3072(1838) (不可謬性の定義)しかし,使徒的使命を救いのために効果的にはたすことを最も必要とする現代において,この教権を軽視する者が少なくないので,天主のひとり子が最高の司牧職に与えた特権を公に布告することが絶対に必要であると認める。

3073(1839) 私たちは,キリスト教信仰の始めから受継いだ伝承を忠実に守り,われわれの救い主である天主の栄光と,カトリック信仰の高揚と,キリスト信者の救いのため,この聖なる公会議の承認を得て,次のことがらが天主から啓示された信仰箇条であると教え,定義する。

3074 すなわち、教皇が教皇座から宣言する時,言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として,その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時,救い主である天主は,自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した天主の助力によって,不可謬性が与えられている。そのため,このような教皇の定義は,教会の同意によってではなく,それ自体で,改正できないものである。

3074 Romanum Pontificem, cum ex cathedra loquitur, id est, cum omnium Christianorum pastoris et doctoris munere fungens pro suprema sua apostolica auctoritate doctrinam de fide vel moribus ab universa Ecclesia tenendam definit, per assistentiam divinam ipsi in beato Petro promissam, ea infallibilitate pollere, qua divinus Redemptor Ecclesiam suam in definienda doctrina de fide vel moribus instructam esse voluit; ideoque eiusmodi Romani Pontificis definitiones ex sese, non autem ex consensu Ecclesiae, irreformabiles esse.

3075 (条文)私たちのこの定義に反する者は排斥される。天主の加護によって,反対する者がないように祈るものである。

 これが私たちのカトリックの信仰です。私たちが求めているのは、このカトリック信仰です。

 カトリック教会の不可謬の教えによれば、教皇様の不可謬性とは、教皇様が罪を犯すことができない、ということでも、教皇様が言うことは全て真理であるはずだ、ということでもありません。

 教皇様は、永遠不変で普遍の真理であるがゆえに、「AがBであることを私たちの主イエズス・キリストの教えた信仰の遺産の一部として信じなければならない、さもなければ排斥される」と不可謬権を行使して聖座宣言を発することが出来ます。それは、教皇様が言うが故にそれが真理でとなるのではないのです。真理であるがゆえに教皇様が真理であるというのです。

 つまり、教皇様の不可謬権とは、「現行の教皇様の言うことは、教皇様の言うことであるが故に、それが何であれ、それが真理であると信じなければならない。次の教皇様が別のことを言えば、新しい教皇様の言うことに従わなければならない」ということでは決してありません。

 教皇様を尊敬しなければなりません。しかし教皇様を絶対視して、たとえカトリック信仰に反するようなことあれ、教皇様の言うことが真理となると信じる、それが信仰であり従順だ、そして従順には間違いがない、と言うのは真のカトリック信仰でもなければ、真の従順でもありません。

 繰り返しますが、カトリック教会は、私たちにこう言います。

 「教皇が教皇座から宣言する時,言換えれば、全キリスト信者の牧者として教師として,その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時,救い主である天主は,自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した天主の助力によって,不可謬性が与えられている。そのため,このような教皇の定義は,教会の同意によってではなく,それ自体で,改正できないものである。」




 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)