第227号 2004/03/11 四旬節第2週の木曜日
私たちは教皇様との完全な一致にいることを望む。ただしカトリック信仰の一致において。何故なら私たちを一致させるものはこの一致しかないからであり、一種のエキュメニカルな連合、一種のリベラルなエキュメニズムではないからである。何故なら、現在の教会の危機を全てより良く定義するものは、まさしくこのリベラルなエキュメニズムの精神である、と思うからだ。
(ルフェーブル大司教、1978年4月14日の講話)
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アヴェ・マリア!
兄弟姉妹の皆様、
さて、今回も聖ピオ十世会が枢機卿様たちに提出した、聖ピオ十世会『エキュメニズムから静かな背教へ -教皇在位の25年―』(メンツィンゲン2004年)の日本語訳の続き(総括)をご紹介致します。
聖ピオ十世会
エキュメニズムから静かな背教へ
-- 教皇在位の25年 --
メンツィンゲン2004年
総 括
44.一見、非常に魅力的に思え、テレビに映るエキュメニカルな儀式が非常に華々しく見え、また動員される大群衆の数が極めて大きいかも知れないが、現実はそのまま残る。エキュメニズムはカトリック教会というこの聖なる国を廃墟と化した。人類の一致というユートピアを追い求め、この教皇はご自分が追求しているエキュメニズムがどれほど、固有の意味においてそして悲しくも、革命的であるかということを気が付かれなかった。エキュメニズムは革命的である。何故ならこれは天主がお望みになった秩序を転覆させ
るからである。
45.エキュメニズムは革命的であり、また革命的であると自認している。そのことに言及する次から次へと続く公文書に驚くほどである。「改革が・・・たえず続けられるなら、交わりは次第に深められていく。・・・まさにそれがエキュメニズムの特徴、特に目立つ重要な特徴の一つである[135]。」「公会議を開くにあたって教皇ヨハネ23世が示した考えを繰り返して『エキュメニズムに関する教令』は、教義の表現のしかたが、改革につねに取り組んでいくために考えるべきことの一つであると注意している[136]。」時としてはこのことが「回心」になるように教会的な敬虔さで飾られている。この場合その違いにはあまり意味がない。過去に存在していたことが拒絶されたケースが2つある。「『回心せよ。』回心と刷新なしにいかなるエキュメニカルな和解もない。一つの信仰から他の信仰への回心ではない。・・・全てが回心しなければならない。私たちは『他者において良くない点は何か』ではなく『私たちにおいて良くない点は何か、私たちにおいてどこから掃除を始めるべきか』である[137]。」エキュメニズムの革命的局面の特徴として、民衆への呼びかけがある。「カトリック信者はためらうことなく、エキュメニカルな活動において・・・カトリックの家族自身の中で刷新し実行しなければならない事がらを誠実に注意深く考察し・・・なければならない[138]。」まさしく、この現代化(アジョルナメント)に酔いしれ、頭はその肢体によって乗り越えられなければならない。「エキュメニズムの運動は少し複雑な過程であり、カトリックの側が全てはローマがしてくれると待っているだけというのは誤りである。・・・組織や挑戦が地方教会の側からも来なくてはならない。普遍教会が自分のすべきことをする前に、地方のレベルで多くのことが為されなければならない[139]。」
46.この悲しい状況において、「悔悛、悔悛、悔悛」と叫ぶファチマの天使の声をどうして聞かないでいることが出来るだろうか。このユートピアへの歩みにおいて、後戻りは徹底的でなければならない。教皇ピオ11世によって次のように総括された教会の智慧深い敬虔に緊急に立ち戻るべきである。「キリスト者たちの一致は、離脱者たちがかつて不幸にして離れてしまった唯一の真のキリストの教会へと彼らが帰正するように促進すること以外によっては得ることが出来ない[140]。」これこそが道を迷っている者たちに対する本当の愛徳の司牧であり、これこそが教会の祈りでなければならない。「私たちは、キリストの全神秘体[すなわち全カトリック教会]の共通の懇願が天主に立ち上ることを望んでいる。それは道を迷っている全ての羊たちが一刻も早くイエズス・キリストの唯一の群れに戻ってくるためである[141]。」
47.この理性への立ち戻りという幸せなときが来るのを待ち望みつつ、私たちとしては私たちの創立者から受けた賢明な勧めと堅固な智慧を保持しよう。「私たちは教皇様との完全な一致にいることを望む。ただしカトリック信仰の一致において。何故なら私たちを一致させるものはこの一致しかないからであり、一種のエキュメニカルな連合、一種のリベラルなエキュメニズムではないからである。何故なら、現在の教会の危機を全てより良く定義するものは、まさしくこのリベラルなエキュメニズムの精神である、と思うからだ。私は「リベラルなエキュメニズム」と言ったが、何故ならもしも正しく定義されるならば、或る種のエキュメニズムは受け入れることが出来るからだ。しかしリベラルなエキュメニズムは、現在、特に第2バチカン公会議以降、教会が実践しているようなものは、真の異端を必ず含んでいる[142]。」私たちの祈りをますます天へと向けて昇らせ、私たちはキリストの体であるカトリック教会のために、次のように主に乞い求める。
Salvum me fac, Domine, quoniam defecit sanctus, quoniam diminuta sunt veritates a filiis hominum.
Vana locuti sunt unusquisque ad proximum suum : labia dolosa in corde et corde locuti sunt.
Disperdat Dominus universa labia dolosa et linguam magniloquam[143].
***<注>********************************
[135] ヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致Ut unum sint』17番 « L’approfondissement de la communion dans une réforme constante […] est sans doute un des traits distinctifs les plus importants de l’oecuménisme. »
[136] ヨハネ・パウロ2世、回勅『キリスト者の一致Ut unum sint』18番 « En reprenant l’idée que le Pape Jean XXIII avait exprimée a l’ouverture du concile, le Decret sur l’oecuménisme fait figurer la manière de reformuler la doctrine parmi les éléments de la réforme permanente. »
[137] カスパール枢機卿、ベルリンにおけるエキュメニカルな教会の日における講話 « "Convertissez-vous". Il n’est aucun rapprochement oecumenique sans conversion et sans renouvellement. Non la conversion d’une confession a l’autre. […] Tous doivent se convertir. Nous ne devons donc pas demander d’abord "Qu’est-ce qui ne va pas avec l’autre ?", mais "Qu’est-ce qui ne va pas chez nous ; par ou commencer, chez nous, le menage ?" » W. Kasper, Conference au Kirchentag oecumenique de Berlin, DC n° 2298 du 21/09/2003, p. 820.
[138] 第2バチカン公会議、『エキュメニズムに関する教令』4番、6番も参照。
[139] カスパール枢機卿の『義化の教義に対する共同宣言 希望の動機』 « Le mouvement oecumenique est un processus quelque peu complexe, et ce serait une erreur de s’attendre, du cote catholique, a ce que tout soit fait par Rome. […] Les intuitions, les defis doivent aussi venir des Eglises locales, et beaucoup doit etre fait au niveau local avant que l’Eglise universelle le fasse sien. » W. Kasper, La Declaration commune sur la doctrine de la justification : un motif d’esperance, DC n° 2220 du 20/02/2000, p. 167.
[140] « L’union des chretiens ne peut etre procuree autrement qu’en favorisant le retour des dissidents a la seule veritable Eglise du Christ, qu’ils ont eu jadis le malheur d’abandonner. » ピオ11世、回勅『モルタリウム・アニモス』AAS 20 (1928), p. 14, Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n° 872.
[141] 141. ピオ12世、回勅『ミスティチ・コルポリス』AAS 35 (1943), p. 243, Enseignements pontificaux de Solesmes, L’Eglise, vol. 1, n° 1105.
[142] 142. ルフェーブル大司教、1978年4月14日の講話
[143] 詩篇11:2-4 「主よ、助け給え、聖人は絶え、人の子らの中から真理が消えた。彼らは互いに嘘をつき合い、欺きの口先と二心で話しかける。
願わくは主が欺きの口先とほら吹きの舌を全て断ち切り給わんことを。」
最後の一節について、聖ヨハネ・クリソストモはこう注解している。(In Ps. 11, no. 1)
「作者は彼らに反して言うのではない。彼らのために言っている。作者は天主が彼らが滅びるようにと祈るのではなく、彼らの邪悪を終わらせて欲しいと願っている。作者は「天主が彼らを滅ぼす」とは言わず「主が欺きの口先を全て断ち切る」と言っている。従って、作者が滅びるのを見たいと願っていることは彼ら自体ではなく彼らの悪しき言葉である。」
(了)
翻訳:トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)