マニラのeそよ風

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第223号 2004/03/06 四旬節の四季の斎日の土曜日


PIETA

ああ聖母よ、
十字架にくぎ付けにせられ給える御子の傷を、
わが心に深く印し給え。

アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、
 今回は、全世界の枢機卿様たちに送られた文書に関するフレー司教様と DICI とのインタビューの内容をお知らせします。


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DICI: 司教様、全ての枢機卿たちにエキュメニズムに関するこの文書を送る際の司教様の意向は何ですか?
フレー司教: ルフェーブル大司教の模範に従って私たちが続けている聖伝のための戦いは、もう今では30年以上にもなりますが、現在の危機の原因に潜む誤謬を批判することを必要として含んでいます。この神学的な批判の仕事は私たちの創立者ルフェーブル大司教ご自身によってなされ、現在でも続けられています。おそらくこれらの誤謬がますます毒を含んだ結実をもたらしているのを見る現在、このような仕事はもっと必要なのかもしれません。この観点から2003年10月パリにて第2回神学シンポジウムが開催され、今年の1月にはローマで『シ・シ・ノ・ノ』紙の第6回神学大会が開催されました。同様に『典礼改革の問題』に関する本、その他多くの記事が私たちの発行する雑誌や機関誌に発表されています。
そしてこの同じ方針に沿って、今回私たちが全ての枢機卿たちにお送りするエキュメニズムを告発する文書を書きました。前回の「友人と恩人の皆様への手紙」の中で書いたように、このエキュメニズムはカスパール枢機卿の影響のもとで熱狂に近づく発展を見せています。私たちはこれらのエキュメニズムの進展は教皇様がサインなさった公式文書に力を得ていると言うことを認めなければなりません。
DICI: ローマとエコンとの同意が可能であると噂されているような時にこのような文書を発表するのは時期を得たことなのでしょうか。
フレー司教: 2000年以来、カストゥリヨン・ホヨス枢機卿の一押しのもとで、ローマの聖伝に対する態度の変化が見受けられるようになったのは本当です。しかし率直に言うと、インタビューとか書簡の交換によって現れた実践的な態度の変化にすぎません。
しかしこの変化は公会議後の誤謬の殺到する増加に関して何の変わりはないと言うことを述べなければなりません。実際、ローマとの議論は、私たちが要求した聖伝のミサの自由、つまり「議論の前提としてなくてはならないと私たちが考える自由」をローマがただ単純に拒否しているので、全くの進展が見られていません。
教会に秩序をもたらすことが出来るのは、「教会法上の付け焼き刃的調整」ではありません。今回の文章で私たちは枢機卿たちに問題の根本について話し合う必要性があることをもう一度思い起こさせたいのです。ですからタイミングが悪いどころか、私たちが枢機卿たちにアプローチする目的はこの議論は教義上のことであると言うことを言うためであるのでとても時期を得たことです。
DICI: それにしても現在の教皇様に聖ピオ十世会の主張を理解してもらおうとするのを試みるのは緊急なことだとは思いませんか。何故ならこの次の教皇様がどのような方になるか分からないのですから。
フレー司教: 教皇様にとって、ご自分の裁きの日が近づいておられることは確かなことです。教皇様はご自分の教皇職についての総決算を報告しなければなりません。ですから天主の御目から見て教皇様の25年の教皇職を正しく評価することができるように教皇様を助けるということは、愛徳の業です。全く明白な事実は私たちの眼前にあります。ヨハネ・パウロ2世教皇様もご自分の教皇職の終わりに、ヨーロッパがそのまっただ中にある静かな背教の状態をご自分で確認しておられます。そこで聖伝の教義に基づいて、私たちはこの状況は25年間のエキュメニズムによって引き起こされたことを明らかにしようと努めました。
勿論、私たちは教会が聖伝に立ち返るのは、キリストの代理者たる教皇様の権威のもとにのみ起こるだろうと言うことを確信しています。ではいつそれが起こるのでしょうか?私たちには分かりません。私たちがはっきりと知っているのは、教会こそが永遠の命の約束を持っていると言うことです。
DICI: それでもこれは聖ピオ十世会が頑なになっているしるしではないでしょうか?もしかしたら、ローマと議論をすると言うことを諦めてしまったというしるしでは?
フレー司教: そうではありません。その反対です。私たちはこの話し合いを望んでいます。しかし私たちは教義のレベルでの上で望んでいます。私たちが問題の根本を知らないのなら、真剣な話し合いをすることも出来ません。これがもしも私たちが使っている単語の明確な定義を与えるためだけ、そして言葉を越えて私たちが同じ現実について話し合っているのだと確かめるためだけに終わってしまってもです。
私たちは、カスパール枢機卿がプロテスタントたちと話し合いをするときに使っている「多元性における一致」という枠組みの中で「差異のある同意」を望みません。この曖昧な表現、この全くの用語の矛盾は全く明らかに第2バチカン公会議のエキュメニズムは教義上の要求など、更には論理道筋が要求することさえもお構いなしであるということを示しています。「差異のある同意」とか「同意のある違い」などを認める上に成り立つ同意など何のことを意味するつもりなのでしょうか?
DICI: この文章を調子は厳しいように思われるかもしれません。
フレー司教: エキュメニズムにより持ち上がった神学的な問題は、曖昧さを許さない極めて厳格な議論を要求しているので、たしかにこの文章は厳しいものです。しかしこの文章に付けられた手紙は私たちの仕事の意味を明確に示しています。つまり教皇様と枢機卿たちに、第2バチカン公会議以降疑問視され攻撃を受けている教会の聖伝を教会に戻して下さることを尊敬を込めてお願いすることです。
DICI: 現在の危機の解決策は単に教義上だけの問題であると本当にお考えですか?もっと外交的でもっと実用的なアプローチを頭ごなしに拒んでいるのではないですか?
フレー司教: 私の考えによると実用的です。ともかく、話し合いの堅固な土台を与えたいと言うことで現実的です。私たちが望むと望まないとに関わらず、これらの土台は教義上のものです。実用主義とは「ダチョウの政治」(ダチョウが危険に瀕すると頭を砂の上に突っ込むように、危険を直視することを避けること)と同義ではありません。このように根本問題に対して自発的に盲目になることは、「耳の不自由な人の対話」、つまり「インチキの取引」にしか辿り着きません。
同じ劇的な現実が、教皇様にも私たちにも全てに立ちはだかっています。つまり私たちが静かな背教の状態にあるという現実です。私たちは聖伝の助けを借りてこの背教から脱出しなければなりません静かな背教に対する答えは、強い明確な声を響かせることです。悪の広がりを前にして、効果のない中途半端な対処法では満足できません。結局、そうすることによって悪を根絶しようと望まず、悪をただなだめるに過ぎない共犯者になるだけだからです。

翻訳:トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)


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至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え、
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!


トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭)