第219号 2004/02/18 司教殉教者聖シメオンの記念
アヴェ・マリア! 兄弟姉妹の皆様、 今回は、少し遅くなってしまいましたが「聖ピオ十世会総長の友人と恩人の皆さんへの手紙 第65号」をお読み下さい。
聖ピオ十世会総長の 友人と恩人の皆さん 教会は、教会史上でも最も長期にわたる在位の一つであるヨハネ・パウロ2世教皇様の教皇職25周年を祝ったばかりです。またこれは教会が今までに経験したことがないほど最も衰退している期間の一つを統治する教皇職でもあります。フランス革命も二つの世界大戦も共産主義も、第2バチカン公会議の改革ほど大きな損害を教会に与えることはありませんでした。この内部からの病気は、教会の外部の敵どもによってもたらされた全ての苦しみよりも、よりひどい信仰の喪失、特にヨーロッパとアメリカとにおけるより深刻な霊的な破壊をもたらしました。 第2バチカン公会議が厚かましくも教会に「人類一致の秘跡」であるという新しい使命、新しい目的を与えてしまったと考えるのは正しくないのでしょうか?公会議までは教会の第一のそして唯一の目的は霊魂の救いでした。霊魂を罪と悪魔の手からもぎり取り、信仰と秘跡の聖寵によって霊魂を天主へと導くことでした。人類の一致と言うことに関しては、単純に教会とは関係のないことでした。教会はその目的と目的遂行のための手段の両者において本質的に超自然的であり、この地上の純粋に人道的な使命とは関係がありません。勿論、教会は超自然の一致をよく知っており、カトリック信者の間に人間的な一致を確かに創り出します。しかしこのことは教会の使命にとって副次的なものにすぎません。このことは信仰と愛徳における信者の一致という結果にすぎないからです。同時に教会は平和の絆(Vinculum pacis)の固有の価値がどれほど優れたものであるかを知っています。 時が経てば経つほど、第2バチカン公会議と公会議後になされた事業を完成させるアーチ天井の親石はエキュメニズムであると言うことがますます明らかになってきています。ローマ当局も常にエキュメニズムに音色を合わせています。 公会議後の改革のほとんどはエキュメニズムのためという名前において為されました。そして多くの最も大きな「成功」はエキュメニズムに帰せられています。典礼改革、キリスト教と非キリスト教の諸宗教との新しい関係、エキュメニカルな聖書など、これらの全ては、数世紀にも亘って私たちに伝えられてきた教会の教えや規律とほとんど関係ない態度や新しいビジョンをもって信者たちを感染させています。 しかし、私たちは更に話しを進めましょう。キリスト教の一致促進のための教皇庁立諮問会(the Pontifical Council for the Promotion of Christian Unity)の長であるカスパール枢機卿の最近の講話は、エキュメニズムが本当はいったい何なのかについて多くの光を当てています。カスパール枢機卿によればエキュメニズムとは、教会においてカトリック的なものを全て取り除こうという大きな規模の事業のことです。もしも私たちがエキュメニズムとは離れた羊たちを聖なるカトリック教会の群れの元に連れ戻すことを目的とした対話を基礎とした運動であると考えているとしたら、自分を騙していると言うことは極めて明らかです。カスパール枢機卿は、「教会が人類の一致のパン種になるためにある」ということを公理として考えています。そしてそこから遙かに進んで分裂の原因を究明しています。突然その話しは明快になり、キリスト者たちと人々とを分裂させているのは、一般的に言って、正に特別にカトリック的であることであると言います。(私たちの主イエズス・キリストご自身も逆らいの印であり、躓きの石ではなかったではないでしょうか?) カスパール枢機卿はエキュメニズムとは回心へと導く運動ではない、つまり唯一の真の群れを離れてしまったさまよえる羊らが戻ってくることではない、と言います。カスパール枢機卿にはこのような考えは毛頭ありません。枢機卿にとってエキュメニズムとは新しい一致へと、これらのさまよえる人々と全くさまよっていない人々とが或る一つの一致へともたらされることです。私たちはですから「和解した多様性において或る一つの一致への共通の道」を歩まねばならない、と言うのです。この一致について言えば、カスパール枢機卿はそれがどのようなものになるか誰にも分からないと言っています。何故なら「聖霊はいつも驚くようなことをすることが出来る」からと言います。明らかに一致促進のための責任者であるカスパール枢機卿は、自分がどこに行くのかを分かっていません。しかし彼は自分が何をしているのかはよく分かっています。つまり、彼はカトリック教会からそれ独自のものを全て取り除こうとしているのです。つまり彼は大きな事業をするということです。 最初の分裂は勿論、私たちが信仰を表明することから生じます。私たちの良き母である聖なる教会は、新しい偽りの福音を述べて欺く者たちや偽りの預言者たちに対して、永遠の命を与えて人を救う信仰を守るためにこの教義的な表現形式を生み出しました。そしてそうすることは教会の義務でした。最大限の明確さを持って真理と誤謬との間、信仰と異端との間に横たわる底知れない深い谷間を見せてくれる簡潔で鋭い表現形式により、実際上、全ての異端説は差し止められ、遮断されました。ラッチンガー枢機卿はウルス・フォン・バルタザールの説に従い、時代の最も緊急な問題は「信仰の砦を取り崩すことである」と書きました。しかしカスパール枢機卿は更に話を進めて、今日、私たちはこれらの「不幸な」分裂を引き起こす表現形式を超越し私たちが実際は決して失ったことのない一致を見つけださなければならない・・・さまざまに異なる信経の下に一つの信仰を分かち合いながら・・・「これこそがニュアンスのある同意に至る私たちの努力の結果であり、この同意は昨日までの矛盾を『補完し合うさまざまな主張』へと変えるのである・・・」と言っています。この観点によれば教義とは時代遅れの論争するための形式でしかないのです。 カスパール枢機卿が仕事を始めるなら、彼を止めるものはありません。秘跡による生活、教会の聖職者たち(これには司教の職務を含めます)、そしてついには教皇の首位権まで(一致への道を妨害する最高の躓きの石)全ては同じ取り扱いを受けます。つまり教会における全ては、最大公約数の最も低いものへ還元され変化させられなければならない、ということです。 カスパール枢機卿は、将来の教皇が裁治権や不可謬権を持っていると考えられるべきかについてはよく分かっていません。それはその時の必要によるでしょう。それは歴史的に条件付けられ、その恒常的な内容と区別されたものとして見られる教義によって押しつけられた「不定幾何学」的な教皇職となるでしょう。これは全くの近代主義そのものです。 カスパール枢機卿は教皇が「自分の教皇職の最も重要な義務」であると考えていることを遂行する、教皇の右手の男です。たとえカスパール枢機卿がこの講演を自分の個人的な観点からのものとして為したとしても、この観点は枢機卿の公的な行為を支配するに違いありません。更にこのように考えているのは彼一人だけではないのです。カスパール枢機卿が自分の考えを提示するやり方は大胆ですが、彼はただ「公式見解」、支配的な多数意見を表明しているにすぎないのです。 そのことを明らかにする最近の出来事があります。10月の始めにファチマで諸宗教の集いが開かれました。これはアシジと同じ事です。ただ今回は聖母の聖域の中心で開かれたのです。そこでは偉大な多宗教の神殿の建設が予告されました。その神殿を後援するのはバチカンと・・・国連です! 一体どうして、このような条件の下でのローマと同意をすることが出来るでしょうか? 一体どうして私たちはこのような逸脱に黙っていることが出来るでしょうか? 私たちは「ニュアンスをつけた」同意を拒否します。私たちは真理と誤謬との間に矛盾があることを断言します。私たちはこのようなエキュメニズムの事業とは全く関係を持ちたくない(nullam partem)という強い意志を表明します。何故でしょうか? 答えは単純です。何故なら私たちはカトリックであり続けたいからです。私たちは教会をそのように見る見方と、そのようなこととの「交わり」において生きることを嫌悪して顔を背けなければなりません。一体誰が、近代主義的な「ローマ」は変わった、聖伝に好意的になったと主張することが出来るでしょうか? それは全くの思い違いです。 私たちのカトリックとしてのアイデンティティーを維持する努力において、ウクライナの司祭たちのグループ(聖ヨザファト会)から援助を求められました。私たちは彼らを援助してもう数年になります。特に長い間地下に潜っていた神学校を建てて援助しました。今年、私たちの行為はスポットライトを浴びました。彼らの司教であるフサール枢機卿は聖ヨザファト会の総長を呼び出し、自分のしたことを説明するように、そして自分の立場を明確にするようにと求められました。「私かフレー司教か、どちらを選ぶのか。」枢機卿は総長とその他の司祭たち(約10名)、そして彼らに従う信者たち(1万人以上)を破門の刑で脅しました。まだ共産主義が死んではいない国において、このことは多くの試練と刑罰と迫害を意味しています。彼らのために皆様のお祈りをお願い致します。11月にはワルシャワでティシエ・デゥ・マルレ司教はこのウクライナの神学校を卒業した最初の司祭を叙階しました。 私たちの主イエズス・キリストの御降誕を前にして、私たちの礼拝を新たにし、最後までイエズス・キリストに仕え、従うという私たちの固い決意を更新しましょう。私たちが主の聖なる望みを遂行することが出来るように、主の聖寵を熱烈に懇願致しましょう。私たちの全ての神学生たちは皆様のために祈りをささげています。今年の神学校入学者数はかなり良いものでした。私たちの神学校は6校合わせると60名の新入学生がありました。私たちの主イエズス・キリストが皆さんの寛大さを溢れるばかりの恵みで報いて下さいますように。私たちの良き天の母が新年を通して皆様を保護して下さいますように。
+ベルナール・フレー
http://www.sspx.org/Superior%20Generals%20Ltrs/supgen_65.htm
SUPERIOR GENERAL'S LETTER Dear Friends and Benefactors, The Church has just celebrated 25 years of the pontificate of Pope John Paul II, one of the longest pontificates of her entire history. It is also a pontificate that has presided over one of the most decadent periods the Church has ever experienced. The French Revolution, the two World Wars and Communism caused less damage to the Church than the reforms of Vatican II. This internal sickness has given rise to a greater loss of faith, a greater spiritual devastation, especially in Europe and North America, than all the ills brought about by the Church's external enemies. Are we not right to think that the Council has had the effrontery to give the Church a new mission, a new goal: that of being "the sacrament of the unity of mankind"? Hitherto the Church's first and sole purpose was to save souls, to wrench them from the hands of sin and the devil, and lead them to God by faith and the grace of the sacraments. Quite simply, concern for the unity of mankind is utterly foreign to her. The Church, essentially supernatural both in her aims and her means, has no business with any earthly and purely humanitarian mission. Of course she is familiar with a supernatural unity, and she does actually create a human unity among her faithful, but this is purely accessory to her purpose; it is only a consequence of their union in faith and charity. At the same time she knows how to appreciate the proper value of the bond of peace, the vinculum pacis. The more we go on, the clearer it becomes that one of the keystones in the vault of the Conciliar and post-Conciliar enterprise is ecumenism. The Roman authorities constantly harp on it. Most of the reforms were made in the name of this ecumenism, and the greatest "successes" are attributed to it. The liturgical reform, the new relations with Christian and non-Christian religions, the ecumenical Bible: all these things have infected the faithful with a number of attitudes and a new vision which have very little to do with the Church's teaching and discipline that have come down to us through the centuries. We must go further, however. Cardinal Kasper, president of the Pontifical Council for the Promotion of Christian Unity, recently gave a conference that throws much light on what ecumenism really is: it is a large-scale enterprise to demolish all that is specifically Catholic in the Church. It is quite clear that we are fooling ourselves if we think that ecumenism is a dialogue-based movement with the aim of bringing the separated sheep back to the fold of Holy Church. He takes it as axiomatic that the Church is meant to be the leaven of mankind's unity, and from that he goes on to examine the causes of division. Suddenly it becomes plain that what divides Christians and men generally are precisely the specifically Catholic things. (Wasn't Our Lord himself a sign of contradiction and a stumbling-stone?) Kasper tells us that ecumenism is not a movement towards conversion; it is not the return of wanderers who have left the one true fold. This idea of unity is foreign to him. For him, ecumenism consists in bringing about a new unity, a unity together with these wanderers who -all of a sudden -are not wanderers at all! We must follow "a common path towards a unity in a reconciled diversity." As for this unity, the Cardinal tells us that no one knows what it will be like, because "the Holy Spirit is always able to come up with a surprise." Clearly, this man, who is responsible for the promotion of unity, does not know where he is going; but he does know what he is doing: he wants to remove from the Catholic Church everything that is specific to her. That means he will have a big job! The first division, of course, comes from our profession of faith. Our good Mother, Holy Church, has produced these dogmatic formulas -as it was her duty to do -to protect the faith that saves and gives eternal life, against the deceivers and false prophets who preach a gospel that is equally new and false. Practically all the heresies have been stopped in their tracks, blocked, by a succinct and incisive formula that shows with the utmost clarity the abyss that exists between truth and error, faith and heresy. Cardinal Ratzinger, following Urs von Balthasar, wrote that the urgent issue of the moment was to "dismantle faith's bastions," but Kasper goes further and says that today we must transcend these "unfortunate" and divisive formulas and discover a unity that we had never really lost… sharing the one faith under different creeds… "This is the result of our efforts to reach nuanced agreements that transform yesterday's contradictions into complementary assertions…" According to this view, the dogmas are nothing but antiquated polemical formulas. Once Kasper gets to work, there is no stopping: the sacramental life, the ecclesiastical ministries -including the episcopate itself -and, finally the pontifical Primacy (the stumbling-stone par excellence in the way of unity) are all given the same treatment: everything must be changed in the Church and reduced to the lowest common denominator. Kasper does not know whether tomorrow's pope should be held to possess a jurisdiction or infallibility; it will depend on the needs of the moment. It is a "variable geometry" kind of papacy, imposed by a dogma that is now seen as historically conditioned and distinct from its permanent content. This is pure modernism. Cardinal Kasper is the pope's right hand man in what the latter regards as "the most important duty of his pontificate." Even if the Cardinal gives this conference as his own personal vision, there can be no doubt that it governs his official action; furthermore, he is not the only one to think in this way. The way he presents his ideas is daring, but he is only expressing the dominant view, the "official line." Here is a very recent illustration of it: at the beginning of October a new inter-religious meeting took place at Fatima. It is the same thing as Assisi. But now it is at the heart of a Marian sanctuary. The building of a great multi-religious temple there has been announced, under the aegis of the Vatican and … (wait for it…) the UN! How can any agreement [with Rome] be possible under such conditions? How can we pass over such aberrations in silence? We reject all "nuanced" agreements, we affirm the contradiction between the true and the false, and we assert our firm will to have nullam partem (no part) in such an enterprise. Why? Quite simply, because we want to remain Catholics. We must turn our backs with horror and disgust on such a way of seeing the Church and living in "communion." How can anyone claim that modernist "Rome" has changed and is becoming favourable to Tradition? What delusion! In our struggle to maintain the Catholic identity we have been asked to come to the aid of a group of Ukrainian priests. For some years now we have been helping them, particularly by setting up a seminary, that had been clandestine for a long time. This year our wholesome action was brought under the spotlight. Their bishop, Cardinal Husar, summoned the superior of the Fraternity of St. Josaphat and asked him to explain himself and to make his position clear: "It's me or Bishop Fellay." He has threatened him and all the priests (about ten of them), and the faithful who follow them (more than ten thousand) with major excommunication. This means many trials, penalties or persecution in a country where Communism is not dead. We commend them to your prayers. In November, in Warsaw, Bishop Tissier de Mallerais ordained the first priest to have come from this seminary. On the eve of the Feast of the Nativity of Our Lord Jesus Christ, let us renew our adoration and our firm will to serve Him and follow Him to the very end. Let us ardently implore His grace so that we may carry out His holy desires. Be assured of the prayers of all our seminarians, who have returned to the seminaries in good numbers this year. Taking all our seminaries together, we have sixty new entrants beginning their year of spirituality. May Our Lord deign to reward your faithful generosity with His abundant graces, and may our good Heavenly Mother deign to protect you throughout the New Year. 8 December 2003, Feast of the Immaculate Conception
+Bernard Fellay 文責:トマス小野田圭志神父 (聖ピオ十世会司祭) |