マニラのeそよ風

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第213号 2003/11/28

St. Alphonsus Liguori
St. Alphonsus Liguori

 「ああ、私の救い主にして判事なるイエズスよ、私は主に離れ奉るを欲せず、いつまでも御傍にはべって熱く主を愛し奉らん事を望み奉る。主よ、私は主を愛し奉る。しかり、私は主を愛し奉る。始めて主の法廷に出頭する時も「私は主を愛し奉る」と叫ぶを得しめ給え。主よ、もし罪に応じて私を罰するおつもりであるなら、如何様にも罰し給え。ただ主を愛するを許し給え。いつも主を愛し、またいつも主に愛され奉ることさえできたならば、その他の事は御望みのままに如何様にも取り計らい給え。」

アヴェ・マリア!

 兄弟姉妹の皆様、11月は死者の月ですから、今回も死について黙想しましょう。
 今回は聖アルフォンソによる「公審判について」の黙想を提案します。


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その1

 可哀想なのは罪人だ。主は彼等をヨサファトの谷に待たせ給う。そこで彼等の考えはガラリと変わってしまうであろう。そこでは流石の彼等も自分達が馬鹿であったことを悟って、ハラハラと血の涙を流し、歯噛みして悔しがるであろうが、しかしそのときになってはもう如何ともしがたい。

 今、試しに悩んでいる霊魂は、よく堪忍びさえすれば、ここ暫くの所を良く堪忍びさえすれば、どんなに大きな幸いがヨサファトの谷に待ち受けているであろうか!? そこでは今の苦しみは言い知れぬ喜びに変じ、今の悩みは天の尽きせぬ幸いとなるであろう。Tristitia vestra vertetur in gaudium. Joan. Xvi. 20.

 かの日には、現世で軽んじられた聖人はどんなにか美しく輝きわたり、かえって世にときめき人に持てはやされた悪人は、例え王侯貴族といえどもどんなにか怖しい姿に窶れ果てるであろうか。

 ああ十字架に磔られ、ありとあらゆる侮辱を浴びせられ給いしイエズスよ、私はしかと主の十字架を抱きしめ奉る。世の宝や、誉れや、楽しみや、そんなものが果たして何になるであろう? 私はそれらを潔く投げ棄てて心より主を望み奉る。ただ主御一人を望み奉る。主の他に望むところは無い。


その2

 「呪われたる者よ、我を離れて永遠の火に入れ」 Discedite a me, maledicti. Matt. Xxv. 41. (マテオ25-41)、この「我を離れて」の一語をもって、公に主の御前を追われ、地獄に投げ込まれる時の悪人の心持は果たして如何ばかりであろうか?

 主イエズスよ、私もかつてこの恐るべき宣告を受けるべき身の上であった。しかし只今では御赦しを頂いたものと安心している。二度と主を離れるを許し給うな。私は主を愛し奉る。またいつまでも愛し奉るであろう。

 悪人の反対に、善人の幸福を思ってみよ。「来たれ、我が父に祝せられたる者よ」(マテオ25-41)と、主の優しい御声をもって天国に案内されるとき、彼等の心中に漲り渡る喜びといったら、果たして何ものに例えられよう。

 思えば私ほど愚か者があろうか。世の儚い誉、楽しみに惹かれて、例えようも無いかの大いなる喜びを一文の値打ちも無い土くれみたいに投げ棄てた事が幾たびあったであろうか。しかし主は今なお私を見限り給わず、御憐れみを垂れて、私の迷いの夢を醒まし、暗んだ目を開けてくださった。そこで今からは万事を擲って主を一心に愛し、かの恐るべき日にあたって、光栄の冠を押し頂き、凱歌を歌って、天国に登れる様に努めなければならぬ。

 主よ私は罪に罪を重ねた悪人である。しかし主の高価な御血の功徳によって願い奉る。何とぞ私にもかの福者達の群れに加わって、熱く主を愛し、主の御足をかき抱きつつ千代に八千代に楽しむを得しめ給え。


その3

 今信徳の眼をカッと開いてヨザファトの谷を眺め、一度は彼処に集まって善人と共に右のほうに並ぶか、或いは悪人と共に左のほうに並ぶかせねばならぬのだと考えてみるがよい。そしてこれを考えながら十字架の下に平伏して、おもむろに霊魂の上に眼を注ぎ、主の法廷に立つことが出来るだけの用意ができているのかどうかを調べてみなければならぬ。まだ出来ていないとすれば手遅れにならない内に、早く用意に取り掛かる事が急務であろう。

 主以外の物より全く心を離して、毎朝ちょっとの間なりとも黙想をし、しばしば聖体を拝領し、五感の欲を抑え、殊に熱心な祈りをもって及ぶ限り密接な関係を主と結んでおかなければならぬ。救霊の方法はこれに尽きる。真心からこの方法を実行するのは、それこそ天国に昇る選びを受けた兆候なのである。

 ああ、私の救い主にして判事なるイエズスよ、私は主に離れ奉るを欲せず、いつまでも御傍にはべって熱く主を愛し奉らん事を望み奉る。主よ、私は主を愛し奉る。しかり、私は主を愛し奉る。始めて主の法廷に出頭する時も「私は主を愛し奉る」と叫ぶを得しめ給え。主よ、もし罪に応じて私を罰するおつもりであるなら、如何様にも罰し給え。ただ主を愛するを許し給え。いつも主を愛し、またいつも主に愛され奉ることさえできたならば、その他の事は御望みのままに如何様にも取り計らい給え。


 ああ聖母よ、いつも私のために祈り給え。


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トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)