マニラのeそよ風

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第207号 2003/11/02 聖霊降臨後第21主日

(今年は、11月2日が主日に当たるため、全ての死せる信者の記念は明日の11月3日に行います。)


聖ピオ十世会 米国・バージニア

 「小さな子らよ、最後のときである。あなたたちは反キリストが来ると聞いていたが、今や多くの反キリストがあらわれた。これによって、私たちは、最後の時が来たことを知る。・・・いつわりの者はだれか?イエズスがキリストであることを否定するものではないか?おん父とみ子とをいなむ者、それこそ反キリストである。み子をいなむ者はおん父を持たず、み子を宣言する者は、おん父をももっている。あなたたちは、はじめから聞いたことにとどまれ。はじめから聞いたことにとどまるなら、あなたたちはおん父とみ子とのうちにとどまる。そしてかれ自身が私たちに約束されたことは、すなわち永遠の命である。」(1ヨハネ第2章)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その10 信教の自由

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、

 これまで私たちは、第2バチカン公会議のテキストを通して公会議の霊的な特徴を見てきました。そこで第2バチカン公会議は、目的と手段とをひっくり返していると言うことに気が付きました。教会は、キリストの神秘体なのですから、超自然の美しさにおいて、私たちの命の目的であるにもかかわらず、天主なる聖父は全てを頭であるキリストの下に集め、キリストの神秘体を形成させようとされている計画があるにもかかわらず、第2バチカン公会議は、教会が人間への奉仕(サービス)のためにある手段にすぎないと言います。

 第2バチカン公会議の別の文章「エキュメニズムに関する教令」が言うところの「真理の秩序、順位」もこの観点から見ることが出来ます。「カトリック教理の諸真理とキリスト教信仰の基礎との関係は種々異なったものである。そのため、諸教義の比較に際しては、それらの諸真理の間に秩序、すなわち「順位」が存在することを忘れてはならない」(11番)。これによれば、さまざまな諸キリスト教が「より本当の真理」の周りにそれを「中核」として集まり、世界的に協力しなければならないことになります。その「中核」となる「最高位の真理」とは、最も人間らしい真理、人間の尊厳をもっとも良く表明する真理、もっと人間らしい世界を建設するために役立つ真理です。

 ヨハネ23世教皇様は、第2バチカン公会議開催の直後からご自分のその大計画を発表しました。ヨハネ23世は、古い形式の信仰はもう終わりにして現代化を計らなければならないと言ったのでした。実際、現代は人間の崇敬(Cult of Man)が咲き誇り、天主は、人間の充足といういわば着せ替え人形につける服の一つにすぎなくなっています。

 カトリック教会は、聖伝の教えによれば、「人は天主を賛美し、敬い、これに仕え、そうすることによって霊魂を救う」と教えてきました。ロヨラの聖イグナチオの有名な『霊操』の原理と基礎も同じ事を繰り返しています。ところが、現代は天主は人間をより人間らしくするという機能を持ち、その限りにおいて真理の天主であり、つまりその限りにおいて天主なのです。

 観点がこのようにひっくり返った結果、キリストが私たちに権能を持っている、特にキリストが最後の日に私たちを裁く権能を持っているというのはありえなくなってしまいます。そのようなことは「新しい人類を造り出すほんとうに新しい人間」(「現代世界憲章」30番)の持つ尊厳にふさわしくないからです。

 「エキュメニズムに関する教令」は、ただ単に教会と国家の関係を取り扱った政治的なものだけではありません。まず政治的ですが、宗教に関する市民権的自由に関する考察を越えてこの文書は、形而上学的な個人主義という現代の問題を噴出させています。私たちは第2バチカン公会議の「信教の自由」という教えがカトリック教会の聖伝の教えと全く矛盾対立するということを指摘するに留まらないこと、つまり、教会と国家という限定された領域だけの話に限らないことを指摘したいと思います。

 キリスト教の秩序を「人間の自由」と代替しようと哲学上の戦争が過去3世紀にわたって繰り広げられてきました。そしてその中で政治の領域は長い間、形而上学的な戦いの象徴的な戦地と考えられていました。しかし現代では、この戦いは「全面戦争」に突入している感があります。何故なら、人間、天主、世界、全てがこの戦争に巻き込まれているからです。人類は、その歴史の新しい段階に入ることを望んでいます。この新しい時代において、人類は成長し大人となり、自分自身とその環境に自分の力を行使することが出来るものとなったと考えます。

 もし「信教の自由に関する宣言」の力を測り、そのテキストの言っている内容をその額面通り受け取るなら、第2バチカン公会議の間に問題となっていた信教の自由とは、過去3世紀の間、常に問題となっていたその自由のことです。

 ギリシア神話によれば、プロメテウスは、天上の火を盗み人類に与えたためにゼウスの神の怒りに触れ、岩に縛られ毎日ハゲタカに肝臓を食われた、とあります。第2バチカン公会議の「信教の自由」は、現代のプロメテウスの新しい観点を持った「プロメテウス的な自由」と言うことが出来るかもしれません。かつてなかった状況にある現代のプロメテウスは、ゼウスを必ずしも敵として考えるのではなく、むしろ「選択」として、一つの可能性として考えるのです。おかしなプロメテウスである現代人は、ゼウスとは、結局、個人的な選択肢だ、自分の権利だ、と考え、言い始めました!

 もはやその時、天主に対する単なる反逆ではありません。この反逆それ自体が一つの選択肢になり、権利になったのです。或る意味で全くの無関心から始まってその他の多くの態度を含む、人間が自己を確認するために許されている選択肢の一つとなっています。宗教的なものがいろいろなやり方で、人間の解放、人間の栄光とその安楽に役立っている限り、すべての宗教は良いものとなるのです。これが現代の信教の自由の概念であり、第2バチカン公会議が取った立場です。

 この意味での良心の自由は、グレゴリオ16世、ピオ9世などの教皇たちによって排斥され断罪された自由です。私たちは、これらの偉大な教皇様たちとともに、このような信教の自由を排斥し、間違っていると言います。私たちはグレゴリオ16世が何故これらの新しい自由を「狂気の沙汰」であると呼んだのか良く理解します。新しい自由は、人間の意志を全ての上に置き、宗教・政治・道徳の全ての秩序の起源とすることをその目的としているからです。

(続く)

文責:トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)