マニラのeそよ風

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第203号 2003/10/25 聖母の土曜日


 「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(「教会憲章」1番)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その8 新しい人間と新しい宗教>

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、

 私たちは既に教会が「手段」になってしまったと言うことに触れました。兄弟の皆様の中には、教会が「手段」である、という表現で何故いけないか、と思われる方がおられるかもしれません。

 教会は私たちの救いのために必要で、その必要性は「手段」としての必要性である、と言われえます。たしかに教会は私たちの救いの手段であると言えますが、それだけである、というところに問題があるのです。教会は、キリストの継続・延長です。教会はキリストの神秘体です。私たちの救霊の努力は、私たちがこの神秘体の一員となること、教会の一員となることです。教会の一部とならずに、キリストの神秘体の一部となることはできないからです。

 教会の一部となるとは、つまり教会の一部として生きる、ということです。教会の一部として生きると言うことは、教会全体のために生きる、ということです。一部は全体のためにあって初めて一部なのです。一部にとって、全体は「手段」ではありません。

 私たちは、教会というキリストの神秘体の一部として自覚を持って生きているのです。私たちは、私たちの知性と意志とを、神秘体の知性と意志とに従わせようとするのです。私たちは、私たちに超自然の命を与えてくれた教会を母として愛し、母に自分の命さえも与えたいと思うのです。母は手段ではありません。自分の命さえも犠牲にしたいと思う母は、私たちの利益のための道具ではありません。

 教会は、そこらにある愛好会や血縁による家族ではありません。教会は、人間の創ったものではなく、天主ご自身の作った超自然の社会で、この世が存在する以前から、人間の永遠の救いのために天主の御旨によって存在することを望まれたものです。目に見える地上のカトリック教会は、この人類を救おうという天主の御旨の時と場所における実現です。私たちはその実現の一部となるのです。

 そしてこの意味において、教会は私たちの目的なのです。私たちは教会の一部となるために創造されたのです。私たちが使徒信経で唱える「諸聖人の通功」とは、まさに凱旋・戦闘・苦しみの教会を通したキリストの神秘体の愛における一致のことではないでしょうか。

 聖イレネオはこう言っています。

 「教会のあるところ、そこに天主の霊がある。天主の霊のあるところ、そこに教会と全ての聖寵がある。」(Adv. Haer. III, 24, 1)

 そして私たちはこの教会の一部となるように招かれているのです。天主はイエズス・キリストにおいて私たちを救おうとしましたが、つまり私たちがキリストの神秘体の一員となることを望まれたのです。教会に属することなく、私たち人間は私たちの創造の目的を達成することが出来ないのです。だからこそ、使徒の時代の教父たちを始め多くの教父は、「教会の外に救い無し」と繰り返し説きました。

 私たちの救いを決定的に決めるこの超自然の現実に関して、第2バチカン公会議は別の見解を示しました。「教会憲章」の第1段落の序文から教会の定義として、人間に奉仕する手段としてだけ教会を描いています。教会を何よりも人間に仕えるものとして、人間へのサービスとして描くのです。「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」。(更に「現代世界憲章」の3番も、教会は「奉仕するために」ある、と言っています。)

 この言葉を教会の定義だと考えるとすると、教会は2つの対象に従属することになっています。一つは、人間と「神との親密な交わり」、もう一つは人間同士の「全人類の一致」です。「教会憲章」が開いたこの観点は、教会の神秘をも規定するようになるのです。

 既に申し上げましたが、「全人類の一致」ということはあまりキリスト教的な考えではありません。しかし第2バチカン公会議においては中心的な思想となっています。「全人類の一致」こそ、第2バチカン公会議によって「期待された全教会の刷新」(「司祭の養成に関する教令」1番)の目的であり、「一致の促進は教会の深遠な使命と一致する。教会は『キリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしである道具』だからである。」(「現代世界憲章」42番)


 反論があるかもしれません。

 「全人類の一致」とはよいことではないか?

 -天主聖父は、キリストにおいて全てを一つに集めようとする計画を永遠の昔から立てました。しかし、第2バチカン公会議で言われている「全人類の一致」とは、キリストの下に全てを集めることではなく、キリストのいない「全人類の一致」です。ですから、これはキリスト教的な考えではないのです。

 別の反論があるかもしれません。

 「神との親密な交わりのしるしである道具」ということも言われているではないか、だから政治的な観点だけではない、と言うべきではないか?

 -すでに申し上げたように、このように教会を表現することには大きな疑問の余地があります。何故なら、教会は「道具」を越えて、私たちの救いの場であり、私たちの救いそれ自体だからです。私たちは、キリスト者として教会の一部となり、そうなることによって私たちが救われるからです。

 第2バチカン公会議の観点は、その反対です。教会は「現代世界憲章」が述べているように人間がより人間らしくなるための「道具」なのです。私たち人間が教会に奉仕し、これに従うのではなく、第2バチカン公会議は、教会こそが人間に奉仕するためにある、教会は人間の願いに合わせて、自分を変えなければならない、典礼を適応させ、司祭の養成を適応させ、そのメッセージを適応させなければならない。ヨハネ23世が第2バチカン公会議開催の演説で述べたように、教会は新しい目的に自らをアジョルナメント(現代化)しなければならないのです。ではこの新しい目的とは? それは人間への奉仕(サービス)と言うことです。


 この立場の逆転のために、教会の役割、教会の機能、教会のアイデンティティーまでが危機に陥ってしまいました。教会は、今後、政治的使命を担ったという自覚を持ち始めます。

 「教会は救いを固有の目的として追求し、神の生命を人間に与えるだけでなく、ある意味でこの生命が反射させる光を全世界に投げかける。それは主として、人間の尊厳を回復させ、高め、人間社会の結合を強め、日常の人間活動にさらに深い意味と重要性を与えることによって行なわれる。このようにして教会は、その個々の成員と全共同体とを通して人類家族とその歴史を、いっそう人間らしいものにするために大いに寄与できると信じている。」(「現代世界憲章」40番)

 教会は、かつては自分の持っていた超自然の目的を追求し、その副産物としてこの地上の福祉に役立つことも為されていました。天主の十戒を守るように働きかけたが故に、人々が尊重されました。しかし第2バチカン公会議の観点は、全く違います。教会は人間をいっそう人間らしいものにするために、人類家族をもっと人間らしいものにするために、歴史をもっと人間らしいするもととするために貢献することをその使命とするのです。ここでは教会は、人間の人間化という目的のために、「人間らしさ」という新しい自覚のために、従属するものとなっているのです。

 教会が、人間の人間化という目的の「道具」であり、それに従属するという秩序はあまりにも堅固なものであり、教会は、人間への奉仕のために全ての宗教、霊的勢力と緊急に協力体制を整えなければならないと自覚したほどでした。

 「そのうえ、この同じ使命を果たすために他のキリストの諸教会および諸団体が協同して寄与したこと、また寄与していることを、カトリック教会は喜んで認め、高く評価する。・・・」(「現代世界憲章」40番)

 第2バチカン公会議のテキストでは「他のキリストの諸教会および諸団体」と、「キリスト教」のみが書かれました。しかし、この「協同」の精神は、第2バチカン公会議後、全宗教にまで広がりました。

 ヨハネ・パウロ2世教皇様は、1986年と2002年にアシジで世界諸宗教サミットを開催し、このアシジの宗教サミットこそ、第2バチカン公会議のテキスト(文書)を正しく理解するためのイラストレーション(挿絵)である、と説明しました。このアシジの諸宗教大会は、この世の同じ共通の目的を果たすために、他の諸宗教および諸団体が協同しなければならない、という精神をよく現しています。

 カトリック教会はこれからは、世界の平和のために諸宗教共通の祈りをつくるようにイニシアチブを取るようになりました。第2バチカン公会議の最中には、アシジの諸宗教祈祷会などは想像もつかなかったことかもしれませんが、しかしこの宗教サミットは「現代世界憲章」のテキストに基づいて為されたのでした。テキストは、公会議の教父たちの意向を越えていることをはっきりと語っています。そしてその文字面をそのまま理解した論理的帰結が、いま私たちの眼前で繰り広げられているのです。


 この論理を実践し、新しい教えを作り上げるためには、2つの段階があることが分かります。まず第2バチカン公会議は、新しい人間主義、新しいヒューマニズム、より人間らしくなることを唱えます。

 「完全な人間であるキリストに従う者はだれでも、より完全な人間となるのである。」(「現代世界憲章」41番)

 そして、第2段階として、この「キリストに従う sequela Christi 」は、必ずしも、自覚していなくても良いと言うことになっています。

 「事実、神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。・・・キリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。事実、キリストはすべて人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。」(「現代世界憲章」22番)

 人は、人間らしくなればそれでよいのです。この世界と教会との「共通の目的」である「人間存在の意義、すなわち、人間についての奥深い真理を明らかにする」(「現代世界憲章」41番)ことができれば、それでよいのです。新しいヒューマニズムに進むことによって、より人間らしくなることによって、「神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘義にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない」(「現代世界憲章」22番)のです。キリスト者という自覚がなくてもよいのです。キリストに従おうと思っていなくてもよいのです。

 「キリストは、父とその愛の秘義の啓示によって、人間を人間自身に完全に示し、人間の高貴な召命を明らかにする」(「現代世界憲章」22番)のであり、「人間の心の奥底にある望み」(「現代世界憲章」21番)を人間に啓示するのです。キリストの神秘と人間の神秘とは、一つである、と第2バチカン公会議は言います。

 これは一体何を言おうとしているのでしょうか? 私たちは、第2バチカン公会議の最も奥深くの秘密に辿り着こうとしています。


 第2バチカン公会議までは、キリストの神秘について神学で議論しました。人となった天主、イエズス・キリストの神秘です。例えば、カルケドン公会議の教えの内容、同じペルソナにおいて、2つの本性(無限の天主の本性と、創られた有限の人間の本性)が存在している、とはどうやって理解するのか、など、天使さえも把握することの出来ないような問題を論じていました。

 しかし、第2バチカン公会議以降は、人間の神秘について語り始めます。人間のこころの奥底にある神秘・秘密という次元です。第2バチカン公会議は、これを「人間の中に置かれた神的な種子」(「現代世界憲章」3番)と呼びます。人間の良心も善と悪を区別する判断力と言うよりも、第2バチカン公会議によれば、「良心は人間の最奥であり聖所」(「現代世界憲章」16番)であって、公会議のテキストの中で、良心が人間の神秘の確信として現れてきます。「そこでは人間はただひとり神とともにあり、神の声が人間の深奥で響く。」(同) 人間の中にある「天主性」という観念へ向かって第2バチカン公会議のテキストは進んでいます。

 若きウォイティワ神父は既に1950年代に同じ事を発表していました。この論文は1980年にフランス語で「霊と真理において En esprit et en verite 」という本として出版され、その中の『人間の神秘』というタイトルの論文がそれです。司教として、若きウォイティワ司教は第2バチカン公会議の第13草稿を起稿するために働きます。そしてそれが「現代世界憲章」となりました。教皇様として、ヨハネ・パウロ2世の名のもとに「現代世界憲章」の既に引用した部分に決定的な重要性を与えます。そのようなことは、公会議に参加していたその他の顧問たちは、そこで為されていた知的革命について一言も言わなかったにもかかわらず。

 近代主義の「内的生命主義」(宗教は、人間の内面から生じる自然の感情の結果であるとする論)との対話において、公会議の教父たちは、それがどこまで意味するのかを深く掘り下げることなく、人間の霊魂の「天主性」についての概念に出会ったのでした。現代の物質主義に辟易していた教父たちは、スピリチュアリスムを許しつつ、このような現代のグノーシスの中心概念である人間の天主性という考えを受け入れてしまったのでした。


 第2バチカン公会議の人類学的な考察は、哲学の領域から生まれたのですが、公会議のテキストは哲学からこのような考察を取り去り、それを神学の母胎に植え付けようとします。そして全てのキリスト者たちを引きつけるようなやり方で、このグノーシス的な概念を形成し、超キリスト教の見かけを取ったのです。そしてこの観点において、「現代世界憲章」の有名な22番では、「神の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた」という「神学」を作り上げるのです。

 どうして、キリストを人類と同一視することができたのでしょうか? 公会議の教父たちは、そのことを説明しています。つまり、ほとんどプラトン的な本性についての考え方でこう言います。

 「人間性はキリストの中に取り上げられたのであって、消滅したのではない。このこと(=御托身=受肉)自体によって、人間性はわれわれにおいても崇高な品位にまで高められたのである。」(「現代世界憲章」22番)

 「キリストの中に」おいてちょうど「われわれにおいても」同様であるように、人間本性は、一種の自存する「種類」に似ているものであり、全ての人々にとってそうであるように、決定的に変化を受け、超自然とものとなった、天主の御言葉が人間本性と一致したが故に、そのことによって自動的に、全ての人にとって人間本性は天主化した、というのです。あたかも、天主の御言葉が真の人間本性を(天主の本性において消滅したのではなく)取り入れたことによって、自動的に、全ての個々人を天主まで引き上げた、あたかもキリストの天主性が、全ての人々の天主性を実現させた、かのように語ります。

 事実は、聖トマス・アクイナスが説明するように、私たちは信仰によって天主においてあるようになるのです。こころと口とを持ってキリストが天主であることの信仰を宣言し、キリストの神秘に一体化する人々は、キリストの教会においてあり、彼らはキリストと共に一つの神秘的なペルソナを形成するのです。

 しかし、第2バチカン公会議は更に遠くに離れて行きます。

 「このことはキリスト信者ばかりでなく、心の中に恩恵が目に見えない方法で働きかけているすべての善意の人についても言うことができる。」(「現代世界憲章」22番)

 つまり、先ほども申しましたように、人間本性の中に既に天主性が与えられており、全ての人はより人間らしくなろうとする限りにおいて、この天主性に参与している、ということです。

 このようなことは、正統的な聖伝のカトリックの教えとは何らも関係がありません。聖伝の教えはこうです。私たちは、天主の聖寵によって、自由に選択することによって、私たちは天主の超自然の聖寵において、それに参与することによって、天主化される、これです。私たちは、自由選択能力のある意志を使って、新しい存在形式を望まなければなりません。

 ところが、第2バチカン公会議では個人的な自由の選びは重要ではなく、全ての人々は、人間であると言うことそれ自体によって、つまり人間性を持っていると言うことそれ自体によって、自覚していようといなかろうと、キリストが取り入れた人間性を持つが故に、天主と一致していると教えるのです。

 ここで私たちは、既に見た手段と目的とがひっくり返っていることの意味をよく理解することが出来ます。天主となった人間が、御言葉の御托身(=受肉)という事実によって天主化した人間が、教会の目的となるのです。そして、天主化した人間らの前で、教会はしばしば罪深い存在として現れるのです。

(続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!

文責:トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)