第200号 2003/10/23 証聖者 聖アントニオ・マリア・クラレットの祝日
聖アントニオ・マリア・クラレット
アヴェ・マリア!
兄弟の皆様、
先日、ある信者の方が故西村良次神父様のお書きになった『宣教事始』(中央出版社1989年)という本を私に貸して下さいました。ここには大阪教区の歴史が記され、多くの立派な宣教師と神父様方の燃え立つ愛徳とご苦労とが忍ばれ、非常に学ぶところが多く思いました。明治初期のキリスト教信者の受けた迫害と苦しみ! 祖国に帰ることもなく霊的に不毛の土地である任地に踏みとどまって骨を埋めるまで日本人の救霊のために骨身を削って働かれたにもかかわらず、今は忘れ去られてしまっている多くの宣教者たちの御生涯! 和歌山教会のシュケ神父様、ゼレー神父様、立派な夙川の聖テレジア教会を建設されたブスケ神父様などなど。これらの先人たちの貴重な信仰のいさおしを模範に、天主の御助けによって、私たちの主イエズス・キリストの御国の発展のために、ますます祈ろうという気持ちが高まるのを感じました。
ブスケ神父様は、北野教会の有名な「月報」のなかで、1910年3月号にこんなことを書かれています(上掲書166ページ)。
1 |
職業に励まず、信者の家を渡り歩いて人々の批評をする人がいるが、これは止めて頂きたい。 |
2 |
教会からの訪問を公平にしてくれないという声があるが、信者の増加に従って、伝道師・伝道婦を増員できない状況では熱心な信者の家庭訪問は出来なくなった。・・・ |
3 |
信者間では絶対に金の貸借をしないこと。 |
4 |
いろいろな理由にかこつけて、日曜日、祝日のミサを怠ってはいけない。 |
5 |
復活祭には公教要理の試験を全信者に行うからよく準備しておくこと。 |
6 |
教会の発展とともに悪魔の働きと妨害も大きくなるからよく気をつけること。 以上。 |
私たちも、ブスケ神父様からのご注意を自分のものと致しましょう。私たちの熱心は、本物の熱心であり、いわゆる「苦々しい熱心」ではないように致しましょう。
以下の文章は、まず、自分自身に言い聞かせながら書いています。(聖ピオ十世会の Alain Delagneau 神父様の書いたものを参考にしました。)
真の熱心は、天主への愛から出る熱心です。
苦々しい熱心は傲慢、自分の意志、自己愛から出るものです。
良い熱心は、善意の人の心を動かし、善へと導きます。
苦々しい熱心は、人の心を占め閉ざします。
真の熱心は、天主の栄光を求めます。
苦々しい熱心は、自分のすごいことを顕示することを求めます。
良い熱心は、真理への愛、霊魂の善を求めます。
道を誤っている人を優しく忍耐強く正しい道に連れ戻そうとしますし、愛を持ってその人の善を求めて、注意します。明らかに悪意である場合には、その誤りを毅然と指摘します。
苦々しい熱心は、自分が正しい、他人が間違っている、ということを求めます。
全てについて自分個人の見解は常に正しく、これを受け入れない人々は敵であり、皆の前で辱めてもかまわない、と考えます。 「主よ、私が、他の人のように、食欲な人、不正な人、姦通者でなく、またこの税吏のような人間でないことを、あなたに感謝いたします。」(ルカ18:11)
良い熱心は、誤りを憎みますが、その誤りに陥っている人を憐れみます。ある人に間違いが一つあったからと言って、その人全人格を否定することはありません。
苦々しい熱心は、聖伝のミサに与っているから私は良い人、新しいミサに与っているからあなたは悪い人、とカテゴリーをつけるでしょう。
真の熱心は、カトリック教会の現状を見て、天主の御稜威と名誉が傷つき、多くの霊魂が悪と誤謬へと誘われているのを知り、悲しみ、苦しみます。それを償うために犠牲を捧げよう、と思います。
苦々しい熱心は、カトリック教会の苦しみを人ごとのように思い、その病を馬鹿にし、権威ある役職に就いている方々の人格をおとしめます。
苦々しい熱心は、偽善的で、他人には厳しいのですが、自分自身の欠点や惨めさには盲目的です。
「なぜ、兄弟の目にあるわらくずをみて、自分の目にある梁に気をとめないのか。また、自分の目に梁があるのに、なぜ、兄弟にむかって、あなたの目のわらくずを取らせてくれといえるのか。偽善者よ、まず、自分の目から梁をとり去るがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目のわらくずも取ることができよう。」
ですから、兄弟の皆様、天主の御助けによって、謙遜、天主への愛、忍耐、霊魂たちの救いに私たちが進歩しますように、互いに祈り合いましょう!
真理と善徳とは、何よりも頭の中にだけある「観念」ではなく、天主を愛する、ということから生まれ出るものだからです。
ロザリオの聖母よ、
我らを回心させ給え!
善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!
トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)