マニラのeそよ風

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第195号 2003/10/17 聖マルガリタ・マリア・アラコックの祝日


Pope Paul XI
 「第2バチカン公会議の後、教会の歴史に燦然と太陽の輝く日がやって来ると思っていた。しかし実際にやってきたのは、その反対に、曇りと嵐と暗闇の日だった。」
(パウロ6世)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その7 第2バチカン公会議の平和

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 パウロ6世は自分の考えを、よく自分自身に反論する形で表明するのを好みました。あるときパウロ6世はこう言ったことがあります。「教会は、あまりにも厳しいドグマ的な態度、思想や思想家を直ぐに判断しようとする傾向によって、自由な回心と人々の一致を妨害している。教会はこの世において、一致をもたらす代わりに、分裂の原理である。しかし分裂、不和、議論などは、教会の普遍性とその聖性と相容れることが出来るだろうか?」

 そしてこの反論に自分で答えてこう言います。「教会は分裂の原理ではなく、区別の原理である。この区別は、言語の区別、文化、芸術、職業の区別と似ている。」

 パウロ6世は、こう言いながら、自分の言っていることが聖福音とかけ離れていることに気が付いたようです。そこで、基本的な主張はそのまま残しますが、少し修正を施そうとしてこう言います。

 「キリスト教は、人類に為す善の結果として、分離と対照の動機ではありえる。光は暗闇に輝き、人類空間のいろいろな部門を区別する。しかし教会の天才的なところは、人々に対して戦うことではなく、もしも戦わなければならないとしたら、人々のために戦うことである。」(1965年12月25日パウロ6世、この同じ文章をロマノ・アメリオは Iota Unum # 59 で引用しています。)

 ところで、教会は「分裂」ではなく、「区別」しかしない、と言ったパウロ6世は、数年後の1972年6月30日こう言わざるを得なくなります。「どこからか、サタンの煙が天主の神殿の中に入ってきた。」「第2バチカン公会議の後、教会の歴史に燦然と太陽の輝く日がやって来ると思っていた。しかし実際にやってきたのは、その反対に、曇りと嵐と暗闇の日だった。」

 一体何故? 一体何故曇りと嵐と暗闇が教会にやって来てしまったのでしょうか? それは、聖福音の平和ではなく、キリストが言われたとおりの聖福音の「分裂」をそのままではなく、偽りの平和を与えようとしたこと、聖福音を訂正しようとしたことが原因ではなかったではないでしょうか。

 「私は、地上に平和を与えるために来たのではない。むしろ分裂のために来た」と言う代わりに、パウロ6世は「私は、地上に平和を与えるために来たのはない。むしろ区別のために来た」と変更したからです。宗教は職業と似ているのでしょうか? カトリックとイスラム教は、パン屋さんと本屋さんぐらいの「区別」しかないのでしょうか? 信仰とは、真理であるイエズス・キリストへ絶対の愛を捧げることではないでしょうか? それとも、真理とは関係のない職業の選択のように、自分の気に入ったもの、自分の都合の良いものを、好きなようにそれぞれが自由に選ぶことが出来るのでしょうか?

 第2バチカン公会議が求めた平和とは、まさしく、真理とは切り離された、信教の自由の宣言の精神に基づく「平和」だったのです。人間に基づく、人間の主観と好みに基づく、「区別」による平和です。そこには真理と誤謬との分裂はありません。全ての違いは、「区別」にすぎないので、全ての人々は互いに和解し、統一するのです。それが第2バチカン公会議の求める、キリスト教と呼ばれるさまざまな派の間の平和であり、諸宗教の間の平和なのです。そしてこの新しい平和、第2バチカン公会議の平和を作り上げるために、カトリック教会に関する新しい概念が作り上げられることになったのです。

 そのような観点において、もはや、カトリック教会は唯一の救いの箱船などと言えなくなってしまいました。

 聖ペトロは、その最初の書簡(1ペトロ3:20)の中で、ノエの洪水から数名の人を救った箱船について語りますが、まさにカトリック教会のかたどりだったのです。第2バチカン公会議にとって、洪水があろうとなかろうと、黙示録的な時代であろうと普通の時代であろうと、とにかく、現代は平和を求めているのであって、何としてでもこの平和を求めなければならず、この平和のためにはカトリック教会が選ばれた人々の共同体、で、カトリック教会だけが・・・、とは考えることが出来なくなってしまったのです。教会に属する人と属さない人があると言うことは、分裂のもとになる、このような教会観はもう終わりにしないといけない、全世界の信仰者は、人類の霊的一致を期待している、人類は公会議にその召命を与えた、教会はその要望に答えなければならない、という態度を残念ながら取り始めました。そのため、もはや滅びから私たちを救う唯一の救いの箱船でもなければ、天主の招集に応じて集まった人々の共同体でもなければ、独自の立法と司法と権威を持った完全な社会でも、自然とははっきりと分離された超自然的な社会でもない、それらのような定義はもう時代遅れで、現代の平和の望みと合致しない、と言うことになってしまったのです。

 カトリック教会は、第2バチカン公会議の教父たちによって、人類のために仕える手段になってしまいました。人類という崇高な存在に奉仕し隷属する手段におとしめられてしまいました。人類のその他の人々から区別された選ばれた超自然的な社会ではなく、教会は、人類共同体の前で、人類の一致の「しるし」である以外の何ものも望まないことになりました。カトリック教会は、キリストの神秘体として、私たちに超自然の命を与える母として、私たちが教会に仕えるのではない、というのです。私たちがカトリック教会の一部として、教会に奉仕するというのではないのです。教会の一部である私たちは、キリストのために、キリストの教会のために、教会を目的として働くのではなく、教会は「手段」であって、人間共同体が教会の「目的」になってしまったのです。教会の「超自然的な」存在において、教会は、人類の統合と一致のために単なる方向性を示すもの、機能、道具、しるしと成り下がったのです。なぜなら、カトリック教会を越えて、既に救われている全人類こそ、彼らが望もうと望まないと、「神の民」であるからです。

 カトリック教会は、もはや「救いの場」(第4ラテラノ公会議)ではありません。そうではなく、第2バチカン公会議によれば、カトリック教会は道具なのです。もっと正確に言うと、人類の救いのためにいろいろあるその他諸々の道具の内のひとつ、なのです。このカトリック教会という道具の目的は、人間です。カトリック教会は、人間への奉仕のために存在する道具の一つなのです。全ての宗教は、通常の救いの道具であり、宗教の違いは、道具の違いであって、互いに排除することはないのです。これが第2バチカン公会議の新しいエキュメニズムの基礎であり、諸宗教間の対話の基礎となりました。

 だからこそ、第2バチカン公会議は教会を「救いの普遍的秘跡」(「教会憲章」48番)と考え、「しるし・道具・手段」としての地位しか与えませんでした。そして次の有名なテキストによってこれを表明します。「この教会(=キリストの唯一の教会)は、カトリック教会のうちに存在する。しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされる」(「教会憲章」8番)。「この世に設立され組織された社会として」(同)のカトリック教会の外にも、聖化の手段としてキリストの教会は広がっている。だからこそ、ヨハネ・パウロ2世教皇様は、1986年12月22日、アシジに諸宗教の集いを招集する理由を説明して、はっきりと、いろいろな違う宗教は、天主の救いの唯一のご計画のいろいろな制限であること、それぞれの宗教は、人類の救いのためにそれぞれに役立っていること、全ての諸宗教は、天主のご計画において、また同時に人類の「根本的で決定的な一致」において、深く結びついていること、を述べたのです。パウロ6世の直感した「いろいろな宗教の間には、分裂ではなく区別があるだけだ」ということは、こうしてアシジの諸宗教の集いではっきりとその意味することが現されました。

 第2バチカン公会議の権威ある解釈者であるヨハネ・パウロ2世教皇様は、第2バチカン公会議のテキストを、公会議が望んだまま解釈し、その論理を結論まで推し進めました。ヨハネ・パウロ2世教皇は、カトリック教会を越えたところに、そして教会のもつ、救いのための全ての霊的手段を越えて、そしてその他諸々の霊的手段を越えて、その本質的一性において分裂することのない人類共同体という唯一の共同体があるということを受け入れました。第2バチカン公会議が告げる平和は、人類が自分自身に与える人間の尊厳という価値のもとに一致する人類の平和でした。そして教会は、この尊厳ある人類に無条件の奉仕を約束したのです。ここに、第2バチカン公会議の教会の「神学的な」計画と、フリーメーソンの計画とは一致を見ているのに気が付きます。第2バチカン公会議の教会とフリーメーソンとが、まだ一つになったわけではありません。しかし両者のもつ世界観が似通っているのは驚くほどです。そして第2バチカン公会議の直後、教会のアイデンティティーの問題が重くのしかかってきましたし、これからものしかかることでしょう。

 オーストリアのザンクトペーテン(Sankt Poeten)のクルト・クレン(Kurt Krenn)司教は、1991年にこう言っています。

 「教会は、人権擁護運動の部門であったから、しかも最も活動的で効果的な部門であったから2000年間も生き延びてきたのだろうか? 多くの人々はそう考えている。しかしこの見方は不可避的に次の結論へと導かれる。現代の状況はより大きな自由と大きな人権が保障されているのであるから、教会はその使命を果たした、教会にはもはや魅力がない、教会は多くの信者を失うしかない、という結論です。」(トレンタ・ジョルニ誌1991年11月号)

(続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!

文責:トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)