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第191号 2003/10/15 アビラの聖テレジアの祝日

アビラの聖テレジア

 地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならないということについて、信ずる者も信じない者も、ほとんど意見が一致している。」(「現代世界憲章」12番)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その5 第2バチカン公会議の「新しさ」

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 では、第2バチカン公会議の「新しさ」とはいったい何なのでしょうか? パウロ6世はこう言いました。「ヨハネ23世によって、『刷新』『アジョルナメント(=現代化)』これらの言葉は、プログラムとして私たちに委ねられた」(オッセルヴァトーレ・ロマーノ1974年5月3日)。第2バチカン公会議にとって「刷新」とは付録ではなく、公会議の教父たちの考察の第1の主要動機だったのです。

 第2バチカン公会議の「新しさ」を知るには、そのテキストに何と書かれてあるかを知らなければなりません。

 「現代世界憲章」はこの「新しさ」のより正確な意味を私たちに示しています。

 Ipsa historia tam rapido cursu acceleratur.「歴史の経過そのものも、動きが早く、かく個人がそれについてゆけないほどである」(「現代世界憲章」5番)。

 公会議のテキストは更に続けて言います。

 「人類は、静止的世界観から動的・進化的世界観に移行したのである」(同)。

 公会議はそこでこう言います。

 「新しい諸事情は宗教生活にも影響する」(「現代世界憲章」7番)

 公会議が呼ぶところの「歴史」とは、人間についての新しい概念の到来としての「歴史」です。「時」の「はかなさ」ゆえに過ぎ去ったものとしての「歴史」ではなく、人類の一致という水平線を持つ将来の「歴史」です。

 「人類社会の未来は一つとなり、もはや過去のように種々の集団に分かれて、それぞれ別個の歴史を持つようなことはない」(「現代世界憲章」5番)。

 こうして、別個の歴史が一つになり、人類共同体としての「大歴史」は、人類の自由と解放の「大歴史」、人間が人間に人間のための法を制定する人間の国の到来の歴史、をという新しい意味を持つことになるのです。

 第2バチカン公会議が語る「新しい諸事情」「新しさ」は、天主の愛徳と全く関係のないものです。キリスト教的な超自然の「新しさ」と全く関係のないものです。第2バチカン公会議の言う「新しさ」は、この世の移り変わりの激しさによる、個人がついていけないほど動きが早いことによる、あくまでも自然の次元に留まる「新しさ」です。そしてこの「新しさ」を第2バチカン公会議は、素晴らしい!と感嘆しつつ私たちに提示して、賛美するのです。「公会議は現代人に対する愛と賛美に満ちていたのであります。」(パウロ6世)そして、既に述べたように、この世の天主の無い人間中心主義を見て、パウロ6世は教会もそれに協力するべきであるというのです。


<新しい課題>

 第2バチカン公会議のテキストはこう言います。

「そこから膨大で複雑な、新しい課題が生じ、それは新たな分析と総合とを要求している」(「現代世界憲章」5番)。

 この「新しい分析と総合」について、第2バチカン公会議は2つの新しい分野に取り組みました。一つは「政治」でありもう一つは「宗教」です。

 第2バチカン公会議のなそうとした政治的な新しさは、民主主義による世界の統一です。

 「現代世界憲章」を少し読んでみましょう。

「人類は造物界に対するその支配権をますます強固にすることができ、またそうしなければならないとの確信が強まっている。そのうえ、人間にもっと役立ち、また個人や集団が自分の尊厳を維持し発展させることを助ける政治的・社会的・経済的秩序を制定でき、またそうしなければならないとの確信が強まっている。」(9番)

 では、この人間のための、人間への奉仕のための、人間が尊厳を維持し発展させることを助けるべき、新しい政治的・社会的・経済的秩序とはどのようなものでしょうか?

 「多くの人は不正または不公平な配分によって自分たちから富が搾取されたという意識を強く持ち、その返還を激しく要求している。新興独立国のように発展途上にある国は、政治面だけでなく経済面においても現代文明の恩沢に浴することと、自分の役割を世界において自由に演じることを望んでいる。しかし、これら発展途上にある諸国と他の富んでいる諸国との間では、後者の発展速度のほうが早いため、両者の間隔はますます広がっているとともに、しばしば前者の後者に対する依存度は経済面においても、男女同権がまだ実施されていない所では、婦人たちはそれを要求している。工業労働者と農業労働者は生活費をかせぐばかりでなく、労働を通して人間を豊かにすること、さらに経済・社会・政治・文化生活の組織化に参加することを望んでいる。・・・」(「現代世界憲章」9番)

 これはどこかの国の共産党の綱領ではありません。第2バチカン公会議の公式文章なのです。民主主義にあまりにも単純に陶酔している(幻覚を抱いている?)ことが、まさしく第2バチカン公会議に固有の特徴と言えます。社会主義化と自立化によって人間の「豊かさ」が得られるという幻想です。

 「これらすべての要求の中には、もっと深い、もっと一般的な期待が秘められている。すなわち、個人も集団も、人間にふさわしい満ち足りた自由な生活、現代世界が人間に豊かに提供するあらゆる可能性を利用できる生活を渇望している。そのうえ、諸国家は一種の人類共同体を作ろうと懸命に努力している。」(「現代世界憲章」9番)

 この夢想に対して、公会議の教父たちはどのような態度を取ろうとしたのでしょうか? 教父たちは人間に対して奉仕をしなければならないと言います。

 「それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、人間の中に神的な種子が置かれていることを肯定し、人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。」(「現代世界憲章」3番)

 事実は小説よりも奇なり、とは言いますが、第2バチカン公会議で言われたことは、小説の内容を越えたものでした。第2バチカン公会議は、キリスト教的な「新しさ」を政治の次元に置き換えて実践しようとするのですから。

 聖ヨハネは、黙示録でこう書いています。「私たちを愛し、そのおん血によって私たちを罪からあらいきよめ、その父なる天主のために、私たちを司祭の王国とされたお方に、世々に光栄と権能があるように。アメン」(1章)。第2バチカン公会議は、「天主なる聖父の王国」について語ったでしょうか? イエズス・キリストが教えた柔和と謙遜と天主への従順における内的・霊的いけにえを捧げる「司祭職」について語ったでしょうか? 天主の愛徳(カリタス)によってのみなされるキリスト教的な「新しさ」、超自然の命における「刷新」、「古い人」を脱ぎ捨てて「キリストを着る」ことは、どうなってしまったのでしょうか?

 第2バチカン公会議を聞くと、今までのキリスト教が教えてきた「新しさ」は、新しい歴史の流れにおいて、「人間の崇高な召命」の前に消え失せ、「人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために」解体しなければならない、場所を譲らなければならないことになるのです。

 さて、では第2バチカン公会議の訴えるような、「今日、人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変革がしだいに全世界に広まりつつある」(「現代世界憲章」4番)現代に対応する、「宗教」に関する「新しさ」とは何でしょうか? 第2バチカン公会議は、「すでに真の社会的、文化的変質について論じることができ、それは宗教生活にまで及んでくる」(同) と言っています。

 では「人類史の新しい時代」に対応する新しい人間観とは何でしょうか? 人間に関する新しい概念は何でしょうか? 第2バチカン公会議は言います。「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならないということについて、信ずる者も信じない者も、ほとんど意見が一致している。」(「現代世界憲章」12番)

 第2バチカン公会議の新しい人間に対応するヴィジョンによると、全ては人間に秩序付けられ、人間への奉仕のためになければならないのです。これはパウロ6世が閉会の演説で言ったこととピタリと一致しています。信ずるものも信じないものも、信者も未信者も、この人間への奉仕において一致しなければならないのです。

 パウロ6世は言うように「"人となった天主"を礼拝する宗教」は、「"自らを天主となす人間"の宗教」と出会い、「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」、人間は全ての究極目的である、と宣言したのです。だからこそ、教会と人類との協力は緊密なものでなければならない、と宣言したのです。

 私たちはここで、全人類の統一を告げる「政治」の観点と「人類への奉仕」という新しい概念によって開かれた「宗教」の観点とが重ね合わせになっているのに気が付きます。その時、パウロ6世が言ったように、「私たちキリスト者も、私たちもだれにもまして人間を礼賛するものなのです」と言うことに何の矛盾も見いだされなくなるのです。ここから、「宗教」それ自体が、カトリック教会とカトリック信仰が、人間への奉仕のためにのみ存在することになるのです。いえ、天主さえも人間のために、人間の奉仕に有益であってこそ初めて「真の」天主とさえ言えるのです。


 スーネンス枢機卿はこう言いました。「第2バチカン公会議、それは教会におけるフランス革命だ。」

 コンガール枢機卿も、公会議の第2期総会(1963年10月30日)についてこう言っています。「教会は平和的に10月革命を行った。」

 第2バチカン公会議の「宗教」に関する次元を見る限り、この公会議が何であったかがそのありのままの姿が分かります。コンガール枢機卿の言うように、第2バチカン公会議は「革命」だったのです。教会は、自分の持っていたメッセージをひっくり返したのです。「人間への奉仕」という公会議の中心的な概念の中に、キリスト教の転覆があったのです。「人間への奉仕」という新しい概念によってキリスト者の霊的なアイデンティティーが変化したのです。

 聖伝と聖福音の教えによれば、天主こそが人間の究極の目的であり、人間は天主への奉仕のためにあります。だからこそ、キリスト者は、真の天主であるイエズス・キリストへの奉仕のため、イエズス・キリストの浄配であるカトリック教会への奉仕のために喜んで身を捧げるのです。人間は、天主の命ずることを、イエズス・キリストとそのカトリック教会を通して聞き、天主を愛するために、それに喜んで従うのです。これが、天主の望まれた秩序です。全てをキリストの下に集める、つまり、全てをキリストの建てた教会の下に集めることです。

 ところで、第2バチカン公会議は別のことを言います。一度ならず、何度も繰り返してそれとは反対のことを言うのです。第2バチカン公会議の教会は、「人間への奉仕」のためにあり、教会の使命は人間に関わるものであり、人間が右に行けば教会も右に行き、左に行けば教会も左に行くべきで、教会はあくまでも人間に従属するもの、そして「人間は教会の道」なのです。人間は、教会の判断基準であり、その目的なのです。

 こうして教会は「人間への奉仕」のための単なる「手段」になります。人間という究極目的に合わせて、教会という手段は変わらなければなりません。全ては「人間」という測りで計られなければなりません。人間こそは、信じるものも信じないものも「意見が一致している」ものだからです。教会はこの新しい「人間」への奉仕のためにあるのですから、全ては、キリスト教的な「新しさ」、超自然の命の新しささえも、この測りで計られ、検閲され、フィルターにかけられるのです。そして、人間への奉仕のためにならないものは、受け入れられないのです。

 第2バチカン公会議は、キリスト教的な「新しさ」、超自然の命の新しさを取り壊し、それを別の新しい「人間への奉仕」というものと置き換えました。第2バチカン公会議は、イエズス・キリスト無しに「すべての人の兄弟的一致を確立するために」奉仕しなければならない、と言います。これは、いわば、第2バチカン公会議の「新しい宗教」と言えるのではないでしょうか? 何故天主への従属を、人間への従属と置き換えてしまうことが可能だったのでしょうか? 何故、教会の歴史において、このような逸脱が許されてしまったのでしょうか? 

 人間を目的と置くことによって、教会はいわば天主の代わりに人間をその地位に据えてしまいましたが、この「革命」は、上から押しつけられたものだったのではないでしょうか? この「上からの革命」は歴史上かつてなかったことでした。

(続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!

文責:トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)