マニラのeそよ風

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第187号 2003/10/11 聖母マリアの母性(天主の御母であること)の祝日


 「既におかれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を誰も置くことが出来ない」(1コリント3:11)

第2バチカン公会議についてよく知ろう!


その3 「この世」のもう一つの意味

アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、福音のなかには「この世」のもう一つの意味があります。

 つまり、「この世」とは、まず、「この世の精神」であって、目の欲、肉の欲、生活の奢り、自己愛、自愛心、天主のためではなく自分自身のために自分を愛することです。自分自身の賛美と栄光しか求めず、自分の利益と自愛心の奴隷です。聖アウグスチヌスによれば「天主を軽蔑するまでの自分への愛」です。

 ところで、聖伝によるとこれとは別に「この世」は、もっと直接的な意味において人間の集まりの中における特殊の悪性、暴力性、危害性をも意味しています。この意味において、「この世」とは人類であり、私たちを取り囲んでいる人々であり、じつは私たちの中にも巣くっている「世間のやっているように、世間と同じように、世間のように生きる」という弱さです。

 例えば、私たちの主はこう祈りました。「私は彼らをこの世から取り去って下さいというのではなく、悪から守って下さいと願います。」(ヨハネ17:15)聖トマス・アクイナスはこの「悪から守って下さい」とは「この世の悪から守って下さい」と言うことであると言っています。Serves a molo, scilicet mundi. 聖トマス・アクイナスによれば、悪人に囲まれて生きる人にとって、その悪の影響を受けずにいるのは容易なことではない、まして全世界が悪の中に落ち込んでいたとしたら totus mundus in maligno positus...、更に難しいからです。

 人々が集まることによって生じる悪とは何でしょうか? 人が集団になると生じてしまう悪とは? これは神秘です。しかし事実存在するもので、ヨハネはこう書いています。

 「兄弟たちよ、世があなたたちを憎んでも驚くな。」(1ヨハネ3:13)

 世は、足を引っ張って、下に下にと引きずり下ろそうとします。

 世は、崇高なことを憎み、気高いことを憎み、平凡ではないことを憎みます。

 この憎しみは、私たちの主イエズス・キリストに対してなされました。

 「私がこの世のものでないと同様に、彼らもこの世のものではありません。」(ヨハネ17:16)

 世間がするようなことをしないので、世間は彼らを憎み、引きずり下ろそうとするのです。

 「あなたたちがこの世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。しかしあなたたちはこの世のものではない。私があなたたちを選んでこの世から取り去った。だからこの世はあなたたちを憎む。」(ヨハネ15:19)

 福音は、この世が、イエズス・キリストの弟子たちに対して持つ憎しみについてはっきりと語っています。

 使徒聖パウロは、はっきりと私たちに「天にあるもの地にあるもの全てを、唯一の頭であるキリストの下に集める」(エフェゾ1:10)以外に、私たちにとって本当の平和と一致とはありえないことを教えています。何故なら「既におかれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を誰も置くことが出来ない」(1コリント3:11)からであり、キリストだけが「聖父が聖別して世に送られた」(ヨハネ10:36)方であり、「聖父の栄光の輝き、天主の本性の型」(ヘブレオ1:3)、真の天主かつ真の人であり、彼無くしては誰も、正しく天主を知ることが出来ない方だからです。何故なら、「聖父が何ものかを知っているのは、聖子と聖子が示しを与えた人のほかにはない」(マテオ11:27)からです。


 ところで、第2バチカン公会議のテキストは、この福音の精神から遙か遠くにあります。この世のキリスト者に対する憎しみについて語るどころか、この世との協力について語るのです。既に述べたように、教会とこの世は同じことを求めていると言うのです。第2バチカン公会議は、世界中でなされている社会化の運動の中に、将来の人類の一致をみてそれを褒め称えています。

 第2バチカン公会議のテキストは、将来来るべき世界一致がはっきりと「キリストの下における一致」であるなどとは決して言いません。教会は「パンだね」(複数)のうちの一つであるとは言うかもしれません。しかし、キリスト者は「この世の市民として」「同じ目的を追求する人々と自発的に協力しなければならない」(「現代世界憲章」43番)のです。第2バチカン公会議には、福音の語る人間集団に固有の神秘的な悪について、いささかも触れられないのです。福音は、人間集団に内属する神秘的な悪が存在するがために、イエズス・キリストのいない、純粋な人間だけの社会改革を全くのユートピアとして、絵に描いた餅として、排斥しているのです。

 「現代世界憲章」は、その正式名称「現代世界における教会についての司牧憲章」CONSTITUTIO PASTORALIS DE ECCLESIA IN MUNDO HUIUS TEMPORISですが、福音に描かれているとおりの「この世」の精神の悪さ、「現代世界」が非常にしばしば悪と不正と天主の拒否に凝り固まっていること、などについては、念頭にすら浮かんでいません。あたかも原罪が無く、あたかも天主への拒否が無く、あたかもイエズス・キリストを迫害しないかのように、あたかもカトリック教会はこの世と同じ目的を持っているかのように語られているのです! 他方で、現実はそうでは決してないことを私たちは知っています。例えば、第2バチカン公会議の時代は、共産主義が世界中に共産主義革命を展開するかの勢いを持っていたときでした。ベトナム戦争(1965年から73年)、ソ連のチェコ軍事介入(1968年)、共産主義諸国にいた司教たちの中には公会議に参列も出来ない司教もいました。そのような共産主義の脅威のただ中で、400名以上の教父たちが共産主義を公会議で排斥するように請願して署名しましたが、第2バチカン公会議は共産主義排斥を断固として拒否しました。第2バチカン公会議にとって、この「現代世界」には問題があってはならなかったのです。

 イエズス・キリストを否む現代世界、この現代世界に第2バチカン公会議は好意・好感・愛を示すのです。

 第2バチカン公会議は、天上の超越性を放棄している現代の人間中心主義的な現代世界に対して、限りない愛を示すのです。

 このことを言ったのは、第2バチカン公会議の主催者で最高責任者の一人、パウロ6世教皇様です。

 以下にパウロ6世の公会議の閉会の演説を引用したいと思います。

 「事実、公会議を開催した教会は、…人間について考察したのであります。すなわち、現代に生きる人間、自分のことだけに専心している人間、また自分がすべてのものの中心であると考え、自分がすべてのことの原理であり目的であると考える人間について考察したのであります。 … 世俗の天主なき人間主義がついに恐るべき巨大さをもって現れ、言わば公会議に挑戦して来たのであります。人となった天主を礼拝する宗教は、自らを天主となす人間の宗教 ---- なぜならそれも一つの宗教ですから ---- とが出会ったのです。何が起こったのでしょうか。衝突や紛争や排斥が起こる可能性はありましたが、そんなものは何も起こりませんでした。良きサマリア人の昔の話がこの公会議の霊性のモデルとなったのであります。すなわち、人々に対する限りない愛が公会議全体を侵略したのであります。この公会議は、地上の子らがますます自らを偉大に考えるにつれてそれだけ大きくなる人類の必要を、全力を傾けて考察しました。少なくとも公会議のこの努力を認めてください。天上のことの超越性を放棄している現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めることができるようになってください。私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼賛するものなのです。… 公会議は現代人に対する愛と賛美に満ちていたのであります。…」


 パウロ6世教皇様は、現代人がますます自らを偉大に考えるにつれて、それだけ人類の必要は大きくなっていることを認めています。現代世界は、現代に生きる人間は、天主など念頭に無く自分のことだけに専心しているのです、また人間がすべてのものの中心であると考えているのです、人間がすべてのことの原理であり目的であると考えているのです、現代世界は、天主よりも自分を偉大に考えているのです。

 そして、パウロ6世は、この人間について、排斥せず、その代わりにこう言うのです。「私たちも、私たちもだれにもまして人間を礼賛するものなのです。」

 パウロ6世が言った言葉は、その言わなかったことを明らかに言明しています。

 パウロ6世は、キリスト者には、現代世界とは別の「人間への礼賛」がある、とは言いませんでした。

 パウロ6世は、現代世界が持っている同じ「人間への礼賛」をキリスト者はさらに持っていると言うのです。

 フランス革命(1789年)以降、200年にわたって続けられた天主に対する反乱と革命、その神髄である「人間への礼賛」を、現代世界とともに教会は持っているのだ、と言明するのです。

 だからこそパウロ6世教皇様は、これからは、天主を頂点とするのではなく、すべてをキリストの下に集めるのでもなく、人間を頂点として全てを秩序付け、人間の上に新しい世界を立てるべきだと言ったのです。

 「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序付けられなければならないということについて、信ずるものも信じないものも、ほとんど意見が一致している」(「現代世界憲章」12番)。

 「皆さんが建設しているこの建造物は、ただ物的、地上的土台の上に立つものではありません。そうだとすれば、それは砂上の楼閣となるでしょう。むしろそれは、わたしたちの良心の上に立てられなければなりません。」(パウロ6世、公会議閉会の直前、1965年10月4日、国連にて『人類についての専門家』として 中央出版社:『歴史に輝く教会』416-426頁参照。)

 カトリック教会は、いままでは、フランス革命に始まる天主への反乱(自由主義革命、共産革命)という現代世界を排斥した来たが、これからは、そのようなことはもうしない、カトリック教会は、この現代世界とこれからは協力して、同じ「人間への礼賛」を実践する、と宣言するのです。

 「現代の人間中心主義である皆さん、私たちの新しい人間中心主義を認めてください!」

 第2バチカン公会議によって、パウロ6世教皇様は、カトリック世界の中で始めたいわば「文化革命」を開始することになるのです。これが第2バチカン公会議の「革新的」なことであったのです。

 そして第2バチカン公会議の「新しさ」は、福音の「新しさ」とは全く相容れないものなのです。福音はこの世に対して愛を抱かないばかりか、この世の偽りの「安全さ」「平和」を壊そうとするのです。福音は、「人類の必要はますます大きくなっている」などと認めず、今は現代人の心に眠るべつの「必要」、この地上のものではない、別の超自然の「必要」を揺り起こそうとするのです。

(続く)


 善きロザリオの聖月をお過ごし下さい!


トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)