マニラのeそよ風

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第174号 2003/09/26 四季の祭日の金曜日

SSPX Australia
聖ピオ十世会 オーストラリア、イエズスの聖心教会(シングルトン)

アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、さて、今回も、「列聖」について
Nouvelles de Chrétienté Nº 77 – Septembre/octobre 2002
外国語サイト リンク http://www.dici.org/dl/nouvelles/Nouvelle_77.pdf
よりの抜粋(その4)をお届けします。


列聖 第2部 今日の列聖 (続き)

B 今日の信者にとって、どのような聖性が提示されているか? (続き)

 最近の列聖・列福運動の中には、列聖・列福された方の英雄的な徳を高揚するというよりも、むしろ第2バチカン公会議を列聖・列福する、という目的でなされたものがあるのではないでしょうか。そのような列聖・列福の一つに、ヨハネ23世の列福があったのではないでしょうか? また、そのような目的のためにパウロ6世の列福調査が開始されたのではないでしょうか?


■ ヨハネ23世の列福

 ヨハネ23世の列福は、第2バチカン公会議と公会議の新しいメッセージとが、不可分のこととして提示されています。

 「この教皇はエキュメニズムを促進し、ブルガリアとイスタンブールで自分が知った東方の諸正教会との兄弟的な関係を維持することに大きな関心を払い、アングリカンおよびプロテスタント諸教会の異なった世界とのより強い関係を作った。彼はユダヤ教世界に対するカトリック教会の新しい態度の基礎を置くために、対話と協力を決定的に開き、全ての仕事を始めた。彼は意義のある2つの回勅を発布し、それはキリスト教の教えの光に照らした社会的進化についての『マーテル・エト・マジストラ』(1961年5月21日)と諸国の平和に関する『パーチェム・イン・テリス』(1963年4月11日)である。彼は、監獄と病院を見舞い、愛徳によって、教会と世界中の苦しむ人々や貧しい人々の常なる隣人として自分を示した。」

« Ce pontife a promu l’oecumenisme, s’est preoccupe d’entretenir des rapports de fraternite avec les orthodoxes d’Orient qu’il avait connus en Bulgarie et a Istamboul, a entrepris des relations plus intenses avec les Anglicans et avec le monde differencie des Eglises protestantes. Il mit tout en oeuvre pour poser les bases d’une nouvelle attitude de l’Eglise catholique envers le monde juif, faisant une ouverture decisive au dialogue et a la collaboration. Le 4 juin 1960, il crea le Secretariat pour l’unite des chretiens. Il promulgua deux encycliques significatives, ‘Mater et Magistra’ (20 mai 1961) sur l’evolution sociale a la lumiere de la doctrine chretienne et ‘Pacem in terris’ (11 avril 1963) sur la paix entre toutes les nations. Il visita hopitaux et prisons et se montra toujours proche, par la charite, des personnes souffrantes et des pauvres de l’Eglise et du monde. » (L’Osservatore Romano, 20-21. 12. 1999)

 肉体的な憐れみの業を除くと、ヨハネ23世の全ての「徳」は、「エキュメニカルな徳」であることが分かります。ヨハネ・パウロ2世教皇様は、2001年の聖霊降臨のお説教の中で、ヨハネ23世の38年忌を記念して、この教皇を称えてこう言っています。

 「ヨハネ23世によって、告げられ、招集され、開かれた第2バチカン公会議は、教会のこの召命を自覚していました。ヨハネ23世教皇が公会議を招集したその瞬間から、聖霊はこの公会議の主人公であったと言うことができるでしょう。教皇は自分の精神に強く働きかける内的声(=公会議を開けと言う声)がいと高きところから来るかのように、それを受け入れたと発表しました。この「そよ風」は「強烈な風」となって、公会議の出来事は新しい聖霊降臨の形を取りました。ヨハネ23世はこう断言しています。『まさに聖霊降臨の教えと精神とにおいて、第2バチカン公会議という偉大な事業が実現し命を持った』(Discorsi, p. 398)と。」 (Documentation catholique 2251 du 1er juillet 2001)

 ヨハネ23世列福のミサの際になされたお説教のうち、ヨハネ23世に関する最も重要な段落は、この教皇様が「第2バチカン公会議の預言者」であったということを語っています。

 「第2バチカン公会議が持ち込んだ新しいことの激流は、教義に関することではなく、むしろ表現のしかたです。話し方と行動のしかたが新しくなったのです。普通の人々に対して、地上の強いものに対するかのような共感をもつようになったその跳躍です。この精神においてヨハネ23世は第2バチカン公会議を招集し、そのおかげで教会の歴史において新しいページが開かれたのです。キリスト者たちは、新しく奮い立たされた勇気と『時のしるし』にはらうより大きな注意とをもって「現代世界憲章」を告げ知らせるように呼ばれていると感じました。第2バチカン公会議は、本当に、この老教皇が多くの困難の中においてキリスト者と世界とに希望の時代を開いた、ヨハネ23世の預言的予感でした。」(Documentation Catholique 2233 du 1er Octobre 2000)

 この「新しい話し方と行動のしかた」について、悪名高いフリーメーソンであるイヴ・マルソドン(Yves Marsaudon)もその著『伝統のフリーメーソンから見たエキュメニズム(L’oecumenisme vu par un francmacon de tradition)の中で、自分が、パリにおける教皇大使であったロンカッリ大司教(将来のヨハネ23世教皇)と頻繁に友好を持った内容を書いています。この「新しい話し方と行動のしかた」は、ヨハネ23世の性格や個人的なタイプというよりも、福音的な意味における「この世」、イエズス・キリストの敵とどのように接するかという行動のしかたについてのことです。マルソドンはロンカッリ大司教が、聖母被昇天のドグマがピオ12世によって発布されたとき、エキュメニズムのために「賢明に」このドグマに対して見合わせ受け入れなかった時があったということを書いています。曰く「彼(=ロンカッリ大司教)は、常に『他の人々』を考えており、あれこれの革新が離れたキリスト者たちにどのような影響を及ぼすかと言うことを考えていた。」(上掲書46ページ。この本の第5章のタイトルは「聖人の死」であるが、フリーメーソンである著者が言う「聖人」とはヨハネ23世のことです。)


■ パウロ6世の列福調査開始

 ヨハネ23世の列福準備委員は、彼の伝説的な優しさを強調しました。この「優しさ」は、自然的な「お調子の良さ」、賢明さの欠如、軽薄さ、だったと言う人もいます。(ジャン・ギトンは、パリにいた教皇大使について「馴れ馴れしい」とか「世俗的な」と言っています。)

 ところで、パウロ6世については、その友も敵も、だれもパウロ6世を評価しませんでしたし、称賛しもしませんでした。しかし1993年5月11日に、イタリアの司教評議会の申請に従って列福調査が開始されました。

 ローマ大司教区のための教皇代理であるルイニ枢機卿は、この列福調査開始を通知して、第2バチカン公会議後の改革の業を賛美する話に始終しました。

 「ローマの町は、その歴史と使命と、その普遍性とその特別の問題において、世界で唯一の都市司教区であるが、15年の間、司教かつペトロの後継者を持ち、このパウロ6世にどれほど恩義があるかを知っている。パウロ6世の教皇としての全世界における仕事の実りは、何よりもまず、ローマに保留された。ヨハネ23世の遺産を受け継ぎ、パウロ6世は第2バチカン公会議の後半部の総会を指導し、幸せにもその終わりへと導いた。彼は第2バチカン公会議の決議を取って適応するように組織において命ずることを自己の義務とした。ローマは再び、第2バチカン公会議によって指摘された司牧的要求と、ますます大きな一致へと大きな速度で進展し歩んでいるこの世の期待とに答えるために、諸聖省を豊かにした。教会は聖なる典礼において聖歌隊のように祈る新しいやり方を学び、この世を判断するべき新しい精神、別の諸教会とキリスト教会の信者たちや、ユダヤ教を信ずる兄たち、非キリスト者と信じない人々との新しい関係を学んだ。教会は、宣教の努力・聖母に対する信心・文化・芸術・科学により、聖書に対する新しい理解を深めた。パウロ6世は、自分とその後継者であるヨハネ・パウロ2世の、偉大なる宣教旅行の創始者であった。それによって世界中の共同体のもとに行き、さらに社会の最も上位の集会(=国連のこと)にまで行き、人間と世界の平和に対するペトロの愛をあかしした。」

 【ルイニ枢機卿は、ジャン・バチスト・モンティニ大司教(後のパウロ6世)がピオ12世教皇の「秘書次官」としてローマ聖庁で働いていたときのことも次のように語っています。
 「それは、疲れを知らない35年間の使徒職であった。その後は、教会の歴史にもそうであるが、私たちの都市ローマに深く書き刻まれている。彼の教皇様たちに対する熱心な奉仕は外交の面で発揮され、彼は細心な注意を込めて愛徳の真の奉仕としてこれを実践した。」 ルイニ枢機卿は、「細心な注意を込めて」と言いますが、まさしく、モンティニ大司教は、ピオ12世教皇様によって厳密に禁止命令を受けていたにもかかわらず、ピオ12世教皇の背後でモスクワ(ソビエト共産党)と秘密の関係を持ちこれをピオ12世が知ることがないように「細心な注意を込めて」隠していたのです。これだけでも教皇に対する極めて重大な不従順であり、列福調査を中断させるに充分な事実です。】

 しかし、何はともあれ、パウロ6世を列聖させたいという意志は、更に上の理由にあります。それは、第2バチカン公会議を促進させ、この公会議をいわば「列聖」させることです。そしてヨハネ23世とパウロ6世の列福・列聖は、そのための素晴らしい手段なのです。

 モンシニョール・エスクリバーの列聖も、彼が、そのイデオロギーにおいて、第2バチカン公会議の先駆者であったという限りにおいて、第2バチカン公会議の促進と深い関係があったのかもしれません。バチカンのインターネット・サイトには、モンシニョール・エスクリバーの短い伝記が掲載されましたが、そこにはこうありました。

 「教会の荘厳教導職は、その時(=第2バチカン公会議のこと)オプス・デイの精神の最も基本的観点を確認する。つまり聖性への普遍的な召命、聖性の手段としての職業、世俗のことにおけるキリスト者の自由の価値と正当な制限、内的生活の中心であり根元としてミサ聖祭などなど。福者ホセマリアは、第2バチカン公会議の多くの教父や顧問と会い、彼らはこの福者の中に第2バチカン公会議の中心的方針の多くの点で、真の意味で公会議の先駆者であると見た。彼は第2バチカン公会議の教えに深く一体となり、熱心に、世界中でオプス・デイの養成の活動を通して、この公会議の教えを実践することを促進した。」

(つづく)


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トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)