第173号 2003/09/24 四季の祭日の水曜日
アヴェ・マリア!
兄弟の皆様、今回は、「列聖」について 列聖 第2部 今日の列聖 (続き)B 今日の信者にとって、どのような聖性が提示されているか? 現代の列聖において徳の英雄性が排除されていなかったとしても、多くの列聖における例は、第2バチカン公会議のヴィジョンに関連づけられた新しい徳に対応しています。つまり、聖性が、エキュメニズムの一致に協力する要素の一つとなっていることです。更に、聖徳で有名な或る聖人たちは、第2バチカン公会議のメッセージを広げるための道具となっています。それを「列聖の道具化」と言うことが出来るかもしれません。つまり、列聖の本来の目的とは外れた列聖の「活用」ということです。 (1)エキュメニズムの例 第2バチカン公会議の間、そこでの全ての文書は必ず「キリスト者の一致事務局」のふるいにかけられなければならなかったように、列聖のためにも、「エキュメニズム」というフィルターを通さなければなりません。このエキュメニズムのために列聖運動がなされるケースもあれば、または新しい文脈においてその生が説明され直されています。またはエキュメニズムにふさわしくないために列聖され得ないケースもあります。 「諸聖人の列聖聖省」が口を慎まなかったために、すこし騒がれた例があります。例えば、1992年、イサベラ女王の調査が中断してしまったことがあります。バランシアとセビリアとアビラの司教たちは、「列聖聖省」に1992年(アメリカ大陸発見500周年)合わせてイサベラ女王が列福されるように働きかけていました。しかしユダヤ教共同体を傷つけないように、「ユダヤ・キリスト教対話のカトリック者たちによって」この調査は中断されました。 彼らは、ユダヤ教との関係について関わってもいる「キリスト者一致のための教皇庁立事務所」、国務長官、そしてたぶんにヨハネ・パウロ2世教皇様にも、極めて公式的に介入したのです。(1991年3月28日付けの La Croix-l’evenement 紙に掲載された記事によります。またこのことは Documentation Catholique, 2026 du 21 avril 1991にも再掲されました。) 列聖されようとする人が、とくに非カトリックの地方の出身の場合、このエキュメニズムという要素は極めて明白になるようです。また、既に列聖された聖人たちの生涯がエキュメニズムという観点からもう一度語られるようになりました。そうして、スエーデンの聖ブリジッタは、ルター派とカトリックとの一致の中心となったのです。 「スエーデンにおいて彼女(聖ブリジッタ)が、ルーテル派によってもカトリックによっても愛され尊敬されているということを知り、私にとって大きな喜びです。彼女の生涯と業績は私たちを一致させる遺産です。聖ブリジッタは一致の中心であるかのようです。『主よ、私に道を示し、それに従わせてください!』 これが聖女の祈りの言葉で、スエーデンでは今日も唱えられています。・・・『主よ、私に道を示し、それに従わせてください!』 この祈りはエキュメニズムの運動のプログラムになることが出来ます。エキュメニズムとは、私たちが共にする旅であり、その道筋や期間を決めることが出来ないものです。私たちはその道のりが易しいものか難しいのかも分かりません。私たちはただ、共にこの旅を続けなければならない義務があると言うことだけしか知らないのです。・・・聖ブリジッタは、全てのキリスト者らの間の和解と交わりという天主的な燃える望みのために全生涯を使ったのです。」 « C’est pour moi une grande joie de savoir qu’en Suede elle est aimee et veneree aussi bien par les lutheriens que par les catholiques. Sa vie et son oeuvre constituent donc un heritage qui nous unit. Sainte Brigitte est comme un centre d’unite. "Seigneur, montre-moi la voie et dispose-moi a la suivre !". Ce sont les mots d’une de ses prieres, que l’on recite encore aujourd’hui en Suede. (…) ‘Seigneur, montremoi la voie et dispose-moi a la suivre’. Cette invocation peut constituer le programme du mouvement oecumenique. L’oecumenisme est un voyage que l’on effectue ensemble mais dont il n’est pas possible de fixer le parcours ou la duree. Nous ne savons pas si le chemin sera aise ou difficile. Nous savons seulement qu’il est de notre devoir de poursuivre ensemble ce voyage. (…) Sainte Brigitte a consacre toute son existence a cet ardent desir divin de reconciliation et de communion entre tous les membres du peuple chretien. (…) » この講話の続きはこうです。 「当時そうであったように今日も、主はヨーロッパと世界における信じるものたちの間における一致の計画を進展させるために、寛大な男と女を起こすのです。1989年6月9日、ウプサラにおけるエキュメニズムのための儀式の際に私が言ったように、『私たちは全てを直ぐにすることは出来ません。しかし私たちは、明日出来るようになるだろうという期待の内に、今日出来ることをしなければなりません。』 カトリックとルーテル派の間の対話の合同委員会はこの方向で、キリスト者の一致にまだ対立している障害を取り除くために貢献できる希望の内に、働いています。」 Aujourd’hui comme a cette epoque, le Seigneur continue a susciter des hommes et des femmes genereux qui font progresser le meme dessein d’unite chez les croyants en Europe et dans le monde. Comme je l’ai affirme le 9 juin 1989, au cours de la ceremonie oecumenique a Uppsala : ‘Nous ne pouvons pas tout faire tout de suite, mais nous devons faire aujourd’hui ce qui nous est possible, dans l’espoir de ce que nous pourrons faire demain’. La Commission mixte de dialogue entre catholiques et lutheriens travaille egalement en ce sens, dans l’espoir de contribuer a supprimer les obstacles qui s’opposent encore a l’unite des chretiens.
以上は、1991年10月5日、ルーテル派の牧師たちとカトリックの聖職者たちが一堂に集まり、ローマの聖ペトロ大聖堂でなされてた特別エキュメニズムのための儀式の枠組みにおいて、聖女ブリジッタの列聖600周年記念の際に、ローマの聖ペトロ大聖堂にてなされた説教の抜粋です。 こうして、聖ブリジッタの列聖600周年の記念に、枢機卿たちに教皇様はこう仰っています。 「最近の集会(=ヨーロッパの司教のシノドゥスのこと)は、キリスト教のさまざまな宗派の人々が兄弟的に参加し、同じ立場で仕事に参加しました。これらの出会い、おしゃべり、共同の祈り、そして私は特に、12月7日にバチカンの大聖堂(=聖ペトロ大聖堂のこと)でなされたエキュメニカルな典礼を思い出したいと思います。これらは、共通の一致を求めてのエキュメニカルな対話を続けなればならないという必要性をはっきりと示しました。真理と愛徳とのこのエキュメニズムこそが、この世にとって、キリスト者たちを希望と連帯との信用に値する預言者となすことでしょう。この難しい道のりにおいて、願わくはヨーロッパの聖なる守護聖人たち、聖ベネディクト、聖チリロとメトデオが私たちを助け給わんことを。願わくは、特に、最近その列聖600周年を祝った聖ブリジッタが私たちのために取り次ぎ給わんことを。聖女の列聖600周年は、エキュメニズムのための対話において大きな一歩を作り、意味ある価値を持っています。聖女の模範と、教会の一致のために聖女が奉仕した宣教の記憶は、ヨーロッパの新しい福音化のために働こうとする全ての人々にとって勇気づける動機となっています。」 (1991年12月23日、Documentation Catholique, 2043 du 3 fevrier 1992) あるいは、1995年、スロヴァキアのコシセ Kosice であった3名の殉教者の列聖においてヨハネ・パウロ2世教皇様は、こうお説教なさいました。
「別の宗教を信じている殉教者たち ここでは「殉教者」という用語は、曖昧で混乱を醸し出す使い方をされています。「殉教者」とは、真の信仰を証するために死の苦しみを受け入れた人であり、そのためにも極めて大きな天主への愛が前提とされます。これは天主への真の信仰と愛徳に相互依存するものなので、偽りの宗教においては「殉教者」ということは語られ得ません。偽りの宗教のあかしをする人については、客観的に言うと、「殉教者」とは言うことは出来ないのです。だからといって、彼ら自身の信念を貫くために肉体において苦しみを受けたという方々の個人的な功徳が何でもないと言うわけでは決してありません。また、彼らがたとえ他の宗教に属していたとしても、カトリック信仰を守るために亡くなったのなら、本当に「殉教者」でもあり得ると言えます。しかしたとえ後者の場合でも、教会は彼らを「殉教者」と呼ぶことは出来ないのです。何故なら、教会は人々の内的意向という点について判断することが出来ないからです。 ベネディクト14世は、天主の前では、このような人々は殉教者であり、殉教者としての報いを受けるだろうけれど、教会はそのように宣言することが出来ないので教会の前では殉教者ではない、と説明しています。そのような場合は、このような殉教者らが、どうしても自分の過失ではなく、真の信仰にまで至ることが出来なかったという場合にのみ起こりうることです。 この重要な神学上の点が、上の説教では全く忘れられているようです。実際、上記の説教には次のようなお言葉もあります。 「私は、使徒書簡『第3千年期の到来 Tertio Millennio adveniente 』の中で、この殉教録【=エキュメニカル殉教録のこと】について暗示しましたが、今世紀の恐ろしい体験の後に、第3千年期への道を私たちに開いた殉教者たちの名前を考えながら、この殉教録が日の目を見るように求めます。東方でも西方でも、殉教者たちは、キリストを信じる私たち全てを一致させます。これらの殉教者たちと共に、私たちは教会の完全な交わりに辿り着くことを待つのです。 教皇様は更にこう仰います。 「少数者の人権を尊重すること。今日、スロヴァキアにある教会の殉教録にこれらの新しい名前を付け加えることが出来て嬉しいと思います。私は、これが全ての他の姉妹教会らにとって、特に中央ヨーロッパと東ヨーロッパの姉妹教会にとって、勇気を与えてくれるものとなると思います。3名の新しい聖人たちは、それぞれ別の国に属していました。しかし同じ信仰を持ち、信仰に支えられ、彼らは一致して死さえも直面することが出来ました。願わくは彼らの模範が、その祖国の人々において、相互理解への努力を生き生きとさせ、スロヴァキア人とその他ハンガリーの少数民族との間の友情と協力の絆とを強めますように。多元的で民主主義の国家が生き繁栄できるのは、まさに多数民族と少数民族とが、権利と義務とを相互に尊敬し合うということの上にのみ成り立つのです。・・・」 また、「聖性」と言うことと混ぜられている「エキュメニズム」というテーマはどこにでも語られています。いくつかの例を出してみます。 「血を流すまでキリストに捧げられたあかしは、カトリックと正教徒とアングリカン、プロテスタントとの共通の遺産となった。それはウガンダの殉教者たちの列聖にさいしての説教の中でパウロ6世が既に述べたとおりである。」 使徒書簡『第3千年期の到来Tertio Millennio adveniente』§37 「これは同時にエキュメニカルな巡礼である。アングリカン教会の殉教者たちの聖所に行き、次に、聖カルロ・ルワンガとその21名のカトリックの伴侶の名誉のために建てられた聖堂に行くのであるから。(1993年2月18日一般謁見において) 「2000年の大聖年の準備のテーマとして既に引用したメモの中に、私は全ての地方教会を含め、しかもエキュメニカルな次元と観点の内に、現代の殉教録を作ることが時期に合っていると強調した。カトリック以外の教会のなかには、東方の正教会、プロテスタント教会のなかにも、多くの殉教者たちが存在している。」(1994年6月13日の特別枢機卿会議における講話) 聖人たちによるこのエキュメニズムということの基礎は、「聖性」ということの新しい概念から導き出される結論に過ぎません。贖い主であるキリストは、救いの業をなし、聖性を示しました。それは、人々に人間の本性の尊厳を啓示することによってであり、人間の尊厳はその基礎として良心の自由の内に見いだされるのです。 そうなってしまうと、もはや、最も基本的な原理は、人間が自由に受け入れる真理ではなくなります。個人の良心が服従する対象は真理ではなくなります。そうではなく、最も基本的な原理は、人間の良心の自由になります。個人個人の良心とは、ある人にとっては天主が存在すると信じるし、別の人にとっては「天主は存在しない」と考える主観的なものです。人間は、どのような宗教であれ、それを信じ、そうすることによって自分の内的超越性を祝っているのであるから、それがどんなものであれ、尊重しなければならないことになるのです。従って、全ての宗教は、キリストによって人間のために勝ち取られた尊厳のいろいろな表現であって、その表現にはいろいろな可能性があるのであるから、全ての宗教は救いの手段となるのです。 「御托身された御言葉であるキリストは、世界の全ての諸宗教の望むものの実現であり、そのことによってキリストは、その唯一で決定的な完成である。」(使徒書簡『第3千年期の到来 Tertio Millennio adveniente 』§6) 聖人とは、この新しい観点から見ると、自由に自分の宗教を信じ、信仰宣言をし、この自由な信仰宣言が人間に与える尊厳を自覚している人、これが聖人になるのです。そして、この意味において、全ての人はどの宗教においてであっても、聖人になることが出来るのです。完全な意味においてはカトリックの宗教において、そして部分的ではあったとしても現実の意味で別の宗教においてそれが実現されうるのです。 「第2バチカン公会議は、『キリストの教会は、カトリック教会のうちに存在する』と言っているが、同時に公会議は次のようにも言う。『しかし、この組織の外にも聖化と真理の要素が数多く見いだされるが、それらは本来キリストの教会に属するたまものであり、カトリック的一致へと促すものである。』(「教会憲章」§8) 『従ってわれわれは、これらの分かれた諸教会と諸教団には欠如があると信じるが、けっして救いの秘義における意義と重要性を欠くものではない。なぜならキリストの霊はこれらの教会と教団を救いの手段として使うことを拒否しないからであり、これらの救いの手段の力は、カトリック教会にゆだねられた恩恵と真理の充満に由来する。』(エキュメニズムに関する教令§3) これらの聖化と真理の要素がその他のキリスト教共同体に見いだされるに従って、その中に、キリスト教の唯一の教会の活動的な現存がある。そのために、第2バチカン公会議は、たとえ不完全なものであっても、現実の交わりであると語っている。」(Ut unum sint, §10-11) 以上から分かるように、第2バチカン公会議に従えば、いろいろな宗教を越える聖性の交わりがあり、この超越性が、キリストの贖いの業と、キリストの霊が全人類へ広がっていることをあらわしているのです。そして、こうして完全なエキュメニカルな一致へと道を準備しているのです。 「諸聖人のエキュメニズムが最も説得力を持っているものでしょう。『諸聖人の交わり』の声は、分裂を作り出した人々の声よりももっと大きいものです。」(使徒書簡『第3千年期の到来 Tertio Millennio adveniente 』§37) 「全ての共同体に属している『諸聖人の遺産』の輝きのおかげで、目に見える全き一致への『回心の対話』は、希望の光のもとに現れます。聖人がどこにでもいると言うことは、聖霊の力の超越性の証拠です。聖人たちの普遍な存在は、人類を分裂する悪の力に対する天主の勝利のしるしであり証拠です。」(Ut unum sint, §84) 「目に見えないやり方ではありますが、私たちの共同体らのまだ不完全な交わりは、真実において、諸聖人の完全な交わりによって、つまり聖寵に忠実であった生涯の終わりに、栄光のキリストの交わりに或る人々たちの交わりによって、堅く繋げられています。この聖人たちは、彼らに救いの交わりに入ることを開いてくれた全ての諸教会と共同体に属する人々です。私たちが共通の遺産について語るとき、ただ単に、制度や典礼様式、救いの手段、全ての共同体が保存してきた伝統、またそれによって共同体が形成されてきた伝統をそこに含めるのだけではなく、まず第一に、そして何よりもまず、この聖性の現実を含めるべきです。」(Ut unum sint, §84) その時、列聖とはいったい何の意味を持つのでしょうか? 列聖とは、その時、カトリック教会が世界に人間が本性的に尊厳を持っていると言うことを意味するために使う手段に過ぎなくなってしまうのではないでしょうか? 列聖とは、別の諸宗教が多少なりとも参与することの出来る、共通の遺産の一つに過ぎなくなってしまうのではないでしょうか。 (つづく) トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) |