マニラのeそよ風

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第169号 2003/09/18 コペルチーノの聖ヨゼフの祝日


コペルチーノの聖ヨゼフの遺骸が安置されているバジリカ(イタリア)


証聖者、コペルティーノの聖ヨゼフ : 謙遜な人を高めようと思召す天主は、コペルティーノ(イタリア・ナポリ附近)のヨゼフに、多くの恵みを与え給うた。彼は、1603年6月17日、コペルティーノの貧家に生まれた。徒弟生活ののち、カプチン会に入ったが、病気のため退会を余儀なくされた。療養後、グロテラのフランシスコ会に入り、助修士として働いていたが、上長の命により司祭となった。(1628年)脱魂、その他の特別な恵みを神からうけ、超自然的な生活をおくり、1663年9月18日、オジモで聖なる生涯をおえた。1767年列聖。

アヴェ・マリア!

 兄弟の皆様、お元気ですか。今回は、聖グリニョン・ド・モンフォールの「聖母に対する真の信心」の続きをお読み下さい。


童貞聖マリアに対するまことの信心


31. 天主聖子は、母マリアを通して日々、毎日、ご自分の神秘体の各成員において形造られようと、いわば、御托身しようと望んでおられる。そこでマリアに、「In Israel haereditare イスラエルを遺産相続として受けよ」(集会書24・8)と言う。これはあたかも「天主聖父は、私に遺産相続として、地上の全ての国々、全ての人を善人も悪人も救われる人も亡びる人も、与え給うた。私は或る人々を黄金の鞭で導き、その他の人々を鉄の鞭で導こう。私は或る人々にとっては父であり弁護者であろうが、その他の者たちにとっては正義の報復者だろう。そして、全ての人にとって、私は審判者だろう。しかし、私の愛する母マリアよ、あなたのためには、遺産相続および資産として、イスラエルによってかたどられた、救われる人々しかない。あなたは、救われる人々の良き母として、かれらを産み、養い、育てるだろう。また、救われる人々の女王として、かれらをみちびき、治め、保護し給うだろう。

32. 聖霊は言う。「Homo et homo natus est in ea. あの人も、この人も、彼女から生まれた」(詩篇87・5)と。ある教父たちの解説によると、マリアから最初に生まれた人は、天主かつ人イエズス・キリストであり、第2は、養子によって天主とマリアとの子となった、純潔な人である。もしも人類のかしらイエズス・キリストが、マリアから生まれたのなら、このかしらの肢体である全ての救われる人も、当然のこととして、マリアから生まれなければならない。ひとりの同じ母親が、からだの無い頭だけの子供を産まないし、または頭のない体だけの子供を産まない。さもなければこれは自然界の化け物である。これと同じく、聖寵の秩序においても、頭とその体は、ひとりの同じ母親から生まれる。もしもイエズス・キリストの神秘体のある成員が、つまり救われる人が、神秘体の頭をお産みになったマリア以外の他の母親から生まれたとしたら、この人はもはやイエズス・キリストの神秘体の成員でもなければ、従って救われる人でもなく、聖寵の秩序における化け物でしかない。

33. 更に、天も地も、毎日、数万数千万回、「また、ご胎内の聖子イエズスも祝されたもう」とくり返しくり返し祈っているように、イエズスは、いつの時代にもまして特に今日、マリアのご胎の実、ご胎内の聖子である。従ってイエズス・キリストは、確かに、皆一般にとってそうであるように、とりわけご自分を所有している信者にとっては、本当にマリアのご胎内の聖子、マリアの作品である。それは、もしも自分の心の中に形作られているイエズス・キリストを所有している信者だったら、だれでも次のように大胆に言うことができるほどである。「マリアさまに本当に感謝。私が所有しているイエズス・キリストは、マリアさまのご胎内の実、その作品。マリアさま無しに、私はイエズス・キリストを所有することはできなかった。」さらに、聖パウロが、自分にあてはめて言った次の言葉を、もっと真実な意味で、マリアにもあてはめることができる。「Quos iterum parturio, donec in vobis formetur Christus あなたがたのうちにキリストが形作られるまで、私は再びあなたがたのために、産みの苦しみをしている」(ガラツィア4・19)。すなわち、私はくる日もくる日も、私の子イエズス・キリストが、かれらのうちに形作られ、その年が満ちるまで、、天主の子どもたちを産み続けている(エフェソ4・13参照)。聖アウグスチノは、自分が考えていたことよりも、また私が以上述べてきたことよりも遥かに意味深く、次のように言っている。「救われる者は全て、天主の聖子の似姿に合致するために、この世ではマリアのご胎内の中に隠され、かれらはそこで、この良き母から保護され、養われ、維持され、成長していく。それは死後、マリアがかれらを栄光に産むまでである。教会が、義人の死をそう呼ぶように、死こそは、まさしくかれらの誕生日である。」ああ、亡びる人にとっては全く知られておらず、救われる人にとっても、ほとんど知られていない聖寵の神秘よ。

(第一章 「私たちがいとも聖なる童貞への信心を持つ必要性」、第三節 「天主は人間聖化のみわざにおいてマリアを使おうと望まれる」、第一項 「三位一体の三つのペルソナは、教会の中でマリアに対してどのような態度をとっているか」より)


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トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)