マニラのeそよ風

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第166号 2003/08/30 リマの聖ローザの祝日

リマの聖ローザ
リマの聖ローザ

アヴェ・マリア!

 残暑お見舞い申し上げます。今回は、「ウイリアムソン司教様からの恩人・友人への手紙」をどうぞ。

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)




カール・ラーナー、第1の過失者
2003年6月4日

友人と恩人の皆様、

 このお手紙は、神学校からの毎月のお便りの、私がペンを取ると思う最後の一つなので、第2バチカン公会議後の過去40年間カトリック教会を荒廃させている偽りの宗教をもう一度見直してみることをお許し下さい。

 公会議の大嵐が1960年代に教会を襲った時、真のカトリック信者たちにとって緊急に必要とされていたことは、真のミサ聖祭を守ることであり、ミサ聖祭と対をなしている真の司祭職を守ることでした。なぜなら、第2バチカン公会議に続く新しいミサ(1969年)によって、この両者が絶滅の危機に存していたからです。

 カトリック・ミサとカトリック司祭職との生き残りが保証された数年の後、ようやく聖伝を保持しようとしていたカトリック信者たちは、いわば、それよりももっと深くを見ることが出来ました。そして、彼らはこの大嵐は一体どこから来たのか自問自答し始めました。彼らは、最初、新しいミサの恐怖のあれこれから身をかわすことから始めなければなりませんでしたが、それらの全ての恐怖をまとめて一瞥し始めることができるようになったのは、つい最近のことです。

 第2バチカン公会議の革命のさまざまな恐怖は、みな一致しているのです。これらの恐怖は、もしもそれぞれが互いに協力しあっていなかったら、つまり、カトリックの教義によく似ていながらも、カトリックの教え全体に取って代わる誤謬の体系を与えなかったら、教会をほとんど崩壊し付くことの出来る大嵐の力を得ることはなかったでしょう。第2バチカン公会議の新しい宗教と、新しいミサとは、実に、悪魔の傑作です!

 第2バチカン公会議の宗教を全体として最近分析したものが2つあります。一つは、ヨハネス・ドルマン教授(Professor Johannes Doermann)の「ヨハネ・パウロ2世教皇の、1986年アシジの諸宗教集会への神学的道程」という題の全4巻の本、そして2001年聖ピオ十世会の司祭たちが提出した「典礼改革の問題」に関する小さな、しかし濃厚な本です。

 この2つの分析は、互いに無関係になされたものですが、第2バチカン公会議と新しいミサとを同じ誤謬の体系であると提示している点で極めて類似しています。(この両書は、the Angelus Press in Kansas City, USAで入手可能です。)

 【アンジェルス・プレスのウェッブ・サイトは、http://www.angeluspress.org/ です。また次もご覧下さい。
http://www.angeluspress.org/sspx_modern_crisis.htm
http://www.angeluspress.org/sspx_modern_crisis_2.htm#dormann 】

 今回は、或るアメリカ人によって同じような分析が発表されました。それは、「イエズス会士、カール・ラーナー神学の批判的研究 "A Critical Examination of the Theology of Karl Rahner, S.J."」で、ロバート・マッカーシー(Robert McCarthy)によるものです。http://www.traditioninaction.org/tiabk006.htm 

 ドイツ人のカール・ラーナー神父は、第2バチカン公会議の極めて重要な神学顧問(periti)の一人でした。ラーナー神父は第2バチカン公会議に巨大な影響を与えました。マッカーシー氏は70歳代後半のテキサス出身の平信徒です。この本にある著者紹介によると、マッカーシー氏は何が第2バチカン公会議を作動させたのかということを長年疑問に思っていた方でした。ラーナーに関するこの小さい本は、極めて読みやすく、筋が通っています。この本は、上記の二冊の本の分析と全く一致した分析を提示しています。私たちは、ですから、同じ獲物を追う3名の猟師がいることになります。この獲物はそう長いことなくその隠れ家から追い出されなければなりません。マッカーシーの「批判研究」は、ラーナー自身の著作が悪名高いほど難解であるかぎりにおいて、極めて読みやすいものです。学者たちはマッカーシーが、ドイツ語を解さないという理由から彼の本を無視するかもしれません。マッカーシーは自分の分析をほとんど、ラーナーの2人弟子がまとめたラーナーの考えの要点の英語の翻訳に基づいてしなければなりませんでした。しかしながら、これは英語とドイツ語の問題ではありません。何故なら、カトリック教会を愛するカトリック信者は、第2バチカン公会議が教会を瓦解させたと知っています。ですから、もしラーナーにこの崩壊の責任者の一人であって、ラーナーの考えが英語の翻訳では分からないのなら、英語という言葉が驚くべくほど貧しい言葉であるか、或いは、ラーナーが言い行ったことは英語では分かり得ないし描写してはいけないということになるからです。問題は、学者たちのためのものでも、何語であるかという問題でもありません。重要なのは真理の問題です! ですからマッカーシーの「批判研究」が要点のようやくにすぎないものであったとしても、もしもこれが事実と適合し、崩壊に対応しているとすれば、それこそ私たちが必要としているものです。

 マッカーシーは、ラーナーが、例の古い教会と、天主から人へと啓示によって伝えられた古い信仰とに対する憎しみから始めていると言います。ラーナーは古い教会と古い信仰とは現代人にはふさわしくないと考えました。そこでラーナーは、現代人にふさわしいようなやり方の教会と信仰とを発見しようとするのです。そこで、今までカトリック信者がそう考えてきたように、天主から人間へと下におりてくるやり方で考えるのではなく、ラーナーは現代人から天主へと上り、天主を現代人に受け入れられる天主として下へ持ち下ろしてくることを考えました。ラーナーの弟子は言います。「ラーナー自身こう言ったことがある。『神学は今日では、神話的な、或いは少なくとも非科学的な回答を出しているという印象をしばしば与えている。・・・神学者はこれを人間とその体験から出発することによってのみ、これを克服することが出来る。』」

 ラーナーの全体系の中核を閉めているこの人間への方向転換という原則は、天主の場所に天主の代わりに人間を置いた第2バチカン公会議の革新の基礎でもあることに注意して下さい。現代人は天主から充分認められていないと感じています。そこで現代人の感情に合わせて、カトリック信仰の回避作戦を実行するのです。

 現代人は、自分をそんなに悪い人だとは思っていません。実際結構いい人であると感じています。ですからもはや、原罪に関する古いカトリックの教義を信じることが出来ませんし、現代人の本性を超えるかぎりにおいて天主の超自然性、超自然の恵みを信じることが出来ません。現代人のこの感じ、この「体験」をもとにして、ラーナーは自分の「超自然の実存」という教えを作り上げるのです。これは、人の本性に巣くう原罪の代わりに、人の本性には超自然、言い換えると聖寵の恵みが、存在している、あるいは本性の一部となっているというものです!

 従って、ラーナーは現代人が自分自身について感じている素晴らしいフィーリングから出発し、ドノソ・コルテスが現代の全ての異端のほとんどの根に横たわっていると言った、二つの重大な異端に辿り着くのです。つまり、超自然の否定と原罪の否定です。このようなカトリックの基礎的真理を覆しておいて、カトリック司祭および神学者として、ラーナーはただではすまされません。マッカーシーは言います。ここがラーナーの著作がほとんど解読不能なほど難解であること、また「超自然の実存」などと言った表現を作り出したことの理由ではないか、と。しかし、師の著作において難解であったことは、その弟子が明らかにしています。

 同じように、第2バチカン公会議も古いカトリックの宗教を覆しておいて、ただではすまされません。なぜなら、第2バチカン公会議もまだカトリックであるとの体裁を取らなければならなかったからです。しかし、第2バチカン公会議の16の文章中では曖昧であったけれど、古い教えを覆したことは第2バチカン公会議の実りを見るものにとって全く明らかです。

 ラーナーの「超自然の実存」の教えは、人間の本性には「罪への傾き」ではなく「聖寵」が植え付けられている、というものですが、ここから必然的に全ての人が、彼が知っていようが知っていまいが、天主の聖寵の状態にある、ということが結論付けられます。論理的にラーナーは、全ての非キリスト者は、「名前のないキリスト者」である、つまりキリスト者という名前のないキリスト者である、と結論付けます。

 このことから、イエズス・キリストの教会が、全てのキリスト者からなる社会であるのだから、キリストの教会は全人類を含む、と言うことになります! 従って、カトリック信者が常に「カトリック教会」と呼んできたものは、ラーナーにとっては、キリストの全教会(つまり、イコール全人類)の一部にすぎないことになるのです。第2バチカン公会議の「教会憲章」の中で、キリストの教会はカトリック教会と同一視されてはおらず、キリストの教会がカトリック教会の中にある(subsistit in)という表現が使われているのは、これが理由なのです。なぜなら、キリストの全教会は、カトリック教会を含み、カトリック教会の外にも、その他の全ての諸教会の中にも、非教会にもあるとも言うことが出来る表現だからです。

 これが、いわゆる「エキュメニズム」で、このために今でもカトリック教会は崩壊を続けています。従って、第2バチカン公会議はラーナーに従って、カトリック教会に関する概念を全く革命的に変えてしまったのです。

 しかし、もし人がその本性の中に聖寵を植え付けられるほど素晴らしいものであったとするなら、贖いとか贖い主とかの必要があるのでしょうか? ラーナーにとって、現代人にとって同様に、進化とは本当なので、人の素晴らしさとは、人が常に高い次元に進化すると言うことを意味します。つまり、自分の内から自分を越えて自分の上に上がっていくというのです。イエズス・キリストとは、自分を完全に越えて(いわゆる「神性」へと!)進化した人であって、かのガリレアの大工のペルソナにおいて完全な自己超越がなされなかったとしたならば、人類は歴史の別の時点で別の人において、それに到達していただろうというのです! 天主が人となるために天より降り給うのではないと教えるこのラーナーの教えは、その代わりに人が天主性まで進化すると教え、進化を人に適合させるのです。そして天主の御托身を逆立ちさせるのです。

 同様にラーナーは贖い、十字架をものけのからにさせます。現代人は人間が素晴らしいものだと感じていますが、もし罪を犯したと感じたなら、天主を真に犯すものが合ったとしたら、素晴らしいとも思えなくなるでしょう。それに、―――この冒とくを赦し給え!――― 天主は人間と同じように善い方で、怒ることもない方なのですから! それなら、私たちの主イエズス・キリストが十字架の上で人間のために死んで、天主の怒りから人間を救って下さる必要もなくなります。

 ラーナーの十字架とは、何なのでしょうか? マッカーシーはそれについて語りませんが、おそらくそれはドールマン(Doermann)が言っているヨハネ・パウロ2世(Redemptor Hominis)にとってのそれ、ではないでしょうか。つまり、十字架とは、天主が人間に対する熱烈な愛の表現以上の何ものでもない、ということです。

 それでは、ラーナーにとってミサ聖祭とかカトリック司祭職とは何なのでしょうか?

 人間には「超自然の実存」、言い換えると天主の聖寵が植え付けられていますから、人間は罪の償いのための犠牲やいけにえを捧げる司祭というものが必要なくなります。
 そこで、司祭も上からのものではなく、下からのものとなります。司祭は天主が制定したもの、人をその他の人びとの上に挙げる品級の秘跡に由来するものではなく、信者の間で自由にその地位を占めることに同意したただの人、と言うことになります。
 ですから、ラーナーにとって、司祭は自分たちもその他の平信徒と同じであるということを証明するためにこの世の仕事に就かなければならないと言います。
 ここから第2バチカン公会議の司祭は、平信徒同じような服装をし、平信徒のするような仕事をするのです。第2バチカン公会議の教えはつまりプロテスタントの教えなのです。

 ミサ聖祭に関しては、マッカーシーはラーナーの特別な教えを述べていませんが、罪人たちが罪の赦しのために犠牲に参与し、特別の司祭職を受けた司祭を通して、無限の御稜威を傷つけられた天主の怒りを宥めるためにいけにえを捧げる、と言うようなことはラーナーによればもはや必要なくなるのですから、良い人びとが、男であれ女であれ、同類の司会者のもとで会食を分かち合う、それが「ミサ」であるというでしょう。つまり新しいミサの感謝の「お弁当」になってしまうのです!

 主よ、私たちを憐れみ給え! マッカーシーの著書は以下のところで9ドルで購入できます。Tradition in Action, P.O. Box 23135, Los Angeles CA 90023. カトリック教会の今日の荒廃の謎を解こうという方には、おすすめです。

 このお手紙は、皆さんの僕である私が書く最後の手紙の一つです。なぜなら、この8月に私は南米のアルゼンチンの神学校の校長として任命を受けたかです。この4月で私はアメリカの聖ピオ十世会の神学校の校長として20年になりました。20年というのは一人の司祭が留まるには充分長い年月です。9月からはウイノナで私の後継者にイヴ・ル・ルー神父様が来られます。彼がこの毎月のお手紙を続けるかもしれませんし、続けないかもしれません。しかし、皆様には、過去20年間神学校の運営を可能にしてきた皆様の寛大なご援助を中断することがないようにお願い申し上げます。・・・

皆様、ありがとうございます。天主様の祝福が豊かにありますように!

+リチャード・ウイリアムソン
+ Richard Williamson


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St. Thomas Aquinas Seminary
RR 1 BOX 97 A-1
WINONA, MN 55987, USA
PHONE (507) 454-8000
KARL RAHNER - PRIME DELINQUENT
June 4, 2003

Dear Friends and Benefactors,

Since this letter is set fair to be one of the last monthly letters from the Seminary that I am like to pen, then let me attempt to give one more overview of the false religion that has been devastating the Catholic Church for the last 40 years in the wake of Vatican II.

For when the Conciliar hurricane struck the Church in the early 1960's, the immediate and pressing need for true Catholics was to protect the true Mass, and the true priesthood that goes with it, from the grave threat of their extinction by the ensuing Novus Ordo Mass (1969). Only when the survival of the Catholic Mass and priesthood was guaranteed some years later were Traditionally-minded Catholics able to look farther, so to speak, and ask themselves-where the hurricane came from. They had had to begin by parrying this or that horror of the Novus Ordo. Only now they are starting to fit all the horrors together.

For indeed the diverse horrors of the Conciliar Revolution do fit together. They could never have attained their hurricane-force to almost destroy the Church, had not each horror re-inforced the others, providing a united system of errors to replace Catholicism even while resembling it! The new religion of Vatican Il and the Novus Ordo is a masterpiece of the Devil.

Two recent analyses of the Conciliar religion as a whole are to be found in Professor Johannes Dormann's four-volume series on the theological way of Pope John Paul II to the Assisi meeting of religions in 1986, and in the small but dense book on the problem of the liturgical reform, put out by Society of St. Pius X priests in 2001. These two analyses were made quite independently of one another, but they are remarkably similar in their presentation of Vatican II and the Novus Ordo as the same system of error (both books are available from the Angelus Press in Kansas City, USA).

Now has come another such analysis, this time by an American, "A Critical Examination of the Theology of Karl Rahner, S.J.", by Robert McCarthy. The German Fr. Rahner was one of the very most important "periti" or expert theologians at the Council, on which he had an enormous influence. Mr. McCarthy is a layman from Texas in his late 70's who, according to a biographical note in his book, has been puzzling for years over what made Vatican II tick. His little book on Rahner is remarkably readable, makes perfect sense, and presents an analysis wholly corresponding to the two analyses mentioned above. We have three hunters on the trait of the same beast! The beast should be driven from cover before long!

McCarthy's "Critical Examination" is remarkably readable insofar as the writings of Rahner himself are notoriously obscure. Scholars may then dismiss McCarthy's book on the grounds that McCarthy reads no German, so he has had to base his analysis largely on English translations of summaries of Rahner's thinking by two of his German disciples. However Catholics who love their Church know that Vatican II left it in ruins, so if Rahner was one of those responsible, then either English is a surprisingly poor language, or what Rahner said and did must be discernible and describable in English. The question is not just a matter for scholars or a problem of language - it is a question of all important Truth! So McCarthy's "Examination" may only be a summary of summaries, but if it fits the facts and responds to the ruins, then it is what we need.

Rahner, says McCarthy, started out from a hatred for that old Church and for that old Faith which descended by Revelation from God down to man. He held them to be wholly unfit for modern man, so he set about rediscovering Church and Faith in such a way as would fit modern man. Instead then of working, as Catholics always do, from God down to man to lift up man to God, Rahner set about working from modern man up to God so as to bring God down in a version of God acceptable to modern man. As a disciple of Rahner says, "Rahner himself has said that theology often gives the impression nowadays of providing mythological or at least unscientific answers... The theologian can only overcome this... by beginning with man and his experiences."

Notice that this principle of turning to man, as it lies at the heart of Rahner's whole system, so too it is the basis of the novelties of Vatican Il which put man in the place of God. Modern man feels that he does not get enough credit from God, so with his feelings he will do an end-run around his Catholic faith.

Thus modern man feels himself to be not a bad guy, in fact he feels he is quite a good guy, so he can no longer believe in the old Catholic dogma of original sin, nor can he any longer believe that God's supernature, or supernatural grace, is so far above his own nature. Based on this feeling, or these "experiences", of modern man, Rahner comes up with his doctrine of the "supernatural existential", meaning that instead of original sin existing in man's nature, it is the supernatural, or grace, which exists in, or is built into, man's nature!

Thus Rahner, by starting from modern man's wonderful feeling about himself, has arrived immediately at those two major heresies of which Donoso Cortés said that they lie at the root of nearly all modern heresies: the denial of the supernatural and the denial of original sin. Now as a Catholic priest and theologian, Rahner could not come clean with such an overthrow of basic Catholic truth. Here, says McCarthy, is the explanation of Rahner's almost impenetrable obscurity, and his invention of phrases like "supernatural existential". However, what is obscure in the master is made clear by the disciples. Similarly Vatican II could not come clean with its overthrow of the old religion, because it had to pretend to be still Catholic, but that overthrow which is ambiguous in the Council's 16 documents is clear for all to see in the Council's fruits.

From Rahner's doctrine of the "supernatural existential" whereby grace and not the inclination to sin is built into man's nature, it necessarily follows that every human being, whether he knows it or not, or wants it or not, is in the grace of God! Logically, Rahner concludes that all non-Christians are "anonymous Christians", i.e. Christians without the name!

From which again it follows that if Jesus Christ's Church is the society of all Christians, then Christ's Church includes every human being! Therefore what Catholics always used to call the Catholic Church is for Rahner only a part of Christ's full Church, which is co-terminous with mankind. That is why in "Lumen Gentium" Vatican II decreed that Christ's Church is not identical with the Catholic Church, but merely "subsists in" the Catholic Church, in such a way that Christ's full Church can go way outside the Catholic Church and include, or subsist in, all kinds of other churches - or non-churches - as well! Here is the so-called "ecumenism" which is still ruining true Catholicism. Thus Vatican II followed Rahner in his total revolutionizing of the concept of the Catholic Church.

But if man is so wonderful as to have grace built into his nature, what need does he have of redemption or Redeemer? For Rahner as for modern man, evolution is true, so the wonderfulness of man means that he is always evolving higher, i.e. he is always from within himself rising above and beyond himself. Jesus Christ is simply that person in whom man evolved to the full above himself, i.e. into what men call divinity! And if man had not achieved this total self-transcendence in the person of the carpenter from Galilee, he would have achieved it or would achieve it in some other person at some other point in history! By this doctrine of God no longer coming down into human nature but of man instead evolving up into divine nature, Rahner fits together evolution and his turn to man, but he stands the Incarnation on its head!

Rahner similarly empties out the redemption, or the Cross. If modern man feels he is so wonderful, how can he feel that he sins, or does anything that really offends God? Besides - pardon the blasphemy! - God is a good guy like himself, so would not get upset anyway! Then how can man need to have been rescued from God's wrath by Our Lord dying for him on the Cross? Then what was the Cross for Rahner? McCarthy does not say, but maybe it was what Dormann says it is for John Paul II (Redemptor Hominis) - a merely back-up demonstration of God's super-luv for man! (See the enclosed flyer for an overview of Dormann, to be studied at the Doctrinal Session for men in Winona, this July 22 to 26).

Then for Rahner what are the Mass and the Catholic Priesthood? Since man has the "supernatural existential" or the grace of God built into him, then he needs neither atoning sacrifice nor sacrificing priesthood. So priests come, again, not from above but from below; they come not from a divinely instituted anointing or Sacrament of Orders lifting them above their fellow men, but from their fellow-believers around them freely consenting to their position. So for Rahner priests should be ready to hold a worldly job to demonstrate that they are on the level with their fellow-men. Hence the Vatican II priests we know, in lay jobs and in lay clothing. Conciliarism is Protestantism.

As for the Mass, McCarthy presents no specifically Rahnerian doctrine, but it stands to Rahnerian reason that sinners supposedly needing, for forgiveness, to partake in offering, through an anointed priest, a sacrifice to placate the anger of an infinite and offended God, no longer makes any sense to modern man. Rather we shall have good guys gathering in fellowship to share in a meal presided over by one of their own number (man or woman!) to express their caring and sharing - the Novus Ordo eucharistic picnic!

Lord, have mercy upon us! McCarthy's book is available for US$ 9 (postage paid) from Tradition in Action, P.O. Box 23135, Los Angeles CA 90023. Warmly recommended for anyone who wishes to puzzle out today's devastation of the Catholic Church.

This is one of the last Seminary letters your servant will write, because this August he is being appointed to head up the Society's Seminary in the Argentine, South America. Last April he had been for 20 years Rector of the SSPX Seminary in the USA, which is long enough for any priest to stay in one position. From September his successor in Winona, Fr. Yves Le Roux, may or may not continue this series of monthly letters, but you are begged not to interrupt the flow of your generosity which has made possible the Seminary's work for these 20 years: two new priests this June 21, Saturday, and some each year thereafter.

Thank you all, and God bless you.
+ Richard Williamson


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