第164号 2003/07/11 聖ピオ1世の記念
アヴェ・マリア! 兄弟の皆様、今回は "「秘義・神秘」としての「秘跡」について" の考察をお読み下さい。 ○ この概念によって、何故「ことばの典礼」と「聖体の典礼」とが、常に平行におかれ、2つとも「主の食卓」(ローマ・ミサ典書総則 34番と 56番)であり、そこでキリストがご自分を霊的糧として与える(ローマ・ミサ典書総則 33番、56番)といわれているのかが説明されます。 ○ この概念によって、ミサの際に何故、御聖体における主の現存に対する崇敬が多くの場合において相対化されたのかが説明されます。つまりこの概念においては、御聖体における現存は、もはやそれ自体のために認められるのではなく、主にこれが信仰の糧であるかぎりにおいて認められているからです。 ○ この概念によって、平信者の共通司祭職が誇張され、いけにえを捧げるということは、それが信仰の答えであるというだけの限られた意味においての観点からだけしか考慮されなくなっていることが説明されます。 ○ この概念は、何故、御聖体の秘跡を新しいやり方で「信仰の神秘」として考えているのかを説明してくれます。 「【諸秘跡によって】聖霊は、愛する御子によって実現された御父のわざを再現し、もたらすのです。」『カトリック教会のカテキズム』#1155 66. 「過越の秘義」の教えは贖いに関する古典的な神学の否定的側面を訂正しようとするだけではありません。それはそれまで極めて分断されていたと判断されるデーターを統一する総論にまでいたろうとするのです。「秘義」という新しい概念は、それまで古典的な神学がしていた区別を消滅させようとするのです。 【ここでは『カトリック教会の教え』の中で訳されたように mysterion を主に「秘義」と訳しましたが、普通は「神秘」とも訳されているので、文脈によっては「神秘」とも訳しました。ここでは「秘義」と「神秘」とは区別がないと考えて下さい。】 古典的神学によれば、キリストによって歴史的にもたらされた救いという「客観的贖い」と、私たちがこの救いのみ業に参与する「主観的贖い」とを区別してきました。しかし新しい神学はこう教えます。 「贖いについて語るとき、教義神学の枠組みの中に入り込み、私たちが救いの計画にどのような方法で参与するかについてはあまり考えずに、救いの計画を客観的に解釈しようとばかりする。・・・「過越の秘義」は、救いの唯一の出来事を名指すこのヘブライの過越と、毎年繰り返される儀式的記念に根ざしている。「秘義」という言葉は、私たちに啓示される天主の計画と、救いのみ業がそれによって私たちに与えられるその具体的な手段を同時に意味する。」(エモンマリ・ロゲ『「過ぎ越しの神秘」とは何か』 La Maison-Dieu, revue de pastorale liturgique 67, 3e trimestre 1961, p. 12) この章では私たちは、この言葉によって、キリストの救いの業にキリスト者が参与すると言うことを説明することを目指した「秘義」という新しい概念に注目してみます。 I 「秘義」の概念A) 新しい神学67. 「過越の秘義」の神学の新しい見方は、典礼改革で最高潮に達するのですが、元々はベネディクト会士オド・カーゼルに起源があります。彼の著作が産んだ討論を超えて、このドイツのマリア・ラアハのベネディクト会修道士の「秘義」の教えは、その実体において、新しい神学によって「現代におけるおそらく最も豊かな神学的概念」であると考えられています。【ヨゼフ・ラッチンガー Die sakramentale Bergruendung christlicher Existenz, edition Kyrios, Freising, 1966. 】 この教えは基本的に「秘跡」(ラテン語で sacramentum )という言葉に、原語であるギリシア語の mysterion 【=神秘、秘義】が持っていた意味の価値を全て与え直すことにあります。【Burkhard Neunheuser による Nuovo dizionario di liturgia の “Mistero” の項、810ページ。ノインハウザーは新しいミサを創ったグループである Consilium と典礼聖省のメンバーでした。】 新しい神学によれば、この言葉は、最初は聖なる現実を意味していましたが、古代諸宗教においては宗教的意味合いを持つようになりました。そして、部分的で隠されたものであったとはいえ現実の超越的な存在である啓示を意味するようになりました。「秘義」であるためには、全くの無知の対象ではないので、res sacra occulata (隠された聖なる現実)は、何らかのやり方で私たちの手の届くところになければなりません。秘密のうちに留まるためにある覆いの下に隠されながらも、この聖なる現実は自らを啓(ひら)き示さなければなりません。キリスト教の語彙として、ギリシア語の mysterion は別の語源を持つ言葉である sacramentum によってしばしば訳されることになります。中世のスコラ神学は「神秘」、「秘義」という言葉に古典的な意味を残しますが、「秘跡」という言葉には「聖寵の効果的なしるし」という意味だけに、したがって「7つの秘跡」に制限します。すでに聖トマス・アクイナスの時代には、秘跡神学を「Sacramenta id efficiund quod figurant. 秘跡はそれが意味することを生み出す」としてまとめ上げる命題の型にはめられてしまっているのです。 68. オド・カーゼルが拒否するのは、このスコラ神学の「神秘」と「秘跡」との区別です。何故なら、彼はこの区別を「縮小」であると考えるからです。 オド・カーゼルによると、2・3世紀の教父たちが持っていた「秘跡」の概念は、「成聖の聖寵を生み出す道具」としての秘跡ではなく、成聖という現実を現実に現存させる(re-praesentat)象徴的なイメージとしての秘跡だと言います。つまり、オド・カーゼルによると、そのように理解することによって秘跡が、知識理解の次元において、隠された聖なる現実(res sacra occulta)を意味するからだけではなく、特に秘跡がその隠された聖なる現実を含み、それを客観的に現存させるので、隠された聖なる現実を目に見えるようにさせる象徴となるのです。そうなると、秘跡は聖寵を「生み出す」印ではなく、それの意味するところを、つまり、隠された聖なる現実を「含む」象徴となるのです。【これについては例えば、Eugene Masure, Le sacrifice du Chef, Beauchesne, Paris, septieme edition, 1944, p. 85.を参照】 そうならば、効果による秘跡の定義である「聖寵を生み出す印」は、「象徴のベールのもとに隠された天主の救う行為の現存」という定義に代えなければならなくなるのです 【 Odo Casel, Jarhbuch fur Liturgieswissenschaft, VIII, p. 145.】。秘跡の定義である、“Sacramenta id efficient quod figurant”(秘跡とは、それが意味することを産み出すものである)の、動詞 efficere (生み出す、作り出す)は、その時、意味を変えることになります。つまり「ある効果を生み出す」と言うことを意味するのではなく、何かを現実に現存させる」ということを意味するからです【 Odo Casel, Jarhbuch fur Liturgieswissenschaft, XI, p. 233.】。その時、「秘義(すなわち、全部を一つにあわせたものとして考えられた全ての秘跡と、それと同時に、それぞれ別々に考えられた個々の秘跡のこと)は、キリスト教の過去の救いの行為から由来する聖寵を詳細に適応させることではなく、秘義は秘跡的に救いのみ業の現実に提示する。つまり効果は現実から発生するのである」【 Odo Casel, Jarhbuch fur Liturgieswissenschaft, XIII, p. 123.】。 69. 「秘跡」という言葉をこのように新しく一般的に理解することは(これは一般的な理解です。なぜならこの理解においては秘跡は「それ自体、体験の世界に属する可視的現実のみならず、人のために超自然の現実を現存させる目に見える現実」【 Jean-Herve Nicolas, Synthese dogmatique. De la Trinite, a la Trinite, Editions univesitaires, Fribourg, 1985, p. 630.】を全て含めているからです)、典礼のみならずそれのもっと上にあるキリストと教会とに適応されるのです。 ○ もし天主ご自身が、最高の意味において、隠された聖なる現実 res sacra occulta であるなら、天主がご自身を人に啓示させる限りにおいて神秘、秘義となります。 「キリストは救い主(メシア)に関する預言を成就しつつ、聖父を現存化させより満ち満ちて聖父を啓示した」【ヨハネ・パウロ2世回勅『いつくしみ深い神』 Dives in miseridordia 第3番】ので、従ってキリストは「原秘跡」【 Cf. Edouard Schillebeeckx, Le Christ, sacrement de la rencontre avec Dieu,collection Lex orandi (Paris: Cerf, 1964), p.22.】である、というのです。 ○ 今度は、教会もやはり秘跡と考えられます。 「キリストにおいて、キリストによって天主は歴史の中に入り、キリストは人々のもとで天主を具体的に代表するものであるので、キリストは天主の秘跡である。それと同じように、そしてその続きとして、教会はキリストの秘跡である。何故なら、教会において、そして教会という私たちの世界の現実によって人はキリストと出会うことができ、そのキリストにおいて天主と出会うので、教会はキリストの秘跡である。」【 Jean-Herve Nicolas, Synthese dogmatique. De la Trinite, a la Trinite, Editions univesitaires, Fribourg, 1985, p. 635.】 ○ すると今度は、典礼全体が秘跡になります。「礼拝の神秘」を通して、昇天によってそうなった栄光のキリスト(言い換えると「キュリオス Kyrios」)は、人々に現存し続けます。それは人々が、栄光のキリストの現存を体験することによって救いに達することができるためである、といいうのです。 「教会の礼拝の神秘において、救いの神秘が再び実現すること(reactualisation)は、この世の時を立ち退かせることなく、各々の信仰者と過去の過越の出来事との現実的な接触を保証する。」【Jean Gaillard, Le mystere pascal dans le renouveau liturgique, LMD, 67, 3e trimester, 1961, p.72.】 ○ 典礼儀式を行うために集まった会衆も、ある意味で教会の秘跡である。このような会衆は教会を表し、教会を現存化させる。「この地上では、典礼のために集まった会衆は、教会を最もよく表現する現れであり、教会の真の公現(エピファニア)である。会衆は教会を示し表す。・・・会衆の声は、キリストの花嫁である教会の声である。」【Aime-Georges Martimort, L'Eglise en priere (Desclee, 1965), p.92.】 70. 以上がオド・カーゼルの作り上げた説の最初の要素です。1992年の『カトリック教会のカテキズム』はこう説明しています。 「774 ギリシア語の“mysterion”という言葉は、ラテン語では“mysterium”、または“sacramentum”と訳された。“mysterium”の訳は、救いの現実の隠された面を意味するが、“sacramentum”の訳は、その隠された現実の見えるしるしの面を強調する。この意味で、キリスト自身が、救いの“mysterium”、すなわち秘義である。「キリストの外に神の秘義はない」(アウグスティヌス, Epistulae, 187, 34)。キリストの聖なる人間性による救いの御業は、救いの秘跡“sacramentum"である。それは、教会の秘跡(東方教会では「聖なる秘儀」と呼ばれる)において現れ活動する。七つの秘跡は、聖霊が頭であるキリストの恩寵を、体である教会に分配するための道具であり、しるしである。それゆえ、教会は、自分が示す見えない恩寵を保ち、かつ分け与える。このような類似的な意味で、教会は「秘跡」と言えるのである。」 『カトリック教会のカテキズム』は、聖なる神秘を通して救いの業が現存するということ、そして象徴というベールに隠されながらもこの現存からこそ秘跡の聖化の効果が流れ出ていることを強調しています。【1076、1104、1364】 B) 第2バチカン公会議71. 「秘跡」という言葉を、公式にこのように新しく理解するようになったのは第2バチカン公会議以後です。典礼憲章直後、このような理解が重要な地位を占めることになりました。キリストが天主の秘跡であるという言葉を使ってはいないものの、この概念は聖書と教父の表現を使って述べられました。 【典礼憲章 5. 神は「すべての人が救われて、真理を認めるようになることを望み」(1テモテ 2・4)、「かつて何度も、種々の方法で預言者を通して先祖に語ったが」(ヘブライ 1・1)、時が満ちたとき、貧しい人々に福音がのべられ、心のいたむものがいやされるように、自分の子、すなわち受肉し、聖霊に注油されたみことば、「肉的で霊的な医師」、神と人との仲介者を送った。子の人間性は、みことばの位格との一致において、われらの救いの道具であった。これによって、キリストにおいて、「われらの和解のための完全ななだめが行なわれ、神への完全な礼拝が、われわれにとって可能となったのである」。 人間にあがないをもたらし、神に完全な栄光を帰するこのわざは、神の偉業によって旧約の民のうちにかたどられたが、主キリストは、特に、その受難、死者の国からの復活、光栄ある昇天による過越の秘義によってこれを成就し、この秘義によって「われわれの死を死によって打ちこわし、生命を復活によって回復した」。】 次に、原秘跡であるキリストから由来する秘跡として、教会があらわれるのです。 「十字架上に眠るキリストの脇腹から、すばらしい秘跡である全教会が生まれたのである」(典礼憲章 5番)。 教会が秘跡であるという文脈において(キリストは「常に自分の教会とともに、特に典礼行為に現存している」典礼憲章 7番)、公会議は典礼の本性を描写しているといえます。ヴァガッジーニ(Vagaggini)が典礼憲章についてなした解説を読んでみましょう。 「教導権の文章として初めて、典礼の構造が、聖化と礼拝の効果的な印の全体として、秘跡という概念から始まって明らかにされた。」【 Cyprien Vagaggini, “La Constitution de Vatican II sur la liturgie,” Paroisse et liturgie, 65, 1964, p.36. [ヴァガッジーニは新しいミサを作った委員会コンシリウムと国際神学委員会の委員であった。]】 この秘跡の概念は、さらに公会議の教会論を指導しています。「教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である・・・」(「教会憲章」1番) 教会自身がどうして秘跡たりうるのでしょうか? それは教会が私たちのためにキリストを現存させるからです。 「この旅する教会が救いのために必要である・・・。事実、キリストだけが仲介者であり救いの道であって、そのキリストは自分のからだ、すなわち教会の中で、われわれにとって現存する・・・。」(「教会憲章」14番) II. 啓示の場としての秘義A) 新しい神学72. 新しい神学は「mysterion」という言葉にそれほどまでの重要性を与えています。それは、現代思想によって提起された問題をそうすることによって解決することができると考えているからです。現代思想はカント哲学(主観主義)にどっぷり浸かり、現実主義的な哲学の大命題を放棄し、知的認識の価値について自問しています。現代人は、そのように自分の前に広がる深淵を前にして気が遠くなるほど苦しんでおり、現実と直接に触れることのできると思われる体験の価値をより重要視しています。現代人は、懐疑主義の誘惑を受け、見て触れることを渇望し、聖伝の教義に失望しているのです。聖伝は確かに、天主がその民を訪れた(ルカ1:68)という一回限りの経験の上に教会が立てられたこと、イエズス・キリストが私たち人間の存在を分かち合ったこと、言葉だけではなくわざ(行い)によっても救いのみ教えを啓示した(「私のしたとおりするように、私は模範を示した」ヨハネ13:15)ことを教えています。しかし同時に聖伝は、この基本的な経験は、キリストと直接出会った初代キリスト信者だけが持つ特権であったと教えます。その他の信者たちも、それによって生きなければなりませんが、しかし使徒たちの証言を通してのみのことです。「あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たこと聞いたことを告げる」(1ヨハネ1:3)。啓示は、従って、説教という手段によって伝えられる教えです。信仰は宣教による fides ex auditu (ローマ10:17)ものです。何故なら、定義によって言葉だけが伝えることができ、出来事ではないからです。また「見ずに信じるものは幸い」(ヨハネ20:29)だからです。このような考え方は、現代思想にとって受け容れ難いように思われます。何故なら、このような考え方は、既に教会の仲介ということと、教会が信仰に関して誤り得ないということを前提としているからです。また新しい神学は啓示を現代人の要求にもっとよくこたえるやり方で提示しようと望んでもいます。新しい神学はまず第1に、天主は、ご自分の現存の体験において自分を啓示するのであって、教義においてではない、ということを主張します。そしてこの体験は、初代の信者たちの特権ではなく、特に礼拝を通して全ての人に伝えられると説明します。 73. 新しい神学によれば、啓示とは教義体系を形作るような抽象的な一連の命題に還元されるものではないのです。新しい神学は、啓示が天主的なものの秘義との生き生きとした接触によって実現すると教えています。オド・カーゼルはこう認めています。 「mysterion という概念は、哲学的な認識のしかたとは対照的に、啓示と結びついた天主がしもべたちに直接啓示するという性格を表明しようとする。」【 Odo Casel, Le mystere du culte, collection Lex orandi, (Paris: Cerf, 1964), p.300.】 別の言い方をすると、天主は人に「言葉だけ」でご自分を啓示するのではなく、「言葉と出来事で」啓示するというのです。「言葉だけ」とは、ここでは、天主の神秘という内容に関して認識する人間の概念のことであり、「言葉と出来事で」とは、人間に天主の神秘的な現実を現存させる天主の行為という助けによって、と言うことです。 「キリスト教とは、その完全で原初の意味(「天主の福音」、「キリストの福音」)において、宗教から分離しているこの世に対する何らかの概念でも、宗教的な教義体系や神学体系でも、純粋な道徳律でもなく、この言葉をパウロが使った意味において「神秘」である。つまり、キリスト教とは天主が人類にした啓示である。天主こそが、天主のものであり同時に人のものである行為や出来事(そこで命と力が溢れ出る)において、また、この啓示と聖寵を伝えることによって人類が天主性それ自体に近づくことを可能にする出来事と行動とにおいて、ご自分を啓示するのである。」【 Odo Casel, Le mystere du culte, collection Lex orandi, (Paris: Cerf, 1964), p.26.】 74. このような言い方は現代人にとって大胆だと思われるかもしれません。何故なら、啓示の可能性それ自体が現代では問題とされているからです。人間精神にある自然な現実主義を否定しつつ、観念主義的なタイプの哲学は、単なる現象の次元を超える現実へ近づくことを危うくさせています。その時、神秘的な体験から天主の啓示へとどうやって到達できるのでしょうか? 現象から天主の絶対への移行には、奏すべきではないものがあるのではないでしょうか? 神秘の教義は、我々に迫っている「過ぎ去り行くこの千年紀に際して、大きな呼び掛け」に答えることができると考えています。「すなわち我々は確かに、現象から根本への必須で緊急の移行を果すことができなければならないのである」(ヨハネ・パウロ2世 1998年9月14日『信仰と理性』83番)。神秘の教義は、現象を「象徴」として提示し、「象徴」は、それにふさわしい解釈という手段によって、人間は、象徴がその印である超越的な現実との客観的接触を持つことができるようになると教えています。新しい神学は、このことを現代の象徴主義派【シュライアマッハーSchleiermacher、ミルセア・エリアデ Mircea Eliade、カール・ユンク Carl Jung、ポール・リコール Paul Ricoeur、エルンスト・カシラー Ernst Cassirer、K. ランガー Langerなどがいる。シュライアマッハーにとって聖なるものは、神話の象徴において明らかにされる。ミルセア・エリアデは、神話的象徴を「ヒエロファニア(聖なる現れ)」と見る。これによって聖なるものへの神話的参与が可能になる。カール・ユンクは、象徴に集団無意識の表れとしての重要性を認めている。ポール・リコールの解釈において、象徴は人間という存在の中核において人間の条件を示している。したがって象徴には存在論的価値があるという。エルンスト・カシラーはヒトを「象徴的動物」と呼ぶ。そしてこれに対応して世界は「象徴的形」を取った。更に、ランガーによれば、象徴の研究は哲学が基礎にすることのできる新しい土台である。】に依存し、彼らの著作はしばしばはっきりと引用されています。【例えば、チプリアン・ヴァガッジーニ著 Cyprien Vagaggini, Initiation a la theologie de la liturgie (Bruges: Apostolat liturgique, 1959), Vol. I, p.40. 或いはJ. P. Dong, L’Eucharistie comme realite sy! mbolique, collection Cogitatio fidei (Cerf, 1972).を参照せよ。】 1992年の『カトリック教会のカテキズム』自身も、この哲学を選び、それに強く影響を受けています。『カトリック教会のカテキズム』は「過越の神秘の秘跡的祭儀の挙式」について語り出すや否や、8つの番号を使って「しるしと象徴」についてその概念を詳しく説明しだしているからです(『カトリック教会のカテキズム』1145-1152番)。これらの説明は、人間が「物質的なしるしと象徴をとおして精神的なものを表したり、知覚したりします。」(『カトリック教会のカテキズム』1146番)ということを言うためです。そしてしるしと象徴が、宗教的に解釈されていくゆっくりとした進化の過程を述べ、キリスト教が既存のしるしに新しい決定的な意味を与え、その進化は成熟に達したと説明します(『カトリック教会のカテキズム』1151番)。 75. このような過程を経て、新しい神学はその最初の一歩から聖伝の神学と不協和音を奏でているのです。事実、教父たちは知的認識の客観的価値についていささかも疑いを抱いたことはありませんでした。教父たちは全く問題もなく、啓示を宣教によって(ex auditu)受けた命題の集まりとして受け容れました。そして教父たちの神学的な探究は、それぞれの神秘が定義している存在論的な問題を解決する以外のいかなる目的も持っていなかったのです。例えば、天主の3つのペルソナが同一本質であること、キリストにおける天主性と人性との位格的結合、などの問題でした。諸神秘を認識するという観点については、神秘の「在り方」の結果として、常に二次的なものと考えられていました。新しい神学は、この現実主義的な見方を疑問に付し、神秘の聖伝的な定義を再解釈する形で、秘跡に関する神学を深く改変してしまいました。秘跡の定義である「聖化の効果的なしるし」が外面上まだ残っていたとしても、全く別の意味がそれに付けられています。つまり、成聖の聖寵を霊魂に生み出す道具としての能動因(causa efficiens)として存在の次元で秘跡を考えるのではなく、認識の観点のもとに秘跡を考えるのです。言い換えると、秘跡を天主の行ける現存の「現れ」であり「啓示」であると考えるのです。そして、もしこのようにして人が天主と接触すれば、そこから人は聖化されると考えるのです。 76.そう考えることによって、典礼は啓示の特別な場となります。啓示は、典礼儀式という手段を通じて人に伝えられ、典礼儀式は、その象徴を通して、人が啓示する天主との生ける接触するようにするのです。そしてこの生ける接触こそが、パラドシス(伝達)を保証するのであって、教会の教導権がそれを保証するのではないのです。(他方で、聖伝の神学は教会の教導職がそれを保証すると言います。)従って、「生きている聖伝」という概念は、典礼の神秘的な次元と喜んで同一視されるようになります。 「キリスト教において、パラドシスの実体を形成するのは、天主の偉大な行為であり、出来事や事実である。そして私たちがパラドシスにおいて受けたことを、私たちは礼拝において記念し、そうすることによって、救いの行為の神秘的な現存を実現する。私たちにとってこれが典礼の意味である。私たちは聖なる言い回しを唱えるが、この言い方に天主の啓示が含まれている。この言い方において教会は私たちに科学的な知識を教えようとするのではなく、祈りと聖なる儀式という生き生きとしたやり方で、私たちに信仰の宝を提示し伝えるのである。」【 Odo Casel, Le mystere du culte, collection Lex orandi, (Paris: Cerf, 1964), p.302.】 こうして「典礼行為(秘跡、準秘跡、御言葉を聞くこと)を執行しながら、キリスト者(司祭と信者)は、典礼によって宣言され祝われている、信仰の真理を体験する。」【 Jean Gaillard, Le mystere pascal dans le renouveau liturgique, LMD, 67, 3e trimester, 1961, p.70.】 このような見方は、1992年の『カトリック教会のカテキズム』によって更に増幅され、発展させられました。啓示とは、人間の多くの言葉の中にあるのではなく、天主の唯一のみことばにおいてあります。「御子は御父の決定的なことばである。それゆえ、御子の後にはもはや他の啓示は与えられない。」(『カトリック教会のカテキズム』73番) キリスト者の信仰は、この御言葉との生ける接触によって教えられなければなりません。このことは説教によってではなく、「過越の秘義」を典礼的に祝うことによって、最も効果的に実現されます。 「典礼は神の民のカテケージスの恵まれた場です。・・・典礼によるカテケージスは、キリストの神秘に導き入れること(mystagogia)を目指します。見えるものから見えないもの、意味するものから意昧されるもの、「秘跡」から「神秘」へ進んで行きます。」(『カトリック教会のカテキズム』1074-1075番) B) 第2バチカン公会議77. たとえ第2バチカン公会議が、典礼が啓示の恵まれた場であるとはっきりと言わなかったとしても、「言葉とわざ(行い)とによる」啓示に関する新しい概念という原理を導入しています。 「この啓示の計画は互いに密接に関連したわざとことばをもってなされた。そのため救いの歴史において神から遂行されたわざは、教えとことばの意味を明らかに証明した。そして、ことばはわざを表示し、その中に含まれている秘義を明らかにする」(神の啓示に関する教義憲章 2番)。 啓示とは、従って、キリストが説教した福音だけではなく、天主のあらわれとしてのキリストご自身なのです。 「かれを見るものは父を見ると言われるそのキリストは、自分自身の全的現存と顕現とにより、ことばとわざにより、しるしと奇跡により、なかでも、おのが死と死者のなかからの栄えある復活とにより、最後に真理の霊の派遣によって、啓示を完全に成し遂げた」(神の啓示に関する教義憲章 4番)。 第2バチカン公会議のしばらく後に、国際神学委員会はこれを次のように発展させています。 「聖書によって証言されている啓示は、天主と人との関係の歴史において、ことばとわざによって、成就された。・・・啓示された真理は、聖書が教えるところによれば、歴史を通じて忠実に示された天主の真理である。最後の分析として言えることは、啓示された真理は、聖父がイエズス・キリストを通して、聖霊における恒常的な働きを考慮して、ご自身を伝えようとすることである。 ・・・それ故に、キリスト者にとって、多くの言葉において現存する唯一の御言葉である。」【86 International Theological Commission, L'interpretation des dogmes, 1988, DC 2006, May 20, 1990, p.492.】 III. 典礼改革に適応させるA) 信仰の秘跡78. 天主の啓示の恵まれた場として、新しいやり方で考えられた秘跡は、新しいしかたで会衆から信仰を要求しています。何故なら、秘跡は新しく認識の観点から考えられているので、秘跡は信仰によって解釈されなければならない、解釈されることによって意味された現実が会衆に現存する、とされているからです。信仰を、今、現に、意識的に行使することによってのみ、秘跡の象徴を通して神秘にまで行き、霊魂に対する秘跡の有効性が確保されるかのようです。【『カトリック教会のカテキズム』では、1124番で、教会の信仰は活動的で個人的信仰よりも先立つ、といっています。しかしその後、教会について語りつつ、教会の信仰は会衆によって現存化され効果を持つ(1140-41番)といわれます。従って、儀式の際に会衆の信仰の行為によって、会衆は現存化された神秘を体験することができ、その信仰によって神秘には会衆を聖化する力を持つようになる、といえるのではないでしょうか。】 聖伝の神学は、その反対に、秘跡は事効的に(ex opere operato)霊魂に内に成聖の聖寵を生み出すと言い、そう言うことによって、実りのある秘跡を受けるためには超自然の信仰が必要とされていますが、この信仰は教会の行為に自己を従わせると言うことで充分であり、秘跡のしるしの意味の充満を把握する絶対的な必要はない、と教えています。 79. そのようにして(信仰によって秘跡の象徴を解釈することによって、意味された現実、つまり神秘にまで到達し)会衆は神秘と接触しますが、神秘とは啓示なのですから、神秘は信仰とまず関わりがあるものです。またオド・カーゼルの言葉を引用します。 「私たちがパラドシス(伝達)において受けたことを、私たちは礼拝において記念し、そうすることによって、救いの行為の神秘的な現存を実現する。私たちにとってこれが典礼の意味である。私たちは聖なる言い回しを唱えるが、この言い方に天主の啓示が含まれている。この言い方において教会は・・・祈りと聖なる儀式という生き生きとしたやり方で、私たちに信仰の宝を提示し伝えるのである。・・・神秘を祝うことは、技術を持って秩序付けられた宗教的務めとして提示され、それは天主性の高揚的観想へと到達する。」【 Odo Casel, Le mystere du culte, collection Lex orandi, (Paris: Cerf, 1964), p.302.】 このことに関して、オド・カーゼルが御公現の祝日の8日目のミサにある聖体拝領後の祈願に対してなした解説は、その兆候を示しているのではないでしょうか。 「『主よ、我等を常にそしてどこででも天の光で取り囲み給え。そは、御身が我等をして参与せしめ給うたこの神秘を、我等が純粋な眼で観想し、ふさわしい心でそれを受けることができんがためなり』この祈りにある『参与』とは何に存するのだろうか。まず、観想にある。私たちは信仰のグノーシス(知識)において神秘を観想する。しかしそれは不活動的で効果のない観想ではない。私たちは、この観想によって変化させられる。」【 Odo Casel, Le mystere du culte, collection Lex orandi, (Paris: Cerf, 1964), p.319.】 80. このように秘跡を考えることに、いけにえを捧げるということに関して前章で分析されたように、典礼が深く変更されてしまったことの起源があると言えそうです。もし秘跡を、まず第1に、信仰を意識して現在化させることと考えるとすると、役務者(叙階を受けた司祭)を通して、最高司祭であるイエズス・キリストがご自分を聖父におささげになる行為(そしてこのキリストの行為は、私たちからは無意識に通常持っている信仰しか要求しない)は、蔑ろにされます。そして論理的に、会衆が祭壇上にあるキリストの体と血を捧げるという行為に強調点が移ることになるのです。じつに、この後者の捧げる行為こそが、信仰の表明と関わりがあるからです。 「キリストによってキリストと共に(「主の体の奉献によって」)、人が聖父に自らを奉献しさらにこの世を奉献するその態度は、単純で同時に基本的なやり方で、信仰の実存的な本質を表明している。第2バチカン公会議が教えるように、この信仰において、人は天主がご自身に関してなした啓示に答え、「天主に全てを委ねる」からである。この委託は、信仰の本質それ自体の内容であり、キリストの司祭職に参与することから由来する態度において、ほとんどその全ての充満において、実現する。実に、このような態度は、キリスト者の信仰の行為にその最も完全な実在的次元が与えられているようである。」【 Karol Wojtyla, Aux sources du renouveau, etude sur la mise en oeuvre de Vatican II (Centurion, 1979), p.184. [ウォイティワ大司教は、典礼聖省で働いていました。]】 81. 第2バチカン公会議の典礼憲章は、信仰が占める地位についてとりわけ強調している。 「それ(秘跡)は、信仰を前提とするだけでなく、ことばとものとによってこれを養い、強め、現わすものであり、そのため、信仰の秘跡といわれる。」(典礼憲章 59番) この公会議文書を解説した神学者は、こう書いています。 「トリエント公会議は秘跡の効力を、秘跡によって実現されるわざによって(ex opere operato)定義しているが、義化のためにまた秘跡を受けるために信仰が必要であるということをこれによって否定しようとしたのでもなければ、プロテスタントが唯一認めている、秘跡が信仰を引き起こし活性化させるという目的のためにあるという、秘跡の心理学的な効果を否定しようとしたものでもない。この後者の効力は、今では第2バチカン公会議が強調しようと望んだものである。」【 M. Nicolau, Teologia del signo sacramental, BAC, 1969, p.367】 1992年の『カトリック教会のカテキズム』は、ex opere operatoということを説明する時、この概念を反映させようとしているようです。 「信仰をもってふさわしく行われる諸秘跡は、それぞれが意味する恵みを与えます。これらが効カを持つのは、諸秘跡においてキリストご自身が行われるからです。ほかならぬキリストが洗礼を授け、諸秘跡の中で行動し、諸秘跡が意味する恵みをお与えになるのです。御父は御子の教会の祈りをつねにお聞き入れになります。教会が各秘跡のエピクレシスの中で、聖霊の力への信仰を表明しているのです。火が触れるすべてのものを火にしてしまうように、聖霊はご自分の力にゆだねるすべてのものを神的いのちに変えてしまわれます。」(1127番) 1992年の『カトリック教会のカテキズム』の神学的な文脈において、私たちは容易に次のことを理解します。つまり、救いの行為(「キリストご自身が行われる」)は接触によって(「火が触れるすべてのものを火にしてしまうように」)教会にその救いの力を伝えるが、秘跡は、この救いの行為の再現存化の効果を、効力(「ご自分の力にゆだねるすべてのものを神的いのちに変えてしまわれます」)のある信仰(「信仰をもってふさわしく行われる」「教会が・・・聖霊の力への信仰を表明しているのです」)から得ている、ということです。 このような理解は次のような表現の文脈によって更に強められています。つまり、「典礼集会は何よりも、信仰における交わり」(『カトリック教会のカテキズム』1102番)なので、秘跡は、「信仰の秘跡」であってはじめて(「秘跡は信仰の秘跡であって」1122番、「諸秘跡が信仰の秘跡といわれ」1123番)、「救いの秘跡」(1127-1129番)となるのです。 B) 天主のみことばのもつ新しい地位82. 新しい神学は、秘跡それ自体が持つ効力を蔑ろにし、秘跡がもつ信仰の糧としての意味をむしろ強調します。そして聖書に関してはそれと反対のことがなされています。つまり、新しい神学は、聖書の持つ意味よりも効果に重点を置くのです。実際、第2バチカン公会議の典礼憲章は、秘跡に関する神秘の新しい概念を聖書に適応させることにいささかも躊躇しませんでした。 「キリストは自身のことばのうちに現存している。聖書が教会で読まれるとき、キリスト自身が語るのである。」(典礼憲章 7番) 従って、天主のみことばは、感覚的なしるしの一つであり、これによって人間の聖化が意味され、実現されます。 「人間の聖化が感覚的なしるしによって示されるとともに、また、おのおののしるしに固有な方法で実現される。」(典礼憲章 7番) その時、象徴主義の教えを適応することができる。聖伝の神学が教えていたように、聖書を読むことは、信仰に既成の概念の内容をおしえることを第1の目的とするのではなく、それとは反対に、概念に留まることは、意味された事へと移ることなくしるしにおいて留まることとなります。新しい神学は、言葉の象徴的なベールの背後に、信仰が探し出さなければならないのは、効果的に現存しているキリストご自身であるというのです。キリストこそ「御父の決定的なことばである」(『カトリック教会のカテキズム』73番)からです。このように聖書を考えると、その固有の目的は、信仰(そしてこの信仰から結果的に神秘的な体験が生まれる)を教えることではなくなります。そうではなく、直接に神秘的な体験を与えることであり、この体験は信仰の理解のための養分を生み出すと考えられています。 83. このようないつもとは違ったやりかたで聖書を理解すると、新しいミサ典書では何故ことばの典礼と聖体の典礼との2つが平行に並べられているかが説明されます。 「典礼の歴史家たちと聖書学者たちは、今日では次のことに同意を見ている。つまりことばの典礼と聖体の典礼とはユダヤ教からの共通のルーツを持っているということである。・・・キリスト教共同体は、その儀式の本質的構造においてこれを取り入れた。ことばの宣言がその儀式では第1の地位を占めている。しかしその神学は、(教会が決して公式に受け容れたことのない)聖書の個人的解釈のうちに今に至るまで留まっていたということを認めなければならない。第2バチカン公会議は、この個人的解釈を信仰命題とすることなく、自分の見解を述べている。『キリストは自身のことばのうちに現存している。』・・・宗教改革の時代には、教会は特にキリストが聖体において秘跡的に現存していることを宣言しなければならない状況にあったと判断した。その時以来、教会は秘跡的な現存と平行して、主の別の現存のしかたがあるということを忘れていた。・・・そのため、公会議は典礼の挙式において聖書が極めて重要な意味を持っているということを強調した。」【 Adrien Nocent, “Sobre la reforma del ordinario de la Misa” in La sagrada liturgia renovada por el Concilio, under the direction of G. Barauna, (Madrid: Studium, 1965), p.489.】 こうして「私たちのために準備された聖体の食卓は、同時に神の御言葉の食卓であり、主の御体の食卓でもある」(『カトリック教会のカテキズム』1346番)ということになります。1992年の『カトリック教会のカテキズム』は、さらに御言葉に聖体よりも首位性を認めることを躊躇していません。何故なら、御言葉がその他の象徴の意味を決定するからです。 「すべての秘跡は神の子らがキリストと聖霊において御父と出会う場であり、この出会いは動作と言葉による対話形式の中で行われる。象徴的な動作がすでに言葉の役割を果していることは間違いないが、神のみ言葉と信仰の答えとがこれらの動作と一緒になりそれを生かし、そして天の国の種が良い地に実を結ぶことが必要である。典礼の行為は、一方で神のみ言葉が表すものを、また他方でご自分の民に対する神の無償の呼びかけと民の側からの信仰の答えを意味する。」(『カトリック教会のカテキズム』1153番) C) 結論84. このmysterion(神秘)の概念が、天主の現実を、それを信仰の糧として伝えるために、現存させるものとしての秘跡を描写しています。そのため、この神秘の概念が、典礼改革の主要な軸の一つでした。 ○ この概念によって、何故「ことばの典礼」と「聖体の典礼」とが、常に平行におかれ、2つとも「主の食卓」(ローマ・ミサ典書総則 34番と 56番)であり、そこでキリストがご自分を霊的糧として与える(ローマ・ミサ典書総則 33番、56番)といわれているのかが説明されます。 ○ この概念によって、ミサの際に何故、御聖体における主の現存に対する崇敬が多くの場合において相対化されたのかが説明されます。つまりこの概念においては、御聖体における現存は、もはやそれ自体のために認められるのではなく、主にこれが信仰の糧であるかぎりにおいて認められているからです。 ○ この概念によって、平信者の共通司祭職が誇張され、いけにえを捧げるということは、それが信仰の答えであるというだけの限られた意味においての観点からだけしか考慮されなくなっていることが説明されます。 ○ この概念は、何故、御聖体の秘跡を新しいやり方で「信仰の神秘」として考えているのかを説明してくれます。 秘跡が、啓示として描かれて上から下に向かっていても、或いは捧げものとして下から上に向かっていても、典礼改革においてはほとんど排他的に、天主の民の信仰を養うための「信仰の秘跡」してのみ考えられています。 【以上の文章は、2001年2月2日付で教皇ヨハネ・パウロ2世に提出された、『典礼改革の問題』(Fraternite Sacerdotale Saint-Pie X, “ Le probleme de la reforme liturgique, la messe de Vatican II et de Paul VI, Etude theologique et liturgique ”, Clovis, 2001)の第2部、第5章からの抜粋の引用です。】 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭) |