第153号 2003/06/13 聖霊降臨の四季の金曜日
アヴェ・マリア! 兄弟の皆様、今回は、DICI 77号からの抜粋をお読みください。 聖伝のミサはいつ全てのカトリック教会の司祭らのものとなるのか?5月24日にサンタ・マリア・マッジョーレでカストゥリヨン・ホヨス枢機卿が聖伝のミサをした後、元典礼聖省長官であったメディナ枢機卿(Jorge Cardinal Medina Estevez)がインタビューに答えています。その中で枢機卿は聖伝のミサについても言及しました。このインタビューをしたのはアメリカの「ラテン・ミサ」誌(The Latin Mass Magazine)です。 ここ数年でますます多くの枢機卿たちが聖伝のミサに対して好意的な立場を取るようになってきています。ラッチンガー枢機卿は何度もはっきりと、特に自分の著書の中で、聖伝のミサに対して好意的に語っています。 トレンタ・ジョルニ誌のインタビューに答えたアリンゼ枢機卿(典礼聖省の現行長官)は、そのインタビューの中のやり取りを見ると、ラッチンガー枢機卿の考えを自分のものとしているようです。 これらのインタビューの共通点は聖伝のミサを相対的にしか考えていないと言うことです。つまり、昔の典礼を懐かしいと思う人のために考慮したらどうか、ということです。ですから、考えとしては、非常に主観的で、これは聖ピオ十世会の立場ではありません。 私たちにはノスタルジーを満足させるために教会に私たちに固有な特別な聖伝のミサを求めているのではありません。私たちにはそのような感傷的な懐かしさのためではなく、客観的な価値に基礎を置く信仰のために聖伝のミサを求めているのです。聖伝のミサがカトリック教会の全神学と霊性を代表しているからです。この信仰の灯火を、新しく作られた枡の下において隠すことはできません。そうしたとすると、カトリック信仰の宣教と秘跡の秩序(救いのために必要な聖寵を私たちに伝える主要な手段である秘跡)全体が危機にさらされるからです。 私たちは、客観的で内属的な価値のために聖伝のミサがその価値を認められるのを待ち望みます。その間に聖伝のミサが「前進している」のを見るのは、私たちに取って嬉しく、無関心ではいられません。 沈黙を守って聖伝のミサを死滅させる、という政策の時代は完全に過ぎ去ったようです。カトリック教会当局は、聖伝を守っている信者たちの進展とそれが持つ力を認めないわけにはいかなくなったからです。聖伝の真のミサを「トリエント」というレッテルの元に「博物館」に閉じこめようと望んでいた人々も後ろに引き下がって、自分たちの誤りを認めざるをえなくなった時が来たようです。メディナ枢機卿がそうです。彼は1998年には聖伝のミサに対して熱烈に反対して介入してきましたが、今では「私がした研究に基づくと、私は聖ピオ5世の典礼様式が決して廃止されたことがないと結論せざるをえない」と告白するに至っています。 自分の誤りを認めるためには謙遜が必要ですから、私たちは、メディナ枢機卿のこの言葉に心から感謝します。また私たちは枢機卿が、将来まだ残っている聖伝のミサを守るための戦いにおいて支持者になってくださることを期待します。 では、カトリック教会の全ての司祭たちが全く自由に聖伝のミサを捧げることができるようになると言うことは、計画中なのでしょうか? 私たちはそう期待します。ただし、それと同時に私たちは、深く、言ってみれば「トミスト(聖トマス主義)」的な態度を保ちたいと思います。私たちは、それをこの目で見るまで信じない、ということです! 今のところ、ローマは司教様たちの反応がどう出るかと言うことにこだわりすぎているようです。確かに、教会の頭は教区の責任者たちや信者たちに対して重い責任を負っている人々のことを考慮しなければなりません。 しかし、多くの場合、彼らの現在の意見というのは本当に有益なのでしょうか? シュテルジンスキー枢機卿(Cardinal Sterzinsky)は、灰の水曜日にベルリンのプロテスタントの教会に行ってプロテスタントの牧師から頭に灰を受けました。 アメリカのロー枢機卿は去年の11月にウェイランドのモスクに足を運んでラマダンの食事を友にし「全く自分の家にいるようだ」と宣言しています。 オルレアンの司教は、猥褻物で満ちあふれている冒涜の本を公に支持しています。 私たちは、残念ながら、このような悲しいリストを延々と続けることができます。 もしも教皇様が聖ピオ十世会との「和解」をお望みなら、願わくは教皇様が教会の長としての機能を果たして、司教様たちの不平不満を考慮に入れないでほしいと思います。何故なら、もし司教様たちが信仰の遺産を伝えるという使命に忠実であったとしたら、司教様がたは教会の救いとこの世の救いのために、教皇様が聖ピオ十世会のあるがまま受け入れるということをお喜びになるはずだからです。 (From DICI N. 77) ■ なぞなぞ私は、キリスト教とは関わりがなく、世間に関わり、特に関わりすぎているかもしれない。私は体であり、多くのキリスト者は私のために罪を犯している。12使徒のうち偉大な一人も私のせいで罪を犯した。私は誰? 【答えは、次号に掲載します。お楽しみに!】 |