第152号 2003/06/11 聖霊降臨の四季の水曜日
アヴェ・マリア!
兄弟の皆様、 (40) 「聖心」とは何ですか? 「聖心」とは、人となった天主である私たちの主イエズス・キリストの心臓のことです。 (41) 私たちの主イエズス・キリストの聖心とは、本物の肉の心臓のことですか? はい。私たちの主イエズス・キリストの聖心とは、私たちの主の胸の中にある本物の肉の心臓のことです。 (42) 何故、肉の心臓に対して信心をするのでしょうか? 何故なら、肉の心臓も、私たちの主イエズス・キリストの一部であり、私たちの主は、そのすべてが礼拝されるべきだからです。 (43) 私たちの主イエズス・キリストは全てが礼拝の対象であるにもかかわらず何故イエズスの心臓に対して特別の礼拝を捧げるのでしょうか? 何故なら、私たちの主ご自身が、人々をかくも愛したご自分の心臓に対する特別の礼拝を要求されたからです。 (44) 私たちの主イエズス・キリストの聖心を崇敬することによって、イエズス・キリストの愛を崇敬することなのですか? はい、私たちの主の聖心を崇敬することによって、イエズス・キリストが私たちに対して持つ計り知れないほど大きな愛を崇敬するのです。
(45) イエズスの聖心とは私たちを愛するイエズス・キリストご自身なのですか? はい、イエズスの聖心とは、イエズスご自身であり、私たちを愛し給い、愛されることをお望みになるイエズス・キリストご自身です。 (46) 私たちの主イエズス・キリストの聖心が愛されるために、私たちは何をしたらよいでしょうか? イエズス・キリストの聖心が愛されるためには、私たちの家庭を、王としての聖心に奉献するのがよいのです。 (47) 「王たるイエズス・キリストに家庭を奉献する」とは、どういうことですか? 「王としてのイエズス・キリストの聖心に家庭を奉献する」とは、イエズス・キリストの聖心の御影を玉座に置く、つまり家庭で一番栄誉のある場所に置くことです。 (48) イエズス・キリストとは王ですか? イエズス・キリストは、私たちを創造し、私たちをあがなったが故に、私たちの王です。 (49) イエズス・キリストはご自分が王であることを言いましたか。 はい、イエズス・キリストはピラトの前でご自分が王であるといいました。そして聖女マルガリタ・マリア・アラコックに「私は、私の敵どもとすべて私に反対するものたちにもかかわらず、君臨するだろう」と言いました。 (50) 何故、聖心の御影の下にイエズス・キリストを家庭の王として認めるのですか? 何故なら、イエズス・キリストはご自分の愛によって、聖心によって私たちの上に君臨することを望んでおられるからです。 (51) どうすれば「王たるイエズス・キリストに家庭を奉献する」ことが出来ますか?
「王たるイエズス・キリストに家庭を奉献する」には、 (52) 「王たるイエズス・キリストに家庭を奉献する」には、司祭がいなければなりませんか? 贖宥を得るために司祭が列席する必要はありません。しかし、カトリック信者は愛の王であるイエズス・キリストの公式の役務者として司祭に臨席を依頼し、この儀式の機会に司祭に霊的勧告を願うのを常とします。重大な理由がないかぎり、司祭を招待しなければなりません。 (53) 「王たるイエズス・キリストに家庭を奉献」した家庭は、この奉献を更新しなければなりませんか? はい、少なくとも一年のうちイエズスの聖心の大祝日と奉献の記念日にはこの奉献を更新しなければなりません。
(54) どの家庭でも「王たるイエズス・キリストに家庭を奉献する」ことが出来ますか? いいえ。家庭の奉献ができるためには、幾つかの条件を満たしていなければなりません。 (55) この奉献式をするためにはどのような条件を満たさなければなりませんか?
奉献式をするための条件とは、 (56) 奉献式が終われば、「王たるイエズス・キリストに対する家庭の奉献」が全て終わったことになるのですか? いいえ。終わったのではなく、すべてが始まるのです。 (57) 全てが終わったわけではない、とすると、一体家庭は何をしなければなりませんか? 聖女マルガリタ・マリア・アラコックは私たちに「聖心のためにのみ、聖心においてのみ生きることをはじめなければなりません」と言っています。 (58) 善きカトリック信者として生活するにはどうすればよいですか? 善きカトリック信者として生活するためには、福音と公教要理に書かれていることを生きなければなりません。 (59) 私たちの主イエズス・キリストと親しく生きるにはどうすればよいですか?
毎日、イエズスに祈るだけではなく、家族の祈りとして夕の祈りを聖心の御影の前で、家庭の友かつ王としてのイエズス・キリストに家族で祈ることです。そのとき、次の射祷を唱えます。
聖心の信心をする人のために
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