マニラのeそよ風

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第148号 2003/05/24 聖母の土曜日

William-Adolphe Bouguereau (1825-1905)


私がいないと、あなたたちには何一つ出来ない。
私にとどまらない人は、枝のように外に投げ捨てられ、
・・・火に投げいれられ、焼かれてしまう。(ヨハネ15:5-6)

アヴェ・マリア!

兄弟の皆様、
 私たちは、日本カトリック司教協議会監修、カトリック中央協議会発行の『カトリック教会の教え』の考察をしています。今回は『カトリック教会の教え』は「宗教」について何と述べているかを考察したいと思います。


◎ 「宗教」の成立

 『カトリック教会の教え』は第一部、第一章で、まず「宗教」について語ります。
 「人間は本質的に宗教的存在」(7ページ)であり、人間は「この世のものを超える究極的関心」を持ち、これが「誰にでも共通する宗教性」(7ページ)であるといいます。そして「その【人間】本来の性向の発露が宗教性で」(9ページ)あるとしますが、「人間の宗教性は、しばしば無意識のもの」(7ページ)であるといいます。つまりその宗教性は普段は意識の上には昇ってこないということです。「人はつねに宗教的性向を持ち、それを生きているのですが、多くの場合、・・・自分の宗教的な思いを反省することがありません。」(7ページ)

 しかし、普段は無意識の宗教性は、時としてはそれを意識することもあり、それを宗教的体験と言います。「しかし時として、宗教的なものを強く意識したり、経験したりすることがあります。」(7ページ)

 「一般的な宗教的体験は、人生の途上で自然発生的に生まれてきますが、宗教の場合は、修行、修徳、祈りなどを通して、こうした【宗教的】経験が得られる状況を自ら求め、そこに身を置きます。・・・彼ら【=教祖】は宗教的体験を得るために独自の「道」を開いた人々です。後に続く人々は同じ「道」をとおして創始者の宗教経験を継承します。・・・この宗教経験は反省されて「教え」(教理)となり、礼拝の形式が整えられていきます。さらにその集団に特有の生き方、規律が生まれ、組織が形成されます。」(8ページ)そして「個々の宗教を見ると、ここに述べた全ての条件を備えていないものもあります。また、人間本来の宗教性の具体化とは言いがたいようなものもあり、この場合は、本物の宗教とはいえない」(8ページ)と言います。すなわち「ここに述べた全ての条件を備え」「人間本来の宗教性の具体化」であれば、「本物の宗教」(8ページ)であるとします。

 『カトリック教会の教え』は、啓示の光によらずに、理性の持っている自然本来の光だけで天主の存在や天主が唯一であることなどを論証できるのにそうすることをしません。そうではなく人間の主観的な内面だけに注目するのです。そうすることによって客観的であろうとすることを放棄しています。

 ですから、天主からが私たちの外に客観的にいる、ということよりも、「意識」の世界、正確に言えば、「宗教性という無意識の世界」に入っていこうとするのです。

 ですから、「天主が啓示を垂れたという事実」を直接に立証したり、啓示された真理が信ずるに値するものであると言うことを立証したりすることはなされません。

 聖伝によればカトリック教会は、隠された天主の真理が啓(ひら)き示される啓示、つまり人間からはっきりと区別された位格(ペルソナ)を持った天主という人間の外部から来る、時として仲介者を通して示される外的啓示が客観的にあることを教えています。

 しかし『カトリック教会の教え』はそのような客観的な外的啓示については語らず、全く主観的な「宗教体験」について語ります。これをよむと、「宗教体験」が、すなわち「啓示」であり、教理に進化すると語るようです!

 つまり、『カトリック教会の教え』によれば、宗教的体験の中で、天主は人間にご自分をお現しになるのですが、信仰者によってほとんど認識され得ないほど、混迷かつ不明瞭な仕方でしかご自分をお現しにならないのです。ですから宗教体験者は、反省し、分析して、これによって初めて人間は自らの内に生成する生命的現象を言葉で表現するのです。そのような表現が「教え」(教理)となり、礼拝の形式が整えられていき、そしてそれが、最終的に宗教の最高教導権の承認を得るならば教義(ドグマ)となると言っているようです。

 ですから、『カトリック教会の教え』によれば、そのような経験こそが、それを得る人をして本来の意味で真の信仰者とする、と言うかのようです。したがってそのように理解される限りの宗教の伝統とは、「原初的宗教体験を、他の者たちと分かち合うこと」です。宗教体験を得るための「道」を通して、「未信者」たちに、宗教的感覚を呼び覚まし、体験を生み出すというかたちで働き、このようにして、宗教的体験は諸民族の間に広がらせ、未来の世代にもある者から他の者へと伝えられていくのです。


◎ 誰でも「神との交わり」を持っている

 『カトリック教会の教え』は更に言います。
 「そのような神を私は知らない、出会ったことがないという人も・・・神と出会い、神を知っています。ある人はそれを仏というかもしれませんし、他の人は真理と呼ぶかもしれません。それどころか「私はそのようなことは何も信じない」という人も、実際の経験で神と交わりを持っています。それを反省的に意識していないだけです。・・・神を信じない人も実質的には神と交わりを持っている・・・。そこでは神は真実・責任・良心といったことばで意識されている」(13ページ)。

 『カトリック教会の教え』によれば、誰でも、すべての人は、意識していようといなかろうと、どのような名前で「神」を呼ぼうが、「神と交わりを持っている」のです。

 つまり、「人間は、神との親密な交わりに至るために人としてこの世に生を受けたこと、また、はっきりとした神への信仰を持った人も持たない人も【ソノママ】、自分に与えられた人生と誠実に取り組んでいくことによって、誰でもこの目的に到達することが出来ることについて」(15ページ)語っているのです。そして「このことは、人間が自分から知ることも出来ます」(15ページ)とも言います。

 『カトリック教会の教え』によれば、反省的に意識していなくて、無意識の内に隠れているものを前にして、宗教に対する傾きを有した人間というものは、人生に誠実に取り組んでいくことによって、「実際の経験」によって、人間との交わりを持ち、天主と一致している、と言っているようです。

 そして、この体験にこそ、『カトリック教会の教え』は信仰の名を与えており、これこそ宗教の始原と見なしているのです!

 こうして、『カトリック教会の教え』はカトリック教会の教えてきた固有の意味での超自然(=成聖の聖寵)と「人間本性をこえるもの」とを混同し、同一視します。

 この混同は、『カトリック教会の教え』をしてこう言わしめます。
 例えば、人間にとって唯一のいのちが、神と一致して神のいのちにあずかることであるのなら【教会の教えによれば、人間には「超自然の成聖の聖寵のいのち」と、「生物学的な意味での生命」の二つの「いのち」があります!】、それに到達出来ない状態は、死です。この死は、単に生物学的な意味での生命の終わりではなく、人が神のいのちの交わりに到達出来ないという意味での死です。」(53ページ)と言います。では人間は生物学的には死なないのでしょうか? またキリストの復活の意義に関してのところではこう言います。「人間の救いのなさの根幹には死があります。罪深さもそこから出ます。」(95ページ)死から人間の罪深さが出る? 悪に傾いた心からではなく? 罪の結果が死ではないのか? 死が罪の原因なのか? これは一体どのような死の話をしているのか? 「この死は、単に生物学的な意味での生命の終わりではなく、人が神のいのちの交わりに到達出来ないという意味での死」なのでしょうか? キリストの死への勝利とは、「体の復活」ということではないのでしょうか?


◎ キリスト教を他宗教と同じレベルにおく

 このような宗教体験についての教えは、あらゆる宗教が真なるものとして見なされねばならなくなる、ということを指摘しておかなければなりません。このような体験が、全ての宗教において見出されても不思議ではありませんし、実際、この種の体験がいかなる宗教においても見出されると主張する者が少なからずいます。一体、いかなる根拠をもってイスラム教の信奉者によって断定される体験の真実性を否定することができるでしょうか。もし宗教体験に全てが基づくのなら、どうしてカトリック信者だけが真の経験を独占していると主張するでしょうか。

 この理論に従う限り、宗教的感覚は、たとえその完全性に上下の差があるにしても、常に同一のものです。そして知的な定式文が真なるものであるためには、宗教的感覚ならびに信仰者 ―――たとえ彼の知的能力がいかほどであろうと――― に呼応するだけで足りるのです。

 「教会は、・・・全ての人の救いはキリストにかかっていると教えてきました。【過去形に注意】・・・では、キリスト教以外には神からの恵みも救いもないというのでしょうか。教会は・・・【今では】キリスト教以外での神からの救いの可能性を肯定しています。「多くの形で、また多くのしかたで」(ヘブライ1・1)語られたとすれば、諸民族が様々な宗教や世界観・信念を持って神の真理と恩恵に向かっていることは当然です。」(20ページ)

 こうして、キリスト教をその他の様々の宗教・世界観・信念のうちの一つとし、キリスト教の成立を、上に述べたやり方で説明しようとします。

 つまり「イエスはユダヤ教徒で」(21ページ)したが、教祖として「光」(22ページ)を得る宗教的体験のために独自の「道」を開いた人であり、「福音は客観的な真理の体系ではなく、真実に満ちたあふれるばかりの恵みでありいのちで」(22ページ)、後に続く12人の弟子は同じ「道」をとおして創始者の宗教経験を継承した、この宗教経験は反省されて「教え」となり「教義成立過程」(109ページ)を経て、教義や礼拝の形式が進化し、整えられていくと説明しているようです。さらにその集団に特有の生き方、規律が生まれ、組織としての教会の形成が述べられています。

 聖書について言えば、キリスト教にとって【ソノママ、本当かどうかは客観的には問わないで、主観的にキリスト教にとって】イエス・キリストご自身が神の言葉そのもの、つまり神の啓示です。・・・旧約・新約聖書の唯一の著者は同一の神であると教会は教えてきました。・・・このことをどのように理解すべきでしょうか。まず、聖書は人間の神への信仰が綴られた書であると考えるべきでしょう。聖書を他の書物と区別するのは、イスラエル民族やキリスト者が自己の神への信仰を表明し、それと関係する限りでだけこの世の事柄について言及しているという点です。・・・聖書以外のものでも、あらゆる信仰の発露である書は霊感を受けた神の言葉とすべきではないでしょうか。それはある意味で正しいと思います。」(30-31ページ)

 「旧約・新約聖書の第一の著者が天主である」という時、教会は、客観的に、私がどう信じようが、どう思おうが、動かない事実として「天主が人間に書いた書物である」ということを意味してきました。【「唯一の著者」の代わりに「第一の著者」としました。何故なら、天主は、ちょうど私たちが鉛筆やコンピューターを書くための道具として使うように、聖書著者である人間を副次的な・道具的な著者として使ったからです。しかし聖書の主要な・第一の著者は天主だからです。】

 しかし、『カトリック教会の教え』は「客観的にではなく、主観的に、私の信じるキリスト教にとって」の話をします。そして、「旧約・新約聖書の著者が天主である」ということを、人間が【!!】天主に対して持っている信仰を綴り、自分の天主への信仰を表明しているが故に、信仰の発露である、という意味で「天主のことば」である、というのです。ここで、書く主体は天主から人間にすり替わっています。

 ですから旧約時代の太祖や預言者などを通して「多くの形で、また多くのしかたで」天主が私たちに語られた、という聖パウロのヘブライ人への手紙を全ての伝統と聖書解釈に反して引用してこう言うのです。「教会は・・・キリスト教以外での神からの救いの可能性を肯定し・・・「多くの形で、また多くのしかたで」(ヘブライ1・1)語られたとすれば、諸民族が様々な宗教や世界観・信念を持って神の真理と恩恵に向かっていることは当然」(20ページ)であり、聖書以外のものでも、あらゆる信仰の発露である書は霊感を受けた神の言葉とすべき」(31ページ)となるのでしょう。

 つまりこれによれば、聖書は、そして聖書以外のものでも、あらゆるものも信仰の発露であれば、宗教体験の集大成であり、「天主の御言葉」となるのです。ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類の宗教体験ではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。

 これによれば、天主の霊感によって聖書が書かれたとは、信仰者の内にある信仰を、著述を通して示すようにつき動かす衝動で、これは詩を書く時に起こることと何も違わないではないでしょうか。

 つまり聖書とは、人々によって人々のためにつくられた人間の所作であって「人間の神への信仰が綴られた書」であり「自己の神への信仰を表明」が現されたものにすぎないのです。


◎ 人間イエスに対する「信頼」が「信仰」である

 『カトリック教会の教え』は従って「信仰」についてこう語ります。
 「人の心はこの世のものでは満たされません。・・・壊れない幸せ、永遠に変わることのない過ぎ去らない愛、死ぬことのないいのちといったものを心の底から希求しています。これらは、この世に存在しない超自然のことがらです。信じるとはこのような人がこの世のものには見いだすことが出来ずとも心底希望していることを、存在し実現するのだと確信することです。」(34ページ)

 そして、信仰とは理性によって真理を信じるということよりも、体験的に生きる、誠実な姿勢をもつ、ということであるというのです。

 「愛、信頼、誠実、友情といったものは、この世のことがらではありますが、理性による認識の問題であるよりも、むしろ信じるという領域のことがらです。・・・信じることは、人間の持つ大切な能力ですが、この力がイエス・キリストと結びつくとき、それはキリスト教信仰となります。・・・まずは福音を告げるイエスを信じなさい、そしてイエスがもたらした神のことばを信じなさい、つまり神を信じこれに委ねなさい。こう言っているのです。イエスを神の子メシアと信じるとは、人間イエスを信じることが、即彼が神からの使信と救いを体現した方として受け入れることとなるということです。」(35-36ページ)

 「イエスが求める信仰とは、時として考えられがちな、知性による承認といったことではなく、神のたまものに対するまったき信頼とひたすらな姿勢です。・・・信仰は、ひたすら神を求め、神に向かう姿勢でもあります。」(75ページ)


photo: St.Pius X これらを読むと、私たちは、どうしても聖ピオ10世教皇の書いた回勅『パッシェンディ・ドミニチ・グレジス』近代主義の誤謬について思い出さずにはいられません。そのままそっくり当てはまるからです。

 聖ピオ10世は、近代主義者を「教会のあらゆる敵の中で最も有害な敵であると考えることも誤りではない」と述べた上で、近代主義者が「あらゆる権威を軽視し、いかなる抑制も受けつけようとせず、このため、彼らの治癒回復の見込みは、ほとんどない。こうして誤った良心に依拠する彼らは、傲慢と頑迷さの結果に他ならないものを、真理への愛によるものだと称する」と嘆いて、近代主義の教えを説明します。


■ 不可知論

 近代主義者たちは宗教哲学の基礎を一般的に「不可知論」と呼ばれている説に置いています。不可知論によれば「人間の理性はことごとく現象の領域、即ち現れ見えるもの、およびそれらのものが現れ見える様態に限定されているのであり、理性にはこの限界を越える権利も力もない」とされています。

 したがって、「人間の理性は目に見えるものを通して天主にまで自らを上げること、および天主の存在を認識することができない」ことになります。

 この結果、「天主は決して学問の直接の対象たり得ず、そして、歴史学に関しては、天主は歴史的主題と見なされてはならない」ということが導き出されます。

 これらの前提のうえに、

(A) 理性の持っている自然本来の光だけで、啓示の光によらずに、天主の存在や天主が唯一であることなどを論証する学問である自然神学や、

(B) 天主が啓示を垂れたという事実を直接に立証し、間接的に啓示された真理が信ずるに値するものであると言うことを立証する理由や理論上の動機【例えば、或る一つの奇跡や預言などの事実が(1)確実な歴史上の事実であること、(2)通常起こり得ないことであり天主的なものであること、(3)啓示されたとされる教義と関係あること、の3条件を満たすなら信憑性の根拠となること】、

(C) カトリック教会の教える「啓示」の概念が、隠された天主の真理が啓き示されることであり、人間からはっきりと区別された位格(ペルソナ)を持った天主という人間の外部から来るものであり、時として仲介者を通して示されることであるという外的啓示、

のA、B、C、3つを完全に無視しています。

 また、教会がこれらの忌まわしい誤謬を正式に排斥してきたという事実も、彼らにいささかの歯止めを利かせることにもなりません。しかしヴァチカン[第1]公会議は、次のように定義しています。

 『もし誰であれ、私たちの創り主にして主である真の天主が、創られたものを通して人間の理性の自然的な光によって確実に知られ得ない、と述べるならば、彼は[教会から]排斥されるように。』

 『もし誰かが、人間が天主および天主に対して払うべき礼拝について、天主的啓示を通して教えられることが不可能、あるいは適当ではない、と述べるならば、彼は排斥されるように。』

 『もし誰かが、天主的啓示は外的なしるしによって信憑性を得ることができず、また、したがって人は自らの個人的、内的な体験あるいは詩的霊感によってのみ信仰に引き寄せられるべきである、と述べるならば、彼は排斥されるように。』


■ 生命的内在

 聖ピオ10世は、近代主義の第2の原理である「生命的内在」を説明してこう言います。

 7.しかしながら、かかる不可知論は近代主義者たちの体系の否定的側面にすぎません。彼らの体系の積極的側面とは、彼らが生命的内在と称するところのものです。このようにして、彼らは一つの教条から他の教条へと進んで行くのです。

 自然的なものであれ、超自然的なものであれ、宗教は他のあらゆる事象と同じく、何らかの説明の余地を有しています。しかるに、自然的神学が排除され、また信憑性を裏打ちする議論の拒否によって啓示に対する道が閉ざされ、そしていかなる外的啓示も完全に否定されれば、この種の説明は人間自身の外には求められ得なくなってしまいます。したがって、これは人間のに探し求められねばならないことになります。

 そして、宗教とは一種の生命なのであるから、かかる説明は当然のごとく人間の生命の内に見出されなければなりません。このようにして、宗教的内在の原理が定式化されるのです。

 さらに、あらゆる生命的現象 ―――上で述べられたように、宗教もこのカテゴリーに含まれます――― のいわば最初の活動は、ある種の必要ないし衝動によるとされます。しかるに生命について特に述べるとすれば、それは心の動きに源を発するのであり、この動きは感覚と呼ばれます。したがって、天主こそが宗教の対象なのですから、宗教全体の土台にして基盤である信仰は、天主的なるものの必要に起因する、ある種の内的感覚に存するのであると結論せざるを得ません。天主的なるものに対するこの必要は、それ自体としては意識の領域に属し得ず、かえって意識の下に、あるいは近代哲学の術語を借りるなら、潜在意識の中に潜んでいるのだとされています。そこで、かかる必要の根源は見つけられずに隠れているのです。

 近代主義者はこう説明します。

 「科学と歴史は2つの境界の中に含まれるのである。すなわち、1つは外的な境界、すなわち可視的な世界であり、もう1つは内的な境界、すなわち意識である。これら2つの境界の1つあるいは両方がふみ越えられた場合、それ以上前に進むことはできない、なぜならその先にあるのは不可知なるものだからだ。人間の外側にあり目に見える自然界の彼方にあるそれであれ、あるいは無意識の内に隠れているそれであれ、この不可知なるものを前にして、宗教に対する傾きを有した霊魂に存する、天主的なるものの必要は、ある種の特別な感覚を喚起する。それは唯信主義(=ただ信じるのみ)の原理に即して、精神によるいかなる先行的気付きなしに起こる。そして、この感覚は自らの対象として、および自ら自体の内属的原因として、自らの内に天主的現実そのものを有し、さらにある意味において人間を天主に一致させる」と。

 この感覚にこそ、近代主義者たちは信仰の名を与えるのであり、これこそ彼らが宗教の始原と見なすものなのです。


■ 近代主義者にとっての啓示

 以下、聖ピオ10世の回勅を引用します。

 8.しかし、私たちはまだ彼らの哲学的思索、あるいはもっと正確に言えば彼らの愚考の終局に至っていません。近代主義者は「この感覚の中にただ信仰のみならず、信仰の中に、また信仰と共に―――このように彼らは理解しているのですが――― 啓示もまた見出されるべきである」と主張するのです。なぜなら、「啓示を構成するために他にこれ以上なにが必要だろうか。良心の中に感じられる宗教的感覚こそが啓示、もしくは少なくとも啓示の始まりではないか。否、むしろ天主ご自身が自らを不明瞭な仕方であるにせよ、この同じ宗教的感覚において霊魂にお現しになるのではないか。」[と言うのです。] さらに彼らは、次のように言い加えます。「天主が信仰の対象かつ原因なのであるから、この啓示は同時に天主および天主からのものである、つまり、天主こそが啓示者であり、かつ啓示の内容である」と言うのです。


■ 宗教的意識と信仰

 近代主義は、「宗教意識」をすなわち「啓示」と見なし、

「今述べたことから、彼らは普遍的基準として彼ら自身が定めるところの法を引き出します。その法とはすなわち、「宗教的意識が啓示と同列に置かれ、この意識に全ての者、はては教師として、あるいは聖なる典礼または規律の領域における立法者としての教会の最高の権威までもが服従しなければならない」ということです。」


■ 宗教的感覚

 10.[彼らによれば]「このようにして、宗教的感覚生命的内在を媒介として潜在意識の密やかな場から一切の宗教の芽生え、かついかなる宗教においてかつてあり、あるいは将来あるであろう全ての要素の説明となる。始めは未発達で、およそ形の定まらないものでしかなかったこの感覚は、それの起源である、かの神秘的な原理の影響を受けて、人間的生命 ―――先に述べたように、この感覚は人間の生命のある種の形相であるが――― の進歩と共に徐々に成熟し[てき]た。そしてこれこそが、超自然的なものも含めてあらゆる宗教の起源である。なぜなら、諸々の宗教は、この宗教感覚の発展したものに過ぎないからである。カトリック宗教も、この例に漏れず、他の諸々の宗教と同列に置かれる。と言うのも、カトリック教も生命的内在の過程によって、ただこの過程を通してキリスト ―――最も優れた性質に恵まれ、これに並ぶ者はかつてなく、これからもいないであろうこの人物――― の意識の中で生成されたものだからである。」 こういったことを耳にするとき、私たちはかくも恐れ知らずの主張と涜聖とに身震いを禁じ得ません。しかるに尊敬する兄弟たちよ、これらは単に不信仰者の愚かしいたわごとではないのです。これらのことを公然と述べるカトリック信徒、および、あろうことか司祭らがいるのです。そして彼らはこれらのうわごとによって教会を改革しようとしているのだと豪語するのです。

 [ここで]問題となっているのはもはや、人間の自然本性が超自然的事物に対する一種の権利を有しているとする旧来の誤謬の一つではありません。近代主義の誤謬はこれをはるかに越え、私たちのいとも聖なる宗教が、キリストという人物においても、また私たちにおいても、自然本性から自発的に自ずから発生したと断定するとき、その頂点に達しました。確かに超自然的次元全体をこれほど徹底的に打ち壊してしまうものはないでしょう。このため[第1]ヴァチカン公会議が次のように定めたのは、きわめて正当なことでした。

 『もし誰かが、人間は天主によって自然本性を超える認識と完全性とにまで高められることができず、かえって自ら自身の努力ならびに着実な発達によって最後にはあらゆる真理と善とを所有するに至ると言うならば、彼は排斥されるように。』


■ 知性と宗教的感覚

 11.尊敬する兄弟たちよ、これまで知性については一切ふれませんでした。近代主義者たちの教えに従えば、知性もまた信仰の行為において一定の役割を担っているのです。そして、それがどのような役割であるかを見ることは、[たいへん]重要です。これまで再三述べてきた当の感覚の中に ―――と言うのも、感覚は知識ではないので――― 天主はご自分をお現しになるのだと彼らは言います。しかし彼らによれば、この意味では、天主は信仰者によってほとんど認識され得ないほど、混迷かつ不明瞭な仕方でしかご自分をお現しになりません。したがって、天主がくっきりと明るみに出され、感覚自体からは区別されるために、この感覚の上にある種の光が投げかけられる必要があります。そして、これこそ反省し、分析することを本分とする知性に課せられた務めなのです。そしてこれによって初めて人間は自らの内に生成する生命的現象を知的な図象に転じ、それをさらに言葉で表現するのです。ここから、近代主義者たちが共通に用いる言い回しが生まれます。すなわち、「宗教的な人は自分の信仰を考えなければならない」と。[彼らによれば]「この感覚に直面した知性は自らをその上に投じ、その中で年月と共にかすんでしまった描線をよりくっきりと修復する画家の要領で働きます。(この比喩は近代主義の指導者の一人によるものです。)この働きにおいて知性は二重の活動を果たします。第一に、自然的かつ自発的な行為によって知性は自らの概念を単純で通俗的な命題で表わします。」 それから反省とより深い考察の上で、あるいは彼らの言い方を借りれば、自らの思惟を推敲することによって、その思念を、第一のものから由来しながらも、より正確かつ判然とした二次的な命題で表現するのです。これらの二次的な命題は、もしそれらが最終的に教会の最高教導権の承認を得るならば教義(ドグマ)となるのです。


■ 教義の起源

 12.こうして私たちは近代主義者による体系の中でも主要な点の一つにたどりきました。すなわち、教義の起源および本性です。なぜなら、彼らは教義の起源を一定の側面の下では信仰に必要である種々の単純素朴な定式文に置くからです。と言うのも、啓示が真にその名に値するものであるためには、意識における天主についてのはっきりとした知識を必要とするからです。しかるに教義自体は二次的な定式文の中に存すると彼らは信じているように見受けられます。


■  象徴としての教義

 [彼らによれば]「したがって、それらの定式文が絶対的なかたちで真理を含んでいるという立場を保つことがおよそ不可能となります。なぜなら、それら定式文が象徴である限り、それらは真理の似像に過ぎず、それゆえ人間との関係における宗教的感覚に適合されねばなりません。また道具として、これら定式文は真理の伝達媒介であり、したがって、この意味では宗教的感覚との関係における人間に適合されねばなりません。しかるに、宗教的感覚の対象は絶対的なるものに含まれた何かとして、無限に多様な側面を有しており、あるときにはその中のあるものが、また別のときには別のものが姿を現すのです。同様に、信じる者もさまざまな状況を利用することができます。したがって、私たちが教義と呼ぶ種々の定式文は、こういった[状況的]変転に服さねばならず、それゆえ変化を被るものです。こうして、教義の内因的進化への道が開けるのです。」 そして、ここに私たちは宗教全体を滅ぼし、荒廃させる巨大な詭弁の構造を見るのです。


■ 教義の進化

 13.「教義は進化し得るだけでなく、進化しなければならず、また、変えられなければならない。」 これは近代主義者たちによって強く主張されている点であり、彼らの奉じる原理に明白に由来するものです。と言うのも、彼らの教えの主要な点の中には、彼らが生命的内在の原理から導き出す次の教条があるからです。すなわち、「宗教的定式文が単に知的な思弁に止まらず、真に宗教的であるためには、生きたものでなければならず、宗教的感覚の生命を生きる必要がある」という主張です。かかる信条は、これら定式文が、特にそれらが単に想像の産物である場合、宗教的感覚のために案出されるべきである、という意味に解されてはなりません。これらの定式文の起源は、それらの数や質と同様、まったく重要ではありません。必要なのは、宗教的感覚が ―――もし必要であれば何らかの調整・変更を加えて――― それらを生命的に同化吸収することです。言い換えれば、原初的な定式文が[信仰者の]心情によって受け容れられ、裁可されることが必要なのです。同様に、それに引き続いてなされ、二次的な定式文がそこから引き出されることになる知的労作もまた、心情の導きの下に進められねばならないのです。ここから、これらの定式文が生きたものとなるためには、信仰および信じる者に適合したものでなければならず、またそうあり続けねばならない、という結論が出てくるのです。したがって、もしいかなる理由によってであれ、この適合が存在しなくならば、それら定式文は始めに持っていた意義を失い、それゆえ変えられねばならなくなります。教義的定式文の性格ならびに命運がこのように不安定なものであるということを見れば、近代主義者たちがそれらをかくも軽視し、かくも公然と不敬の態度を示し、宗教的感覚および宗教的生活に対して以外は、いかなる考慮も賞賛も持ち合わせていないという事実はまったく驚くに値しません。そういうわけで、彼らはこの上ない大胆不敵さで教会を批判するのです。[彼らによれば]教会は種々の定式文の宗教的および道徳的意味とそれらの表面上の意味との区別をつけないことによって、また宗教[心]自体が失墜するのをみすみす見逃しながら、無意味な定式文にむやみやたらと頑迷に執着することによって、正道からはずれてしまったのです。[このような主張を成す]彼ら近代主義者は「盲人」、また学問という誇らしげな名におごり高ぶった「盲人の導き手」であり、永遠にすたれることのない真理の概念、および宗教の意味をねじ曲げるまでの愚昧の深淵に至ったのです。そこにおいて「彼らが新奇なものへの盲目で歯止めを欠いた情熱にかき立てられている様が見受けられます。彼らは何らかの、真理の強固な基盤を見出すことなどおよそ眼中になく、聖なる使徒伝承の伝統を蔑視して、他のむなしく不毛で不確かな、教会によって認められていない教理を奉じ、その上に真理そのものを打ち立て、保持し得ると、高慢のきわみをもって考えるのです。」


■ 信仰者としての近代主義者

 14.・・・近代主義者は次のように問題を提示します。宗教的感覚において、人間を天主の現実と直接に接触させる一種の心の直感があることを認めなければなりません。この直感は天主の存在および人間の内と外における働きかけについて、いかなる科学上の確信をもはるかに超える確信を注ぎ込むのです。それゆえ、彼らは「現実的経験が存在し、それはあらゆる理知的経験をも凌駕するものである」と主張するのです。もし、かかる経験[の存在]が誰か、たとえば合理主義者によって否定されるなら、彼らは「それはこのような人々は、かかる経験を生み出すのに必要な道徳的状態に自らを置こうとしないからだ」と言います。「かかる経験こそが、それを得る人をして本来の意味で真の信仰者とする」と言うのです。


■ 唯一の真の宗教の抹殺

 このような立場は、いったいどれほどカトリックの教えから離れていることでしょうか。すでに私たちは、このような見解に基づく種々の誤謬が[第1]ヴァチカン公会議によって排斥されたことを見ました。これから後、私たちはどのようにこれらの誤謬が、上で言及した種々の謬説と合わさって、無神論への広い道を開くかを見ていくことにしましょう。ここで、この体験についての教説が象徴主義の教説と結びつけられるとき、あらゆる宗教、異邦の宗教までもが真なるものとして見なされねばならなくなる、ということを指摘しておかなければなりません。いったい、このような体験がいかなる宗教においても見出されることを妨げるものがあるでしょうか。実際、この種の体験がいかなる宗教においても見出されると主張する者が少なからずいます。一体、いかなる根拠をもって近代主義者たちはイスラム教の信奉者によって断定される体験の真実性を否定することができるでしょうか。近代主義者たちはカトリック信者だけが真の経験を独占していると主張するでしょうか。果たして、近代主義者たちは否定するどころか、ある者はあいまいに、またある者はあからさまに、あらゆる宗教は真なるものであると主張しています。彼らが別様に感じることができないのは明らかなことです。なぜなら、彼らの理論に従う限り、いかなる根拠をもって、何某(なにがし)かの宗教の虚偽性を語ることができるでしょうか。無論、それは宗教的感覚の虚偽性のためか、あるいは精神によって述定された定式文の虚偽性のためか、そのいずれかでしょう。さて、宗教的感覚は、たとえその完全性に上下の差があるにしても、常に同一のものです。そして知的な定式文が真なるものであるためには、宗教的感覚ならびに信仰者 ―――たとえ彼の知的能力がいかほどであろうと――― に呼応するだけで足りるのです。異なる宗教が対峙するにあたって近代主義者たちが主張できることは、せいぜいカトリック教はより多くの真理を持っている、なぜなら他の宗教にまして生気に満ち、またキリスト教の起源により充全に対応しているため、キリスト教の名により値するものであるからだ、ということくらいです。このような結論が[彼らの立てる]前提から出てくるということは、誰の目にも当然のことでしょう。しかるに、何よりも驚くべきことは、カトリック信徒や司祭の中に、このように甚だしく劣悪な理論を嫌悪しつつも ―――そうであると私は信じます――― 、あたかもそういった考え方を完全に認めているかのように行動する者たちがいる、という事実です。と言うのも、彼らはこれらの誤謬を教える者たちに賞賛を惜しみなく与え、また公の栄誉を授けており、こうすることを通して、彼らの賞嘆が単に人物 ―――称賛の対象となっている当の者たちが何らかの優れた点をもっているということは充分あり得ますから――― に対してだけでなく、むしろ、これらの者たちが公言してはばからず、力の限りを尽くして広めようとする誤謬のためである、という確信に至らせるからです。


■ 宗教的体験と聖伝

 15.しかるに、カトリックの真理に完全に反した彼らの教説中のこの部分には、もう一つ別の要素があります。すなわち、体験に関して述定されることはカトリック教会によって絶えず保持されてきた聖伝にも当てはめられ、破滅的な結果を引き起こします。近代主義者たちによって理解される限りの伝承ないし伝統とは、「原初的体験を理知的な定式文を通して他の者たちと分かち合うこと」です。かかる定式文に彼らは、再現的価値の他に一種の暗示的効果があるとします。「この暗示的効果とは、まず第一に信仰者の内に宗教的感覚を惹起し、もしこの感覚が弛緩してしまうならば一旦獲得された体験を新たにするというかたちで働き、そして第二に、まだ信じていない者の内で初めて宗教的感覚を呼び覚まし、体験を生み出すというかたちで働きます。このようにして、宗教的体験は諸民族の間に広がるのです。そしてこれはなにも同時代の人たちの間に宣教を通してなされるだけでなく、未来の世代にも書物や口頭の伝承によってある者から他の者へと伝えられていくのです。ある時にはこのような宗教体験の伝達は根を下ろし、活気に満ちていますが、また別の時には、またたく間に枯れ衰え、死に絶えてしまいます。」 近代主義者たちにとっては[あるものが]生きていること即ちそれが真であることの証明であり、それは彼らにとって生命と真理とはまったく同一のことだからです。このようなわけで、「現存している全ての宗教は等しく真なるものである」という結論に至るよう促されます。[彼らによれば]「もしそれらが真なるものでなければ生き残らないはず」だからです。


■ 聖書

 22.聖書の本性と起源については、すでにふれました。近代主義者の原理に従えば、聖書は体験の集大成と呼んでさしつかえのないものです。しかるに、ここで言う体験とは、誰にでも時として起こり得る種類のそれではなく、「あらゆる宗教が有している並外れた顕著な体験」のことです。そして、これこそ近代主義者が旧・新約聖書に含まれる諸書典について教えるところなのです。しかし、自分たちの理論に適合させるために、彼らはたぐいまれな巧知をもって、こう指摘するのです。「たしかに体験は現在に属する事柄であるが、信仰者が記憶によって現在と同様の仕方で過去を再び生き、未来をすでに期待によって生きる限りにおいて、その素材を過去および未来からも同様に汲み取ることができる」のだと。こう考えることによって、歴史的ならびに黙示的な書が正典の中に含まれているという事実の説明がつきます。天主は事実、これらの著作において信仰者を通して語られるのですが、しかるにそれは近代主義神学に基づき、ただ内在生命的永在によってのみ、そうされるのです。それでは一体、天主的霊感はどうなるのでしょうか。彼らは答えて、「天主的霊感とは信仰者が自らの内にある信仰を著述を通して啓示するようにつき動かすところの衝動と、おそらくその激しさの他は全く変わるところがないものである」と言います。「これは詩的な霊感において起こることと同様のものです。さて、この詩的な霊感については、次のように言われてきました。『私たちの中には天主がいて、天主が動くとき、私たちは炎で燃え立たされる』と。この意味においてのみ、天主が聖書の霊感の起源であると言われる」のです。近代主義者はさらに、この天主的霊感ということについて、聖書の中にはそれに欠くものは一切ない、と断言しています。この点に関して、ある人たちは、彼らが天主的霊感[の及ぶ範囲]をいささか限定する ―――例えば、いわゆる暗黙の引用と称されるものに限ってそれを認める――― 近年のある著作家たちに比して、より正統であると考えてしまうかもしれません。しかし、こういったことすべては単なる言葉上の作り事に過ぎません。なぜなら、もし聖書を不可知論の基準にしたがって、つまり人々によって人々のためにつくられた人間の所作として ―――もっとも[近代主義の]神学者はそれが内在によって天主的なるものであると述べることが許されますが――― 見なすならば、一体、天主的霊感の余地はどこにあるでしょうか。近代主義者たちは聖書に一般的なかたちで及ぶ霊感が存在するとは言うのですが、カトリック的な意味での天主的霊感は一切認めないのです


■ 教会

 23.近代主義学派が教会の本質と見なすところのものについては、非常に多くのことを述べることができます。彼らはまず、「教会は二重の必要に基づいて生まれた」という憶測から論議を始めます。「第一に、個人としての信仰者が、殊に彼が何か他に類を見ない特別な体験をした場合に、自分の信仰を他者に伝達する必要が生じ、第二に、信仰が多くの人に共通のものとなったとき、一つの社会へと発展し、共通善を守り、促進し、伝播するための集団としての必要です。それでは、教会とは一体なんでしょうか。それは集団的意識、すなわち個々人の良心ないし意識の集合から生じるものであり、内在の原理によって一人の最初の信仰者たる者 ―――それはカトリック者にとってはキリストです――― にことごとく依存するものです。ところで、あらゆる社会はその成員を共通の目的へと導き、一致団結を生む要素 ―――宗教的社会においては教理および礼拝です――― を育む指導的権威を必要とします。ここからカトリック教会における規律、教義、典礼を司る三重の権威が生じます。この権威の本質はその起源から、またそれが有する諸々の権利ならびに義務は、その本質から推し量られるべきものです。過去には、権威が教会の外から、すなわち天主から来るというのが一般の誤謬でした。そして当時、かかる権威は正しくも専制的なものと見なされました。しかし、今ではこのような概念はすたれてしまいました。と言うのも、教会が集団的良心ないし意識の生命的発出であるのと同様、権威もまた、教会自体から生命的に発出するからです。したがって、権威は教会と同様、宗教的感覚の内にその起源を有しており、そのため、これに従属するのです。もし権威がこの依存関係を否定するならば、専制になってしまいます。実際、私たちは自由の感覚が最高の発展を遂げた時代に生きているからです。世俗的領域においては、民衆の意識が人民的政府の導入にいたらせました。ところで、人間の中には、ちょうど一つの生命しかないように、一つの意識しかありません。したがって、民主的形態を採択するのは教会の権威 ―――もっとも、当の権威が人類の意識の中に内部的対立を引き起こし、助長することを望むなら話は別ですが――― ということになります。これを拒否することは破滅的な結果をもたらします。なぜなら、今日当たり前となっている自由の感覚が後退し得るということは、あろうはずもないからです。もしそれが力ずくで抑圧され、束縛されたならば、その爆発はより恐ろしいものとなり、教会と宗教をひとまとめに一掃してしまうことでしょう。」 近代主義者の心中に思い描かれた状況はかくのようなものであり、したがって彼らが大いに心にかけている一事は、教会の権威と信仰者たちの自由との間に折り合いをつける手段を見出すことです。


■ 教会の教導権

 25.しかるに近代主義派にとって、国家が教会から分離されるということだけでは充分ではありません。と言うのも、[彼らによれば]「現象的な事柄に関する限り信仰が科学に従属させられるべきであるのと同様、地上的事柄において教会は国家に従属せねばならないから」です。このことを近代主義者たちはまだ公然と口にすることはないかもしれませんが、しかし彼らは自分たちの指示する命題の論理的帰結として、これを認めないわけにはいきません。なぜなら、[彼らによれば]「地上的事柄において国家のみが権利を有しているとするならば、信仰者が宗教の単に内的な行為だけで飽き足らず、例えば秘跡の授受などのような外的行為に及ぶとき、これらは国家の規制の下におかれます。そうすれば外的行為のみによって行使され得る教会の権威は一体どうなってしまうでしょうか。当然それは完全に国家の支配下におかれることになる」からです。まさに、この避けることのできない結論のために、多くのリベラルなプロテスタントは一切の外的礼拝、否、一切の宗教的共同性を拒絶し、そして彼らが言うところの個人的宗教を標榜しているのです。もし近代主義者たちが、あからさまにはまだそこまで行っていないとしても、彼らは「自分たちの示す方向付けに教会が自発的に従い、かつ国家の形態に自らを適合させる」ことを求めるのです。以上が規律的権威についての彼らの考え方です。しかるに、教理的また教義的な権威に関する彼らの見解は、はるかに悪辣かつ有害なものです。教会の教導権について彼らが抱く概念は以下のようなものです。彼らが述べるところによれば、「その成員の宗教的意識が一致し、かつ彼らが採択する定式文もまた一致しているのでなければ、いかなる宗教的社会も本当の意味で一つにまとまった集団となり得ないのです。しかるにこの二重の一致のためには、この共通意識に最もよく適合する定式文を見出し定める一種の共通精神が必要となります。さらに、決定された宗教的定式文を共同体に課する権威がなければなりません。」 近代主義者に言わせると、「これら二つの要素の結合および一種の融合から、教会の教導権の観念が生まれる」のです。そして「この教導権は、つまるところ個々人の意識から発生するのであり、公共の利便をはかるべく附与される委任権をそれらの人々の益のためにこそ有するのですから、当然、教会の教導権はその成員に依存するのであり、それゆえ一般民衆の理想となっているところのものに追従しなければならないのです。個人の良心が自ら感ずるところの衝動を自由に公然と表明するのを妨げること、教義がそのたどるべき必然的進化の道のりをたどるよう強く促す批判の働きを阻むことは公共の福利のために与えられた権利の正当な行使ではなく濫用に他なりません。同様に、権威の行使においても、しかるべき方法と度合いとが守られなければなりません。著者の与り知らぬうちに、本人の説明を聞くことも話し合うこともなしに著作を排斥し、発禁処分にすることは、およそ圧制と変わりないことです。ここでもまた、問題となるのは、権威の側の十全な権利と自由の側の十全な権利との間で折り合いをつける方法をなにか見つけ出すことです。カトリック者にとっての取るべき道は、権威に対する深い尊敬を抱いていると公言しつつも、決して自分自身の判断に従うことをやめないことです。」 教会に対して近代主義者たちは次のような方向付けを示します。すなわち、「教会の権威は、自らの目的が完全に霊的なものであることに鑑みて、公衆の眼前にその姿を飾るところの外的な壮麗さを脱ぎすてなければなりません。」 かかる主張を成すに当たって、彼らは宗教は霊魂のためのものであるとは言え、ただ霊魂のためのみのものではなく、また権威に対して払われる敬意は、それを制定したキリストご自身に帰されることになる、という事実を忘れているのです。


■ 教義の進化

 26.尊敬する兄弟たちよ、信仰とその多様な部分についてのこの問題を総括するに当たって、私たちはまだ近代主義者たちが信仰とそれを構成する各部分の発展について述べていることに考察を加えてみなければなりません。まず第一に、彼らは「生きた宗教においては一切が変化に服しており、また事実、変えられなければならないという一般的原理」を定めます。このようにして彼らは、事実上彼らの中心的教条となっているもの、すなわち「進化」へと議論を進めるのです。[彼らによれば]「進化の法則には一切のものが服しており、これに背くことは死を意味します。教義、教会、礼拝、神聖なものとして私たちが崇敬する書典 、そして信仰そのものさえ、この例にもれません。」 この原則をあからさまに述べたところで、近代主義者がこういった事柄のそれぞれについて唱えていることを念頭に置く人の中、誰も驚きはしないでしょう。この進化の法則を打ち立てて後、近代主義者たちは自ら、どのようにそれが働くかを説明します。まず第一に、信仰について彼らは説明します。彼らの述べるところによれば、「信仰の原初的形態は未発達で万人に共通なものでした。それは、かかる形態が人間の自然本性および人間の生命に起源を有するものだったからです。生命的進化は進歩をもたらしましたが、それは新しい、純粋に付帯的な形態を外部から増し加えられることによってではなく、宗教的感覚が良心内に一層深く浸透することによって生じました。さて、この進歩には2つの種類があります。消極的進化とは、例えば家系や国籍に由来するもののような、本質的でない要素をことごとく排除することによって生じる進化です。積極的進化とは、人間の知的および道徳的洗練によってもたらされる進化であり、これによって天主的なるものについての観念はより十全かつ明晰なものとなり、また宗教的感覚は一層鋭敏になります。信仰の進歩に対しては、先に信仰の起源を説明するために挙げられたのと同じ諸原因が当てはめられます。しかるに、これらの原因に加えて、私たちが預言者と呼ぶところの並外れた人たち ―――この中でキリストは最も偉大な者でした――― を挙げなければなりません。それは、一つには彼らの生活ならびに言葉の中に、信仰が天主的な存在に由来するものとした、神秘的な何かがあったからであり、もう一つには、これらの人々は、彼らの時代の宗教的必要に完全に合致した新しい独自の体験をする命運を有するにいたったからです。教義の進歩は主に、信仰に対する障害は乗りこえられねばならず、その敵はうち負かされ、異論は反駁されねばならない、という事実によるものです。また、これに加えて信仰の奥義に含まれている事柄に、より一層深く分け入ろうとするたゆまぬ努力を挙げねばなりません。このようなわけで、他の例はさておき、キリストにおいてはこのような事態が生じたことがわかるのであり、彼において、信仰が彼の中に認めるところの、かの天主的な何かがゆっくりと徐々に拡大されてゆき、終いには天主であると見なされるまでになったのです。礼拝の進化を生じさせる主要な刺激は、さまざまな民族の風俗習慣に適合する必要、ならびに特定の行為が慣習として得ることになった価値を利用する必要のうちに存します。最後に、教会自体における進化は、歴史的状況に適合し、既存の社会の形態に自らを調和させる必要によって力を得[て進行し]ます。」 以上が、これらのものそれぞれの進化についての彼らの見解です。さてここで、これ以上先に進む前に私は必然性ないし必要に関するこの理論全体にあなた方の注意を喚起したいと思います。なぜなら、私たちがこれまで見てきたことの何物にも優って、この教条は彼ら近代主義者が歴史と呼ぶ、かのよく知られた手法の基礎かつ土台であるからです。


■ 伝統と進歩

 27.進化は諸々の必要ないし必然性によって促されるとはいえ、もし、ただこれらのみによって統御されるならば伝統の境界線をたやすく越え出てしまい、こうして、その原初的な生命原理から切り離された進化は、進歩よりもむしろ衰退をもたらすこととなるでしょう。このため、近代主義者をつぶさに研究する者たちによって、「進化とは、一方は進歩に、もう一方は保守へと向かう2つの力の拮抗から生じるもの」として説明されています。[彼らによれば]「保守をはかる力は教会の中に存し、また伝統の中に見出されます。伝統は宗教的権威によって代表されますが、これは正当な権利に基づいて、また事実としてそうなっているのです。正当な権利に基づいて、というのは、伝統を保護することが権威の本性自体に属することだからです。また、事実として、というのは、生活上の具体的な事柄のはるか上に上げられた権威は、進歩のつき動かす力をほとんど、あるいはまったく感じないからです。それと反対に、内部の必要に呼応する進歩的な力は個々人の良心の中にあり、そこで働きますが、これは生活と密接かつ親密な接触を持っている人々の良心において特にそうです。」 尊敬する兄弟たちよ、すでに私たちは一般信徒をして教会における進歩の要因たらしめる、この上なく有害な教説が導入されるのを目にしています。さて、保守と進歩というこの2つの勢力間、すなわち権威と個々人の良心との間でなされる一種の協定および妥協によって変化ならびに進歩が生まれるのです。個々人の良心または、ある特定の人々の良心が集合的良心に働きかけ、この集合的良心は権威の保持者に、それらの人々の良心と折り合いをつけ、またそれに従うよう圧力をかけるのです。


■ これまでにも排斥されてきた近代主義

 28.尊敬する兄弟たちよ、出版物の著者としてであれ、思想の宣布者としてであれ、近代主義者たちにとって、教会には安定したもの、変わり得ないものは何一つありません。実際、彼らは自らの教説を唱えるに際し、[思想的]先駆者を有していないわけではありません。と言うのも、先任者ピオ9世が次のように述べたのは、こういった者たち についてだったからです。「天主的啓示の敵であるこれらの者たちは、人間の進歩を天上にまで祭り上げ、かつ向こう見ずで涜聖的な大胆さでこれをカトリック教の中に取り入れようとするのです。あたかもこの宗教が天主のではなく人間の業、または人間の努力によってより完全なものと成され得る、ある種の哲学的発見であるかのように。」 かかる宣言によって私たちの認識が、信仰に関する認識も含めて、妨げられるわけではなく、反対に、支持かつ保持されます。なぜなら、その同じ公会議は続けて、次のように述べているからです。

 『それゆえ知性、学知、知恵が個人において、また大衆において、信仰者において、また教会全体において豊かに、そして力強く世々代々にわたって増大し、前進せんことを。しかるに、それはその種類においてのみ、すなわち、同じ教義、同じ意味、同じ解釈に基づいてである。』


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【ご参考までに:上に引用した聖ピオ10世の回勅「パッシェンディ」は、
link http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius_10pascendi.html
で読むことが出来ます。】

(この項は続きます)

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)